ミネルヴァ白書

しおり

第1話 問題篇

 放課後の図書館はひとつの王国である、と、書架の林に分け入りながら、詩学しがくは独りごちた。

 棚に並ぶ背表紙にかけた指を滑り落とす感覚に、ふと口角が緩む。毛羽立った古い表紙や、上質紙のあたたかみ。息を深く吸えば、鼻孔を満たす紙の匂い。

 天窓から、平行四辺形に切り取られた午後の陽光が降り落ちてくる。書棚は端正な迷宮だ。整然と並んだアイボリー・ホワイトの、背の高い棚に遮られたそれぞれの分野の空間が、歴史、人生を内包している。その心地良い重みに、詩学は充足の淵に沈む。

 読書は旅だ。むかし読んだ本に書いてあったが、表紙にはさまれた紙の上の文字をたどるだけで、人はなんにでもなれる。地方都市の一高校生という殻は、上質紙にふれた指先の感覚を合図に容易くほどける。

 さて、そんな埒も無いさいわいの空想はおいといて。

 一度大きく深呼吸した詩学は、書棚の群れの最後の角、海外文学の棚を曲がった。広い窓から差し込むひかりが、詩学の瞳にうつる、その息をのむ景色を照らしだした。

 書物の塔がそびえていた。

 螺旋を描いて重々しく積み重なる図鑑、画集、小説、辞典、図版、詩集……長身の詩学をさらに越し、吹き抜けの学校図書館の天窓の下で、作品じみた本が芸術的な建築のようにくるりと塔を築き上げていた。

 その天辺に、少女が座っていた。

 小さなつまさきは纏足という言葉が似合う。小鹿めいた脚に、はっとするほど細い体、染みひとつない制服に、ゆるく波打つ色素の淡い巻き毛にとりまかれた、うつくしい卵や楽園の果実のような小さな顔。

 陶器のことりをおもわせる少女だった。

 少女は書物の塔に腰かけ、ぜんまい仕掛けの西洋人形のように、小さな足を振っていた。膝に置いた、彼女をつぶしてしまいそうなほど大きい、美術品のような書物の頁を、ときどき繰りながら、奇妙なほど表情のない、つくりものめくまなざしで、紙に閉じ込められた物語を追っていた。そのこぼれ落ちそうな双眸と対照的にこづくりなパーツは石膏のように動かず、青年はそのさまを目にしてわずかに怯んだ。しかし、自分には使命がある。

 詩学は深く息を吸い、凛と声をはりあげた。

「……一年八組、ふみ世羅せら。《夜と霧》《沈黙の春》《レ・ミゼラブル》、その他四十五冊、二か月の延滞だ」

 異国の名前のひびきをまとう呼び声に、少女は顔を上げた。塔の真下に佇む、長身に鋭い眼差しと、短い黒髪の男を目に留め、少女はいちど、瞬きをした。鳥の羽根をおもわせる長い睫が、ゆっくりと上下した。

「……ふむ。わたしがこの高校に入学して二カ月と少しだが、延滞を面と向かって注意されたのは初めてだな」

 楽器に似た、存外低い声がした。さくらんぼを思わせる小さな唇には少し合わない、大人びた声に、古い小説のような喋り方。磨かれたガラスのような瞳が詩学を捉えて、頭のてっぺんから爪先までを観察してから頷いた。

「きみ、確か一年一組の図書委員だろう。ご苦労なことだな」

国見くにみ詩学だ。詩を学ぶと書いてシガク。覚えろ」

 不機嫌そうな声音で首を振った詩学に、史という少女は無感動そうな表情でふうんと言った。その瞳は相変わらず彼を見ている。

 野性的で狼のような雰囲気を漂わせた、しなやかな、青年になり立ての少年だった。しかし、その項や白い頬と、切れ長の黒曜石の瞳に、深くみずみずしい感性が垣間見えた。いかにも文学青年らしい翳のある清爽さが印象的なその青年は、生真面目そうな眉根を寄せて催促するように足を一度踏み鳴らした。史は柳に風といった風情でゆっくりと頁を繰り、足をふりこのように振る。

「そうせかすものではないよ、国見詩学。本とは耽溺するものだ。その文章に、綴りに、頁に、装丁に……」

自分の目の高さで振られる、精巧なミニチュアールのような磨かれた革靴から視線を逸らした。詩学の掌ほどしかないそれは、見ているとなぜか落ち着かない。誤魔化すようにため息をついて、追求のために彼女に指をさす。

「つーか、お前延滞し過ぎだろ。しかも返してないのに追加で借りるなよ」

「テストなどを挟んでしまうと返却も億劫になってね。……ふむ、やはり森茉莉の文章は豪奢で奔放な耽美さが魅力だな……」「それも延滞本だろ。返せ」

 せっかちな男め、と、言う割にさして感慨もなさそうに森茉莉の《貧乏サヴァラン》を手渡してきた少女に、詩学は大きく息をついた。

「まったく、お前……ええと、フミ、セラ?」

 本を背伸びして受け取りながら、不思議な名前の文字を確認するように呼ぶと、徐に少女は首肯し「いかにも史世羅だ。気軽に史と呼びたまえ。世羅という名前は好かないのだ、小公女を思い出してね」と訊かれもしないのに喋りだした。「そうか、それで史、」「ところできみ、小公女は読んだことがあるかね。わたしはあの話が好きではないのだよ、なぜならひどく嘘くさいからね。小公子がこの世にいるかどうかは与り知らないが、小公女セーラ・クルーのような少女がこの世にいないことだけは断言できるよ。なぜなら」「話を聞けよ!」

 話の腰椎を粉砕された詩学の叫び声に、史はしれっとした表情で言った。「静かにしたまえ。図書館だ」

 絶句した詩学に一瞥もくれず、史は自分の坐っている塔の一冊をまた手に取り、堅い表紙を開いた。

 物も言えないという表情の詩学は、幾度か酸素を求める金魚のように口を開閉させていたかと思うと、やっとのことでその塔に大股で歩み寄り、怒りを押し殺した小声で告げる。「いい加減にしろよ、お前。大体女子がそんな高いところに登る、あまつさえ本に腰かけるなんて言語道断だ。……おい! 足を組むな!」

 軽やかにスカートを跳ね上げて足を組んだ史に再度怒鳴る。史はその言葉に目を細め、三拍後、のたまった。

「古風だ。実に古風だ!」「やかましい!」

 叫んだ詩学にすかさず人差し指を立ててみせる史と、こめかみに風刺画のように青筋を浮かべる詩学。早くも力関係が固定されてきたようだった。史は尚もたたみかける。

「ふうむさてはきみ、借りた本の貸し出しカードに未だに名前を書いてるだろう。化石のような男だなあ!」「うるせえ! そうだよ書いてるよ! 俺はディジタルなんてものは信用してねえんだよ!」

 詩学が言い返すと、なぜか奇妙な沈黙がおりた。

 史世羅の人形のように謎めいて整った顔が、真っすぐにこちらを向いているのに耐えきれず、詩学は一歩後ずさりながら「……な、なんだよ、書いてちゃ悪いのかよ」と狼狽した声をあげた。

 万華鏡を思わせる大きな瞳が、ぱちくりと小鳥のように瞬いた。

「…………いや、まさか本当に書いているとは思わなかった」「鎌かけてんじゃねーよ!」

 またも響いた絶叫に、耳をふさぐゼスチャをしながら史は真顔で「いや驚いた、きみのロマンチストの性質をなめていた。正直すまない」「やめろ!」頭を抱えてうずくまった長身の青年に、冷めた視線を送る。「まあいいんじゃないか? 個人の趣味だし」適当すぎるフォローにさらに心を折られる詩学。

「読み終わったぞ」その背にぽんと投げ置かれた複数の本に、一瞬殺意を覚えた。「すぐそこの棚だから戻してくれたまえ」

 ったく、とぼやきながら、長身を生かして台も使わずに高い位置へ本を戻し始めた詩学に、史は無言で視線を送る。観察するようなその視線に、詩学が耐えきれずにちょろちょろと振り返りながら作業を進めていると、その制服のポケットから何かがひらりと床に落ちたのを、史は目撃した。

「……なにか落としたぞ、きみ」

 詩学がかがんでそれを拾い上げる直前に、ふわりと鳥のように飛び降りた史世羅が、それを拾った。

 それは四つ折りの藁半紙だった。プリントでよく見かけるざらりとした手触りのそれは四隅をきちんと合わせて畳まれている。開こうとした史に、詩学は一瞬表情をこわばらせる。

「……開かれたくない理由でもあるのかね」

「あー……いや」

 かぶりを振った詩学は「別に、俺にやましいことはないんだけれども」と歯切れ悪く頭をかき、「なんか、変なことが書いてあるんだよ」と首を傾げながら言った。「ほう、」思いの外喰いつきのいい史に、詩学はつっかえつつ説明する。「ついさっき、見つかったやつで、…えーと、特に秘密めいたことが書いてあるわけでもなくって、本当に意味の分からないことが書いてあるだけっていうか、」まどろっこしい言いざまに、史の眉根が寄る。詩学はおとがいに指を当て、

「誰のかわからないものだし、なにか意味があるのかもしれないし、なんとなく」

 といっても、変なことが書いてある紙そのものはその藁半紙じゃないんだけどな、と付け加えた詩学に、興味を失いかけた瞳で藁半紙を詩学に返そうとしていた史の目に光が燈った。

「みせたまえ」

「はっ?」

「みせたまえ。その紙を。そして話したまえ。その事の発端を」

 拒むつもりだった。しかし、彼女の瞳がそれを阻んだ。

 きらめきを宿した瞳が、プリズムのような不思議な光をたたえていた。その虹色の輝きに魅せられ、気づけば詩学は操られたように口を開いていた。


 ことは約三十分前にさかのぼる。

 折り畳み椅子は、身長一八〇センチを超える詩学にとって、かなり窮屈な代物だ。背の低いカウンターの前で、文字通り長い手足を折り畳むように椅子におさまった詩学は、稲垣足穂の〈一千一秒物語〉を読み耽っていた時、ふと、背後から声をかけられた。

「詩学くん、いいかしら」

 月と格闘する男の話から目を上げれば、首筋で深い亜麻色の髪を切り揃えた、同じ委員会の少女と目が合った。濃いハシバミ色をした丸い瞳が真っすぐに詩学を見つめていた。

「どうした、佐古さこ

 短くなったスピンを挟み、少女に向き直れば、佐古と呼ばれた彼女はすこし首を傾げ「返却された本に、こんなものが挟まっていたの」

 そっと差し出されたのは、小さく折り畳まれた、藁半紙だった。ざらっとした手触りに、少しぎざぎざの端。開いてみると、さらに小さな紙が落ちた。花びらのように舞い落ちたそれを宙で受け止めると、詩学はそれを見た。

 薄青い、ルーズリーフかノートを無造作に破ったような三日月型の紙片に、罫線に沿って、斜体のインクの文字が短く書きつけられていた。一読するに、アルファベットと数字のようだ。詩学は顔を上げ、佐古に問う。

「挟まってたって、何に?」

「これ」

 手に持った本を見ると、東野圭吾特集コーナーに置かれていた、文庫本の東野圭吾著、〈しのぶセンセにサヨナラ〉。特に何の変哲もない、一般書籍だ。詩学も借りたことがある。「他に何か変なものは? 別の本には?」佐古は首をふり、カウンター脇の返却されたての本を置くスペースにおかれた、四冊の本を指した。「ぜんぶ見たけど、他にはなかったわ」

 上から背表紙を読むと、〈ジョーカー・ゲーム〉〈菌類のふしぎ〉〈容疑者xの献身〉〈図書館戦争〉……ごく普通のラインナップだった。取り留めもなく、関連性もあるとは思えない、なんとなく一冊だけ毛色の違う〈菌類のふしぎ〉を手に取ってめくってみたが、何も不審なものは挟まっていなかった。佐古はその中の一冊を指さして付け加える。「〈図書館戦争〉に栞のわすれものがあったけれど、普通の書店の栞だったわ。戸田書店よ」

それは関係ないだろうと見当をつけ、詩学はスギゴケの写真から目をあげた。「個人の栞代わりじゃないか?」至極真っ当である意見にしかし、佐古はかぶりを振った。

「意味の解らない文字が書いてあるなんて、何かの暗号みたいだわ。ほら、それに、ここ」

 言いながら、佐古は、細い指で藁半紙の隅を指さした。そこには黒いボールペンの字で、こう書いてあった。

《Iris laevigata》

 詩学は目を細めた。傾いた筆記体は流麗でどこか草書体を思わせるが、拾ったアルファベットは確かにそのように読めた。アイリス・リーヴィゲイタ? 誰かの名前だろうか。確かに、メモにしては丁寧に書かれている気がしなくもない。だが、佐古は気にかかるようだった。

「とても不思議じゃない?」

 どこか眩しそうに目を細めて首を傾げた佐古に、詩学は引き寄せられるようにその文字を注視する。まあ、確かに、気にならなくも、ない。

更級さらしな!」

 突然の女声に、思いきりびっくりして紙を落としそうになった。声のした方をみやれば、図書館の入り口で、外光を背にして影になっている生徒がしきりに手招きをしている。「あら、呼ばれちゃった」佐古がそちらを向いて呟いた。逆光になった生徒が呼んだのは、佐古のファーストネームらしかった。「あ、」詩学が佐古とその姿を見較べると、ゆったりと佐古はそちらを向いて手を振った。

「じゃあ詩学くんごめんね、私、かるた部があるから」

「えっ」

 唐突に言い、佐古は微笑みをたたえたまま荷物を持ち直した。「解けたら教えてちょうだいね」手を振りながら図書館の入り口のほうへ去っていく佐古に「ちょっ、ちょっと待っ」と手を伸ばしたが、清々しく去っていく佐古の背は既に遠く、彼の腕はむなしく宙を泳いだ。

 ひとりではどうすることもできない。詩学はとりあえずその不思議な一品を制服のポケットに忍ばせ、一千一秒物語を開こうとした。その途端、司書室の方から呼び声がして、延滞している生徒が今ちょうど図書館の奥にいるから、読み終わり次第返せと催促しに行けと命じられた。

 そして今に至るというわけである。

「ほう。興味深いはなしだ」

 塔の天辺に腰かけなおした史は、腕を組んで鷹揚に頷いた。なんとなく見下されている気分になった詩学は「本に乗るな」と一応諌めてから「まあ、十中八九落書きだろうけど、」と続けようとしたが、史は少し視線をあげてうなった。

「その《落書き》の犯人に興味はないが、そのルーズリーフのメッセージは気になる。その紙切れのなかに、どんな秘密が隠されているのかな」

 俺は犯人も気になるぞ、とぼやいた詩学の目前に、ひらりと小柄な肢体が降り立つ。

「……きみ、フーダニットとホワイダニットの違いも解らないのかね」この問題の答えに、誰の欄はないのだよ、と、見上げてくる瞳は静謐だった。

「自明のことに注釈は必要ない。証明は簡潔に、うつくしくなされるべきだ」

 わけが分からない。曖昧な表情をしたまま、詩学はとりあえず首を縦に振った。史は気にせず、満足げにうんうんと頷いた。

「なかに挟まれている紙片の謎を解いて、本をたどっていく。いやはや、なんとも古典的なゲームだ。このご時世に自分で体験できるとは夢にも思わなかった」

 して、その紙とは? と片眉をあげて問うた史に、詩学はポケットを探る。薄青い紙片をつまんで取り出すと、史の手がそれをかっさらった。またもや手が宙を泳ぐ。藁半紙は返してもらおうと手を差し出すと、ふいっとそれを持った手を遠ざけられた。「これも必要なのだ」と言った史に「そんな紙、」と鼻で笑おうとした詩学は、彼女の眼光に射抜かれて口を噤んだ。

「要素はすべて検討すべきだ。どこに手掛かりが転がっているか分からない、というのはミステリの常套句だよ」

 それを開き、呈示しながら、史はきっぱりと言い切った。

 藁半紙は、暗号の書かれた紙を紛失しないようにつつむためのものだと思っていた。まさか、これにも意味があるとは。詩学はその紙を凝視した。

 開いた紙片は、古い写真と見出しが印刷された、新聞か、図版などの一頁のようだった。おさない少女が森の中でほほえんでいる幻想的な写真に写りこんだ、絵本の挿絵めいた妖精の姿に、一瞬詩学は目を見開いたが、史の「よくみたまえ。偽物だ」という声に促され、言われてみれば、確かに少女と比べて妙に鮮明に浮かび上がってみえる妖精に違和感を覚えた。頷き、「なるほど、合成写真か」「切り抜きをピンで留めたものだ。合成写真がこの当時に撮れるわけあるまい」と史に一蹴され、詩学はなんともいえぬ表情でしばらく黙っていた。ややあって、咳払いをして、日本語のタイトルに目を移す。

「コティングリーの妖精事件……」

 明朝体を読み上げた詩学に、史は「イギリスの話だ。妖精と出逢ったという、ふたりの少女の嘘から発展した、一時期は本当のオカルトだと騒がれていた事件だよ。ピーターパン同様、かなしい幻想は暴かれるべきでないという良い例だな。かの有名なコナン・ドイルも関わったことで知られている」と薀蓄を語りながら、その中に挟まっていた紙片を取り上げた。詩学もそれに目をやる。先程、佐古に渡された時に、真っ先に目を通した、数字とアルファベットの短い文字列。

《221B》

 傾いた端正な英数字。史はゆっくりと瞬きし、口をひらいた。「驚いた。わたしの口にしたことがヒントになろうとは」囁きながら、その紙片を折りたたんだ。

「ちょ、待て」

 詩学は慌ててその紙片を開かせ、その四文字に目を通す。「これだけで何か解ったのか?」

「これだけも何も」史は目を細め、「これがすべてなのだよ」

 紙片を手渡された。「きみも必ず知っているはずだ。多少本を読む人間なら、一度は目にし、耳にするだろう」

 まわりくどい言い回しに詩学は頬を引きつらせる。「どういうことだよ」と低く呟いた声に、史はしれっとした顔で告げた。

「時間をあげよう。少し目を閉じて考えてみたまえ」

 詩学は顔をしかめながらその紙片を眺める。まるで書き損じのような不格好な切れ端に並ぶ文字は、無機質に詩学を苛むようだ。見覚えがあるかと言われれば、なくもないと答えるだろう。しかし、考えは浮かばなかった。ただ、どこか古い記憶の隅がぼんやりと緩慢に刺激されるような、そんなもどかしい感覚があった。喩えるなら、幼い頃に好きだった小説のワンシーンを見せられているような。

 しかし、手繰り寄せる綱になかなか手が届かない。時間の浪費だ、と諦め、答えを乞うと、史は言った。

「住所だよ、きみ」

 はあ? と思わず素っ頓狂な声が出た。「住所って、これが住所なわけ……」言いかけ、口を噤んだ。

「理解したか」腕を組んだ史は詩学に流し目をくれる。

「では行こう、謎がみずからその棲みかを開示してくれているのだ、門は既に開かれている」

 よく言えば文学的、悪く言えば意味不明の誘いに、多少苛立ちながらも詩学は食い下がる。

「この署名は?」

 藁半紙の謎のアルファベットを指で示したが、史はその首を振る。「Iris laevigata――《兎耳のアイリス》は、入口を示す案内人にしか過ぎない。……アリスを導く白兎のようにね」

 あまりにも詩めいた口調に、詩学は煙に巻かれたように瞬きをする。アイリスとアリスすらこんがらがってしまいそうだ。兎? 入口? なんのことなのだろう。

 史はその深い眼差しで、詩学の瞳を覗き込む。長い睫毛にふちどられたその宝石が、戸惑う詩学を映していた。

「221の棚を探すのだ、きみ。……シャーロック・ホームズに依頼するには、少々、悲しみが足りない案件だがね!」


 221の書棚には東洋史、特に朝鮮史の本が並んでいた。借りられずにいて久しいと思われる古い本の列に、ふたりは目を凝らした。ベイカー街221B、世界的なあの名探偵と友人の下宿先が、謎の棲みかだった。

 はたして、棚には、場違いなはずの小説が一冊、肩身が狭そうにささっていた。米澤穂信著、〈さよなら妖精〉。

「これだな」

 詩学は呟き、それを引き抜いた。史はその表紙を覗き込み、興味深げに頷く。

「ふむ。……きみ、これを読んだことはあるかね」

「いや、ない。最近の本には疎いんだ」

「ほう、では中身は知らないというわけか」

 ぱらぱらと紙をめくり、ビニールに包まれた表紙や奥付、図書カードなどを調べて史は目を細めた。

「……あったぞ」

 ぱらぱらとめくったページの間に、セピアに色づいた小さな封筒が挟まっていた。蝋印を模したシールが貼ってあり、ところどころインクか、さもなくば紅茶がにじんだような、古い紙をイメージしたデザインのようだった。史の小さな手が、それをすっと取りだし、丁寧な仕草で中身を取り出した。ゆっくりと、二つ折りにされた薄紅の紙をひらく。

 紙には、濃い薔薇色のインクで、ちいさな人の絵が並んでいた。文章のように整列したそれらは、棒であらわされた手足を気ままに上げたり下げたりして、自由なポーズをとっていた。先ほどの図版に挟まっていた、ノートをそのままちぎったような罫線の入った紙片でなく、薔薇の透かしのはいった便箋らしかった。隅にはシルエットで、バレリーナの意匠。

「踊る人形……!」

 詩学の上げようとした声が、一足先に、史世羅のさくらんぼのような唇から発せられた。わずかに開いた口を閉じ、所在なさげにそっぽを向いた詩学を無視し、史は見開いた瞳で「ふむ、さすが221Bということか、これはまた……」とその便箋を矯めつ眇めつ、あるいは裏返しつつ、どこか嬉しそうに眺めている。詩学はその様子を見て、かの有名なシャーロック・ホームズの暗号譚に使われた絵を横目に確認する。有名すぎて、解法もすぐにわかる。答えは一瞬で出るだろう、と予測をつけたが、

「だが、知らない……」

 囁いた史世羅のせりふが、詩学を振り向かせた。

「この人形は、知らないぞ……?」

 大きな瞳を細め、並ぶ人形の一つを見つめている史に、詩学は思いついたことを提案してみた。

「じゃあ、知らないものを飛ばして読むんじゃないか。ほら、《たぬき》の暗号みたいに、古典的な文字抜きで」

「ふむ。きみにしてはいい線をいっている。喩えが美しくないがそこはまあ目をつぶろう」

 お前は何様だ、と毒づいた詩学に、史世羅さまだ、と事もなげに返し、史は目を細めて、陶器の指先で、薔薇色の人形をつうっと指でなぞり始めた。詩学はその姿から目を離す。これで、謎は解けるだろう。そうしたら、満を持して、この少女に延滞本を返させるのだ。

 ところが二人の意に反し、知らない人形を飛ばしてたどってみても、文章は全く意味をなさなかったのだ。

「違うではないか」

「俺を責めるなよ。……じゃあ、ほら、踊る人形本篇とは違う解法があるとか」「そんな美意識の低い暗号があるか」

 謂れのない非難を受け「俺が知るかよ……」とぼやいた詩学は、もう一度その少女趣味な便箋に目を落とした。

「……ん?」

 書き出しの人形に、ふと目を留めた。

 水で薄めたように、うっすらと、人形の背に、一対のなにかが描かれている。

 翅だ。蝶か、とんぼか、とにかくその類の。水色の絵の具を、細筆でサッと引いたような線だった。「史、この翅は」指さしながら、考え込んでいる少女に問うと、彼女は視線をそれに向けて「……翅か」と呟いた。そして、はっと目を見開いた。

「……薔薇の精」

 ぽつりと呟いた史は「あ?」と間の抜けた声をあげた詩学に「きみの言うとおりだ。《たぬき》なのだよ、これはやはり、文字を抜くタイプの暗号だったのだ」と、先程までの不満げな調子を一変させ、白かった頬を紅潮させて呟く。

「多少決め手にはかけるが、小道具に賭けてみよう。この手紙にも、意味があるはずなのだ……」

 花びらのような爪が、手紙の透かしの薔薇にふれた。指はその便箋の縁をなぞり、右隅のバレリーナに落ちた。

「それになにか、意味が?」

 史の行動に慣れてきた詩学が目敏くその様子に反応する。史は答えず、その絵を撫でた。

「そう、わたしの考えが正しければ、……この人形が、鍵だ」

 史は文章の序盤と終盤にそれぞれ並んでいる、体を右に傾け、両腕を頭の上で交差させたようなポーズの人形を示した。アルカイックな、シンプルな線だけで構成されたその薔薇色の人形が、レリーフのように浮き上がって見えた。

「このポーズは、現代バレエの名作薔薇の精を象徴するポーズなのだよ」

 へ? とバレエに疎い詩学のあげた声にも構わず、史は早口で独りごとのように続ける。「手紙であるのも、舞踏会の招待状を暗喩したものかもしれない。……洒落た趣向だ」

 なにが暗喩なのか、なにが洒落ているのか、ちっとも分からない。しかし、史の中で既に結論は出ているようで、詩学を絡め取るあのプリズムの瞳が、今はその暗号を映してきらめいている。

 詩学のもの言いたげな目線に気づいたのか、史は、手紙が挟まれていた本を高く掲げる。

「この小説のタイトルは〈さよなら妖精〉。これは、つまり《薔薇の精》のポーズをとった人形、それから、既存ではあるが、淡く翅の描かれた、妖精のような人形、このふたつを飛ばして読め、ということだ」

 詩学は目を瞬かせる。目から鱗だった。正しいかは分からないが、確かに筋は通っている、と思われる。わき目も振らず、人形の列と対峙し始めた史を見て、メモするものが要るかなと思ってカウンターから鉛筆とメモ用紙を一枚とってくる。一心不乱に読んでいる史の肩をつつき、手渡すと、史は虚を突かれたように一度まばたきして、「ありがとう」と受け取った。

 数分して、ほう、と史が感嘆に似た息をもらした。

 詩学が彼女の手元のメモ用紙を覗き込むと、そこには、アルファベットに翻訳された言葉たちが並んでいた。

《The Tomb of Wild Chrysanthemum》


 伊藤左千夫著、〈野菊の墓〉、英訳〈The Tomb of Wild Chrysanthemum〉は、ひどく見つけやすく、本来あるべき場所にきっちりと収まっていた。滅多に借りられないらしく、抜き出せば指先に薄っすら埃のつくほどだったが、簡単にそれを払って何かが挟まれていないかぱらぱらとめくる。

 詩学も何度も読んだことのある、矢切りの渡しの箇所で、史は頁を繰る動きを止めた。

「……単純な、と思ったが、そうでもないか」

 四つの単語を示しているらしい、踊る人形たち。解法自体は同じだろうが、史はメモ用紙にそれを解読していきながら「……《画題をお知りになりたくはございませんか》」と囁いた。

《人形狂いの奥方への使い》《冬寝室》《使用人の反乱》《青金石》

「ローマ字読みが正しいのなら、この三つで合っているはずだ」

「なんだよこれ。なんかのタイトルか?」

「銅版画だ」

 即答され、銅版画か、と詩学は頷く。芸術方面に疎いという自覚のある詩学は素直に「作者は?」と訊いたが、「強いていうのなら、山尾悠子」という史の歯切れの悪い答えに訝しげな表情をした。

「この三枚の銅版画は、架空の銅版画だ。……〈ラピスラズリ〉という小説に登場する」

 三枚? タイトルは四つだ。「最後の《青金石》は、」と訊こうとした詩学は、それがいかに愚かな質問かに気づいて口を閉ざす。

「ラピスラズリ、イコール、青金石。……間違いないな」

 頷いた史は、「行こうか」という風に詩学に視線を投げかけた。

 メモ用紙を手に、文庫本の棚へ向かう道すがら、詩学は三歩ほど先を歩く少女に問いかけた。

「この示されてる本をたどっていって、なにか意味があるのか?」

 詩学のことばに、史はおもむろに振り返った。「どういうことだね」

「だから、特に示されてる本になにかメッセージが託されているわけでもなさそうだし、連鎖式につぎつぎ別の本に移動するだけで、重要な秘密が託されているわけでもない。犯人がいるとしたら一体なんのために、こんなことを」

「答えはウサギにききたまえ」

 またも、意味不明の返しをされる。ウサギというのは先程の兎耳のどうたらという言葉に関係があるのだろうか。悶々としたまま、二人は文庫本の棚にたどりつく。閲覧用の机に面したそこは背表紙に光を受け、古いものは色褪せていた。

 棚の下の方で見つかった小さな文庫本は〈ラピスラズリ〉と題されている。著者は山尾悠子。暗号の示すそれは、詩学の見たことのない本だった。

「なんだ、きみ、読んだことがないのかね。……ロマンチストにはぴったりの本だぞ」

 ロマンチストじゃねえ、と脣を歪める詩学に、ディジタルを嫌悪する人間がリアリストであるものか、と史は嘯く。「澁澤龍彦やダンセイニなんかどうだ? 幻想文学そのものだ」無表情ながらも揄うような声音で言いつつ、本が小さいために一目で分かる暗号の隠し場所から紙を抜き取った。

 挟まっていたのは、地図だった。勿論印刷で、妖精事件の藁半紙と同じ藁半紙。古いヨーロッパのもののようで、よく見ると、国境線や国名が現在のものと異なる。二十世紀初頭のようだった。

 そしてその地図の、Switzerlandと書かれた位置に、見慣れてきたあの踊る人形が、いた。

 置き換え表が頭の中に入っているらしい史がすらすらと指で辿って読んでいくのを、詩学はただ黙って見ているしかない。スマホがあれば検索できるのだが、あいにく詩学はガラケーだ。これではただの影である。何かできないかと思案したが、結局なにも思いつかず徒労に終わった。

「I'm not afraid. I'm just hate it.」

 解読の終わったらしい史は、短い英文を流暢な発音で口にした。どこか歌うような口調と、語尾に溶け出したふしぎなアクセントに、詩学が眉をひそめるのも待たず、史は解読し終わったらしい暗号の地図を本から抜き出し、閉じて棚へ戻した。

「《死ぬのは怖くない――ただ嫌なだけ。》」

 ヘミングウェイ著、〈武器よさらば〉。

 はっきりと呟いた史の瞳は、水晶のように冴え冴えと深い色をしていた。

「ヘミングウェイは海外文学の棚だ。戻ろう」

 呆然としている詩学をおいて踵を返した史に、慌てて詩学は追いすがり、彼女に質問を浴びせる。

「一瞬じゃねえか。本当にヘミングウェイなのか? 他に同じ文の登場する話とか、そもそもあの一文が引用かなんて……」

「十中八九、〈武器よさらば〉だ。わたしは誉田哲也がそのような文を書いたかは知らないからな」

 意味のわからない史の言葉に、詩学は立ち止まる。それに、先に進んでいた史も足を止めた。「どうしたのかね、きみ」

「わけが分からねえよ」

 絞り出すような声に、史は無表情のまま、大きくまばたきをする。ぜんまい仕掛けの人形のようだった。

「俺にはまったく分からない。お前には何が見えてるんだ?」

 佇む詩学は問いかけた。まるで底の読めない史の瞳は不安と苛立ちを抱かせるに十分で、彼のこの問いかけにもそれは顕れていた。

 深い湖を思わせる瞳が瞼のとばりに閉ざされる。そうしてもう一度、その水面に詩学の困惑の瞳が映る。

 陶器に紅を引いたような小さな唇が、ゆっくりと動く。

「謎の答えというものはすべて、目の前に用意されてるのだ。……われわれ読者が、読み逃しているだけでね」

 言葉につまった詩学にあっさりと背を向け、「行こう」と再度促した史は、さすがに必要と感じたのかぽつぽつと解説を始めた。

「物語の終盤はスイスが舞台だ。そしてそこを死に場所とするキャサリン・バークレイの有名な台詞が、あの一文なのだよ」

 それだけでは大分弱い気もしたが、彼女には別の確信があるようだった。詩学は何も言わず、自分の胸のあたりまでしかない少女の後について行く。

 ぱらぱら、そろそろ飽いてきた紙が無造作に擦れる音がする。探し物が見つかっても感慨も薄くなってきた。慣れた手つきで紙を取り出した史は、「この作品をこんな風に扱ってはいけないのかもしれないな」と、先程〈ラピスラズリ〉から回収した地図と本を見比べ、呟いた。詩学は、ヘミングウェイの淡々とした語り口の戦争文学に目をやる。成程、小道具や背景のように扱っている今の自分たちは罰あたりなのかもしれない、と、思いつつも丁寧にそれを棚に戻した。史は既に、畳まれていた暗号に目を落としている。

「ラストシーンに挟まっていた」

 彼女に向き直った詩学にそれだけ告げると、「《Syndicate》…書籍名だと思われる」と、紙を差し出してきた。ひねりのない、中央の人形の列はもう解読されてしまったらしい。出る幕がないな、と詩学は嘆息した。翅つきの人形が、目に入る。まったく、この史世羅という少女こそ、まるで妖精のようなおかしな存在だ。

 貸し出しカウンターのコンピュータで検索をかけた結果ヒットした、〈シンジケート〉と題されたそれは歌集のようで、見慣れない筆名に現代歌人だろうと知れた。歌集の並べられている棚の前で、確か、少し前に佐古が借りていたな、と詩学は思いを巡らす。かるた部と言っていたが、短歌全般が好きなのだろうか。ぱらり、と頁を繰れば、目に飛び込んできた文字列は、《ハーブティーにハーブ煮えつつ春の夜の嘘つきはどらえもんのはじまり》。

 かるた部とはこういうものも読まなければならないのだろうか、うむ。三十一文字の世界は奥深すぎて覗き込むと引きずり込まれそうである。無言でページをめくった詩学は、すぐに不自然に開き癖のついた箇所を発見した。

《子供よりシンジケートをつくろうよ「壁に向って手をあげなさい」》

 どこか直感的な残酷さの漂う短歌のページに、大きく「?」の印刷された紙、そしてその裏側に踊る人形。有名な逸話を思い起こさせるデザインに、なぜか詩学の眉根が寄る。史はすらすらと人形を翻訳していき、ため息をついた。

「これはまた、随分と有名どころをもってきたものだ」

 《Les Miserables ABC》

 ヴィクトル・ユーゴーの古典大作の題名を見て、詩学は眉をひそめる。「レ・ミゼラブル……アー・べー・セー?」たどたどしくフランス語のアルファベットを読み上げる。史が「レ・ミゼラブルといえば、新潮文庫だな。いや、しかし……」思案げな史のほうを見やり、詩学は再度眉を痙攣させる。詩学は先程の使命をまだ忘れていない。そもそもの彼の仕事は、この延滞常習犯に延滞本を返させること、それだけのはずだ。

「新潮文庫版にはけして暗号を隠すことはできないはずだ。……国見詩学、きみ、この図書館に、他にレ・ミゼラブルはあるかね?」

 明確な答えを期待しない質問にしかし、詩学は首を振る。

「俺が断言する、この図書館には新潮文庫版以外の〈レ・ミゼラブル〉はない」

 仏頂面で腕を組んで、きっぱりと言い切った。目を細めた史に、「この俺自身が確認してる。〈レ・ミゼラブル〉と題された小説は、この図書館に、新潮文庫版、全五巻の、佐藤朔訳のものだけしかない」

 やけに自信たっぷりの様子に、史は頷く。

「だがしかしだね、きみ。この犯人がいつこの暗号を仕込んだのかは知らないが、ここまで広範囲に隠された暗号が一つも見つかっていないところを考えると、恐らく最近だろうよ。だとしたら、この暗号の作者は、新潮文庫版の〈レ・ミゼラブル〉に、暗号を仕込めるはずがないのだ」

「そりゃそうだな。お前がずっと延滞してるもんな」序盤の伏線をここで回収と言わんばかりに苦々しく告げた詩学に、素知らぬ顔で史は「返してほしいなら、さっきわたしが座っていた塔の中程にあるから、探したまえ。……とすると、この図書館にある〈レ・ミゼラブル〉は、他にない。強いて言うなら鹿島茂の〈レ・ミゼラブル百六景〉〈レ・ミゼラブルを読む〉などがあるが……」

 史がひとり呟いている間に、バベルの如き塔を漁ってダルマ落としの要領で目的の五冊を引き抜いて取って返してきた詩学が「いや、あるっちゃある」と、カウンターまで行って返却手続をしながら言った。そのあとをちょこちょこついて行って「どこにだね」と尋ねた史に、詩学はパソコンの画面に表示された延滞期間に目を剥きながら「その本が正しいかはわからねえけど……」と首を傾げた。

「御託はいいから教えたまえ。正しい正しくないはわたしの知性が判断する」

「お前の上から目線は身長が小さいからだと解釈しておく。……蹴るなよ! おい!」

 ふくらはぎを尖った革靴で蹴られつつ、詩学は史に述べる。

「この図書館に、〈レ・ミゼラブル〉はない。……だけど、確か小説だか古典だかの棚に、黒岩涙香訳の〈噫無情〉が、前後篇、あった」

「きみ、なぜそれを早く言わんのだね」

「いや、知ってるのかと。だから蹴るなって。革靴いてーんだよ」

「わたしとて人間だし、こう見えて存外本の好みは偏っている。把握していないものの方が多いに決まっている」

「はいはい」

 適当にあしらいながら、返却手続きを終えた五冊をカウンター脇に並べ、詩学は史を見下ろす。

「じゃ、行くか」

 こっくりと頷いた史の先に立って歩きだすのは、なんだか一矢報いた心持ちに等しかったので、少し得意な気になった。

「ABCってのは、十中八九、六月暴動の場面をさしてるだろう。だったら後篇だ」

 《シンジケート》っていう短歌のページに挟まってたのはなんか意味深だけどな、と言いながら、埃の被った古い書籍の並ぶ棚をあさる。現国の教科書で見る著者名の並んだ棚は古書特有の匂いと安らぎに満ちている。つい他の本を手に取りそうになるのを抑え、目的のものを探す。

「せっかく〈レ・ミゼラブル〉を読もうと思ったら誰かさんに借りられててねーから、仕方なくこっちに手を出したってわけだ。何が悲しくて漢字表記のジャン・バルジャンと格闘しなくちゃならないのか……」「きみ、後篇をとりたまえ」「自分でとれよ」「台を持ってきたまえ」

 長身の詩学は無言で後篇を引き抜き、両手をのばした史に渡してやると「ご苦労」とさっそくページを繰り始めた。程なくして「あったぞ」とさして驚いた風もなく、白い封筒をとりあげた。紅い蝋印を模したシールは、踊る人形のものと同じだが、シミひとつない真っ白な封筒と、中身の紺色のインクが異なっていた。

 ディナーへの招待状を模したと一目でわかるデザインに、Main dishの文字。そのすぐ下に書かれていた書籍のタイトルは、〈謎解きはディナーのあとで〉。確かめた史は詩学に向き直り、「きみ、これを読んだことは」「ねえよ」

 だろうな、と頷きながら「食わず嫌いはよくない。……今度、〈特別料理〉でも振る舞ってやろう」

 家にでも招待されるのかと思ってぎょっとした詩学に、エリン・スターリン著だ、と返し「羊は好きかね?」と振り返って問うた。首を振った詩学に「魂をのぞき込むような味がするというぞ」と謎めいた文句を残し、史は手紙に戻ってしまう。彼女が古今東西の文学作品に由来する冗句を口にするのは解ってきたが、元ネタをそもそも知らないのでは意味がない。なんだか悶々とした気持ちで詩学はその紙を覗き込む。「入口のところに並べられていたはずだ」史は言い、図書館の奥の方にある文学の棚から、新刊やお薦めの本が置かれているカウンター近くへ移動することにした。

 はたして、史に見せられたポップなイラストが表紙の書籍に、詩学の頬がぴくりと痙攣する。帯に書かれたあらすじはひどく娯楽性に偏った内容で、「キャラもの」という印象が強く残った。しかもこれが「お薦めの本」の棚に平で置かれているのも気に食わない。日本の出版業界は世も末か、と頭の固い爺のようなことを垂れ流し始めた詩学に「そう言わず一度読んでみたまえ。ジーヴズを彷彿とさせて面白いぞ」と史は返しておく。その指先には既に、取り出された例のものが摘ままれていた。

 風車のかたちに折られた千代紙。模様も橙の地に赤や黄色で風車が描かれており、徹底していた。風車の文様の千代紙の裏には、短く毛筆の《カジマヤー》という文字と、折り紙の中にさらに折り畳まれていた紅色の紙には、薄墨と毛筆を使い分けて、イラストが描かれていた。薄墨の、ぼんやりと靄でかたどったような、人にも建築物にもみえる大きな黒い形に、毛筆で描かれた、けしてうまくはないが、愛嬌のある甲冑をつけた騎士らしき人物の絵。どこかでその騎士に見覚えがあるような気がして、詩学は首をひねったが、答えの出る前に、史はその折り紙を畳んでしまった。

「風車を巨人と勘違いして戦いを挑む騎士。次の本は〈ドン・キホーテ〉だ。――そして恐らく、最後の本だろう」

 妙に断定的な口調に、詩学は無駄と思いつつも反駁を試みる。

「確かに言われてみればそう見えるけど、どうしてそんなことがわかるんだ。大体、次が最後の本っていうのも、どうして」

「手がかりは既に出ている。気づかないのかね」

 どことなくもどかしげに言う史に、不満ながらも詩学は口を閉じる。なんだよ手がかりって、と内心ぼやきながら、とりあえずどうしてドン・キホーテに辿り着いたかの説明を乞うたが、史がすらすらと喋りだしたのはなぜか違うトリビアだった。

「カジマヤーという祭がある。沖縄の風習だ。九十七歳の老人を言祝ぐ祭りで、風車が飾られる」

「いや、俺はどうして〈ドン・キホーテ〉なのかを知りたいのであって」

「いいからききたまえ。カジマヤーの漢字表記は、」

 風車祭。

 宙に指で書きながら史が言った単語に、しかしなおも詩学は首をひねった。その様子を見てから、「……きみ、この本を読んだことはないのだったね」と史は〈謎解きはディナーのあとで〉を掲げてみせた。頷く詩学に、彼女はかぶりを振り、

「ならば積極的ネタバレは控えておくが、この小説には、約三人のメインとなる人物が登場する。主人公である宝生麗子、その執事である影山、麗子の上司の警部、この三人だ」

 指を三本のばし、史は語る。「この風車がはさまっていたページは、三人目の、主人公麗子の上司が登場するシーンだ」

 読みたまえ、と、そのページを開いて、史は詩学に促した。

「ちなみに本編を読む際に特別支障はないから言っておくが、その上司とやらは、所謂〈迷推理〉ポジションなのだよ」

 文字列を目で追っていた詩学の顔色が、すっと変わり、ゆっくりと目をあげた。真っ直ぐに史の目を見据え、少し震える声で、「…………まさか」と言った。史は腕を組み、指先でつまんだ、絵の描かれた紙片を彼の目前に示した。

「暗号とは得てして駄洒落が多いものだ、きみ」

 表紙のイラストにも描かれている、風祭という名の警部によく似た騎士の絵に、詩学は天を仰いだ。


 しのぶセンセにさよなら。

 さよなら妖精。

 野菊の墓。

 ラピスラズリ。

 武器よさらば。

 シンジケート。

 噫無情。

 謎解きはディナーのあとで。

 ドン・キホーテ。

 カウンターの上に並んだ書名をひとつひとつ確認し、詩学は難しい顔をする。今日出逢ったばかりの少女、史世羅とたどってきたこの謎の顛末は、果たしてどこへ帰着するのだろう。史の予想は正しく、〈ドン・キホーテ〉には暗号の類いは挟まっておらず、そこで終いのようだった。

 史は、その手に、あのアルファベットの書かれた藁半紙を掲げる。

「さあ、手がかりはすべて出揃った――読み逃しはないか?

 これから、謎解きを始めよう」







            「解答篇へ続く」To be continued.

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