第3話 ミネルヴァ白書 番外篇

 僕は理科が好きだ。

 化学とか物理とかそんなふうに分類される前の段階、小学校や中学校で学ぶ「理科」という科目が好きだった。観察用のスケッチの仕方を学び、夏休みには自由研究を行い、時には面白い実験を、滅多に入れない理科室でやる。

 小学校一年生の夏、生まれて初めて天体望遠鏡を覗いたとき、僕は驚きのあまり凍りつき、手に抱えていた星座の図鑑をスニーカーの上に落としてしまった。けれど痛みは感じなかった。その輪のなかに広がる世界に、完璧に魅入られていたからだ。

 同じ感動を、次の年の夏にも経験した。今度は家族での旅行の際、日本有数の動植物園に、両親が連れて行ってくれたのである。レイ・ブラッドベリの「たんぽぽのお酒」の主人公が、ある日突然に「生きている」ということを自然の中で理解するシーンがあるけれど、僕はそれを、その主人公より四年も早い八歳で感じ取った。緑の饗宴と生の息吹の洗礼を受けて、その瞬間、僕は、自然というものの美々しさ、雄大さ、果てしなさ、――本当に、どうしようもないほどの果てしなさを知った。この感覚はけして言葉では伝えられないものだとおもうし、できるなら、言葉なんかではなく、実際に人間みんなに体験してほしいくらいの、幸福な記憶だった。

 だから、僕は理科が好きだ。植物や昆虫の標本を集めるのも、未知の物質の正体を見極めるのも好きだし、恐らく利益などをあまり考えない趣味人である大人たちが全力でつくった理科の図版なんていくらでも見ていられる。

 ただ僕は、とりわけ、美しい理科世界のものに魅せられたのだ。星、鉱石、植物。蝶、鳥の卵、葉脈、昆虫、種子、苔、地衣類、およそ指先で虫ピンをつまめるようになってこの方、僕の部屋は標本箱の標本箱のように、日夜新しい理科世界の美しさを蓄えつづけている。

 前置きが長くなったが、さてそんな僕は、高校一年生現在の夏休み二週間目という時期に入り、近所の子供のための公共施設に来ていた。市立の施設を一か所に集めたようなそこは、昔からずっと通っていた。プラネタリウムと植物園、なんて、僕にとってのエデンの園のような施設はしかし、一地方都市の経営というだけあり、やはり「それなり」のものだ。けれど、高校生にはこれで十分、と思う。観葉植物のショーケースも兼ねた温室が併設しているのは、白い建物のなかに、図書館とプラネタリウムがいっぱいに詰まっているからだ。

 僕が生まれる前から光学式プラネタリウムのまま変わらない、多少古ぼけた館内に入る。一応説明しておくと、光学式プラネタリウムというは、星の配列に合わせて孔をあけた恒星原版に光をあて、レンズでスクリーンに投影する。つまり、虫食いの夜空だ。かなり本物の夜空に近い雰囲気ができあがる。ちなみに、近年主流のデジタルプラネタリウムは、コンピュータで作った映像をプロジェクタで映すものだ。学校の授業とかで使うプロジェクタの映像を想像してもらえばわかると思うけど、光学式に較べればぼやっとした星空で、なんだか物足りない。けれど、様々な角度や視点から映像を作れば、どんな宇宙でも映し出せるのが長所だ。地球からの夜空しか見られないけどくっきりと美しい光学式か、惑星上星雲やスーパーノヴァ、万華鏡のように多彩な銀河が見られるデジタルか。どちらも素晴らしいと思うけど、まああいにくと僕の住むところの近所には光学式しかない。ここは雅に、レトロな虫食いの夜空を堪能しよう。

 入ってすぐの受付のカウンターの上では、透明なピアノの形をしたガラスのオルゴールが動いていた。鈍い真鍮色を放つ金の筒が回転し、金属の弁が突起を弾くたびに、鉱石の粒のような音が弾きだされる。聞き覚えがあるメロディだった。「星めぐりの唄」。宮澤賢治の詩に曲をつけたものだ。僕は正直言って、あまり宮澤賢治が好きではない。メランコリーに過ぎるのだ。昔はよく全集を読み耽った――図鑑しか読まない僕になんとか普通の文学を読ませようとした母が買ってきたのだ。けれど、どうにも、小学校の高学年にあがるころから、言い知れない違和感を覚えて、離れてしまった。彼の、あまりに透明で独創的な詩情が、僕には理解できなかった。僕のセンスがないと言われてしまえばそれまでなんだけども。

 受付で、午前十一時から上映される回を予約しようとしたら、なんと以前来たときと上映時間帯が変わっていた。腕時計を確認すると、デジタルの数字が示すのは10:32という数字、更新された表を見ると、次の上映は午後一時。思わず変な裏声が出そうになったが、案ずることなかれ自分、このプラネタリウムには図書館が隣接しているのだ。図鑑の一冊や二冊を閲覧コーナーに持ち込めばあら不思議、二時間半なんてまるで一瞬。一瞬すぎて、うっかり次の回を逃さないようにしないと、なんて考えながら、午後一時の上映を無事予約して、足を図書館の方へ向けた。

 入口にほど近い児童用コーナーでは、夏休み中で空調が効いている室内なだけあって、大勢が走り回る足音や声が聴こえるが、書架の森の奥深くまで分け入ってしまえばそれも遮られる。「400 自然科学」の棚の前でしばし書籍を見分し、厳選した何冊かを抱えて赴いた、奥地であるところの閲覧コーナーに、滅多にないはずの先客がいた。

 長椅子に腰掛け、膝の上で大きな図鑑を広げているのは、僕と同じくらいの年齢の男子で、黒無地のTシャツに、淡い水色のストライプの半袖の上着を羽織り、シンプルなジーンズを穿いている。研ぎ澄まされたものを感じさせる鋭い横顔。短い黒髪と座っていても分かる均整の取れた長身が目を引いた。目を引いた、というか。一目見た瞬間からわかっていたが、高校の同級生である。

 国見詩学、という名前は知っている。変わった名前だ。クニミはともかく、シガク。外見も勿論知っている。容姿は派手ではないが、わりに目立つ。恐らく、好青年。だがしかし、僕は彼に対して多少複雑な感情がある。

 僕が彼のことをほんのり――本当にほんのり、いけ好かない理由は、まあ、なんというか思春期特有の事情というか。彼が僕よりも十センチほど背が高いとか、運動ができるとか、そういうのもあるのだけど、ぶっちゃけて言うとつまるところ僕の好きな女子が、彼に恋慕しているという話なのである。

 入学してすぐ、同じクラスになった、佐古さんという一人の女の子の楚々とした佇まいにヤマトナデシコ的なものを感じて、素敵だな、と思ったのも束の間、休み時間に小耳にはさんだ所謂女子トークというやつの中で、彼女はある別の青年に恋慕しているに違いないという噂をきいたときはその場で教室の窓から飛び降りて死のうかと思った。しかも何やら話に耳をそばだてていると、クラスの某女子曰く、常日頃ただ微笑んで他人の話を聞いているばかりの佐古さんはひとたび口を開けば必ず高校の図書館にいる文学青年の話をし始める、これ即ち恋に違いないなどというわけで、それを聞いて教室の隅で身悶えした記憶がある。確かに、彼女はことあるごとに高校の図書館での出来事を口にする。そして大抵、そこには必ず同じ人物が関わっているのだ――そこまで饒舌なほうでない彼女の会話内容の八割を占める国見詩学という男がその相手であろうことは明白だった。僕はそのまだ見ぬ恋敵に勝手に嫉妬の炎をめらめらと燃し、どんな男か見てやる! とばかりに、放課後部活(生物部)を投げ出して図書館へ足を運んでみたところ、初っ端から僕の知らない本について佐古さんと睦まじそうに語り合っている清廉な印象の男子生徒によって精神に多大なるダメージを負った。以来、あまり高校の図書館には行かない。僕はストレスからは逃避するタイプの人間なのだ。

 話が逸れた。とにかく、そういった次第で、僕と彼の間には大きな因縁がある。――僕が一方的にライバル視しているだけとも言えるが。ライバルですらないってことは指摘しないでほしい。僕は繊細な人間なのだ。

 国見青年の様子を観察し続けると、彼は何やら普通の読書をしているようではなかった。座っている隣に国語辞典をおいて、ゆっくりとページをめくっている。膝の上に置いたシンプルなメモ帳に、時折メモを取っている。調べ物をしているのだろうか。

 よし、と思って、深く息を吸って吐いた。

「国見くん、だよね」

 できるだけ友好な笑みをつくって話しかけると、彼は見ていた図版から顔をあげて驚いた表情をした。ペンを置いて本を閉じようとするので、慌てて「あ、邪魔してごめん」と謝ると、低い声で「いや、大丈夫」と返された。

 突然現れた、見知らぬ同じ年くらいの男に、国見青年は少し気まずそうに頭をかくと、「あー」と微妙な声を出した。

「あのさ、俺、人の顔覚えるの、……苦手で、」

 僕は頷く。つまり、僕が誰か解らないということだろう。「いや、全然平気。何度か、学校の図書館で本借りたときに顔合わせてる程度だし」君にとってはね、と内心付け加える。

 僕、生野いくの海月みづきっていうんだ、と自己紹介すると、少しの間のあとに、ああ、と彼は手を叩いた。「……もしかして、不思議で美しい鉱石図鑑、っての、学校の図書館でリクエストした?」

 今度は僕が驚く番だった。確かに、入学して最初のオリエンテーションで本を何冊か借りたときに、合わせてリクエスト用紙を提出したことがあった。二か月後に購入されたそれは、正直期待したものとは少し違っていた。鉱石専門書とかそういった類ではなくて、謂れや価値など様々な観点から、たくさんの美しい写真と共に鉱石たちを扱った読み物で、正直物足りなかった。ただ、鉱石の魅力という点では、文句なしに美しかった。

「俺もあれリクエストしようと思ってて。……だから」また、頭をかき、言葉を探すように首を傾げる。どうやら話すことは得意ではないようだ。「あと、名前が」

「名前?」

 思わず聞き返すと、彼は頷き、「海の月って書くだろ。なんて読むのか、ちょっと最初わかんなくて、つい」クラゲって読んだ、とほんの少しはにかんだように口角を上げた。僕は笑って、「よく言われる。ミヅキだよ、クラゲじゃなくて」

 会話は如才なくすすめながら、ちゃっかり開かれたメモ帳のページへ目を走らせる。何が書いてあるかくらいは気になるのだ。

 メモ帳には、様々な単語が走り書きされていた。上の方は線を引いて消してある。ほとんどは天文学用語だ。脇に置かれた辞書は私物のようで、付箋が何枚も貼られていた。メモの線を引かれていない単語を見ると、アインシュタイン塔、レプソルド子午儀、という二つの単語が見えた。国見青年の膝の上の図鑑に目をやる。なるほど開かれたページに載っている写真の枠外に、アインシュタイン塔、レプソルド子午儀の文字が見えた。解らない言葉を調べつつ読んでいるらしい、まめだなあと感心する。

 僕の視線に気づいた彼は「……なんか、専門的で、よくわからなくて」と俯いて呟いた。「詳しい人には当然なのかもしれないけど」その頬に、伏せがちの睫毛が影を落とした。こうして横顔を近くで見ると、彼は睫毛が長い。墨を含んだ色をしたそれが、男性的な容貌のなかで、彼の内面の繊細さをあらわしているようにみえた。

 しかし、一般の辞書には恐らく載っていないであろうその語の意に悩む彼に、理科好きを自称する者としては、なんとか力添え――というか、力を貸すというか、つまり浅ましくも、ちょっとした優位性を証明したい。矜持というには大袈裟だけれど、思春期ゆえのプライドは僕にもあるのだ。乏しい己の語彙から、問題の単語をひねり出そうと脳内を引っかき回す。

「アインシュタイン塔はね、ドイツのポツダムにあって……相対性理論を実証するために建てられたんじゃなかったかな」

 日本にもあるよ。三鷹の国立天文台に、確か、と付け加えると、切れ長の目が瞬いて、おお、という感嘆の声がもれた。これは、と訊きたげに指先がレプソルドの方を指したので、その期待に応えるべくまたもや脳内の辞書をひっくり返す。

「レプソルドってのは固有名詞で、子午儀っていうのが天体の子午線通過の時刻を測定する装置」確か、ね、と付け加えながら、あとでちゃんと調べようと思った。

 頷きながらメモの下に僕の雑な説明を書き加えた国見青年は、ありがとう、と僕の目を見て頭を下げた。

「詳しいな」

 真っすぐな声をしている。含みがない。黒曜石のような瞳は、よく見ると澄んだカーボナードだ。僕はその透明度に目を吸い寄せられる。正面から褒められ気をよくしたのもあってか、僕はにこやかに返す。「星、好きなんだ」植物とか鉱石も好きだけどさ、と付け加える。

「俺も、星、好きだ」

 国見青年は短く言い、思案するように目を伏せる。何度か彼が瞬くのをなんとなく見ていると、やはり瞳の色が気にかかった。俯けば黒が際立つが、光を奥に透かす複雑な虹彩は繊細なガーデンクォーツを思わせる。彼の瞳のなかには庭があるのだ。

「……――とか、タルホとか、そういうのは、わりと読む」

 はたと気づくと彼が話し始めていた。慌てて返しを探す。読む、ということは恐らく本か、作家の話だろう。彼は佐古さんと同じ図書委員だし。うん、とりあえず、

「本、好きなんだね」

 無難に返せば、無言で頷かれる。基本的に生真面目そうな彼の表情を見て、ふと、そこで探りを入れてみよう、と思った。「あのさ、図書委員の佐古さんって知ってる?」

 国見青年は少し目を細めた。男にしては長い睫毛が上下する。「佐古だろ? 古典が好きな」二組だっけ、と言う彼に、僕は笑顔で「同じクラスなんだ」と返しつつ、さりげなくもたらされた新事実に反応する。むむ、そうか、彼女は古典が好きなのか。知らなかった。文系だとは思ってたけれど、と少々悔しくもしっかりと心のメモに書き留めておく。

「彼女、ときどき図書館の話しててさ、そのなかで君の名前がよく出てたから、思わず声をかけたんだ」

 言うと、納得したように彼は頷いた。ここで重要なのは、佐古さんが誰と話していたかを言わないことだ。まるで僕と話していたかのように思わせることができる、と少々――いや、かなりみみっちい工作を計りつつ、「彼女、よく君のことを話してるよ。仲良いんだね」とさりげなく鎌をかける。さて、どういう反応を示すか。佐古さんが彼のことを好きらしいのは明白だけど、もしも彼にもその気がありそうだったら、ここで全力で芽を摘む態勢にかかろう。

 しかし彼は「へえ」とだけ言って「当番日、かぶるからかな」と図版に目を戻してしまった。

 若干拍子抜けした僕は、何を話したらいいのかわからず、とりあえず少し距離をあけて、国見青年の隣に腰掛けた。ここで立ち去っても、図書館にいることに変わりはないのだし、なんとなく。

 彼の横顔を間近で観察し、端正、という言葉が似合うな、と思った。流行りのアイドルがイケメンで、ハリウッドの人気スターがハンサムというのなら、彼は美男だ。勿論、絵に描いたようとはいかないけれど、通った鼻梁、切れ長の黒い瞳、薄い唇。黙っている姿はストイックな雰囲気があって、率直に言って格好良かった。茶色っぽい垂れ目で、いつも笑っているような顔と言われる僕とは全く違う。さぞおモテになるでしょうねえと内心皮肉めいた口調で茶化したくなる。女子はこういう感じがいいのかな、鋭くて、少し怖いくらいの顔立ち。佐古さんも。

 それ以上彼の横顔を見ていたらぶん殴りたくなりそうだったので、盗み見をやめて、持ってきた図鑑を開く。しかし、開かれた蝶の頁の内容が何ひとつ頭に入ってこない。モルフォ蝶の目を射るようなブルーの輝きに、思わず頁をめくる。でも結局集中できず、広げて五分足らずで閉じてしまった。膝の上にそれを載せながら、ぼうっと、あとどのくらいこうしていればいいんだろうなんて考えていると。

「石、とか」

 唐突に国見くんはそう切り出した。僕が目を向けると、彼は伏し目がちに続けた。「植物も好きって」

 言葉が少なくてわかりにくいが、さっきの僕の発言を確認しているらしい。うん、と頷く。「好きだよ。理科っぽいもの、全般。特に、地学と生物系」生野海月なんて名前してるしね、と笑えば、彼もつられて少し口元を緩める。それでから、ふっと横顔に影を落とす。

「俺も、そういうの好きだけど……学問として詳しいんじゃなくて、ただ眺めるのとか伝承とか調べるのが好きっていうか、」所謂、好事家ってやつだから、と俯いて言う。彼の喋り方は、訥々、という言葉が似合う。普段からこういう喋り方なのか、それとももしかして、僕と話しにくい?

 言葉に、厳密なひとなの。

 ふと、佐古さんの言葉が蘇った。席の近くで友人と話しているときに聴こえたのだ。ただ喋っているときは普通だけど、自分の気持ちを伝えようとするとき、言葉のひとつひとつを、大切に考えながら、丁寧に話す。そういうひとよ。

 ふうん、と思う。見た目に合わず、意外に朴訥な人柄だっていうのは、なんとなくわかったけど。

 喋るのが得意じゃなくて、不器用そうで、繊細。

……少し、イメージと違ったかもしれない。

「好き、なんだけど……性質とか、そういうのよりも先に、まず、きれい……っていうのから、入るんだ。

 昔、天体観測をしたんだけど。望遠鏡で、今から思えばすごく高性能なやつだったのかもしれないけど、木星の縞模様とか、土星の環とか、そういうのまで全部見えた。本当にきれいだったんだ。あまりにも美しすぎて、なにも言えなかった。なになにみたい、とか、迂闊に何にも喩えられなかった。家にあった、母岩付きの鉱石の標本とか、そういうのとおんなじで……とにかくそれ自体が、信じられないくらいきれいなものだった。

 俺は、星とか鉱石について、詳しくない。やっと図鑑とかで調べるけど、本当に好きな人には全然及ばないし、まだ足りない。……それが、なんていうか……」

 言いよどむ国見青年の気持ちはなんとなくわかった。つまり彼は、ただ美しいと感じることを恥じている。本質を知らず、単純にそれを楽しむということが、真摯でないと思っている。

 俯いた彼の目の奥に、宮澤賢治の童話に似た、渦巻く銀河のように彼の思いが見えた。世界一小さなプラネタリウムのように、黒い瞳のその向こう、彼のもつ輝き、美しいものに対する感受性、詩情が、星の光のように溢れ出していた。

 僕はそんな彼の様子を見ていて、知らず、口を開いていた。

「僕もそんなもんだよ」

 学術的にどうこうとか、そんな大層なもんじゃない、と呟くと、俯いていた詩学君は顔をあげた。その黒い瞳と目が合ったとき、僕は気づいた。

 望遠鏡でみた星が美しかったから。図鑑で知った不思議な昆虫を、ひとめ見てみたいと焦がれたから。連れられていった植物園で、自然の驚異に目を奪われたから。

 僕も彼と同じだ。

美しいものが好き。理科も世界も何もかも、僕は昔から好きだった。目にしたときから魅せられていた。その理由は簡単だ。

「美しいから」

 きっかけなんて、そんなものなのだ。

「僕が――僕が好きな、理科の世界の、植物や、昆虫や、星や、鉱石や、それらをつくる何もかもが、きっと、美しいってことから始まってるんだと思うよ」

 彼の顔を真っすぐ見据えながら、僕ははっきりとこう言った。

「美しいから、好きなんだ」

 彼はその夜空の瞳で僕を見つめて、それでからゆっくりと破顔して、こう言った。

「俺もだ」

 嬉しそうに微笑っている彼はなるほど、悔しいけれど、素敵な文学青年だ。本が好きではない僕には最初から勝ち目はなかった、ってことかな、とふうっと息を吐く。彼の中には言葉がたくさんきらめいている。たとえばそれが、選びに選び抜かれるがために、ほとんどが表に出てこないとしても、鉱脈のように彼の中には美しいものを感じ、表す心が埋まっているのだ。彼の瞳を見ればそれがわかる。彼も理科を、その美しさを愛してる。なるほど、彼は実に魅力的な青年だ。佐古さんが好きになるのもよくわかる。これは完敗だなあ、と、勝負もしてないのに情けないため息をひとつつき、ブラッドベリの「たんぽぽのお酒」の一節を思い出す。

「いっしょに千ガロンのお茶を飲み、ビスケットを五百も食べれば、ひとつの友情には十分だわ。」

 それだけのことを国見青年とできるまでに、どのくらいかかるかわからないけれど、時間はまだある。

 僕は息を吸い、彼に微笑みかけた。

「これから一緒に、プラネタリウムを見に行かない?」

 彼と、もっと美しいものについての話をしよう。



                  Fin.

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