月と陽、雨

aoiaoi

第1話

 ふわふわと揺らぐことなく……時に、決意のようなもので結ばれる想いがある。

 何を以て砕こうとしても、決して壊れることのない宝石のように。



 その宝石は、立ち入ることを禁じられた領域にのみ存在する。

 禁じられた場所に踏み込んででも、その石を得たい——そう望む者たちだけが手にできる、稀有な宝物。


 闇や嵐を厭わない決意をした彼らだけが、その石を手に取り——

 そうしてふたりは、降りしきる雨の中で幸福を味わう。







 夕希ゆきは、長く艶やかな黒髪を物憂げに耳にかける。

 そのさらさらとした絹糸のような髪は、またすぐに顔の横へ落ちてくる。

 そうして自分の顔が翳になることに満足するように、夕希は視界を遮るその髪をしばらく見つめ——再び、静かに耳にかける。


 教室の窓際の席で、外を見る。

 五月の風は、まるで夕希を外へ吸い出そうとするかのように、心地よく彼女を撫でていく。


「この問題、解いてもらおう——清水」

 数学のこの教師は、こうやって集中していないように見える生徒をあえて指名する。


「——はい」

 夕希は静かに立ち上がり、黒板の前に立つと、一瞬で問題を理解し——複雑な公式をためらうことなく駆使しながら、淀みなく完璧な解を導く。

解答と照らし合わせ——彼は、どこか悔しげな表情を見せながら呟く。

「正解だ。

だが——高校数学は2年から一層難しくなるんだ。理系に進むつもりなら、授業に集中しろ。能力が高いことを過信しないよう——」

 夕希は、ぼんやりとその言葉を聞く。


 ——空を見たかったから、見ていただけ。

 必要なことをやらないなんて、言った覚えもないのに。


 どうやら彼の言いたいことは全部吐き出されたようだ。

 空中へ拡散していった言葉をまるで聞いていたかのような顔を繕い——軽く頭を下げて、席へ戻る。


 ——そして、再び窓の外を眺めた。



 校庭で、その他の女子を引き離し、ひときわ鮮やかなフォームで走る女子がいる。

 メリハリのある長身。

 しなやかな長い手脚。小さい顔——まるで、草原を自由に疾走する動物のように、引き締まった姿。



 ——F組の。

 矢上 りょう


 一度覚えた名は、忘れない。



 バラバラと遅れてゴールしてきた女子のグループと混じり、彼女は快活に笑う。



 ——彼女は、太陽。

 いつも輝き、周囲を明るく照らす。


 私は、月。

 闇の中にしか存在しない光。


 そして——

 二つの光は、決して同じ場所では輝かない。



 彼女を見るたび、そんな言葉が浮かぶ。

 なぜ、そう思うのか。

 理由など、知らない。

 物事の理由を深く突き詰めることなど、夕希はだいぶ前にやめてしまったから。



 授業の終了を告げるベルが鳴る。


「清水って、ちょっとこえーよな。異常に頭いいし超絶美人だけど、ものすごく冷たそうでさ。何考えてるかわかんねーし」

「そりゃあいつは無敵だろ、デカい病院の娘だし。両親とも医者らしいじゃん。……A組でもダントツトップが当たり前みてーな顔してさ。

俺らみたいなのが変に近寄ったら、キレイな日本刀か何かですっぱり切られそーだよな」


 廊下を出たところで、男子がそんな話をしている。

 本人が近づいて来ることに気づき、ぷつりと会話を止め、知らぬ顔ですれ違う。


 そんな風に、他人が自分を遠巻きにすることが、夕希には有り難い。

 誰かと関わり合うことに、どんな重要性があるのか。

 ——少なくとも、夕希には必要のないことに思えた。



 体育の授業を終えたF組の女子が、外から戻って来た。

 他の女子より背が高く、髪もベリーショートにした涼は、まるで女子の中に混じる美しい男子のようだ。


 教室へ入る寸前——涼はほんの一瞬、廊下の先へ視線を投げた。

 夕希の視線と、かすかにぶつかり合う。


 そしてお互い、表情を変えることもなく——それぞれのやるべきことへと戻っていった。



               *



 夕希の家は、病院を経営している。

 両親とも医師だ。毎日大勢の患者が待合室を埋める。

 夕希は、その家の一人娘だ。


 物心のつく頃には、両親に言われていた。

「あなたは、立派な医師にならなければいけない」と。

「将来何になりたい?」という選択肢は、なかった。

 自分たちの一人娘を、見栄えの良いものに育てる。文句のつけようのない道を歩ませ、病院を継がせ……

 息子が生まれなかった分、両親は一層それに固執した。


 良い成績を取り、一流大学の医学部へ行き、優秀な医師になる。

 同じく有能な医師と結婚し、今の勢いを失わず病院の経営を続ける。

 夕希がやるべきことは、それだけだった。



 小学生の頃、図画が楽しく、校内の作品展で入賞したことがある。

 胸いっぱいの喜びでそれを報告する夕希に、両親は全く嬉しそうな顔をしなかった。

「それよりも夕希、もうすぐ月末のチェックテストがあるわよね。お勉強、ちゃんとできてる?もちろん100点取ってこられるわね」


 ——お父さんも、お母さんも、きっと喜んでくれる。褒めてくれる。

 自分の中に生まれたそんな暖かな火は、水をかけられたようにあっけなく消えた。

 こんなこと、どうでもいいことだったんだ——幼い心に、そんな冷え冷えとした悲しさだけが残った。



 やがて中学になり、テストや試験が増えてくると、親の満足する成績を取った時だけが、家で居心地良く過ごせる時間になった。


「成績、落ちたわね……なぜ?原因をちゃんと考えて、次回はしっかり挽回しなさい」

 完璧が、当たり前。褒められることなどなく、失敗ばかりを指摘される。

 夕希は、そんな空気に浸かって育ってきた。



 だから、成績は、決して誰にも負けない。

 透き通るような肌と、滑らかな髪。華奢に整った顔立ちに、くっきりと二重の黒く潤う瞳。

 ほっそりとしなやかな身体。非の打ち所のない容姿。

 家庭の経済的なゆとり。

 ——そんなものが、何だっていうのか。


 出口のない透明な檻に閉じ込められ、鞭ばかりを加えられる毎日。

 一生、その檻から、逃れ出ることなどできないのだ。

 その環境は、夕希から少しずつ、大切なものを奪っていった。



               *



 古文の眠気を誘うゆるやかな時間の中で、涼はふと、さっき廊下で微かに触れ合った視線を思い返した。


 まるで冬の月のように、冴え冴えと冷たい美しさを湛えた彼女。


 A組の——清水 夕希。



 一度しか、話したことはない。

 入学式の、校門をくぐったあの日。一度だけ。


 彼女は、その瞬間——美しい蕾が花開くような、暖かい笑顔を見せた。

 その微笑みが、まるで幻か何かだったと思わせるほど——彼女は、どんな時も一切笑わない。


 もう一度見たい。

 ——あの美しく暖かい、彼女の笑顔を。


 時折、涼は理由もなく、そんな欲求に駆られた。


「……なぜだろう」


 小さく、呟いてみる。

 これまでも、何度も同じことをした。

 けれど、答えは見つからない。


 ただ——理由の分からないまま、その気持ちは自分の中で、次第にはっきりとした形を持ってくる。

 それだけを、涼は確かに感じていた。



 

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