6-18『もしあの星には届かなくても』2
「よくないね」
叶は言う。言葉の割に、どこか解放されたような表情で。
確かに、決して褒められた会話ではないだろう。
俺がやっていることなど浮気みたいなものでしかなく、どこをどう取り繕ったって正当化できた義理などない。
ならばなるほど、これは告白は告白でも、やはり罪の告白でしかないのだろう。
今なら、あの屋上のときの叶の気持ちがわかるような気がした。
俺たちは、互いに許し合うことすらおこがましい。
ふたり並んで土下座して回るくらいは必要かもしれない。
「よくないな……わたし。少し前までは、こんなんじゃなかったのに」
「……そうだな」
「もう。何が『そうだな』だよ。未那のせいだから、こんなの」
「それはお互い様だろ、それこそ」
「……ふぇへへ」
何か言葉を飲み込むみたいにして叶は笑う。
――だから、そんな嬉しそうな顔をしないでほしかった。
ついさっきまでは、悲しい顔を見たくないと思っていたのに、こんな簡単に心変わりをしてしまっては馬鹿みたいだ。こいつって、前からこんなにかわいかったかな……。
いや、……今さらか。それはさすがに強がりが過ぎる。
初めて教室で出逢ったあの朝から。
この不器用な脇役哲学者を、俺はいつだって好ましく思っていた。
――ただその感情に、恋なんてタグをつけようとはしなかっただけで。
「何。未那ってずっとわたしのこと好きだったの?」
からかうように叶が問う。
俺は言った。
「あ? お前あんま調子に乗るなよ」
「うっわ、こいつ……」
「今にして思えば最初から好きだったと気づいただけだ。ずっと自覚はなかったから」
「な。そ……それ否定になってないだろ、ばかっ」
「うるさいな。お前のほうこそずいぶんチョロいだろ、さっきから。俺に好かれてたのがそんなに嬉しいのか、叶?」
「は? 未那こそ調子乗んなよ」
「お前も大概じゃねえか」
「うっさい。……嬉しいかどうかくらい、見ればわかるだろ……訊くなよ、そんなの」
「――――――――」
「――――――――」
「……、照れんなよ」
「照れてない、ばか」
どうにも調子の狂う会話だった。
以前の俺たちは、こんな風に話していただろうか。どうだったっけ。
「あーあ。頭の悪い会話だ」
小さく息を吐くと、それから叶は罵倒するようにそう言った。
いや、むしろこれは自虐の類いか。お互いもう何を言っても泥沼な気がする。
――けれど、これはきっと、必要な清算だった。
「本当に、何をやっても上手くいかねーや。どうしてこうなっちゃうかな?」
「……それは本当にな。もうちょっと生き方が賢かったら、こうはならなかったのかね」
「どうだろ。わたしも未那も、結局どうあってもこうなってたような気もしてきた」
「だとしたら救いようがねえな……」
「いや、ごめん。やっぱ今の訂正かも。そこまで未那に運命感じてない」
「おい……」
「だってそうでしょ? こんなの気の迷いじゃないとおかしいもん。たまたま、たまたま全部が上手くいかなくて、そこにたまたま未那がいたってだけ。それだけじゃないと」
「…………」
「それだけじゃないと、こっちも心の整理がつかない。……どうせ諦めるのにさ」
そう。結局、話はそこに戻るだけだ。
叶はさなかの名を出さない。俺が叶を好きだと言っても、なお。
それは答えが決まっているからで、そこに関して俺は否定の言葉を持たない。
本当にどうしようもないことに――俺はさなかのことも間違いなく好きだったから。
ここで叶に乗り換える、なんてふざけた選択肢は存在しない。口に出すのも厭われる。
それはきっと、お互いにとって当然の了解だった。
「……そう考えると俺、マジでやってること最悪だなあ、これ。今、付き合ってる彼女と別れたわけでもないのに、別の女に告白してんだから。どうしてくれんの?」
「なんでそれをわたしに訊くんだよ……」
「逆に、お前以外の誰にこんな話ができるんだよ」
「……それもそうか」
ここで納得するんだから、俺と叶の関係ってヤツも大概おかしい。
今さらになって、これまで言われてきたことが少しわかったような気がした。俺と叶の間でだけ通じる理屈は、確かに一般的ではない、理解しがたい変わった理屈なのかもだ。
小さく、叶は息を吸ってこちらを見た。
その口から、言葉が零れる。
「――振ってよ」
「……ずりいこと言うな」
「仕方ないじゃん。二股かけてんのそっちなのに、ずるいとか言われても」
「それを言われるとマジで返す言葉はないが。――いや待て、二股はかけてねえよ」
「じゃあ、かけてみる?」
おいおいおいおい。
思わず変な顔になる俺を、からかう目で見て叶は、
「そういう国や時代もあるし。さなかも納得するかもよ?」
「……されないと思いたいけど、まかり間違って二股を許されでもしたほうが困るから、確認はしないどくわ……」
「あっはは! まあ確かに。未那にそこまでの価値はないかー」
「おい。いやまあ否定する気はないけど、逆に相手の価値次第で認めんの? 嘘だろ?」
「当たり前でしょ。冗談だよ」
「よかったよ冗談で……自分の価値を大事にしましょうね」
「冗談なのはそこじゃないけど」
「…………、…………」
「まあ、それも冗談ってことにしとこっか」
「……なんかお前、無敵になり始めてない……?」
「あははっ」
「あんま笑いごとじゃないんすけど……」
いや。あるいは、これが俺たちのいつも通りだったのだろうか。
――これまでの日々を思い出す。
高校に進学してから、俺はずっと楽しく日々を暮らしてきたと思う。
悩むことや苦しむことがあっても、それを塗り替えられるほど楽しいことがあればいいと願ってきた。
だから理論に殉じてきた。
それを今になって失敗だったなんて、やっぱりどうあっても言えないのだ。
今日までを否定したところで、積み重ねてきたものは無視できない。
俺は、それを受け入れている。
失敗だったわけでは決してない。
間違っていたとは思っていない。
ただ馬鹿で、愚かで、間が抜けていただけのこと。
所詮は子どもに過ぎない俺たちだから、言ってみればそんなのは当たり前だ。
なんでも賢く上手くやることなんて、大人になったってできるとは限らないのだから。
無知も愚昧も前提に、それでも手を伸ばすと決めて今がある。
今ここに、俺と叶はいる。
いつか見上げた、同じ星の下で立っている。
――あのときと同じ変わらない想いを、今も抱いていると信じて。
だからだろうか。
「……なあ叶。お前はどう思う?」
野暮だとわかっていて、それでも俺は言葉にして訊ねた。
お互い、相手のことなんてわかっていて。
わからなかったのはきっと自分のことで。
――だけど曇った鏡では、結局は、映しきれないものがあったから。
「どう思うって?」
「これまでのことだよ。今日までのこと。何もかも上手くいかないってお前は言うけど」
これは、言うなれば通過儀礼だ。
理論と哲学。それによって弾き出される、決まりきった答えへと至る道。
けれどそれを――せめて俺たちらしく、馬鹿らしいほどの道草をして歩いていく。
「楽しかったか? あの、壁を破った日から、今日までは」
「つらかったよ」
と、叶は答えた。
透き通るその表情は、けれど月明かりの下で翳ることなく。
「下らないことでもやもやして、バカみたいなことで言い争って。いつだって、どうでもいいようなことにこだわって……未那といっしょに、過ごしてきたこと」
「…………」
「こんなのあり得ないと何度も思ったし、何やってるんだってたまに思って……だけど、何回考えたって、やめようとはちっとも思わなかったくらい。きっと何回やり直すことができたって、どうせまたバカみたいに、同じことを繰り返すんだと思うくらい――」
決して手の届かない星に手を伸ばしながら。
少女は言う。
「苦しくって――楽しかった」
「……ああ……」
――それが聞けてよかった。聞いてよかったと、心底思う。
俺たちは、似ているけれど異なっていて、違う場所から同じところを目指していて。
どうせあるはずがない、嘘みたいな奇跡のことを、今も心から信じている。
息を吸った。
夜空を見上げた。
途端に痛み出す心臓を無視して、遠くに輝く光のことを、ただ眩く見つめながら。
「叶」
「うん」
「俺はお前が好きだ」
「うん。わたしも、未那ことが大好きだよ」
「……ああ。……だけど」
「……うん」
「俺はお前には応えられない。俺は……さなかのことが好きだ」
「そうだね。……実はわたしも、あの子のことは、好きなんだ」
「そうか」
「うん」
「悪いな。これっきり嫌ってくれるってんなら、今のうちだと言っておく」
「悪いけどさ。……そんなのは、もう何度だって試したあとだから」
「そうか」
「うん」
小さく、少女は頷いて。
星空の下で、輝くような笑みを見せた。
「――ありがとね、未那。わたしのことを、許してくれて」
もしも順番が変わっていたらとか。
もう少し早く気づいていればとか。
そんなイフを考えることには意味がない。そうではない選択をしてここにいる。
そのことを――今日これまでの理論を否定はできない。
だから、これはそうなることが決まりきっていた当たり前の着地点。
思ったよりも少し早くて、思っていたよりずっと苦くて。
それでも、後悔することだけはないと前を向くための。
主役理論者と脇役哲学者が導き出した、決別のための前向きな結論。
もしあの星には届かなくても。
俺たちは、いつまでだって手を伸ばし続ける。
――だからありがとう、叶。
俺のほうこそ、いっしょにいてくれて――嬉しかった。
ワキヤくんの主役理論 涼暮皐 @kuroshira
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