第9話「ダイヤモンドへ立ちかえり」

 翔聖学園は敷地の南西側に講義棟や職員用駐車場、中央部である南東側に正門や駐輪場、職員室棟と食堂があり、北東の位置に体育館やグラウンド、さらに北の位置に野球場がある。授業時間が終わると、運動部の生徒はグラウンドと体育館を目指して、民族大移動のごとく講義棟から校内の東側へ向かう。

 グラウンドに向かうだけで汗ばんだ体をタオルで拭い、練習用ユニフォームに着替えた慧次朗は、教室の掃除当番を終わらせて、遅ればせながらのグラウンド入場となった。

 その頃にはすでに多くのメンバーが準備運動を進めている。


「なあ恩堂、ここに入るん決めてくれた理由ってなんやったんや?」

 龍太朗は柔軟体操をしながら、隣で同じく体を伸ばす盛隆に何とはなしに尋ねる。

「勝負に負けた。ただそれだけだ」

「それだけで、ああは打てんはずや。あれは経験者のスイングやった」

 言い切らせる前に龍太朗が抗ってみせる。

「正直なところを聞きたい。ああまでやれる人間がなんでテニス部に入ったんや。真っ直ぐ野球部入りゃええもんを。いったい何があった?」

 透や進一郎からの目線を感じながら、他にも聞くタイミングぐらいあったろうと言わんばかりの表情で、一度龍太朗に目をやり、ため息をついてから語り始めた。


「最初は親父の言い付けだ。男なら野球をやれと」

「今度はえらい固定観念の親やのう」と呆れながら移ってきた龍太朗の視線を弘大は逆手で払い返す。

「俺は、元々はサッカーがやりたかった。走るのが好きなのと、日本代表の国際試合のあのボルテージが好きだった。ただ、親父は頑として野球をやれの一点張りだった」

 盛隆は薄曇りの空を見上げ、塩梅のいい言葉を探す。

「親父の厳格さは異常だと言っていい。箸の持ち方、正座の仕方云々ならまだいい。歩き方にすら文句言われりゃ、こんな風に荒れるって話だ」

「気苦労耐えないね」

 盛隆が育ってきた日常の異様さに、透が思わず言葉を挟む。盛隆は一瞬だけ透への眼光を光らせたが、やめだやめだと飽きるように視線を戻す。

「そんな親父に、俺は認めてもらいたかった。懸命に練習した。兄さんと姉さんぐらい、すぐに追い越してやるってな」


 盛隆には6歳上の姉と4歳上の兄がいる。姉は母親の言いつけの元、芸術系の大学に進んだのち、東京の楽団にバイオリニストとして所属。兄はアメリカンフットボールの関西の雄・聖月学院大学に入学し、1年から主力選手として活躍している。

 その兄も父親から野球をするよう強く言われていたものの、祖父からの「好きにさせてやりなさい」の言葉に、無理強いはやめたそうだ。なぜか盛隆にはそんな取り計らいをしてくれなかったそうだが。

「腕っ節はあったから、球は多少は速かった。親父が監督にゴリ押して先発させられてたってのもあるが」

「お前のおっちゃん何があってそないこだわるんや……」

「俺は苦虫噛み潰しながら必死にやった。多少親父からも認めてもらえるようになった。だがな」

 不意に言い淀む盛隆の表情は、昨日の龍太朗との対戦時に見せた、あの険しい顔であった。

「中学2年の春に右肘を痛めた。それで一巻の終わりだ。医者からは『もう投げるな』ってな。それから親父は、俺に見向きもしなくなりやがった。あれだけ口出しておいてなんなんだよ」

 盛隆は右拳を一発地面に見舞う。

「やめろ、荒れるな」

「荒れたくもなるだろ。今になっちゃ痛みはもう無いが、さすがに怖いってもんだ。左投げでなんとかしようとしたが、さすがにそうはいかねぇ。野球は辞めた、その時に。辞めたはずなのに……」

 盛隆の目線は、自分の左手に落ちる。彼の悲しげな表情は美形の顔立ちに映える。


「そもそも気付いちまった。中学からサッカーやったところで、もう間に合わんってな。体育の授業でやるサッカーですら感じた。俺にはサッカーそのものが向いてないと」

「それ俺の前で言うてまうか」

 盛隆の言葉を遮ったのは、硬すぎる身体をどうにかほぐそうとしている慧次朗だ。

「センスの欠片も無いのに、おだてられてのぼせあがって、俺は今ここにおる。運動神経まるっきり無い人間がなんとかやろうと思うたわけや。はっきり言や、どう見ても間に合っとらん。それでも俺はやろうと思ってる。お前はホンマに、全力でサッカーやったんか? 諦めながらやってたんちゃうんか?」

 詰め寄るような言い方で疑問を呈した慧次朗に、面食らった盛隆からしばらく言葉が失せる。

「無いとは言えん。が、俺としてもやれるだけやったと思っている。それでもどうにもならなかった。いろんな感情が渦巻いて、野球が嫌いになった。こんな風になったことをずっと恨むつもりだった。だからこそ、どっちでもないテニス部に入った。惰性でもなんとかなると思ったからな」

「なんとまあ。その考えが羨ましいわ。俺なんぞどう足掻いたところでそっちに関しちゃ無理やわ」

 首を振りつつ頬杖をつく慧次朗に、雀の涙ほどのうざったらしさを感じたものの、盛隆は続ける。

「しかしなんでだろうな。また野球をやるってのは」

「忘れ物でもあるんじゃない?」

 しばしの沈黙の後、横合いからいたく穏やかな表情で学が続ける。

「それだけ野球に対して恨みがあるってことは、やってた頃はそれ位思いを込めて野球してたってことでしよ? なら、答えは簡単だよ。納得がいくまで野球を続ける。野球に置いてきた忘れ物っていう何かがすっきりしたら、それまでってことでいいんじゃないかな」

 学の言葉を聞いた盛隆はまた視線を落としたが、その目は先ほどよりも少しだけ、何かが腑に落ちたような、そんな芯のある目をしていた。

「だからこそ、その左投げ用のグローブ。諦めようとしなかった証明を捨てずに持って、いま君はここにいる。だろう?」

「このたまにある学の語り、いったい年幾つなんやって何度も思うわ」

 龍太朗がわずかながら閉塞感の漂った空気を一蹴させて笑いを起こす。


「なるほどな。色々とよう分かった。分かったからには、恩堂にも手伝ってもらうで。甲子園最速出場」

「やっぱりその話か。本当に言ってたんだな。噂で聞いて、頭おかしいのかとは思ったが、まあ本人を見たら納得と言えばそうだな」

「ちょっと待てそれはどういう言い草や?」

 また一人増えた仲間からのツッコミに、早口で臨戦態勢へ移ろうとする龍太朗をなだめに向かう透。それに呆れる弘大に、笑い転げる勝輝と一源。笑いを堪えるベンチのマネージャー3人と堪えられないグラウンドの清香と桜。学は苦笑しつつ頭を掻き、進一郎もそれに同調する。

 監督の深堀は野球部の皆の表情に、一切の不安を無くした。このチームなら、この空気なら、きっと行けるところまで駆け抜けられる。そしてそのために、自分は自らの成すべきことを全力で遂行せねばと、気を新たにした。


 そしてこの渦中の中、真顔のままな慧次朗は皆に聞こえないほどの声で呟く。


「なんかホンマにえらいとこ入ってもうたな……」

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怪童街道~甲子園(キセキ)行きの切符~ 快速準急 @Rapid-Express_STi

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