第5話

「まーくん!」


 「養殖場」に戻ったぼくを待っていたのは、二姉の柔らかい腕だった。二姉は膝を汚してぼくを抱きしめると、涙ながらにぼくに尋ねる。


「心配したのよ。どこに行っていたの?」


 背後で扉ががこんと閉まる。ぼくを睨みつける視線が途絶える。ぼくの目に一気に涙がたまった。


「二姉。一姉が」


 しゃくり上げながら、二姉に今日あったことをなんとか伝える。そうしているうちにぼくの泣き声に気付いたのか、他のおねえちゃんたちもわらわらと集まってきた。


「そう。でもまーくんが無事でよかった」


 ぼくの髪を撫でながら、二姉が言う。心底安心したと言わんばかりの声色に、ぼくは違和感を覚えて二姉を見上げた。二姉は微笑んでいた。


「二姉。一姉が死んだんだよ、悲しくないの?」


 おねえちゃんたちを見回す。笑顔だ。固めたような笑顔。皆、二姉と同じように、微笑んでいた。


「悲しいよ、でも私たちの一番はまーくんだから」


 おねえちゃんたちは笑んだまま、ぼくの周りにじゃれついてくる。体を抱き寄せ、髪を撫ぜ、ぼくを必死で慰めようとしてくる。

 それがぼくのおねえちゃんだ。おねえちゃんたちの本能だ。

 まーくん、まーくん。

 おねえちゃんたちがぼくを呼ぶ。

 ぼくたちの家の庭に、お墓が一つ増えた。




 土手の道に沿うようにして、彼岸花が咲いている。嘘みたいに鮮やかな赤色が寒空に映えている。ぼくは土手に寝転がって、ゆらゆらと揺れる彼岸花を見つめていた。


「まーくん。こんなところにいたら風邪ひくぞー?」


「三姉」


 青と赤を映すだけだった視界に、急に三姉の顔が現れる。三姉は悪戯っぽく笑みながら、ぼくの隣に座った。ぼくは体を起こした。


「ずいぶん寒くなってきたね」


「うん」


 北から吹いてきた風にぼくたちは震え、身を寄せ合う。三姉の指先がぼくの手に触れる。


「まーくんはあったかいねえ」


 ぼくの手を包み込んだおねえちゃんの指が、ぼくの指に絡まり、もてあそばれる。

 抗議しようと唇を尖らせたぼくは、おねえちゃんが思いつめた顔をしていることに気がついた。


「……たまにね、まーくんを独り占めしたいって思うことがあるんだ」


 ぽつりと、呟かれた言葉。


「だってまーくん、いつも一姉や二姉のところにいるんだもん。私だってまーくんと一緒にいたい!」


 激しい語調とともに拳がきつく握られる。三姉の指がぼくの手に食い込んだ。


「ほんとはね、一姉がいなくなったって聞いたとき、ちょっとだけホッとしたんだ。……悪い子だよね、私」


 そう言うと、三姉はぼくの隣で膝を抱え込んだ。膝の上におでこを乗せ、丸まった。


「大丈夫だよ」


 三姉が顔を上げる。三姉の手を、ぼくは握り返す。


「ぼくはずっと一緒にいるよ」


 自然とそんな言葉が出た。一姉の顔が思い浮かんだ。三姉は驚いた顔をした後、いつものようにニッと笑った。


「約束だよ?」


「うん」


 それが、出荷の前日のことだ。



 おねえちゃんたちは手枷をつけられて、「養殖場」の外に出る。生まれて初めて見る外の世界の景色に、おねえちゃんたちは物珍しげだ。白衣の男たちはそんなおねえちゃんたちを追い立てて、出荷場へと連れていく。ぼくはその後ろを無言でついていく。


 灰色の通路は永遠に思えるほど長く続いている。おねえちゃんのローファーが床を蹴る音がかつんかつんと響いている。ぼくの小さな足音がそれに続いていく。

 どこに連れていかれるかも知らずに幸せそうなぼくのおねえちゃんたち。


 これでいいんだ。

 おねえちゃんたちには笑顔さえあればいい。ぼくは鈍る思考の中、目を伏せる。

 くすくす、くすくす。

 さざめく声が聞こえる。もうすぐ絞められて潰れてしまう喉で、おねえちゃんたちが笑っている。

 耳を塞いでしまいたい。ぼくにはそんなことさえ認められていない。


「『弟』、お前はこっちだ」


「はい」


 カルテを持った白い男に呼ばれ、その後をついていく。ぼくは振り返らない。背後から、まーくん、と追いすがる声が聞こえた。



 いつも通り衣服を脱ぎ去ったぼくの肌の上を、念入りに男たちの指が這っていく。今日はおねえちゃんの出荷日だ。おねえちゃんたちの大事なお披露目の日だ。

 ぼんやりと床を見ていると、乱暴に頬をつままれ、上を向かされた。


「笑え。今日は大事な日だぞ」


「はい」


 口角を上げ、目を細める。幸せそうに見えるように。教えられた通りの笑顔を顔に貼りつかせる。


「気味が悪い奴だ」


 そう吐き捨て、男は苛立たしげに靴を鳴らしながら部屋の外に出ていく。

 消毒液の霧が噴出される。ぼくの全身に冷たい液体がしみ込んでいく。ぼくは髪をかきむしり握りしめる。口を開いて声なき声で叫ぼうとする。喉を潰されたおねえちゃんの悲鳴が聞こえる気がする。ぼくはようやく耳を塞いだ。

 しゃがみこんだぼくの全身から消毒液がぽたぽたと垂れる。そのうちの一滴が目の中に入り、涙になって零れ落ちていく。


 いつも通り壁から現れた子供用の礼服に袖を通す。ぼくのためだけに誂えられたそれは、寸分の狂いもなくぼくの肌にぴったりとはりついてくる。

 靴を履き、襟を直していると、黒衣の男たちが部屋に入ってきた。


「行くぞ」


「はい」


 男たちに続いて部屋を出る。今日向かうのは「動物園」ではない。おねえちゃんたちの出荷を見届けなくてはならないからだ。過去に何度も通った特別な通路を歩いていく。出荷場への道。ガラス張りの遊歩道。ガラスの向こうに広がっているのは真空の世界だ。


 おねえちゃんたちの乗ったポッドがゆっくりと下ろされ、そのドアが開かれる。おねえちゃんたちは辺りを不思議そうに窺いながら、ゆっくりと真空の世界へと足を踏み出していく。出荷場には重力もなく、おねえちゃんたちの髪はふわりと膨らんだ。

 最初は突然無重力に放り出されて戸惑っていたけれど、おねえちゃんたちはすぐにぼくを見つけた。たどたどしい足取りでおねえちゃんたちは近づいてくる。


 ガラス張りの通路に立つぼく。ガラスの向こう側で無重力にスカートを揺らすおねえちゃんたち。

 行ってしまった、とぼくは思う。こうなればもうおねえちゃんたちは戻ってこれない。おねえちゃんたちはもうあちら側の住人だ。

 二姉はぼくたちを隔てるガラスに近づくと、名残惜しそうにガラスを撫でた後、自らすすんで宇宙空間へと飛び出していった。四姉と五姉も、ガラスにそっと額を当てたあと、二姉の後を追った。

 最後に残ったのは三姉だ。

 三姉はぼろぼろと泣いていた。隣に立つ黒衣の男が舌打ちをする。三姉の流した涙が無重力にさらわれて、ぷかぷかと宙に浮かぶ。形の良い唇が、や、く、そ、く、と動く。

 ぼくはそんな三姉に微笑んでみせる。我ながらうまく笑えたと思う。


 大丈夫だよ。ずっと一緒だよ。

 むずかる三姉をそうやって宥める。

 大丈夫だよ。大丈夫だから。


 三姉はぼくの笑顔をじっと見ると、ごしごしと目をこすって、いつも通りにニッと笑った。そしてそのまま二姉たちの後を追って、黒く寂しい宇宙へと身を投げた。




 大水槽の前にぼくは引き出される。大水槽の向こう側には果てしない宇宙ばかりが広がっている。観客たちは常よりも多く、これから始まるショーに心躍らせていた。

 それでもぼくがすることはいつも一つ。


 おねえちゃん。


 ぼくの呼び声に二姉が振り向いた。四姉と五姉が連れだって近づいてきて、その後ろで三姉が喜びもあらわに口を覆う。元から水槽にいた『金魚』たちも腕を広げたぼくにわらわらと近づいてくる。


「皆様ご覧ください!」


 黒衣の男が声を張り上げる。ぼくのおねえちゃんたちを指す。


「今年出荷の初物ですよ!」


 おねえちゃんたちは喜びを全身で表す。セーラー服をはためかせ、スカートを翻し、宇宙を自由に飛びまわる。

 まーくん、まーくん。

 おねえちゃんたちがぼくを呼ぶ。



 ぼくのおねえちゃんは『金魚』になった。

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