起(5/5) 4,325字

 黒は現実の在り方に対する諦観を抱く色である。白、緑、赤、青の四色が世界を在るべき姿へ変えようと血道を上げている中で、黒だけは目の前の現実を直視し、この冷酷で無慈悲な現実をどう生きていくか、自身の理想をどう実現するかだけを考えている。現実は現実、それを変えることはできない。果ての見えない現実の中で、自身の何と小さなことだろう。代償の多寡にかかわらず、あらゆる可能性を見出さなければ生きることすらままならないことを黒は知っている。

 黒には他の色に勝る特徴が二つある。

 一つは他のどの色よりも現実を受け入れているということ。黒は、現実がどのように構成されているかを熟知している。現実はただ強欲で、只管に弱者を淘汰する。自身が弱者であれば、他人、自分、法、倫理、生と死、あらゆるものを利用する。自分が強者であれば、それらをより簡単に利用できる。他の色が出来ない理由を探している中で、黒だけが自分に出来ることを探している。この世に、舐められない靴は無い。黒だけが、他人の思い込みを粉砕できる。

 もう一つは、手ずから雑巾で拭き掃除をすることに一切の躊躇を持たないこと。放っておいても手助けしても、いずれ奪われ朽ちゆく存在ならば、せめて使い潰して捨てるが正しい。黒にとって命が誕生し潰える過程は、不幸にもお気に入りの服に醤油をこぼし洗濯も虚しく雑巾へと身を窶す過程に等しい。故に黒は積極的に雑巾を利用する。雑巾で、目の前の塵芥を丁寧に排除し、汚水を川へ垂れ流す。仕方がない、現実がそのように出来ているのだから。不幸な事故は、早ければ早いほど良い。


 伊豆見は、黒い。腹黒いだとか、性格を揶揄しているわけではない。伊豆見はどう実現するかよりも、何を実現するかに価値を置く。分からないことがあれば自分で学ぶか、分かる人間を探せば良い。自分の動機を妨害する人間がいれば排除するか、距離を置くべきだ。人生は、何もしなくても短い。やりたいことがあれば、なおさら短い。出来ない理由とにらめっこしている暇はなく、どうにもならない相手からは逃げれば良いのだ。時間がない、金がない、遠い、面倒くさい、分からない、挙げればキリのない出来ない理由に束縛され壊死する人間を、伊豆見は嫌というほど見てきた。

 全ての人間は皆優秀である。使えない人間など存在しない。皆、少なくともある一点において自分を上回る能力がある。というのが、伊豆見の人間観であり、今のところこれが否定されたことはない。

 と言っても、現代社会で完全に黒い人間などいない。単一の思想に染まった者を、人間とは呼ばない。あらゆる決断に際し、意識的か無意識的かを問わず、躊躇いを含むこと、それが人間の条件である。人間は、人間が考えているほど秩序立ってはいない。人間の本質は混沌にある。過去と現在の一貫性の否定を成長と呼び、肯定を信念と呼ぶ。人間は、これら二つを胸中に同時に内包している事実を否定することが出来ない。人間はいつだって、心理的に、倫理的に、道徳的に、どちらかの肩を持つ。伊豆見は、この種の葛藤において、中庸を取る人間であった。


「君は盤面に気を使いすぎだね。遊兵とそうじゃない駒の区別が甘い」


 敬春が対戦の合間に休憩していると、チャット画面に伊豆見からのメッセージが表示された。一戦目は序盤の身投げが上手くハマり、伊豆見と敬春のチームの圧勝だった。その後も伊豆見と敬春のチームは勝利を重ね、この日のチーム戦は大きく勝ち越した。

 対戦している間、伊豆見は要所要所で指示を出し、また敬春の質問に答えた。何故この駒を無視するのか、相手の手札から追撃が来ない根拠は何か、伊豆見は敬春が納得するまで指示の根拠を丁寧に説明する。膝を付き目線を合わせ好奇心旺盛な子供の声に耳を傾ける母のような伊豆見の姿勢は、ここ数日敬春を一対一で無言のまま蹂躙していた姿とは対照的だった。

 クリエイティブ・ウォーでは手番の間に全ての駒を動かせるわけではない。従って、相手の駒を盤面から完全に除去してしまうより、盤面の端へ追いやり相手の駒を争点とは無関係な地点で遊ばせてしまう方が強力だ。敬春はようやく、自身のプレイングの弱点を自覚した。敬春は、端で遊んでいる駒へわざわざちょっかいを掛けるせいで逆転を許しているのではないか、と思い至る。


「たいっへん、勉強になりました」

「ふふん」


 敬春は悔しさを隠すため、若干の皮肉を込めた文章をチャット画面へ打ち込んだ。人の悪意に鈍感な伊豆見には伝わらなかったかもしれない。彼は発言を文字通りに解釈してよく他人を困らせているのだから。


「このゲームに限ったことじゃないけど」

「はい」

「どんなことであれ、何回死ねるか? は第一に確認すると良い」

「は?」


 唐突に、伊豆見が話を切り出した。敬春にはそのメッセージの意図が分からない。


「つまり、どんな負け方だったら立ち直れるか、を自覚しておくのが愉快な人生を送るコツだ。一度でも負ければ死ぬ、と思い込んでいる人が多いからね。負けることを極端に恐れる人は、敗北から得られるモノを軽視している。それを利用して勝てるのは、強さの証だ」

「何の話ですか、いきなり」

「まぁ、君のプレイングは酷いもんだけど、どう酷いのかは分かってもらえたと思う。今はそれで十分だ。君には僕のように強くなってもらわないと、困るから。じゃあ、またね。おやすみなさい」

「え?」


 敬春がメッセージを返す前に、伊豆見はオフラインになってしまった。敬春は問い質す機会を失い、糸の切れた凧のように漂う言葉を反芻する。

 僕のように強くなってもらわないと困る、と伊豆見は言った。レジェンドランクともなると、ネット対戦とは言え相手も代り映えしないのだろうか。しかし伊豆見は、困る、と言った。退屈する、とか、つまらない、ではない。ログを何度見返してもはっきりと、困る、と書いてある。マッチングのアルゴリズムは分からないが、同レート帯であってもフレンド同士がマッチングされることはあるのだろうか。八百長のリスクを考えれば、その可能性は低そうだ。では伊豆見は何に対して、困る、と言うのか。

 ぐっと背を伸ばして部屋の掛け時計を見れば、既に日付が変わっていた。少し遊びすぎたな、と敬春は自省しながら就寝の準備を始める。


 寝間着に着替え終わり、さて布団に入ろうかという際になって、ディスプレイの端が点滅していることに敬春は気づいた。億劫そうな動作でディスプレイまで移動し、電源ボタンに指をかける。一瞬だけ通知を確認すると、メッセージの主は伊豆見であることが分かった。見てしまったものは仕方がない、と敬春はメッセージを開く。


「いや、今朝の君は何だか変な顔をしていたからね。少しだけ、気になった。君がどんな悩みを抱えていたのかは分からないしどうでもいいけど、君のそんな顔を見るのは、嫌だ。だから、少しだけ。自分は何に対して腹を立てるか、を出来るだけ具体的に自覚しておくんだ。緩い条件で腹を立てて、何にでも文句を言うのは疲れる。条件を厳しく設定しておけば、世の中の多くを他人事のように捉えられるし、身近なことでも冷静に眺められるようになる。心の凪は維持できる」

「覚えておきます」


 ありがとうございます、とは言わなかった。ただ、敬春はそれだけを返して、ディスプレイの前で硬直していた。

 きっと彼は、彼女を気遣っているわけではない。その感情は、ゼロではなくとも、限りなく小さいはずだ。彼はいつだって、己の感情に従って、物事を判断する。きっと、今朝の彼女はどうしようもなく不機嫌な顔をしていたのだろうし、それを隠そうともしなかったのだろう。そして、彼はそんな彼女を見て不愉快に感じていた。しかし彼には、彼女に巣食う負の感情を取り除く術はない。それどころか、その感情の名前さえ知ることが出来ない。彼は彼自身のために、彼の視野から悪霊なるものを除くために、彼女に処世術を伝授したに過ぎない。こうやって祓うのだ、と陰に陽に彼女に伝えるため彼は声を掛けたのだろう。

 自覚せねばならない。これは好意でなく、苦言なのだ、と。

 他者の凪を乱した人間への忠告として、彼女は彼の言葉を解釈した。

 魂は観測の総算である。故に、彼と彼の魂の在り処は必ずしも一致しない。その所在を定めることは、言葉を、現象を観測し、配列から規則性を見出す者の特権だ。

 五分ほど待つものの伊豆見からの返事はなかった。ディスプレイの電源を落とし、敬春は長い夜を終えて床に就いた。


 人格は、繰り返す行動の総計である。それゆえに優秀さは単発的な行動にあらず、習慣である。

 かつてギリシアの哲人はそう言った。

 魂は、反復する病によって規定される。腕組みをすると、どちらの腕が上になるか、脚組みでは。緊張した時、どこに視線が向かうのか。風呂で初めに洗うのは。鬚はどの部位から剃り始めるか、歯はどうか。初対面の人との接し方に癖はないか。それは距離が近づくに連れてどう変化するか。壁にぶつかった時、迂回するか、登り詰めるか、突破するか、それとも頭を垂れるのか。髪が伸びたらどうする、慢性的な病だと諦めるのか。空腹もまた病だと、開き直るつもりか。

 現象の配列こそが、魂だ。どんな外的刺激もニューロンの発火を通してしか認識できない以上、感動は、オシロスコープで観測可能な、魂の波形だ。


 魂とは何であるか。

 魂、とはどういった状態を指す概念なのか。

 即ち魂とは電圧である。概念の流通を電流とするならば、その過程で取引される電子を言葉と呼ぶ。抵抗器は道徳で、コイルは会話だ。言葉の造形に固執するのではなく、本質的に流通されるものこそ観察の対象であるべきだ。観測を通して、僕は魂の実存を確信する。


 我々が他者に肉体の所有権を明け渡す時、それは魂の要請に基づく。魂の生存本能に、僕達は逆らえないように出来ている。逆らった個体は皆、淘汰された。

 左右から腕が一本ずつ、その末端に指を五本。口づけの要諦は、重ねて絡めて離すだけ。僕の遺伝子が僕をそう規定するのと同じように、道徳や良心も遺伝的に獲得された形質に過ぎない。

 自我は魂の下に配置された、魂の要請を実行する器官だ。自我がどれだけ反逆しても、自発呼吸は止められず、胸の拍動も止みはしない。不快な入力をどこにも吐き出せずに、溜め込んで、壊れるために自我は在る。魂がそうあれと言うのだから仕方がない。

 従わない個体は、淘汰された。魂は、人類史の側溝に野晒しにされ膿んで腐って蝿の集ったぶよぶよの肉塊の上に、立っている。その下に、自我は埋まっている。桜の森の満開の下には、逃げだしたくなるような静寂がはりつめて、妖艶な死体が埋まっている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

自壊する肉塊 @Akatsuki-No-9

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ