レビューを書いてトショケンを手に入れよう

太刀川るい

本編

〈レビューを書いてトショケンを手に入れよう〉

 色あせたポスターを眺めながら、貸出機に本を置く。ランプが緑になって、本は一定時間僕のものになる。持ち出しは出来ない。


「あとすこし」誰に言うともなくそう呟く。あと少しで、規定のレビューポイントがたまる。

 振り返って席に行こうとした所で、人にぶつかった。地面に落ちたメガネを拾い、頭を下げながらそれを持ち主に返す。

「ありがとうございます」と小さく早口でいいながら、持ち主の女の子は顔をあげた。握りしめたら折れそうなぐらい華奢な体に、肉球の模様のついたエプロンをつけている。彼女は目を細めてメガネを受取り、鼻あての跡がついた顔にそれをかける。くるべきところにあるべきものが収まり、かけたピースがぴったりとはまる。透明なレンズの向こう側で、ぱっちりと開いたその目は随分と魅力的に見えた。


 どぎまぎして意味もなく頭をさげ、足早に立ち去ろうとする。

 後ろから声をかけられ、そこで彼女の本を間違って持ってしまったことに気がついた。タイトルに覚えが合った。子供の頃大好きだった本だ。彼女とは趣味が合いそうだと思った。すみませんと言って彼女に本を手渡す。彼女は魅力的に微笑むと、僕の本を差し出して、「この本、お好きなんですか?」と聞いた。

「いや、その別に。レビューに指定されたんだ」僕はそういうと、ポスターを指差す。

 何年も貼りっぱなしのポスターの中には、丸っこいフォントで書かれた標語と、フリー素材サイトから引っ張ってきたであろうシンプルなキャラクターがにこやかに微笑んでいる。


〈レビューを書いてトショケンを手に入れよう〉


「レビューを? そうですか……」彼女は少し悲しそうな顔をした。

「レビューは嫌い? 僕は別に嫌いじゃない。トショケンが手に入るならさ。君は欲しくないの?」

 彼女はまた別のポスターを指差した。


〈本を棚に戻してトショケンを手に入れよう〉


「配架のボランティアで? でもそれ時間かかるんじゃない? すごく」

「ええ、でも私。それが好きだから」

「そう」とだけ返そうとして、気の利いた言葉を付け加えたくなった。

「あのさ……手に入れられるといいね。トショケン」僕がそう言うと、彼女は微笑んで頷いた。


 ■■■■■■


 本を読みながらレビューの内容を考える。ここはだめだな。ここの展開はおかし い。色々と考えながら端末に思ったことをタイプしていく。

 書かれた時代が時代なので本文には今では使われない言葉も混じっている。そんな中から正しくない言葉ノンコレクトワードをみつけると嬉しくなる。一つ見つける度にポイントアップだ。


 ふと、あと少しで手に入るトショケンのことを考えた。

 トショケン、図書を読む権利。実用書以外の本、例えば娯楽のための本を読むためにはこの図書権が必要になる。トショケンを持たない僕みたいな人間は、読める量が決まっている。きっちり一月に十万文字。大体一冊分だ。しかもカメラが自動監視している図書館内でしか読むことが出来ない。

 でも今のところはそれで困ったことはない。僕はそれほど本が好きなわけではない。それでなぜトショケンが欲しいのかというと、ただ単に一目置かれて就職に便利だからだ。今ではほとんど行われなくなった読書という趣味。インテリゲンチャである読書家の証。それがトショケンだ。


 端末に目を戻し、レビューを確認する。投稿フォームには本のタイトルと、「どこが良くなかったですか?」「問題のある表現は有りますか?」「あなたが嫌だと思った点をお書き下さい」などという項目が並んでいる。

 レビューは批判的な方がいい。もとめられているのは改善点だ。このレビューが一体どういう用途に使われるのか僕はわからないけれど、多分人工知能の学習に使われたりするんじゃないかなと思う。

「面白かった」みたいな感想が一番点数が低い。語彙の貧困さを指摘し、細部の矛盾を見つけ、正しくなさを見いだし、視点のブレを洗い出し、ありとあらゆる欠点を冷たい金属のヘラでほじくり出し、皿の上にそれなりの秩序を持って飾りつけたもの、それがレビューだ。

 僕のレビューの腕も大分上がってきたように思う。今日はこの時間で書き上げることとが出来た。残りの文字数を確認すると、今月読める文字数はまだ余裕があるみたいだった。違うレビューを申請してみるのもいいかもしれない。


 さて帰ろうと立ち上がった所で、近くに座っている先程の彼女に気がついた。

 彼女が本をよむ姿は、はっとするぐらい絵になっていた。光を求める双葉のように背筋をすっと伸ばし、赤子を抱くような形で胸の前に揃えられた手に本が乗っている。

 そして身じろぎもせず、瞬きの音さえ聞こえるような静けさで、その長いまつげに縁取られた目がページの文字を追っていく。

 やがて、ページの最後まで来ると、彼女はふうっと小さく息をして、優雅にページを捲ってみせた。

 僕の視線に気がついたのか、彼女は顔を上げる。

「何か?」


「あ、いや……」見とれていたとは言いたくなくて、言い訳を探す。「その本、面白いのかなと思って」

「ええ、すごく」彼女はそう言うと微笑んでみせた。「今いいところなんです」ちょうど挿絵のページで、そっと覗き込んでみた。

 夜と昼が溶け合ったような不思議な世界の上を、竜に乗った人間が飛んでいく絵だった。挿絵の反対側のページの本文を読んでみると、どうもファンタジー系統の話のようだ。


「そういうの好きなんだ。ファンタジーっていうの?」

「そう。でもファンタジーだけが好きなわけじゃないですよ。なんでも読みます」

「前にも君を見たことがある。ここによく来てるの?」

「ずっと来ているわ。あなたは?」

「ここ半年ぐらいかな」


 会話を続けながら、彼女は静かにページを捲り続ける。

 つられて目が文章を追ってしまう。途中からだからか、よく解らない。

「気になるんだったら、読んでみたらいいじゃないですか」しばらくページをめくった後、彼女はそういって僕に背表紙を見せた。

「長さは?」

「ちょうど一月分、10万字ぐらいです」

「じゃあ駄目だな。今月はもう読んでしまった」

「そう。残念ですね。月の終わりぐらいに来て、一気に読むしか無いですね」

「考えておくよ」僕はそういうと、端末を取り出して今月の残り文字数を確認する。ただのパフォーマンスだ。先程と変わらない文字数が表示されている。正直な所、彼女の本を読む気は無かった。文字数が余っているのなら、短編でも読んでレビューを書く。短編だと点数が少ないが、そうすればトショケンへ一歩近づくことが出来る。わざわざ月を跨いでまで読む必要はない。


 僕はそれじゃと言うとまた頭を下げて、図書館を後にした。


■■■■■■


 彼女の本がなんでそんなに気になったかは覚えていない。ただこの前見せられた背表紙のタイトルを、本棚の中で見つけて、気がついた時には手に取っていた。

「あ、読んで見る気になったんですか?」後ろから声がして振り向くと彼女だった。この前と同じ肉球の模様のついたエプロンに、後ろ手に縛った髪。手にいくつも本を抱えて仕事の最中のようだ。

「うん、ちょっとね。最後まで読んだの?」

「はい。すごく面白かったですよ。あ、それはそうと、この前、本を棚に返して帰りましたよね。どうせなら机の上においてもらっても良かったのに。私、棚に戻しますから」

「そんな、悪いよ」

「棚に戻すと、私のトショケンへの道が近づきますから。一冊戻すごとにポイントが入るので」そういうと彼女はにこりと笑ってみせた。僕もつられて笑顔になる。

「なるほどね。そりゃそうか。じゃあ今度からできるだけ散らかして帰ることにするよ」

「ありがとうございます。あ、でも故意に散らかすのはだめですよ。故意と判断されたらポイントがなかったことになります」

「気をつけるよ」


 そのまま席に戻って彼女の本を読んだ。面白かった。気がついたらページをめくりつづけて、端末に「今月の読書量の上限に近づいています」という警告が来た。

 それでも無視して読み続けていると、警告が鳴った。静かな図書館に突然甲高い笛の音のようなサイレンが鳴り響き、貸出機の側の機械が僕の名前を呼んだ。

 即刻読書をやめるように指示されて僕は慌てて本を閉じる。

 警告をうけたのは初めてだった。こんな機能が図書館についているとは知らなかった。

 彼女が目を丸くしてこちらに来た。

「驚きました。警告されたんですか?」

「ごめん。ついうっかりページを捲ったらカウントされたみたいで……」頭を掻きながら答える。「他の利用者を驚かせていないといいんだけれど……」

「大丈夫です。私とあなたしか居ませんから。人気ないんです。ここは」彼女はそういうと、僕の手元を見て微笑んだ。

「警告されるまで読むなんて、気に入ったんですね」

「うん、今月はちょっと余裕があったからさ。ちょっと読んで見るつもりだったけれど、だめだね。もうオーバーしちゃった。面白いね。これ」

「そうでしょう!」彼女の目が突然輝きを増したかと思うと、堰を切ったように語り始めた。

 よほど、長い間語れる相手を探してたらしい。不思議と不快感はなかった。彼女は本が如何に面白かったかを上気した顔で語り、その言葉を聞くとなんだか僕まで嬉しくなってくる。

 彼女の目を通して見る物語は、その瞳と同じようにキラキラ輝いていて、僕の心を満たしていった。


 それから僕らは親しい仲になった。

 彼女の名前も、住所も知らないけれど、話し始めると止まらなくて、二人だけしかいない図書館の中で僕らはいつもとりとめのない話をした。

 彼女はもう随分と長い間ここで本を読み続けていたそうで、その知識量はとにかく凄いの一言だ。月の文字数制限を限界まで使って、片っ端から本を読み続けたおかげか、色んなジャンルに渡る面白い本を彼女は沢山知っていた。

 彼女の読書スタイルは特殊だった。用意された文字数をすべて使うのは月の終わり。残りの期間は昔読んだ本をまた読み返すことで過ごしていた。

「何度も同じ本を読んで面白いの?」と聞くと、彼女は「ええ、読む度に印象が変わる本もあります」と答えた。

 本を読み返すなんて考えたこともなかった。レビューを書いた後の本は、すぐに忘れてしまう。一度読んだ本の文字数はカウントされないのもその時初めて知った。

 トショケンのためのレビューがあるから、すすめられた本を読むわけには行かなかったけれど、彼女の話を聞くだけで、面白そうで、なんだか僕にあつらえたみたいにしっくりきそうな本だなと思った。


 静かな時間の間にも、レビューの本数は増えていった。でも僕がレビューを書いていると彼女はいつも悲しそうな顔をした。


 トショケンの申請が近づいたある日、彼女はこういった。

「なぜ、皆トショケンを欲しがるのかしら。図書館にはほとんど来ないのに」

「就職に有利だから皆欲しがるんだ。僕もそう。みんな図書館じゃなくて専門の予備校に行くみたいだけれど、ここみたいに色んな本があるんじゃなくて、きっかり文字数に収まるような、レビューを書きやすいような本が揃っている」

「そんなことをして……何になるのかしら」彼女はそういうと、露骨に悲しそうな顔をした。

「レビューは嫌い?」

「ええ、嫌いです。」はっきりとした口調だった。「だって、レビューって悪いところしか書かないじゃないですか」

「それがレビューだから。悪いところを直すためにあるわけだし……」

「でも、悪いところばかり、見てたら本を読むのが嫌いになっちゃいません?

 沢山本を読んで、嫌いを沢山集めて、それで本がいくらでも読めるようになるなんて、この仕組みは本が嫌いな人が作ったみたい」

「変なことを考えるね。でも仕方ないと思うよ。読む理由より、読まなくていい理由を皆探しているんだ。制限があるしね」

「その制限も変です。大体なんで月に十万文字なんですか。少なすぎると思います」

「一ヶ月に一冊。いいじゃないかな。21世紀頭の小説投稿サイトに投稿された小説を興味本位で読んだことあるのだけれど、あるアカウントなんて合計で六万字程度しか無かった」

「私はもっと読みたいです。今みたいにじっくり読むのも好きですけれど、もっといろんな本を読んでみたい」

「じゃあ、レビューを書けばいいじゃないか。それが一番の近道だよ。今みたいに図書館の業務を肩代わりすることでポイントを貯めて、一体それで何年かかるんだ?」

「……何年かかっても、読むことが嫌いになるよりはいいと思うんです」


 真っ直ぐな瞳だった。無性に腹が立った。


「……それは、理想主義者の言葉だよ」なぜ苛立っているのか自分でも解らなかったけれど、とにかくいらいらとしていた。

「本が好きだったら、嘘でもなんでもいいからレビューを書いて、それでトショケンを手に入れればいいんだ。そうだろ?」

「ええ、でも私はそれをやりたくない。それは私の自由です」

「じゃあ、勝手にしろよ」口に出してから、しまったと思った。なんで僕は名前も知らないこの人に、こんな喧嘩腰で向き合っているのだろう。でも、僕の口から出る言葉は止まらなかった。

「言っておくけれど、僕は本を読むのが好きでもなんでもないから。ただトショケンが欲しいだけなんだ。トショケンが手に入ったら、こんな所には来ないよ」

 彼女はものすごく悲しそうな顔をして、ぽつりと言った。


「でも、あなただって面白いと思う本があるのでしょう?」

 僕はこの前読んだ彼女の本を思い出して、言葉を失った。一瞬間をおいて、小さな声で「うん」と答える。

「面白かった。すごく。あんなに面白かったのは、初めてかもしれない。でも、問題は……そうじゃないんだ」

 しばらく僕らは無言だった。


 端末に来た通知が沈黙を破る。僕はそれを、確認すると彼女に告げた。

「トショケンの審査があるってさ。行ってくるよ」

「昨日はもう少しみたいなこと言ってたけれど」

「昨日のレビューのポイントが思いの外よかったみたいで」

「そう。もしトショケンが手に入ったら、こんな所にはもう来ない?」彼女が嫌味を言う。

 僕はちょっと考えると、

「ごめん、解らない」と言って、本を机の上に残したまま、図書館を出ていった。


■■■■■■


 審査会場は入学試験の様な様相だった。洒落たスーツから汚れたチェックシャツまでいろんな服装の人間が所在なげに座っている。

 彼女も、ここに来るのだろうかと思った所で、配架ボランティアによるトショケンの入手は特に試験なんていらないことを思い出した。

 トショケンが手に入ったら、何を読もう。ふと、本を読むのが楽しみになっている自分に気がついた。

 レビューを書くと、本が嫌いになる。と彼女は言っていた。確かに彼女は自分が好きな所しか口にしない。あれではレビューにならない。でも、だからこそ彼女は本が好きなままで、それであんなに読んでこれたのだろうと思う。


 レビューが妙なことには、彼女に指摘されてはじめて気がついた。

 本の欠点をあげつらうほど点数が伸びる。一体なんであんな仕組みなのだろう。彼女みたいに、いいところだけ書けばいいのに。

 多分、多分だけれど、読まない理由を与えるためなんじゃないかなと思う。実用書以外の本を読むことは原則禁止されている世の中で、読書という行為は限られた人だけに特別に許可されるものだ。本当は読めないことが当たり前で、読めることが特別。だから、読まない理由が欲しかった。とかなんだろうかな。


 レビューを書くのはこれで最後にしようと、小さく誓った。トショケンを手に入れたら、試してみたいこともある。彼女と合った日に思いついたことだ。


 しばらく順番を待っていると、課題図書が運ばれてきた。

 今まで読んだ本の中から、ランダムで選ばれるとは聞いていたけれど、封筒の中から出たきたものを見た時、心臓がきゅっと縮まった。


 はらりとページを捲ると、ちょうどあの竜の挿絵のページだった。彼女が読んでいたあの本だ。




 僕の番が来て別室に向かう。ノックをして入ると、コンクリート打ち放ちの壁を背景に、ずらりと並んだ審査員が居た。

 粗末な椅子に座って彼らを見渡すと、彼らは難しい顔をして口を開いた。


「君のレビューなんだけれど、なんだこれは?」

「何か問題が有りましたか?」

「これは、レビューなのか? 悪いところが書いてないじゃないか」審査員が机に置いた書類を指で叩いた。

「それでいいんです。僕はその本を読んでそう感じました」ただ、淡々と僕はそうつげた。

「それはただ単に著者の言うことを鵜呑みにしている行為だ。批評ではない」

「僕は面白いから読んでいるんです。ただそれだけです。批評をする気はありません」

「批評ができない人間に本を読ませることは出来ない。いいか? 空想の過剰摂取は精神に悪影響を与える。夢見がちになり、現実との区別がつかず、フィクションに影響されて犯罪に走る」

「学校でも、そう教えられました。でもその理論に根拠はあるんですか」

「その議論は私達の仕事じゃない。政策についての疑問は窓口に投げ給え」

 僕は無言で審査員を見つめる。

「君は本を読むのに向いていないようだ。作者の思惑に引きずられすぎる。つまりは感情移入してしまうのだ。文字で書かれた情報が頭の中に作り出す幻影の世界を、自分と同一視してしまう。一種の病気だよ」

「だって、それが本を読むと言う事じゃあないんですか!」思わず声が大きくなる。

「いいや、違うね。少なくとも我々の定義では」

「腐った定義だ」

「言葉に気をつけ給え、聞かなかったことにしておくが、第三級の思想犯罪だぞ。正しくない言葉ノンコレクトワードだ」

「正しくない言葉ですか。そうやってなんでもかんでも悪いと指摘された物を、何も考えずに、場当たり的に、外面だけ取り繕ろってきたんだあなた方は」

 ふと、彼女の顔を思い出した。輝いた瞳で好きな本を語る彼女の顔を。はっきりと解った。自分はああなりたかったんだ。こうなりたかったんじゃなく。

「もういい!」審査員は強い口調でそういうと、首を振った。

「もういい。君にレビューは無理だ。トショケンは認められない」

 僕は、少し間を置いて「でしょうね」と言うと、会場を後にした。


■■■■■■


「昨日、トショケンの申請に行ってきたよ」彼女にそう報告すると、彼女は静かに本から顔を上げ、

「どうだったんですか?」

「駄目だった。レビューを書かなかったから」僕は事の顛末を短くまとめた。

 彼女は、少しうつむくと「ごめんなさい」と言った。

「私が、レビューが嫌いだって言ったから?」

「いいや、全然そんなことはないよ。謝るのは僕の方だよ。君に会った時にレビューなんてやめればよかった。

 僕は、ただ単に気がついただけなんだ。最後の最後だったけど、気がつけてよかった」

 だから、と付け加えて僕は鞄を開く。


「今度は君と同じ方法でトショケンを手に入れるよ」僕が鞄から引っ張り出したエプロンを見て彼女が微笑む。

「今後もよろしくね。同僚さん」差し出された手を握る。柔らかい、人の温度がした。


「……それで、あのさ、せっかくだから、一つ確かめたいことがあるんだけれど」

「なんですか?」

 僕は無言で彼女の隣に座り、さっき本棚から貸出処理を通して持ってきた本を広げた。

「今月はあとどれくらい読める?」

「ええ、と、あとこれだけです」彼女は端末を開き、僕に見せた。

 僕はなるほどと頷くと、彼女に言った。「一緒に読もう」

 彼女は不思議そうな顔をして僕を見つめる。


 僕が右、彼女が左ページを持って本を開く。

「さあ、僕らは本を読んでいる。ここでページを捲ってみる。すると君の数は?」

「……減っていません」といった後、一瞬間を置いて彼女はえっと言う声を漏らした。「なんでですか?」

 僕は頷くと「僕のは減った。つまり、こういうことさ。本は開くと、開いたページの文字数分、今月の文字数から差し引かれる。

 当たり前で、シンプルな原理だ。でも製作者はこういう状況を想定していたんだろうか? 本を二人で読んでいるなんて特殊なケースを想定した設計者が居たんだろうか? それで試してみたんだけれど、思った通り。これで解った。本が貸し出されている状態だと、読んだページ数は本を借りている一人にしかつかない。

 コンフリクト解消のために、優先順位があるみたいだ」


 はじめに気がついたのは、彼女に初めて会った日のことだ。

 初めて彼女と話した日。彼女の文字量としてカウントされていたのだ。


「じゃあ、これは……」

「二人で読めば、二倍読めるってことさ。トショケンを手に入れるまで、何年かかるか解らないけれど、月に20万文字、やってみるのはどうかな」

 彼女は両手で口元を押さえると、直ぐにとびきりの笑顔を見せた。

「ありがとうございます!」


「それと、引き換えにというと厚かましいかもしれないけれど……一度読んだ本はカウントされないんだよね。だったら、君が読んだ本をもう一回借りれば」

 彼女は僕の言いたいことを直ぐに理解したようだ。


 彼女の目をしっかり見て僕は言う。


「君のいままでを、僕にも読ませて欲しい」


 図書館が好きだ。彼女の隣に座って僕は本を捲る。頬と頬がくっつきそうになるくらいの近さで、僕らは同じページを見つめる。

 視線が文字の上を滑り、呼吸が重なる。彼女と僕との読む速度は段々と着実に近づいていく。

 言葉に出さなくても、ページを捲るタイミングが完全に揃った。今僕らは、同じ本の同じ位置を、たしかに読み進めている。それがはっきりと解った。

 これからの人生、一体何冊の本を読めるのだろう。それはどう考えても有限で、それは世界全体のほんの一部でしか無くて。でもそのちっぽけなものを、二人で大切にしていけることが嬉しかった。

 毎日少しずつ。こうやって彼女と一緒に本を読んでいこう。いつかトショケンを手に入れるその日まで。

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レビューを書いてトショケンを手に入れよう 太刀川るい @R_tachigawa

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