第2話 解答篇

 しのぶセンセにサヨナラ

 さよなら妖精

 野菊の墓

 ラピスラズリ

 武器よさらば

 シンジケート

 噫無情

 謎解きはディナーのあとで

 ドン・キホーテ


 並んだ九冊の表紙が、そろってこちらを見つめている気すらする。詩学は切れ長の黒い瞳を険しくさせて、それを睨み返していた。

「じゃあ、答え合わせといこうか」

 史世羅がそれらの本に指先で触れれば、繭をほどいたような髪がゆれた。

「われわれに与えられた問題は、この図書館をめぐって集まったこの九冊の本から、犯人がなにを伝えたいのかを正しく組み立てることだ。しのぶセンセにサヨナラ、さよなら妖精、野菊の墓、ラピスラズリ、武器よさらば、シンジケート、噫無情、謎解きはディナーのあとで、ドン・キホーテ」読み上げる声に合わせて、指先が鍵盤の上を滑るようにそれぞれの表紙をうつろう。

「まず、私達をこの不思議の国へ誘う白兎は、――《兎耳のアイリス》だ」

 冒頭の謎めいた文言を口にし、史は制服のポケットから、最初の薄青いルーズリーフとそれを挟んでいた妖精事件の藁半紙を取り出す。Iris laevigataの筆記体をなぞり、楽器のように深く落ち着いた声で言う。

「これはアイリス・リーヴィゲイタではなく、イリス・レヴィガータと読む。ラテン語だ」

 人名ではなく植物の学名のひとつで、英名はRabbitear Irisと言う、と史は続けた。「ラビットイヤー・アイリス、」口内で詩学は呟く。兎の耳の、アイリス。アイリスとはあやめの英名だったか、あやふやだが確かに花の名前だったと記憶している。史の指が、アルファベットを行きつ戻りつし、小鳥の羽根のような睫毛が上下する。

「これは学名で、カキツバタを指す」

 いずれあやめかかきつばた、という文句が浮かんだ。美人揃いを表す言葉だが、同種の花だからやはり似通っているのだろうか。アイリス、と詩学はもう一度心中呟いた。思い出した、ヘルマン・ヘッセの小説に出てくる花だ。

「でも、そのカキツバタが、何だ?」浮かんだ疑問をそのまま口にすれば、史は肩を竦めてかぶりを振る。

「それは犯人を考えればおのずと解ることだ」

「だからその犯人がわからないんだろうが。……謎を解けばわかるのか?」

「いや、犯人は最初から解っている」

 しれっとのたまった史に、詩学は寸の間凍りついた。氷結した詩学の表情筋を横目に、史は大げさに肩を竦める。

「きみ、解らないのかね。もう少し客観的に物事をみたまえ、そう、この世界をまるで一冊の本のように……」

 意味解んねえ、とつい呟いた詩学の黒い瞳孔を、史の冴え冴えとした虹彩がとらえる。

「最初に言ったろう。わたしが知りたいのは、《Who done it》ではない。……《Why done it》なのだよ」

 誰が、ではなく、なぜ。

「犯人なんて、わたしにとっては些末な問題だ。誰がこれを仕込もうと、その謎の答えに変わりはない。ただ、この答えが意味する物事は、その謎がつくられた理由に左右されるのだ」

 あまりに淡々と言うもので、詩学は一瞬犯人あてなどに固執している自分のほうがおかしいのではという気になったが、いやいや世のミステリの主流は未だに犯人あてであると気を持ち直し、「よし。よしよし待て。お前は最初から犯人が解ってたんだな? よし、状況を整理しよう」「そんな必要があるのかね?」「なんでお前そんなに俺に優しくないの? 馬鹿にしてんの? 無自覚なの?」

 湧き出る怒りを押し殺し、詩学は長い腕を組む。「俺が最初にお前に与えた情報は、この本探しの連鎖の発端となる暗号――〈イリス・レヴィガータ〉――の書かれた紙の発見された状況、それだけだよな?」

「その通りだ」尊大に首肯した史の顔を、身をかがめて覗き込む。「それだけでどうして犯人が解るんだ?」「むしろなぜ解らないのかね。きみどうやってこの高校に入ったのだ」「人を馬鹿にするのも大概にしようか? 俺そろそろ堪忍袋の緒が磨滅しそうなんだけど?」三白眼に怒りを覗かせた詩学の悪人面にも動じず、史はひらりと指に挟んだ紙を振って彼に述べる。

「きみは、この事件を現実のものとしてとらえているからいけないのだ――目が曇る。もしこの一連の出来事を書き物にまとめた場合、きみは一発で犯人が見抜けるだろう。そうして思うはずだ――〈ああ、この人物が犯人だから、この謎はこうだったのか〉と」

 詩学は動揺し、口を噤んだ。意味が解らなかった。こいつは何が言いたいんだ、この少女は、史世羅は。確かに、これらの出来事は、小説でいうなら手垢のついた至極古典的かつ王道な仕掛けだ。しかし、現実でこれが起きたとなれば話は別だ。ページの中に世界が区切られていない以上、容疑者の選択肢は実質無数。知り合いの中に犯人がいるという保証もない。詩学はそう思っていたのだが。

「しかし、きみにとって、――そして、犯人にとっては、謎をしかけた者が誰かということが、重要な意味を持つ」

 この謎が解かれない限り、このミステリに真の証明はなされない、と史は囁く。「つまり、発端からの流れを客観的に見ていた、所謂〈読者〉的な立場であるわたしには、容易に流れが読めるため、犯人が誰かということの謎は薄れ、むしろその答えによって暗号自体が解かれるピースのひとつとなる重要性こそが鍵になってくる」その陶器に薄紅をぬったようなちいさな唇が、Q・E・とアルファベットを形作り、指先で最後の発音されない文字を描く。QED――証明終了。

 犯人というのは、この謎において、自明のことでありながらけして欠いてはならない要素のひとつだ、と、つらつら史は述べて、そして詩学の眼前に人差し指を突き付けた。

「そしてそれを解く鍵は、きみだ。国見詩学」

 突然の名指しに、詩学は雷に打たれたような衝撃を受ける。鍵が自分? 完全に自分が暗号と対峙する側だと信じていた詩学は、知らぬ間に自分が握っていたのが証拠でなくて凶器であったような、そんな錯覚を覚えた。史世羅の、宝石のように不思議にかがやく瞳が、その困惑を射抜く。

「思いかえしてみたまえ。この筋立てに関わる人物は何人いる? 片手の指よりもすくない。ノックスの十戒を知っているかね? もう答えは出るだろう。……そう、本来、犯人とは事件現場にもどるものなのだ。おのが事件の結末を見届けに、そう、この場合は、おのが残したメッセージを、受け取るべき人間がしっかりと受け取ったかをね」

 詩学は思わず振り返り、周囲を見回す。放課後の図書館には誰もいない。いや、しかし。

 図書館の扉が、開く音がしたような気がした。革靴の音が、近づいてくる。史世羅の声だけが、脳内に響く。

「これを君にわたした人間。…………佐古、更級という少女だよ、きみ」

 ふわり、と、桜のかおりがした。

「ご名答よ」

 まるいハシバミ色の瞳が、詩学の黒曜石の瞳に微笑みかけた。

 肩で切り揃えられた亜麻色の髪、おだやかな微笑。先ほど、部活の友人に呼ばれて場を去ったはずの、佐古更級の姿を認めて、詩学は思わず直立不動になった。佐古は一歩靴を踏み出し、花が綻ぶように詩学に声をかける。

「おめでとう、詩学くん。その様子だと、ぜんぶ解ったみたいね」

 いや、これを解いたのは俺でなく……と言おうとして振り返ると、史の姿はなく、「げっ?」と妙な声をあげた詩学に、「どうかした?」と首を傾げてから、佐古更級が、少し頭を下げた。

「ごめんなさいね、詩学くん。…………どうしても、あの謎を、思いついちゃったの」

 暗号って、ロマンじゃない? と、佐古は悪戯っぽく首をかしげる。浪漫的で、ひどく魅力的な、悪徳の切り札のようなもの、と蜜めいた甘いひびきで続ける。

「稚拙だったでしょう。……詩学くんなら、解いてくれるかもって、思ってたの」

 いや、まだ解いてない、と内心呟くが、瞑目した佐古更級はすまなそうに言う。

「こんな不格好な謎を解かせちゃって、ごめんなさい」

 〈レ・ミゼラブル〉の代わりに〈噫無情〉とか、こじつけばかり。でも、あれはどうしてもあの本じゃなくちゃならなかったのよ。借りられていると知ったときは焦ったけれど。わたしに犯罪者の素質はないみたいだわ、と、たおやかに彼女は続ける。可憐な女学生という単語のしっくり嵌まる容貌は、今は詩学の戸惑いを余計に生むばかりである。木の実のような落ちついた茶色の瞳が、彼の黒曜石の瞳をとらえる。

「でもあなたは解いてくれたのね」

「あ、いや……」

 入学直後の図書委員の会合で、席が隣になって以来の付き合いの佐古更級。詩学にはこの少女の真意がわからなかった。会話はするけれど、今日はじめて下の名前を知ったような、そんな関係。本棚にはさまれた空間で、詩学は何を言うべきか困惑する。確かに、犯人は彼女以外に考えられなかった。ノックスの十戒に則れば、もしもこの暗号が解かれる一部始終に犯人が含まれているとするならそれは彼女、佐古更級以外考えられない。彼女は図書委員であり、本の整理などの業務に紛れて紙を仕込むのはたやすいだろう。そして、何らかの意図をもって、同じ図書委員である国見詩学に、何食わぬ第三者の顔をして、その謎を解けと言ってきたのだ。すべて辻褄はあうし、むしろなぜその可能性に思い至らなかったのかとは思うが、それでも詩学は混乱していた。古典に詳しく、詩学に様々な本を教えてくれた彼女は、これまで、ミステリが好きなそぶりは見せたこともなかったし、まして暗号をつくるような嗜好だなんて思いもしなかった。彼女が手に取るものは、歌集、古典、やわらかな靄につつまれたような尊い日本の文化だと信じて疑ってはいなかった。文学を偏愛する詩学に、現代の小説、そう、たとえばこの暗号のはじまりである〈しのぶセンセにサヨナラ〉を薦めてくれた彼女がまさか。

 混乱のさなかであることを必死で押し隠し、詩学は真剣な表情をつくって問う。

「なんで佐古は、こんなことを」

 途端、なぜか彼女は首を何度も横に振った。「佐古ではないわ」

 え、と入学以来ずっと呼び続けていた苗字をまさか間違ったのかと訝しめば、佐古は顔を上げてきっぱりと言う。

「私の名前は更級よ。佐古は苗字であって、私自身じゃない。……あなたには、ちゃんと、更級――さらしな、と呼んでほしいわ」

 詩学は目を瞬かせつつも、「どうしてこんなことを、――さらしな」変わった名だ、と思いながら言い直した。ただ、綺麗な名だ、とも思った。

「ありがとう」微笑み、寸の間、彼女は躊躇うように瞳を揺らす。それから、桜の花びらのような唇をふっと開いた。

「とても簡単な理由よ」

 謎を思いついたら、解いてもらいたいじゃない? と、佐古更級は首を傾げた。顎で切り揃えた髪が揺れた。

 その少女らしいまるい瞳に、どこかかなしげな影が落ちてみえた。

 詩学がその影のなかに何か読み取る前に、彼女はその瞼を伏せてしまう。

「……答えについては、忘れてくれて構わないわ。ただ、思いついただけだから」

 いや、だからまだ俺は答えがわかってないんだけど。

 混乱と困惑と動揺とそれを表に出したくないちょっとした思春期の見栄が綯い交ぜとなって、曰く言い難い顔つきになっている詩学の表情筋の引きつりに気づいてか気づかないでか、佐古更級は、革靴の踵を返した。時計を見て、最後にすこし詩学の方を見る。その表情は微笑んでいる。

「今日はありがとう、詩学くん。本当にごめんね、こんなことを。

 ……さようなら」

 ふ、と間をおいて放られた挨拶の、あまりの淋しげな響きに、詩学が思わず引き留めようとした手は、最初の時と同じく空を切った。ほんの少し先にいる少女の背がはるか遠くに思えた。声をかけることも、追いかけることもできずに、ただ立ち尽くしていた詩学の頭上から、声が降ってきた。

「……なかなかゆかしい大和撫子ではないか。ふむふむ、更級嬢というのか。あそこまで《らしい》喋り方はついぞ見ない。いやはや、昨今の世の女子高生達に見せて聞かせてやりたいものだな」

「人の友人の感想述べてねーでおりてこい。高いところばっかりにのぼって、煙かお前は」

 ばかではないと思っているのだな、と、チェシャ猫のように寝そべっていた本棚の上からふわりと飛び降りてきた史に、俺にあの暗号は解けなかったのでね、と皮肉げに返した詩学は、高いところから降りた途端に、はるか下になるこの不思議な少女をまじまじと見つめた。彼の視線の高さからは、彼女の飴細工のような髪と、それを束ねるリボンしか見えないが、きっと今も変わらずプリズムめいた光を留めているであろうまなざしは想像できる。

 どうして急に消えちまったんだよ、しかも本棚の上に乗るなんて、と苦言を呈した詩学を無視し、佐古の消えていった入口の方を見つめていた史は、ふと口を開いた。

「あの更級という少女、部活はなんだ?」

「あ? かるた部って言わなかったっけ」

「む、そうか。やはり」

 史世羅は納得したふうに頷き、それがどうなのだ、という表情を見せている詩学の脇をすり抜けてカウンターに歩み寄ると、本を背に詩学に向き直った。「謎解きの続きを始めてもいいかい?」

 仕方なく頷いた詩学に、「犯人は今ので解ったろう。罪のないいたずらだ。さて、最後のピースがヴェールを脱いだところで、その図柄を確かめるとしようか」言いつつ、その小さな手を宙に踊らせる。

「彼女はかるた部だときいたが、恐らく短歌そのものも好きなのだろう」

 詩学は、カウンターに並べた本の一冊に目をやる。――〈シンジケート〉。穂村弘の歌集だ。佐古更級が、眩しいような眼差しで頁を繰っていたのをおぼろに覚えている。

 その時、彼の中で、なにか噛み合うものがあった。

 詩学の表情を見て、史は頷く。

「短歌と〈かきつばた〉が示すものはただひとつ――折句だ」

 古典の教科書に載っていた、古い物語の断片を思い出す。

 伊勢物語の一幕、東下りにて、在原業平をモデルにしたと思われる主人公の詠む歌―からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ―は、旅人から、かきつばたという五文字をそれぞれの句頭に入れて詠めと言われて詠んだものだった。

「彼女が先ほど言ったとおり、〈噫無情〉は〈レ・ミゼラブル〉の代替品だ。この本は、〈レ・ミゼラブル〉として扱う」

 言いながら、一冊ずつ手に取る。並んだすべての本ではなく、一冊おきに、五冊。

「〈しのぶセンセにサヨナラ〉、〈野菊の墓〉、〈武器よさらば〉、〈噫無情〉こと〈レ・ミゼラブル〉、〈ドン・キホーテ〉」

 タイトルを読み上げながら、抽出した五冊をもう一度、順番に並べ直す。

 詩学はあっと声を上げた。

 しのぶれど。

「国見詩学。〈かきつばた〉の意味は、解ったかね?」

 ――しのぶれど いろにでにけり わがこひは ものやおもふと ひとのとふまで

 音の無く動いた詩学の唇に、史は目を細めて頷く。

「だいたい最初の暗号が挟まっていた本が〈しのぶセンセにサヨナラ〉だった時点で、半分答えは出ていたようなものだ。私は野菊の墓のあたりから想像がついていたぞ」

 ひそかに人を思う心が隠そうにも隠しきれず、溢れ出て他人に恋をしているのかと問われてしまうほどにその人が恋しい、そんな情熱的な恋の短歌に、詩学の頬が朱に染まる。それを吹き払うように頭を振り、史に問いかけた。「ま、待て待て。まずどうしてさっきの五冊をチョイスしたかについて説明してくれ。さっぱりわからん」

 詩学の情けない惑いようを華麗に無視し、史はおとがいに指をあてて思案する。

「ふむ。最初から順を追って説いていこうか」

 史世羅という少女がこういう物言いをするときは、大抵一見脈絡のないような話題をふられるのだろう、と見当をつけた詩学に、案の定彼女は質問をしかける。

「詩学。きみ、なぜ更級嬢が〈レ・ミゼラブル〉でなく、〈噫無情〉を使ったのか、訊いたかね?」

「え? ああ、普通にお前が延滞してて、借りられなかったからって」

「そうではない」

 いや、ある意味ではそうかもしれないが……と言い、史世羅は机上の五冊のうちから、〈噫無情〉と題された古い一冊を手に取る。しばしその表紙を矯めつ眇めつしたのち、それを戻すと、史は詩学に向き直って言った。

「きみ、わたしがあの新潮文庫版〈レ・ミゼラブル〉を借りたのは、図書館が新入生に開放された日なのだよ」

「待て、お前初日からあれずっと借りっぱなしなのかよ。返せよ」

「今日君に返したろう。とにかく、彼女があの五冊でなく、わざわざ黒岩涙香の〈噫無情〉を引っ張り出してきた理由はだね、ある意味ではわたしのせいであり、ある意味ではきみのせいでもあるのだよ」

「はあ!?」

 濡れ衣をきせられては堪らないという風に気色ばんだ詩学に「落ち着きたまえ」と高慢に言い放った史は、彼に指を突き付けて問う。

「きみがわざわざ〈噫無情〉を読んだ理由はなんだね」

「てめえが延滞してたからだよ」

「その通りだ」

 いっそ堂々と頷かれ、二の句が継げなくなった詩学の顔面の引きつり具合も無視し、史は〈噫無情〉の表紙に手を置く。

「なぜ更級嬢が、ここで頭文字に〈れ〉のつく別の本を使わず、〈レ・ミゼラブル〉―〈噫無情〉にこだわったか、それは」

 意味深に切られた言葉の先の予想がつかず、詩学は固唾を飲んでつづきを待つ。史のちいさな唇がうごく。

「きみが読んでいた本だからだ」

「は、――」完全に虚を突かれた詩学の喉から、呼気のような声が漏れた。史はちらりと彼の様子を確認すると、構わず続ける。

「わたしは、きみが暗号に気を取られている間に、奥の図書カードを確認していたのだ。借りた人間が名を記す、あの過去の遺物にな。書籍の貸し出しがディジタルでの扱いになっても未だ、足跡を残すようにあそこに名を連ねる奇特な輩が、きみのほかにも、いたのだよ。……佐古更級という少女がな」

 詩学は電撃的に、〈さよなら妖精〉を見つけたときの、史の行為を思い出していた。彼女は、奥付やカードもチェックしていた。出逢って直後の、詩学からしてみれば恥以外の何物でもない会話を反芻する。この少女は、そんなところを見ていたのか。

「新潮文庫のレ・ミゼラブルに君が名を書けるはずないということはイコール、佐古更級も、あの本を暗号に使うことはできないということなのだ」と史は指を振った。にわかに狼狽したふうの詩学は、史の何倍もありそうな掌を、彼女の顔の前にかざして一旦口上を制止する。

「いや、うん、確かに俺がそれらの本に名前を書いたのは事実だけど、でも、どうしてほかに四冊も俺が読んでないのがあるんだ? ええと、〈さよなら妖精〉とか――」

「この四冊だな」

 言いながら、史は、手に持った四冊の本を広げてみせた。〈さよなら妖精〉〈ラピスラズリ〉〈シンジケート〉〈謎解きはディナーのあとで〉。様々な表紙が詩学を戸惑わせる。「これらの図書カードには、きみの名は含まれていなかった。――書かれていたのは、更級嬢の名前だけだった」

 先程「しのぶれど」をつくるために除外された四冊だった。詩学は何度も頷く。「それで、なんで俺が読んでなくて、佐古だけが読んでる本が九冊のなかに入ってるんだ。と、いうか、暗号の答えをつくるのに使わないんだったら、どうしてその四冊を入れたんだ? 攪乱のためか?」

 詩学がそういった途端、史の目があからさまに軽蔑的に細められた。肺の奥底まで空にするような溜息をつき、嘆いた。

「ここまで聞いてわからないかね」

 瞑目して処置なし、というふうにかぶりを振る。眉間を指先で揉み、「これでは更級嬢も報われないな」と聞こえよがしに言う。動揺も最高潮に達した詩学の胸元に指先をつきつけ、彼女は低い声で言い立てる。「だから、鍵は〈かきつばた〉だと言ったろう。こんな初歩的な暗号も解けないのかね?」自分の肩よりも背の低い少女になじられ、詩学は返す言葉もない。史は先ほどの四冊をひとつずつ、陶器のような指先で示していく。

「〈さよなら妖精〉、〈ラピスラズリ〉、〈シンジケート〉、〈謎解きはディナーのあとで〉、……タイトルの最初の文字を読むと、きみ、」

 さらしな。

 今度こそ、詩学の目が大きく見開かれた。

 しのぶれど いろにでにけり わがこひは ものやおもうと ひとのとふまで――

受取人の名が記された本でのみ構成された恋の歌に、差出人の署名。

「これは立派なラブレターだとは思わないかね? 国見詩学」

 長身の青年の耳が朱に染まっているのを眺めながら、固まっている詩学に、史はしたり顔で告げる。

「……っ、」

 手の甲で口元を隠した詩学の三白眼は見開かれっぱなしで、存外長い睫毛が震えている。耳の先まで紅に火照る表情はまさしく思春期ならではという様子で、あまりの風体に、史が「行かないのかね」と声をかけようとした瞬間、弾かれたように、詩学は駆けだした。少女の後を追って。

彼女は、まるで最初に書物の塔の上に座っていたときとおなじ、すべてを見透かすような不思議な色合いの瞳で、首筋まで真っ赤になって図書館の入口へ駆けていく彼の背を見送る。彼が佐古更級になにを言おうとしているのかは、彼の顔色をみればすべて解る。

「……いろにでにけり、か」

 深い、楽器のような声で呟くと、ひとり、史世羅は踵を返し、また、静寂のとばりの降りた絵画のような図書館の奥、霞む陽光の降り注ぐ、海外文学の棚の向こうの書物の塔へ歩いて行った。






                         Q.E.D.

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