第3話

「どうしたの、まーくん。疲れちゃった?」


 うん、と力なく返して、ぼくは二姉の腰に手を回す。三姉が心配して、ぼくを団扇であおいでくれた。

 ドーム状の壁に投影された夜はもうすっかり更け、ざわざわと風の抜ける音だけが響いている。縁側に腰掛けた二姉にしがみついたまま、ぼくはきつく目を閉じていた。

 すると、不意に冷たい何かが頬に触れた。


「はい、まーくん」


 見上げると一姉が半分に割った氷菓子をこちらに差し出していた。


「チューペットだ」

「みんなには内緒ね」


 口の前に人差し指をたてて、しーっと言う一姉。その手にはちゃっかり自分の分の氷菓子も挟み込まれていた。


「ほら、ふたみいも」


「あら、じゃあ遠慮なく」


「ラッキー!」


 二姉と三姉にも氷菓子を手渡して、一姉は自分の氷菓子に吸い付いた。


「まーくん、溶けるよ?」


「う、うん」


 慌てて切り口に吸い付く。しゃりしゃりとした触感が口の中に広がった。


「まーくん、お仕事で嫌なことでもあった?」


 ううん、と首を横に振る。嫌なことなんてあるはずもない。だって何もかもいつも通りだったんだから。

 でもなんだろう。飲み込み切れないものが喉の奥に引っかかっているような感覚があって、胃がずんと重かった。


「大丈夫よ。まーくん」


 氷菓子から口を離して、一姉が言う。


「私たちはいつでもまーくんの味方だからね」





 翌朝、ぼくは寝坊した。起きた時にはもうおねえちゃんたちの朝食は片づけられて、ぼくの朝ごはんだけ蚊帳の中に入れられて残っていた。


「いただきます」


 パジャマのまま机の前に体を引きずっていき、両手を合わせる。ごはんに焼き鮭、すっかり冷めたお味噌汁。箸を持って食べ始めると、庭からきゃあきゃあとはしゃぐ声が聞こえてきた。


「おねえひゃん?」


 お行儀悪く口の中にものを入れたまま庭を覗き込むと、水やり用のホースを暴発させてずぶぬれになっているおねえちゃんたちがいた。


「まーくん、おはよう!」


「おはようまーくん」


「おはようー」


「おっはー」


「おは」


「おはよう……」


 六人のおねえちゃんたちが思い思いに挨拶してくる。ぼくはあくびを噛み殺しながら、「おはよう」と返した。

 ぼくのおねえちゃんは、六人いる。




「まーくん、一緒にお風呂入りましょうか」


 ずぶぬれの二姉に提案されるままに、ぼくは半ば強引にお風呂に連れ込まれていた。

 二人で立つのがやっとの広さのお風呂場で、ぼくはシャワーで洗われる。犬のように髪の毛をわしゃわしゃと洗われ、ざっとシャワーで流される。

 そうして銀色の正方形に近い狭さの湯船の中に、二人で体を沈める。大した量のお湯を入れたわけでもないのに、ざぱんとお湯はあふれていった。


「気持ちいいねえ、まーくん」


「うん」


 ぼくは湯船に顔を沈めた。




「えいっ」


「わー!」


 下着姿でいささか乱暴に髪を拭かれ、ぼくは歓声を上げる。


「まーくんは髪の毛が短くていいわねえ」


「二姉も短くしたい?」


「うーんどうかしら」


 二姉はドライヤーを取り出しながら、うふふと笑った。


「今着替え持ってきてあげるからちょっと待っててね」


「待って、ぼくが取りに行く」


 下着姿のままでぼくは廊下に飛び出す。どうせ家にいるのはおねえちゃんたちだけだ。見られてもどうということはない。ないのだけれど、


「きゃっ」


「わっ」


 出会い頭に現れた四姉に足を引っ掛けられる形になってしまい、ぼくは顔から転んでしまった。


「まーくん!」


 後を追ってきた二姉が悲鳴を上げ、ぼくを抱え起こす。見ると、膝を擦りむいてしまっていた。


「痛い? 大丈夫?」


「平気……」


「ごめんね、ごめんね、あたしのせいで」


「まーくん、どうしたの」


「大丈夫……?」


「消毒液どこやったっけ」


「絆創膏貼ってあげるからね」


 家中から次々とおねえちゃんたちが姿を現す。ぼくが痛みを感じる前に、消毒液がかけられ、絆創膏を貼りつけられた。





 今日もぼくはお仕事に連れていかれる。かけられる言葉はいつも同じだ。


「脱ぎなさい」


「はい」


 言われるままに服を脱ぐ。おねえちゃんたちが貼ってくれた絆創膏も、勢いよく剥がす。白衣の男が顔をしかめた。


「傷があるな」


「……はい」


「焼きゴテを」


 白衣の男のうちの一人が、赤熱したコテを持って近づいてくる。熱によって肌の素材を溶かして、元の形に整形するのだ。

 熱されたコテが右膝に触れる。痛覚は遮断しているので、痛みはない。だけどどうしても気持ち悪い感覚が膝を撫でる。

 なんでも、ショーで人前に出るのに身体が万全の状態でないのはお客様に失礼だということらしい。ぼくについた傷はその日のうちに直されるという方針だった。





 お客様がはけた後、大水槽のガラスに触れる。『金魚』たちは微笑みながら、あちら側からぼくを見つめている。

 『金魚』になったおねえちゃんは、もう帰ってはこれない。宇宙で、真空で生きられるように体が変化してしまうのだ。

 彼岸花が咲くころに、彼女たちはあちら側へと渡っていく。

 あちら側とこちら側。此の岸と彼の岸。

 渡ってしまえば、二度とは戻れない場所。分厚いガラスの向こう側。




「交配が決まった。六番、一緒に来なさい」


 突然やってきた白衣の男が、六姉を指さした。呼ばれた六姉は最初おどおどと周囲のおねえちゃんたちを見回していたけれど、小突かれたり拍手をされたりしているうちに嬉しそうに俯いた。

 彼岸花が咲いている。遠い場所へ行ってしまう。あちら側へ行ってしまう。ぼくは恐ろしくなって六姉にしがみついた。


「六姉、行かないで!」


 六姉はぼくに目を合わせ、弱弱しくも諭すような口調で言った。


「あのね、まーくん。交配対象に選ばれるのは名誉なことなの。だから……」


「やだ、行かないで!」


 六姉は微笑んだ。


「大丈夫。心配しなくてもちゃんと帰ってくるよ」


 口々におねえちゃんたちは、六姉を祝福する。


「おめでとう、六」


「おめでと!」


「おめでとー!」


「おめ」


 ぼくは渋々六姉から離れた。


「おめでとう、六姉。いってらっしゃい」



 六姉がひどく衰弱した状態でぼくたちのもとに帰ってきたのはその一週間後のことだった。



「六姉、六姉、死なないで」


 薄い布団に横たわる六姉に縋り付く。おねえちゃんたちは起き上がれない六姉のために精一杯できることをした。


 一日目、六姉はなんとかすり潰した果物なら飲み込むことができた。ぼくはつきっきりで、六姉を看病した。

 二日目、嚥下も難しくなり、唇を濡らすことしかできなくなった。ぼくは六姉に近づかせてもらえなくなり、ふすまの間から中をうかがうことしかできなくなった。


 そして、「養殖場」に帰ってきてから三日目。六姉は永遠に動かなくなった。

 ぼくはわあわあと声を上げて泣いた。冷たくなった六姉の手を握りながら泣き続けた。おねえちゃんたちはそんなぼくを、ひたすらに慰め続けた。




「ひどい顔だ」


「焼きゴテを」


 泣きはらした目に焼きゴテが当てられる。

 痛みは遮断されていたが、いつのまにか気絶していたらしく、ぼくは床で目を覚ました。倒れた視界に白衣の男たちの靴が映る。

 ……頭上から声がする。


「やっぱり体力が足りなかったか……」


「いや、養殖場から長く離しすぎたのがまずかったのかも……」


「交配には成功している。次はもっと強い血を入れなきゃならないがな……」


 部屋から、白衣の男たちが出ていく。消毒が始まった。

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