彼岸の金魚
黄鱗きいろ
第1話
ぼくには今、六人の姉がいる。
ヒグラシの鳴く声が部屋の中にまで入り込んでくる。正座した足にじりじりと畳の跡がついていくのを感じる。開け放たれた引き戸の向こうは縁側に続いており、かすかに残る夏の匂いが漂ってきた。
「どう、まーくん? 宿題は終わった?」
「
見上げると長い黒髪を一つに縛った、白いセーラー服の女子中学生が逆さまにこちらを覗き込んでいた。
「うーん……」
「ああー。まだ一問も進んでないじゃない。さてはサボってたなー?」
そう言うと彼女は拳骨を僕の頭にぐりぐりと押し付けてきた。痛いよ、と悲鳴を上げながらもぼくは半分おかしくて笑っていた。
優しいけれどちょっと厳しい。彼女が一姉だ。
「あらまあ、一ったらまーくんをいじめちゃだめよー?」
白セーラーに黒襟の少女が、縁側から上がってくる。その胸は兄弟の中で一番豊満で、ぼくは彼女に抱き着くのが大好きだった。
「
「あらあら。まーくんは甘えんぼさんね」
飛びついたぼくの頭を、二姉は何度も優しく撫でてくれる。
「こら! そうやっていつも
えへへ、とぼくは舌を出して笑う。叱ってくれるのが一姉なら、甘やかしてくれるのは二姉だ。
「あー、ずるーい。二姉ばっかりまーくんを独り占めしてー」
「
黒セーラーに長いスカートの少女が、履いていたローファーを蹴り飛ばしながら、縁側に上がってくる。
「そーれ。抱きしめ攻撃だー!」
「あらあら」
「三姉暑いよー」
きゃあきゃあと笑いながら、ぼくたちは体を揺らす。一姉は叱る気も失せてしまったようで、「もうすぐごはんだから、みんな手を洗っておいでね」とだけ言い残して台所へと去っていった。
「なになに楽しそうなことしてるじゃん」
「楽しそう……」
「
お揃いの黒セーラーに膝上のスカートを履いた二人が、駆け寄ってくる。二人とも一姉や二姉に比べて背が低く、女子中学生的に言うなら、中学一年生のような恰好をしていた。
「あたしたちだってまーくんと遊びたいー!」
「ずるーい」
高いテンションと低いテンションで交互に責められて、ぼくはおかしくなってきゃらきゃらと笑った。
「やっちゃえ、
「合点承知」
言うが速いか、五姉がぼくの体を押さえつけ、四姉がこちょこちょとくすぐり始めた。なんて連係プレーだと感心する間もなく、ぼくの体は二人の攻撃に晒され、ぼくはくすぐったさに体を折り曲げて笑い出す。
いつに終わるともしれない攻撃を止めたのは弱弱しい少女の声だった。
「だ、だめだよ、喧嘩しちゃ……」
「
六姉はぼくのおねえちゃんの中で一番背が低い。長袖の制服も裾がだぼだぼで、制服に着られているようなありさまだった。だけど六姉の肌は兄弟の中でも一等に白くて、ぼくは自分のことでもないのにそれが誇らしかった。
「いただきます」
手をそろえて、ぼくたちは言う。直後、かちゃかちゃと食器の触れ合う音が響きだした。
「今日は西の方で花火が上がるんだって! あとでみんなで見に行かない?」
みんなで食卓を囲みながら、三姉が提案する。今日のメニューはから揚げだ。
「折角だから浴衣も着ちゃおうか」
二姉がうきうきと同意する。
「夜にまーくんを外に出すのは不安だけど……。私たちがいるならきっと大丈夫よね」
一姉からの許可も出た。
「やったあ! 夜遊びだ!」
「夜遊び、夜遊びー!」
「わくわく」
三姉、四姉、五姉がハイタッチをする。六姉も静かに喜んでいるようだった。
一姉たちが食器を洗う音が聞こえる。銀色のシンクに置かれたプラスチックの桶の中。そこに積まれた食器に、水道水が当たっている。
「まーくんは浴衣着るのはじめてよね」
二姉は古びた箪笥の引き出しから、几帳面に畳まれた浴衣を取り出してきた。紺色に縦縞が入った大人っぽい浴衣だ。
「ほらほら、着せてあげるからこっちおいで」
三姉に手招きされるままに駆け寄ると、掛け声とともにほぼ強制的に両腕を上げさせられた。
「はい、ばんざーい」
Tシャツが乱暴に抜き取られ、巻き込まれたシャツがおなかの辺りでくるくると丸まった。ぼくは不満で唇を尖らせる。
「一人で脱げるよ」
「ええー。ほんとかなあ?」
ニヤニヤと笑む三姉にそっぽを向いて、浴衣を持って立っている二姉のところに行く。
右襟を下に、左襟を上に。裾を引きずってしまわないように折り曲げながら、二姉は苦笑する。
「まーくんはいつまで経ってもおちびさんのままねえ」
ぼくが俯くと、三姉はわしゃわしゃとぼくの頭を撫でた。
「うー」
「大丈夫大丈夫。まーくんにもそのうち成長期が来るよ!」
二姉が浴衣が落ちないように持っている隙に、三姉はよいしょと言いながら僕の腰に手を回す。そうして、手にした腰紐をぐるりとぼくに巻き付けて、最後にぎゅっと引っ張って落ちないように挟み込んだ。
「はい、完成」
「みんなも洗い物終わったらこっちにいらっしゃい」
二姉が台所を覗き込んで言うと、「はーい」と元気な声が返ってきた。
りぃりぃと虫が鳴いている。生温かい風が吹く。道端の草がざわざわと音を立て、波打っている。土手をみんなで登っていく。からんころんとおねえちゃんたちの下駄が鳴る。ぼくの草履は大した音を立てずに地面を踏んでいく。土手の上の道に沿うようにして、真っ赤な花が群生している。
「まーくん、その花が気になるの?」
三姉が振り返ってぼくを見る。
「その花はね、彼岸花っていうんだよ」
彼岸花。彼岸に咲く花。此の岸と彼の岸の、境の花。決して越えることのできない境界の花。ぼくは目を細める。
「知ってるよ」
「うっそだあー」
「嘘は、よくない」
「嘘じゃないもん!」
「えー」
「えー」
「はいはい、喧嘩しないの」
一姉が苦笑しながらぼくたちを引き離す。
「ほら、花火が始まるよ」
暮れかけた空を指さす。太陽は山々の向こう側に消えていく。空が夜の色に染まっていき、一番星が中天に輝いた。
ひゅるるるる。どーん。
夜空に大輪の花が咲く。最初に大きな花が咲き、続いて小さな花が連続して咲いていく。一直線に天に昇り、地面めがけて落ちていくその様は、まるで彼岸花だ。
隣で空を見上げていた六姉が小さく囁いた。
「きれいだね」
「……うん」
ぼくは視線を落として頷く。
土手に連なって咲く彼岸花が目につく。ぼくはこの花が大嫌いだ。
「『弟』くん」
硬質な声に振り向くと、晩夏の風景には全く似つかわしくない、白衣の男が立っていた。
「仕事の時間です。こちらに来なさい」
白衣の男はカルテを手に持ち、顔には大仰なマスクをつけている。ぼくは顔をしかめた。
「やだ。行きたくない」
すぐそばに立っていた二姉に抱き着き、顔を擦り付ける。仕事の前、ぼくはいつだって駄々をこねる。
「だめよ、お仕事なんだもの」
ぼくの頭を一撫でしながら、二姉が言う。
「そうよ。お仕事なんだからしかたないでしょ?」
同調して、三姉が言う。
「まーくんは強い子だから我慢できるよね」
「ね?」
屈みこんで、四姉と五姉が言う。
「大丈夫。こわくないよ……」
おどおどと、六姉が言う。
「……うん。わかった」
おねえちゃんたちに口々に宥めすかされ、やっとぼくは白衣の男の手を取る。
そんな中、一姉だけは、むずかるぼくをじっと見つめていた。
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