第3話
仕事を終えて帰宅した母親の座るダイニングテーブルに、夕希は模試の結果を置いた。
砂で汚れた制服のスカートに、膝には大きな絆創膏。
いつもと違いすぎる夕希の様子と成績に、母親は眉をしかめる。
「——どうしたの、この結果」
「どうもしないわ」
いつになく強い視線で、夕希は正面から母親を見据えた。
意表を突かれたような顔つきの母に、夕希は畳み掛けるように続ける。
「第一希望の大学には、必ず受かる。
だから——私のことに、もう口出しはしないで。
そして、父さんにもそう伝えて」
言葉を失った母親を残して淡々と自室へ戻ると、夕希は力強くドアを閉めた。
*
夕希に、日常が戻った。
夢よりも、もっと遥かな——輝く雲の中を歩いて来たような、あの日。
あの日と、その後の日常の差異はあまりにも大きく……夕希の心のバランスは、ぐらぐらと激しく振れた。
あれ以来、涼とは目を合わせることができない。
意図せずに踏み込んでしまった楽園が、あそこにある。
そして、もう二度とその楽園には入ることができない。
そう思うと、涼の姿を視界に入れることは、生々しい傷口を掻きむしられるように辛かった。
親へあれほどはっきりと言い放ったにも関わらず、勉強も手につかない。
成績は、第1志望どころか、学年首位もおぼつかなくなり始めた。
「清水、なんか急に成績落ちてね?」
「失恋でもしたんじゃねーの?」
クラスの男子の陰口が、こそこそと耳に入る。
ふざけないで。
——私には、失恋をする権利すら、与えられていないのだ。
好きなひとの側で生きたいと願うことなど、許されないのだから——。
あの日以来、心の中で黒く沈殿した思いは、そんな言葉に変換され——だんだんと大きく、入道雲のように夕希の中で膨らみ始めた。
そんな彼女の心の悲鳴など、誰も聞いてはいない。
以前は夕希に歯の立たなかった数学の教師までも、その悔しさを取り返すように、どこか彼女を蔑むそぶりを見せるようになった。
7月初旬の、雨の日。
数学の解説をする教師の声は、どこまでも憂鬱だ。
ぼんやりと俯く夕希を、彼は再び攻撃する。
「——これくらい、簡単だろう?
前でやってみなさい、清水」
「——」
その時——
繰り返し打ちつける激流に堪えかね、彼女の心の壁はとうとう音を立てて決壊した。
ガタリと勢いをつけて立ち上がると——夕希は無言のまま、教室を飛び出した。
「清水っ!」
「夕希——!」
教師やクラスメイトの声が背後に追ってきたが、何もかもが、もうどうでもよかった。
降りしきる雨の中へ駆け出す。
傘もささず、一層強まる雨に打たれた。
私には、何もない。
どんなにもがいても……欲しいものは、何一つ私の手には入らない。
手を差し伸べ、自分を受け止めてくれるひとへ身を委ねることすら、許されずに——。
雨音に紛れ、夕希は声を上げて泣いた。
「夕希!!」
不意にその雨音を破り、自分を呼ぶ声がする。
振り返ると、涼が立っていた。
息を切らして。傘もささずに。
その髪も、身体も、既に濡れそぼっている。
「あんたが廊下を走ってくの、見えた」
涼は、強い声で夕希に問いかける。
「——そうやってずぶ濡れになって、ひとりで泣けば……何かが変わるの?」
「————」
「今、あんたがいる檻から自由になりたい……あんたは本気で、そう思ってるの?」
一瞬躊躇して……夕希は、涼を見つめてはっきりと頷いた。
涼は大股で夕希に近づく。
「なら——」
彼女は夕希の手を取ると、自分の指に絡ませるようにしっかりと握る。
「この手を、絶対に離さないで。
あんたが離しさえしなければ——私は、あんたを絶対に離さない」
夕希は、驚いたように涼を見つめる。
「高校を卒業したら……私たち、一緒に暮らそう。
これからずっと、一緒に歩こう」
混乱した思いを纏められないまま、夕希は怯えるような細い声で返す。
「待って。そんなこと、きっと……」
「その呪文から出られないから、あんたは今のままなんだ」
夕希は、はっとしたように言葉を飲み込む。
「何か、新しい言葉を呟いて。夕希」
それに背を押されるように——
夕希は勇気を振り絞り、今まで怖くて考えることすらできなかった問いを口にした。
「もしも——
もしも、誰も私たちを許してくれなかったら……?」
涼は、力強い微笑みを浮かべ、はっきりと答える。
「その時は——
一緒に行こう。——決して誰も追ってこない場所まで」
夕希の瞳がみるみる潤み、大きな涙の粒が溢れた。
その粒は、落ちてくる雨粒と一緒に、夕希の頰を次々に流れ落ちる。
「……約束よ?」
「約束する」
涙と雨に濡れたその頰を、涼の温かな掌が優しく拭う。
「好きなだけ、泣けばいい。
私が、いつでもこうするから」
雨雲の奥に、輝く太陽の気配が満ちた。
絶え間なく落ちる雨が、無数の白い筋になって輝き出す。
「夕希。もっと歩こう。このまま手を繋いで。
こんな雨の中、誰も私たちを探さない。
雨に濡れて歩くのが、こんなにも幸せだって、知らなかった」
「うん。行こう。
——今日からやっと、私は本当の呼吸ができる」
夕希は空を仰いで雨を浴びながら、深く息を吸い込んだ。
二人は手を取り、歩き出す。
やがて——何か楽しげに言葉を交わすと、手を繋いだまま雨水を蹴って全力で走り出した。
駆けていく二つの背中は、降りしきる明るい雨の奥に見えなくなった。
月と陽、雨 aoiaoi @aoiaoi
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