奇跡の寿司

ラブテスター

サリバン教授の実験ノート

『ス』


 黒く屈強な毛むくじゃらの指が下に三本向けられ、声なき言葉を形作る。そのまま、横に起こされる。

 

『シ』


「そう、スシ——寿司だ」

 私は微笑んでうなずき、目の前のゴリラに寿司を握る。アジだ。針生姜を載せて。

 ゴリラは寿司を掴むとやおら万力のように握り潰し、指の間からしぼり出された飯粒をめとる。開いて、誇り高き食文化の残骸をすする。

「違う、違うんだヘレン」

 情けない声が出る。何度目の失敗だろう。

 野蛮なゴリラに寿司は繊細すぎる——かつて大勢にそう嘲笑された記憶がまた私をさいなむ。

 

 ス、シ。

 

 今度は私が手話をする。ヘレンは頷き、私はまた一貫を握る。エビだ。絶妙なで加減。

 ヘレンは平手を振り上げると一撃で卓上の寿司を叩き潰す。海鮮濡れ煎餅せんべいとなった美食史の結晶を指に引っかけ、下からついばみ始める。

「何故だヘレン。何故だ」

 私の声に涙が混じる。やさしいヘレン。その魂こそが寿司のように繊細なヘレン。

 彼女なら一語一語の説明を経ずとも、この芸術が表現する豊かな意味を汲み取ると思った。寿司を見るだけで、それを寿司のようにつまみ上げ、寿司として味わうと信じた。それは私のおごりだったのか。思慮深いヘレンという存在は私の願望の投影でしかなかったのか。

 私はヘレンとの思い出にすがる。ヘレンの折々の姿が私の脳裏によみがえる。そして、

 ヘレンと寿司の最初の出会い、一度目の実食。ヘレンは確かに寿司をつまんでいた。しかし、野太い指の中で寿司はもろくも壊れた。職人ぶって空気を含ませた私の寿司が。

 

 そうだ。美味に絶対はない。

 

 真の職人は幼子おさなごにはサビを抜き、食の細い婦人にはシャリを減らすという。

 私はシャリをよく、ヘレンの前に置く。

 トロだ。ただ煮切りを塗って。

 ヘレンは今度こそその指で寿司をつまみ上げ、崩さずに口まで運んだ。咀嚼そしゃくする頬が一層ほころぶように見えた。

「ヘレン」

 喜びにむせぶ私に、ヘレンは上に向けたを波打たせて次の言葉を伝えた。

 

あがりウォーター

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奇跡の寿司 ラブテスター @lovetester

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