4 胎児のごとく蠢きて

 翌日、司書は王へと進言する。


 文字とは、文字の霊の屍骸。

 その残滓が辛うじて意味を象るのみ。

 ゆえに、人によって文字の定義に差が出てしまう。

 皆それぞれ異なるものを頭に描き出してしまう。


 大王の望む図書館では、何物も残すことはできない。


 文字の霊とは頭に巣食い、言葉に乗って自由気ままにたゆたうものであろう。

 それをとどめて残すなど、どだい無理な話なのだ。


 アッシュール・バニ・アプリ大王、これを聞き激怒した。

 書記の神ナブーの信奉者である大王にとって、文字の否定など受け入れられるはずがない。

 その激怒たるやすさまじいもので、すぐさま司書は皮剥ぎの刑に処された。


 これが文字の霊の指図によるものかは、明らかでない。




   *



 

 石造りの部屋の中、手枷をはめられた司書が座り込んでいる。

 ただ虚しい想念が彼の頭蓋を満たす。


 私の名は刑吏の帳簿に文字として残るだろう。


 だが、それだけだ。


 私に妻や子はいない。

 親もとうに死んだ。

 友人も多くはない。

 

 例え私の名が文字として残っても、その文字から私を思い起こす者はいないのだ。

 私の擦り切れた指を、しきりにしばたくくぼんだ眼を、低い鼻や赤らんだ頬を、文字の霊は象ってくれない。


 すなわち、


 文字は残るが人は死ぬ。そこに託された意味も、やがて消える。


 それもまた、文字が屍骸であるがゆえ。

 文字の霊の力を失ったがゆえ。


 もし文字の霊の力があれば、たとえ私が死に、私を知る者全てが絶えても、


 粗野な声と共に刑吏が扉を開ける。

 司書を引き立て歩き出す。


 刑吏に引かれて歩く中、司書は廊下に転がった粘土板を目にする。

 縁が欠け真っ二つに割れているが、それでもいくらかの文字は読み取れた。


 ああ、これが文字。

 文字の霊の屍骸、言うなれば墓標。

 それによって死ぬ私とは。


 死が刻々と迫る中、司書はあることに気付く。


 私は文字を文字として認識できる。

 同様に、文字の霊という存在も認識できる。

 姿形は見えないが、その存在を理解し思考することはできる。


 文字の霊は存在を象るが、ならば「文字という存在」を象るものとは?

 文字の霊を生み出す源とは?


 気が付くと、刑吏の足が止まっていた。

 辺りにはおどろおどろしい器具の数々。

 これから司書にあてがわれ、その身を切り裂く凶器である。


 目を覆われ、ゆっくりひざまずく司書。


 黴の匂いに生臭さが混じる。

 そのおぞましい臭気を意識しないように、司書は徐々に愚鈍となっていく。

 とがれる刃の高い音や、冷たい床の感触も、司書の体から追い出されていく。

 自らの死期をようやく実感し、司書の意識は遠のく。


 束の間、司書の頭を過去の断片がよぎる。

 それは徐々に遡り、彼を原初の記憶へといざなう。


 そして最後に現れたのは、愛しい母の面影。


 その時、赤子となった彼の口から「mamaママ」という響きが漏れ出た。


 その音が何を意味するのか赤子にはわからない。

 ただ生得的に、赤子の口はそういった音を出しやすいだけなのだから。


 けれど、その音を聞いた時、彼の中で何かが生まれた。

 ほんのわずかな二音の連なり。


 彼はそれを、美しいと感じたのだ。


「ああ、そうか」


 文字は残るが人は死ぬ。そこに託された意味も、やがて消える。


 だが、文字が持つは不滅だ。

 楔の連なりが持つ造型や、口から発せられる文字の音は消えない。


 それを記す者、発する者が消えようと、文字の形は在り続ける。

 例え意味がわからずとも、その幾何学的な形の整然さを、もしくは呪文のような音の美しさを、人は認識してしまう。

 そうして心動かされる者がいるだろう。


 託された意味が消え物語が変質しようと、文字は文字としての美しさを持つ。

 何ら意味を読み取れずとも、人はその規則性を見出し、「


 人は言語という器官を発達させた、唯一の霊長である。


 人が在る限り、文字が持つ形だけは滅びないのだ。


 その真理を見出した直後、男の体を激痛が駆け抜ける。

 肉と皮が剥がれる感触に耐えきれず、男は大声で叫ぶ。

 彼の知る限りの言葉を、あらん限りの声量で。


 その叫びは全く意味が通らない。

 苦し紛れに、脳裏をよぎった文字を声に出しただけなのだから。


 だが。

 

 喉が裂け血を吐きながらも発した音は、それでも文字だった。

 それを耳にした人々は、その絶叫が文字であると認識してしまうのだった。


 彼の音の連なりは空気を震わせ人々の耳へと至り、目や口や手を侵す。

 その頭蓋には新たな文字の霊が宿り、胎動し、やがて文字を産み落とすだろう。


 文字の霊は人々をゆっくりと蝕む。

 そして、媒介となった者を忘れない。


 血を流す男の目に、文字の霊の微笑みが見えた。




   *




 その後、アッシリアは戦乱の時代を迎える。

 ニネヴェの都は戦火に焼かれ、その熱が粘土板を焼き固めた。

 それらは土中深くに没し悠久の時を眠りにつく。


 時は流れ一八四九年、イギリス大使館員オースティン・ヘンリー・レヤード博士はニネヴェのシン・アヘ・エリバ王の宮殿がひとつ、南西宮を発掘する。

 彼の助手も後に続き、アッシュール・バニ・アプリ王の宮殿を掘り起こす。


 ニネヴェの図書館、すなわち「アッシュール・バニ・アプリアッシュールバニパルの図書館」発掘である。


 この発見によりオリエント史の解明は飛躍的に進む。

 焼き固められた粘土板は当時のアッシリアを如実に描き、多くの史実や伝説が明らかとなる。

 その成果はあらゆる言語に翻訳され、世界中の人々の知るところとなった。


 蘇った文字はレヤード博士の論文の中で、その成果を報じる新聞の中で、記事を見聞きした人の頭の中で、新たに編まれるブリタニカ百科事典の中で、かつての文豪のペンの中で、古典となった小説の中で、Wikipediaのアッシリア史の中で、アッシュール・バニ・アプリ大王の威光を示し続ける。


 文字の霊は不滅である。

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ニネヴェの司書 島野とって @shimano2016

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