第2話

 前回の模試の結果が出た。

 落とすつもりはなかったのに——成績は、予想以上に振るわない。

 学年トップは当然だが、校内順位がどうこうではない。志望大学の合格判定も思わしくなかった。

 A判定が取れたところで、夕希自身の喜びにはならないのだが——この成績を持って家に帰るのが、果てしなく憂鬱だった。


 陽の傾いた校門に向かい、のろのろと歩く。

 ふと顔を上げると——綺麗に伸びた背中が、前を歩いている。

 涼の背中だ。


 家の方へは、どうしても足が向かない。

 気づけば夕希は、先を行く涼の背中を何となく追いながら歩いていた。


 涼は電車に乗り、二駅ほどで降りた。

 見つからないよう、そして見失わないようにしながら、夕希もそこで下車する。


 しかし、同様に電車を降りた人の波に、彼女の姿はふと飲まれていった。



 ——何してるんだろう、私。

 そんな状況に、夕希はふと我に帰る。


 とりあえずホームから外へと流れ出た。

 この時期の夕風は、何とも言えず心地よく——夕希は、涼の住む街を少しだけ歩いてみたくなった。


 ゆっくりと歩くと、公園が見えた。

 夕暮れにはまだ少し間があり、子供たちの賑やかな声が響いている。

 夕希は、その隅のベンチに腰を下ろし、風に吹かれた。



 涼と初めて会ったのは、入学式の日。

 降り注ぐ春の日差しの中だった。


 校門をくぐり、特に何の感慨もなく校舎へ向かう夕希の横に、すらりと長身の女子の気配があった。

 その周辺ではトップの進学校だから、中学時代の知った顔もない。そして、新しく友を作る意欲も特にない。

 そのまま前方を向こうとした瞬間……鼻の奥が不意に何かにくすぐられ、夕希はくしゃんとくしゃみをした。

 全く同時に、横でくしゃみをする声がして——夕希は、思わずその方向に目を向けた。

 背の高い彼女が、くしゃみをしたばっかりの顔で、こっちを見ている。


 自分も、同じような顔をしてるんだろう——そう思った途端、笑いがこみ上げた。

「ふふふ……っ」

「あははっ」

 同時に、声を出して笑い合った。


「私、矢上 涼」

「……清水 夕希です」

「——あんた、かわいいね」


 涼は、爽やかな笑顔を輝かせ、さらりとそんな言葉を付け加える。

 夕希は、その言葉に思わず思考を奪われた。


 こんなにもさり気なく、心地よい温度のある言葉を誰かから受け取ったのは、初めてな気がしたからだ。

 くしゃみをして、声を出して笑った。ただそれだけのことで。

 こんなにも暖かい思いと笑顔を自分に分けてくれる、この人は——


 それ以上、言葉を交わすこともなく、各教室へ別れてしまったけれど……

 夕希の心には、この瞬間の記憶が鮮やかに刻まれた。


 ——彼女は、もうそんなことはすっかり忘れているのかもしれないが。



 そんな自分の思いを辿っていた夕希の足元に、不意にボールが転がった。


 顔を上げると——涼が立っていた。


「……清水、夕希……さん。だよね?

なんで、こんな場所に?」

 涼は、シンプルな白いTシャツとスキニージーンズに着替えた姿で、爽やかな笑顔を浮かべる。


 夕希は、いつになく動揺する自分を必死に抑えた。

「あの……なんだか今日は、家に帰るのが嫌で。

だから……いつもと違う場所に来てみたの」


 こんな苦し紛れの説明も、説得力も何もない。

 自分の情けなさに落胆する。

 しかし、涼はそんなことは気にならないような顔で言う。

「ふうん……私の家、すぐそこなんだ。

じゃ、ちょうどいいから付き合ってよ。あそこのゴールで、最低シュート20本入れるのが日課でさ。そのボール持って、こっちに来て」

 ボールを拾い、涼の後ろについて、公園の一角にあるバスケットのゴールへと向かう。

「あんた、ボール拾いね。うっかりすると通りの外に転がっちゃうから」

 涼は勝手にそう決めると、慣れた身のこなしでドリブルを始めた。


 彼女が動き出すと、空気が美しく動く。

 無駄のないフォームでボールを操る。

 ゴール下で力強く地を蹴ると、額の上へボールを掲げ、ふわりと夕空を駆け上がる。


 その姿に、夕希は思わず見惚れた。


「ほら、ボーッとしないで。拾う拾う!」

 空から降りてきた彼女が、快活に笑う。


 いつも遠くから見ているだけだった笑顔が、今、すぐ目の前にある。

 ……自分だけに、向けられている。

 それは——夢のように、幸せだった。

 そして、自分がそんな感情の中にいることに、夕希は大きく驚いていた。


 後は必死にボールを追う。

 普段ほとんど運動をしない夕希には、ボールを追うだけでもかなりハードな仕事だ。

 やがて……夕希の意識の中は、ただ自分の鼓動と呼吸だけになった。

 無心に身体を動かすことが、こんなにも自分の心を前向きに整えていく。

 このわずかな時間の中に——夕希のこれまでの人生で見つけられなかったことが、いくつも輝いていた。


「あと1本!」

「わかってる」

 息を切らし、振り向いて笑った瞬間、夕希の足がもつれた。

 視界がぐらりと揺れ、思わず地面に手をついた。

 膝に強い痛みが走る。

 擦りむいた膝からは、血が流れ出していた。


「あー……やっちゃったねえ……制服も砂だらけだ……ごめん」

「構わないわ。……これ、すごく楽しい!」

 涼を見上げ笑う夕希の顔は、これまで押さえつけてきたものが溢れ出したような輝きを放つ。

 涼は、その美しさに思わず言葉を飲んだ。


「……とりあえず、うちに行こう。手当てするから」

「いいの?……ありがとう」

 涼は、夕希に肩を貸す。

 そうしてふたりは、次第に夕暮れの濃くなる道を歩き出した。



 涼の家は、近くの団地の一部屋だった。

「うち、父親だけなの。帰ってくるの遅いから」

 涼はさらりとそう言って自分の部屋へ夕希を座らせると、救急箱を取りに行く。

 小さいけれどこざっぱりと片付いた畳敷きの部屋は、何だかとても安らいだ。


 涼は、清潔な脱脂綿を切り取り、傷口に当てて止血する。

「……ありがとう」

「いいよ。自分がこんなだから、ケガの手当ては慣れてるし……」


 夕希は、その横顔を見つめる。


「……あんた、時々私を見てるよね?」

 唐突なその問いかけに、夕希の心臓はどきんと跳ね上がった。


 気が動転して、うまい答えを探すことができない。

「……どうして、そんなことを」


「——私も、あんたを見てるから」

 何のためらいもなくそう言い、涼はまっすぐに夕希を見る。

 そして、血を拭った華奢な膝を指でなぞると、そこへ唇を寄せ、舌でぺろりと舐めた。

「…………やっ」

 思いもよらない彼女の行為に、夕希の身体は一瞬こわばった。

「……嫌だった?

 さっきみたいに笑う顔、もう一度見たいのに」


「……え?」

「あんた、なんで少しも笑わないのか……ずっと気になってたんだ。

入学式の日に一緒に笑った時以外、楽しそうな顔を一度も見たことがなかったから」

 夕希は、身体の緊張を緩めて浅く微笑む。

「——あの時のこと、覚えてた?

……楽しければ、私だって笑うわ。

でも、私には、毎日の生活に楽しいことなんて何一つ見つけられなくて……だから、笑えないだけ」


 傷口の手当てをしながら、涼が呟く。

「……あんたの眼が、『助けて』って言ってるように見える」


「——」

 心の奥底をずばりと言い当てられたように、夕希は言葉を失った。

「——違う?」

 手当てを終えた彼女は、視線をじっと夕希に注ぐ。


 まっすぐに、熱を湛えた涼の瞳。

 それを受け止めて、じりじりと焼け付くように早まる自分の鼓動。



 彼女は、太陽。

 自分は、月。

 同じ場所では決して輝かない。


 いつも心でそう呟いたのは——

 彼女と同じ場所で輝きたい——いつも、そう思っていたからだ。

 今、それがはっきりとわかる。


「今、あなたといて……私は初めて、生きている気がしてる」

「え?」

 その意味を飲み込めないような顔で、涼が聞き返す。


「今まで私は、身体も心も、自分自身のものだと感じたことはなかった。

私の人生も時間も全て、私以外の誰かのためのものだった。

でも、今は……

この呼吸も、鼓動も……私だけのもの。それが、痛いほどわかる。

——あなたの側にいるからだわ」


「——私が必要?」

 涼の問いに、夕希ははっきりと頷く。


「なら……私たち、一緒にいよう。——ずっと」


 涼のしなやかな両腕が、夕希へ伸びる。

 その長く美しい指が、夕希の両肩を捉えた。

 瞳をしっかりと見つめ、涼は囁く。

「——あんたの笑顔をずっと見たかった理由が、やっとわかった。

私は……この腕で、あんたを守りたいんだ」


 優しく肩を引き寄せられ——涼の唇が、夕希のそれへ近づく。


 触れ合う直前、涼が小さく囁いた。

「……いい?」


「いいわ」

 夕希は、生まれて今まで発したことのない声を使い、答える。



 静かに——柔らかに、唇が重なる。

 お互い、これ以上はもう待ちきれなかったかのように。



 唇が離れ、涼は夕希の瞳を覗き込んだ。

 いつも暗く沈み込んでいた夕希の瞳は、今はその奥に何かちらちらと灯ったように、恍惚と揺らめく。


「——さっき……あんた、自分の人生も時間も、誰かのためのもの……って言ってたね。

その『誰か』って……あの病院や、親のこと?」


「——そう。

私は医師になってあの病院を継ぐ。そのためだけの存在」


 その言葉が合図でもあったかのように、夕希の瞳は温かな揺らめきを急速に失い始めた。


 細い肩に置いた手に力を込め、夕希を呼び戻すかのように涼は強く言う。

「ねえ、それは違う」

「あそこからは、出られないわ」

 そう答える夕希の瞳の色が、みるみる現実へと引き戻される。

「そんな檻の中にいるなら——私が、あんたを助ける」


「無理よ。そんなこと。

私——もう、帰らなきゃ」

 魔法が解けたように、夕希は氷のような無表情に覆われていく。


 すいと立ち上がり、ロボットのように玄関へ向かう夕希の背に、やっと伝えた。

「また来て。——待ってるから」


「いろいろありがとう。

でも——もう来ないわ。

……じゃ」


 わずかに振り返り、抑揚のない声でそう言い残すと、夕希は玄関を出ていった。




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