第2話

 白衣の男に手を引かれて土手を歩く。ぼくは大人の歩調についていけずに時々つんのめる。男は一度もこちらを見ようとしない。

 振り返るとおねえちゃんたちがにこやかに見送ってくれている。その表情に心配の色はない。そんな彼女たちの顔が常ならざる固めたような笑顔に見えて、ぼくは目をそらす。


 男はビニール手袋をしている。体温がうまく伝わらなくて気持ち悪い。ぼくたちに直接触りたくないのだと知ったのはもう随分と前だ。

 ビニールですべすべの手に指をからめて、ぼくは男についていく。遠く、ヒグラシが鳴いている。彼岸花がそこかしこに咲いている。もうすぐ秋だ。収穫の季節だ。出荷の季節だ。


 男は不意に立ち止まった。目の前には何もないように見える。男が手を持ち上げ、宙をとんとんと叩くと、どこまでも続くと思われた風景が崩れ、巨大な壁が現れる。壁は緩やかな曲線を描き、ぼくたちの居住区をドーム状に覆っていた。

 懐から取り出したカードキーを壁の切れ目に滑り込ませる。空気が抜ける音がして、目の前の壁が扉の形になり開いた。

 その先に続くのは狭いけれど清潔な通路だ。男は大股で通路を進み、ぼくは慌ててそれについていく。背後で、がこんと扉が閉まる音がした。




 ぼくとおねえちゃんたちが住んでいるのは「養殖場」と呼ばれるセクションだ。ぼくは日に一度そこから連れ出される。やってくるのはいつも白衣の男だ。いつだって嫌そうな顔をしながらぼくを外の世界へと連れ出しにくる。

 男に引きずられるようにして、ぼくは壁も床も真っ白な部屋へと連れていかれる。そこで待っているのは、同様に白衣を着た人間たちだ。

 彼らはぼくの恰好をじろじろと見つめて言う。


「脱ぎなさい」


「はい」


 おねえちゃんが着つけてくれた浴衣も草履も下着も脱いで、全裸になる。どれだけ経とうとも劣化することのない白くて柔らかな肌が露わになる。この体にこれ以上筋肉や脂肪がつくことはない。そういう風にできているからだ。


 白衣の男たちに囲まれる。複数の手がぼくの肌の上を這いまわり、傷や異変がないかを確認する。手袋越しの体温のない指がぼくの瞼を開かせ、舌を掴み、ぼくは体の中まで覗かれる。


「よし、異常はないな」


 彼らはぼくの状態をカルテにつけ、退出していく。

 次に始まるのは洗浄だ。密閉された部屋の中に、消毒液の霧が満ちる。ぼくが食べたもの、ぼくが触れたもの、ぼくが「養殖場」から持ち出したものが外部へと害をもたらさないために。


 全身をくまなく消毒し終えると、今度は温風が吹いてきて、体を乾かしていく。まず体の中心から水気がなくなり、そこから指先に向かって順番に乾いていく。ぽたぽたと髪から垂れていた消毒液も、温風に晒されて徐々に無くなっていった。

 十分に体が乾いた後、がこんと音を立てて壁が開く。出てきたのは一着の子供用の礼服。

 着ろ、という意味だ。


 はじめにシャツを手にし、袖に腕を通す。上から順にボタンを留めていく。もう何度もやっていることだ。間違えることはない。次に半ズボンを履き、落ちないようサスペンダーで固定する。座り込んで靴下をはく。ネクタイを締め、最後にジャケットを羽織れば完成だ。

 靴を履き、袖のボタンを留めていると、黒衣の男が部屋に入ってきた。


「行くぞ」


「はい」




 ぼくとおねえちゃんが住んでいるこの場所は、実は巨大な宇宙船だ。宇宙船の名前は「冥府の河」号。船自体が一つの巨大な商業施設になっている。

 だけどぼくにはそれ以上のことを知る権利はない。

 ぼくが知ることのできるのは、どこまでも続いているように見える「養殖場」セクション、白い壁に囲まれた検査場、そしてぼくが日に一度連れていかれる「動物園」セクションだけだ。


 黒衣の男に続いて、「動物園」の中を歩いていく。

 吸盤のついた足を持つ生き物。花に住まうという龍の成れの果て。ゲル状の体に一つだけ目を持った生き物。大人しく観賞される生き物たちを横目にぼくは足を動かす。


「あれが噂の」


「まるで人間じゃないの」


 お客様から向けられる奇異の目全てにそっぽを向いて、ぼくはぼくの仕事場へとまっすぐに向かっていく。

 体に対して尻尾が大きすぎる生き物のケージを曲がり、人間を三千回は殺せる致死毒を持った植物を右手にまっすぐ進むと大水槽が見えてくる。

 外壁をくり抜き、船外を見渡せるよう強化ガラスをはめ込んだ、「動物園」目玉の大水槽。

 そこに『金魚』たちはいる。




「お集まりの皆々様!」


 黒衣の男が前口上を述べる。堅苦しいようでどこかおどけた風のその前口上は、お客様の緊張を解させるためのものでもあったようで、客席から時折笑いが起こる。

 男の前口上が一通り済むと、ぼくはお客様の前に引き出される。教えられた通りにたどたどしく一礼する。笑いと拍手が客席から起こった。


 ぼくは水槽に向き直る。お客様がぼくを注視しているのが分かる。これから起こることに期待されているのが分かる。

 だけどぼくがするのは本当に簡単なことだ。

 水槽に向かって手を伸ばして、たった一言、こう言うだけ。


「おねえちゃん」


 紺色のスカートが無重力に翻った。

 虚空を泳いでいた視線がぼくを見る。ぱっちりと大きな目が、目が、目が、ぼくを見つける。伸ばされる腕、腕、腕。女子中学生の姿をした『金魚』たちが一斉にぼくに向かって近づいてくる。


 スカートのプリーツが動作に合わせてゆっくりと揺れる。持ち上がった襟が背になびき、胸部はまるで風を受けたかのように膨らんだ。ぴったりと足に吸い付いた黒い靴下。脱げかけたローファーをひっかけながら、少女が現れる。

 十数人の少女たちが、ぼくを一目見ようと宇宙空間を遊泳し、ガラスの向こう側へと集まってきていた。


 身なりのいい人間たちが、ほう、と感心した声を上げる。大人も子供も、ぼくに寄ってきた『金魚』たちに目を奪われる。



 ぼくのおねえちゃんは女子中学生だ。観賞用の女子中学生だ。

 おねえちゃんたちは「養殖場」で一年間育てられる。そこで人間を楽しませるための情緒を学び、時期が来ると宇宙空間に放流される。そうして観賞用の『金魚』になるのだ。

 ヒグラシの声が耳の奥に響く。踊り舞う彼女たちに、彼岸の花を幻視する。




「ママ、あの子が欲しい」


 無邪気な声で小さな子供が指したのは、数年前にぼくが四姉と呼んでいた『金魚』だ。ぼくのおねえちゃんだった『金魚』は、あの頃と変わらぬ優しい笑顔でこちらを見ている。

 この大水槽の中では長生きをした方だ。宇宙空間にいることは『金魚』たちにとって毒なのだから。


 子供の親が係員に二言三言声をかけ、係員はひどく丁寧な所作でそれを受理する。たったそれだけで売買は終了だ。買い取られた彼女は観賞用の小さな水槽に移されることだろう。生存環境の整えられた小さな水槽に。そうすれば彼女は長生きできる。そうすれば彼女は幸せだ。


 まーくん。まーくん。


 彼女たちがぼくを呼ばう。声は聞こえない。強化ガラスに遮られているからだ。

 ぼくがこの船にいる限り、彼女たちは船を離れることはない。


 ぼくはまーくん。

 ぼくは、彼女たち『金魚』の弟。

 彼女たちをこの巨大な水槽に繋ぎとめるための楔だ。

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