白の時代

陽澄すずめ

白の時代

 佐和子はバレンタインデーが嫌いだった。

 なぜなら今の佐和子を形作るいろいろなことが、バレンタインデーに起こったとある出来事を一端としているからだ。

 それは彼女が中学一年生の時のことだった。



 その日の朝、佐和子はいつものように自分の部屋の鏡の前でセーラー服の襟を整えてから、一階に降りて行った。きっちりと二つに編んだみつあみが肩のところで踊るのを感じながら階段を下って行くと、ちょうど父親が出かけようとしているところだった。

「今日は夕飯はどうするの?」

「あぁ、今日は遅くなるから、なくていい」

 台所から顔を出した母親が玄関の父親に声を掛けると、彼は振り返りもせずそう言った。

「最近、遅い日が多いのね」

「リストラで人手不足なんだ」

 靴ひもを結び終わった父親は、ゆっくりとした動作で立ち上がった。いつものように、うなじのところが少し寝ぐせになっている。

「お父さん、いってらっしゃい」

 佐和子がその大きな背中に向かって言うと、父親はほんの少しだけ佐和子の方に首を動かし、小さな声で「いってきます」と言った。

 テーブルの上は既に、佐和子の分の朝食だけになっていた。佐和子は席についてトーストを齧りながら、このところ家族全員で食事をしていないな、とぼんやり思った。

 佐和子は一人っ子なので、家族は三人だけだ。それでも食事に全員が揃うのは難しい。佐和子の塾があるか、父親が遅いかだ。今日は塾はないのだが、父親が夕飯を食べないと言っていたので、記録更新である。そう言えば随分と長いこと、父親の顔すらもまともに見ていない気がした。二人分の食器を洗いながら、母親が「今日はまたカレーね」と呟いた。そんな日にも、もう慣れたものだ。

 朝食を終えると、佐和子は弁当を持ってすぐに家を出た。出がけに母親が「今日は雨の予報だから傘を持って行きなさい」と言ったので、お気に入りの水玉の傘を持って行くことにした。

 佐和子は私立の中学に通っているので、通学はバスを使う。停留所までは、家から歩いて約十分。空はどんよりと曇っており、母親の言った通り雨が降り出しそうだった。

 停留所に着くと、佐和子のひとつ前に並んでいたスーツ姿のおじさんもやはり傘を持っていた。お父さんは傘を持って行っただろうか、と佐和子はまたぼんやり思った。


 教室に着くと、佐和子はまっすぐに窓際の自分の席に座った。クラスメイトたちは担任教師が来るまでの時間、いかにたくさんのお喋りができるか必死のようだった。佐和子の席のすぐそばでは、五、六人の女の子たちが輪になって楽しそうに笑っていた。

 中学に入ってもうすぐ一年が経とうとしているのに、佐和子はあまりクラスに馴染めていなかった。同級生はみんな大人びていて、いつも佐和子のわからない話をしているのだ。しばらくしてやっと担任が教室に入ってきて、佐和子はほっとした。

 授業中は、佐和子にとって平穏な時間だった。ただ席に座って先生の話を聞いてさえいれば、時間が過ぎて行くからだ。

 佐和子はけっして勉強が得意ではなかったが、そんなことは些細な問題だった。むしろ、休み時間に身の隠し場所がなくなってしまうことこそが、目下の悩みだったのである。授業の合間の十分休憩には、わざとゆっくりと次の時間の教科書を準備したり、何回もお手洗いに行ったりして、どうにか時間をつぶした。

 何より一番恐怖だったのは、昼休みだ。クラスメイトはみんな仲の良い子同士でグループになり、机を動かして弁当を食べていた。そうなると一人の佐和子は、どうしても目立ってしまう。だから雨でない日は、屋上で弁当を食べることにしていた。

 幸いなことに、今日はまだ雨は降っていなかった。二月の屋上はまだまだ寒いが、それでも教室にいるよりはずっとましだ。

 給水塔の柵の横に腰を下ろし、弁当の包みを開いてふと、この姿をお母さんが見たらどう感じるだろう、と思った。きっと、私が友達と楽しく食べると思って、このお弁当を作ったんだわ。そう考えると、たこのかたちをしたウインナーが不憫でならなかった。


 突然扉が開く音がして、佐和子は飛び上がりそうになった。佐和子のいるところからは給水塔の裏手になって見えないが、誰かが屋上に上がって来たようだった。

 そっと柵の陰から顔をのぞかせると、三人の女子生徒と一人の男子生徒の姿が見えた。いずれも見たことのない人たちだったが、女の子のうちの一人がほかの二人に背中を押されて男の子に何かを渡す様子が見えて、佐和子は事情を飲み込んだ。まったく忘れていたが、今日はバレンタインデーだったのだ。

 女の子たちは、チョコを渡すや声を上げて屋上から走り去って行った。後には、チョコを渡された男の子と、給水塔の陰に身をひそめる佐和子だけが残された。

 あの男の子が、私に気づきませんように。

 佐和子は目を閉じて祈った。バレンタインデーにチョコをもらえるような男の子から見たら、佐和子などはつまらない存在だろう。それを考えると、何としてでも見つかってはならないと思ったのだ。

 佐和子の願いが通じたのか、やがてその男の子は屋上からいなくなった。それと同時に、無性に理不尽な気持ちになった。

 どうして私が隠れなくてはいけないのか、みんなの邪魔にならないようにここにいたのに、と。

 バレンタインだからといって、浮つく暇のある彼らに腹が立った。佐和子にとっては、昼休みの時間を過ごすことだけで手いっぱいだというのに。

 ぽつり、と制服の襟に雨粒が落ちてきた。佐和子は思わず泣き出したい気分になったが、すぐに予鈴が鳴ったので、逃げるように屋上から立ち去った。


 授業が終わる頃には、雨は本降りになっていた。

 佐和子は部活をしていないので、掃除当番でもなければいつまでも学校に残っている理由などなかった。まだ帰宅する生徒の少ない校庭のふちを、傘をさしてゆっくり歩いた。このお気に入りの水玉が、誰かの目にとまればいいのに、と思いながら。

 校門前のバス停からバスに乗り込み、一人掛けの席に座った。バスの乗客は佐和子を入れて五人だけだった。

 すぐ次の停留所で降りて行った、母親に連れられた小さな女の子が、可愛らしい包みを手にしていた。恐らく、父親にあげるチョコレートだろう。

 佐和子はふと、デパートに寄ろうか、と思った。寄り道が見つかったら注意されるだろうが、この世の中に佐和子のことをそれほど気に留める人がいるとは思えない。そう思うが早いか、佐和子はブザーを押して途中の停留所で下車した。


 デパートのチョコ売り場は、異様な熱気で包まれていた。バレンタインデー当日の今日はつまり、この売り場の最終日で、どこから集まって来たのか分からないくらいたくさんの人で溢れかえっていた。

 チョコを買おうと思ったのは、ほんの気まぐれだった。佐和子だって、少しくらいこの行事に参加してもいいだろうと思ったのだ。

 いつも一人の佐和子には、当然想いを寄せる異性などいない。佐和子がチョコをあげられる人といったら、この世に一人しかいなかった。このところ一緒に食事もしていないし、会話らしい会話すらもしていないが、チョコレートをあげれば、父親は少しくらい佐和子のことを気に留めてくれるだろう。幸い今日は塾もないし、夕飯はカレーだ。多少家に帰るのが遅くなったとしても、鍋を温め直せば済むことだ。

 売り場にはいろいろなチョコが売られていたが、父親がどんなチョコを食べるのか、佐和子には分からなかった。そもそも甘いものが好きかどうかも、よく知らない。うんと小さい頃は一緒に風呂に入ったり、休みの日に遊んだりしたものだが、佐和子が中学に上がってからは自然と父親と接する機会が少なくなった。

 世間一般に、年頃の娘は父親を毛嫌いするものだという。実際、クラスメイトの女の子が父親の悪口を言っているのを、耳にしたこともある。

 でも佐和子には、父親を好きだとか嫌いだとか言えるほどの接点が、今はなかった。そんなこと以上に、父親の悪口を言いながらもクラスの男の子にチョコを渡したりするような同級生たちと、一緒になりたくなかったのだ。

 結局さんざん迷って、佐和子はお酒の入ったチョコレートを買った。


 帰りのバスは、乗って来たバスよりも混んでいた。それでもどうにか一人掛けの席に座った佐和子は、久しぶりに満足した気分で窓の外を見ていた。

 雨は降り続いており、バスの中の人いきれを一層濃くしていた。雨が伝う窓ガラスの向こうには、この辺りで一番大きなJRの駅の屋根が見える。

 ふと、通りの交差点を渡る人々の中に、父親の姿を見た気がした。今日は仕事で遅くなるはずなので人違いかと思い、目を凝らす。しかしそれは間違いなく、佐和子の父親の背中だった。見慣れたグレーの背広だ。それに、あの傘の陰に見え隠れするうなじの寝ぐせ。まだ直してなかったのね、と心をほころばせた次の瞬間、信じられないものが目に入った。

 その、父親がさす傘の中に、見覚えのない赤い傘の中に、知らない女の人がいたのだ。

 佐和子の父親は、その女の人の肩を抱いていた。

 一瞬、傘を忘れた父親がその人に入れてもらったのだと思おうとした。でもそれだけなら、肩を抱く必要もないはずだ。

 父親の後ろ姿を、見間違えるはずはない。なぜなら毎日、背中しか見ていなかったのだから。

 今日は遅くなるから、夕飯はいらないと言った。

 リストラで人手不足だから、仕事が忙しいと言った。

 でも本当は。

 本当は、その女の人と会う約束があったのね。

 急に指先が冷えていく気がした。先ほどまでの楽しい気持ちは陰をひそめ、胸の奥をひやりとするものが横切って行った。バスの乗客の喧騒よりも、佐和子の心臓の音が車内に鳴り響いていた。かばんの中に入れたチョコレートの包みを、佐和子はぎゅっと握った。

 やがて信号が青に変わり、バスが走り出した。あの赤い傘が、人ごみの中にどんどん小さくなっていき、とうとう見えなくなった。

 家の最寄りの停留所に着くまでの間、佐和子は見るともなしに窓の外を見続けた。どこに焦点を結んでいいかもわからなった。窓ガラスにおぼろげに映り込んだ佐和子の顔を、とめどなく雨だれが伝っていた。


「おかえり。今日は遅かったのね」

「ちょっと本屋に、寄っていたから」

 台所に立つ母親は、佐和子に背を向けたまま声を掛けた。佐和子はできるだけいつもの調子で、とっさに嘘を言った。しかし振り返る母親の顔を見ることができず、佐和子は台所を出て階段を駆け上がった。

 自分の部屋の扉を閉めると、佐和子はベッドの上にかばんを放り出し、鏡の中の自分の顔を見つめた。きっとすごく動揺して、おかしな顔をしている。そう思っていたのだが、思いのほかいつもと変わらない佐和子がそこに映っていた。とりあえずほっとして、椅子に座った。

 チョコを入れたかばんに目をやりながら、佐和子は父親のことを考えた。

 赤い傘のことを考えた。

 あの女の人の肩にまわされた父親の腕のことを考えた。

 父親のうなじの寝ぐせのことを考えた。

 今、お父さんは何をしているのだろうか。それを考えようとすると、みぞおちのあたりから何とも言えない冷たいものがのぼってきて、苦しくなった。

 もう、捨ててしまおう。

 佐和子はかばんをひったくり、チョコの包みを取り出してくずかごに投げ捨てようとした。しかしそこで、ぴたりと手を止めた。


 チョコレートが、可哀そうだ。


 結局佐和子は、その包みを机の引き出しの鍵のかかる場所にしまった。かちゃん、と鍵を回すのと同時に、階段の下から母親が「ごはんよー」と叫ぶ声が聞こえた。

「今行く」

 佐和子は普段通りの声でこたえ、部屋を後にした。


 その後も、家族三人で食卓を囲むことはなかった。

 佐和子はそのことにほっとしていた。

 両親が離婚したのは、それから一年後のことだった。

 チョコをしまった引き出しの鍵は、いつか失くしてしまった。



 そんなことがあり、佐和子は今もバレンタインデーが好きになれない。

 しかし世間では、この日には付き合っている相手にチョコレートを渡すのが慣例となっている。だから今年は佐和子も観念して、チョコを用意した。

 仕事が終わって、待ち合わせ場所に約束よりも早く着いた。少し遅れて、彼もやってきた。傘を忘れたせいで少し濡れてしまった佐和子に、彼は大きな黒い雨傘をさしかける。傘の中にふわりと漂う煙草のにおいに、心臓がとくんと脈を打った。

 食後のデザートを食べ終えて一息ついた頃、佐和子は包みを彼に手渡した。

「そんな、わざわざ用意しなくても良かったのに」

 そう言いながらも、彼は嬉しそうにそれを受け取った。

「だって、せっかくのバレンタインだから」

 彼の笑顔を見て、佐和子もつられて微笑んだ。準備して良かった、そう思った。

「でも、ひとつ約束してほしいの」

 佐和子は微笑みを崩さずに言った。

「そのチョコレート、娘さんには見つからないようにしてあげてね」

 彼の左手の薬指にはまった銀色の指輪のくすんだ輝きが、今日も佐和子の心を焼くのだった。

 あの頃の自分が、今の佐和子のことをじっと見つめているような気がした。


―了―

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