条件付き無条件の愛

 私は監視員に連れられて、病院の片隅にあるカウンセリングルームの前に立った。

 訪れた人々の靴底がつけたであろう黒い汚れが点々と残る白い床と、廊下で待つ人々の重い溜息を受け止めつづけて薄っすらと黒ずんだ青い壁紙が、入室者に落ち着きを強制していた。


 我が子と引き離されてから、すでに三日が経っていた。

 なぜ自分の子どもと離れ離れにならなくてはいけなかったのか。

 なぜカウンセラーと話さなくてはいけないのか。

 私は未だよくわからずにいた。


「よろしいですか?」


 目の前の、子どもの頬を思わせる淡いピンク色のスライドドアを叩き、監視員が言った。

 ほどなくして、


「どうぞ」


 と、穏やかな返答があった。カウンセラーだとか、精神科医だとか、人を観察してどうにかしてやろうという人々に少なからぬ気味悪さを抱いていた私は、その声色に気が抜けるようだった。


 ゴロゴロと硬いゴム毬を転がすような音とともに扉が開かれ、私は促されて部屋に入った。

 入ってすぐのところに使い込んだふうの丸テーブルが一脚あり、L字型に置かれた柔らかそうな椅子のひとつに涙袋のたるんだ中年の男が腰掛けていた。その傍らに若い女が立っていて、私の顔を見るなりごく微かにに目尻を吊った。


「やぁ、お待ちしていました。どうぞそちらに」


 と、男が恩着せがましい文言を並べながら腰を上げ、もうひとつの椅子に座るよう言った。

 私は男と挨拶をふくめた事務的な会話を交わしつつ部屋を見回した。

 人工的な生活感の漂う奇妙な部屋だった。


 何百人も訪れたあとのモデルルームといった気配だ。しかもリビングと子供部屋が共存しているような居心地の悪さがある。扉を背にして左側は、ぬいぐるみやら玩具やらがわざと崩したように散らかっていて、対照的に右側の空間は、もっともらしさを主張する本棚やら育ちすぎたくらいのパキラがあった。


 その、逆立つ三編みのようにねじくれたパキラの幹と、曇ったガラスブロックで作られた奥の壁が、部屋を構築したであろう中年男と若い女の精神性を示しているようだった。


「――ええと、聞いていますか?」


 男の声に私は間髪入れず答えた。


「もちろんです。私は名字や名前で呼ばれたくありません」

「……あー……」


 男は一瞬、虚を疲れたような顔をして、乾いた唇の両端をぐっと引き上げた。


「では、なんとお呼びすればいいですか?」

「あなた、で構わないでしょう。私は先生とお呼びします。それと――」


 私は先生の傍らで顔を固くしている女に目をやった。


「そちらの方は、アシスタントさんとお呼びします。構いませんか?」

「ええ、初回ですし、そうしておきましょう」


 先生はいかにも気にしていないと見えるような熟練の返答をした。一方で、アシスタントが腰の前で重ねている手の、ごく微かな震えは、難物が来たと語っている。

 だが、構わない。

 私は先生に切り出した。


「それで先生、私はいつ子どもと会えるのでしょうか」

「……私の話は聞いていらしたんですよね?」

「もちろんです。私の精神的な安定が確認できたら会えるというお話でした。見てのとおり、私は精神的に安定しています。ですからお子さんに会えるはずです」

「……これから少しお話をさせてもらって、判断はそれからですね」

「まだ話す必要があるんですか? 私の精神的な安定はまだわからない?」

「表面的な受け答えができるかどうか、という点については確認ができましたよ」


 先生は笑顔を固着させた頭を傾け、頭皮を左の中指で掻いた。


「それでは……あなたは、どうしてお子さんと引き離されたかお分かりになっていますか?」

「はい。通報されたからだと認識しています」


 ぐっ、と先生とアシスタントの周りの空気が重くなった。


「……聞き方を変えましょう。どうして通報されたのか、お分かりですか?」

「アシスタントさんは話さないのですか?」


 私がそう尋ねると、アシスタントは、


「えっ」


 と、戸惑うような表情をみせた。

 先生はちらとアシスタントを見やって首を小さく横に振り、すぐに私に向き直った。


「私の質問に答えてください。どうして通報されたのか、あなたは理解していますか?」

「私があの子の人差し指を折ったからではないでしょうか」

「…………そうです」


 先生は長い沈黙の後にそう言って、手元のクリップボードに視線を落とした。


「それ以外にもお子さんに暴力を振るっていましたね?」

「いいえ。暴力なんて一度も――」

「お子さんの肋骨は二箇所も折れていました。痣もありましたし、体重は他の子供の三分の二くらいしかない」

「それが何か」

「何かって――」


 アシスタントが硬い声を零し、重心を前に傾けた。すぐに先生が片手をあげて押し留め、私に言った。


「お子さんに悪いことをしたとは思っていない?」

「はい。まったく思っていません」

「お子さんに暴力を振るったとき、何か感じませんでしたか?」

「ですから、暴力は一度も振るっていません」


 病院で働いているくせにずいぶん頭の悪い男だな、と私は思った。

 世界で最も愛おしい我が子に、親という生き物が暴力を振るうはずがない。暴力とは、怒りや、憎しみや、悲しみといった、要らない感情を他人にぶつける行為だ。我が子にぶつけるような輩は、人の親を名乗る資格はない。

 先生はかろうじて悪態をこらえたというような顔をして、私の側に体を傾けた。


「では、なぜお子さんの指を折ったのですか?」

「ピアノの鍵盤を押し間違えたからです」

「……それは暴力ではない?」

「まったく違います」

「では――?」

「愛です」

「愛」


 先生の顔から笑みが剥がれ落ちた。アシスタントと顔を見合わせて、しばらく視線を宙に投げ、やがてたしかめるように言った。


「愛というのは……指を折ることがですか?」

「はい。それも愛のひとつです。あの子は私に約束しました。必ず、一音も間違えずに、最後まで弾くと、私に約束したんです。約束は守らなければなりません。破ったのなら」

「罰を?」

「……そうです」


 人の話を遮るとは、なんて失礼な人なのだろうか。

 私は先生の評価を修正しながら発言した。


「罰を与えるというのは、愛です」

「それはなぜ?」

「罰を与えれば、きっとあの子は私を嫌うでしょう。ですが、私はあの子を無条件に愛すると決めていますから、嫌われることにも耐えられます」

「――無条件の愛って――」


 アシスタントが顔を歪めた。先生が口を開くより早く、私は尋ねた。


「なんですか?」

「えっ」

「嫌われようが、憎まれようが、すべてを許して、受け入れ、愛を注ぐ。親とはそういうものでしょう。違いますか?」

「それは、だって――」

「キミ、少し待って」


 先生が、また話を遮った。まったく失礼な男だ。親の愛が足りていないか、人の観察ばかりしているうちに他人への愛情を失ってしまったのだろう。


「あなたは今、罰を与えたら嫌われると、自分でおっしゃいましたね?」

「はい。言いました」

「ご自身でも悪いことをしていると理解されているのではないですか?」

「……悪いことというのは?」


 先生はなにを言いたいのだろうか。罰を与えるのが悪いことだとするなら、なにも手をくわえずにいろとでも? ありえない。


「私に育児放棄ネグレクトしろとおっしゃっているんですか?」

「少し極端すぎるのではないかと、そうお聞きしてるんです」

「極端というのは?」

「子どもの失敗の対して、罰が重すぎるとは思いませんか?」

「いいえ。まったく」

「それはなぜ?」


 私はアシスタントが表情を硬化させていくのを見て、ため息をついた。


「私はあの子と痛みを分かちあっています。できれば痛い思いなんてさせたくないんです。私だって辛いんです。苦しいんです。ですが子どものためなら何だってします」

「……言葉で伝えれば十分だと思いませんか」

「先生は足りているかどうか事前にお分かりなのですか?」

「……いえ、しかし――」


 先生はそこで言葉を切って、唇を口中に引き込むようにして押し黙った。

 予言者でもあるまいし、結果が分かるはずがない。詭弁ばかり並べ立てて、この男はどうかしているのかと私は思った。

 罰を与えるのなら、最大限に。

 絶対の、無条件の愛をもって執行しなくてはいけない。

 それが分かっていないということは、もしや。


「先生はご結婚をされていますか?」

「――いえ」


 先生はとってつけたように顔を明るくした。


「病院勤めですとなかなか難しいんですよ」

「それで我が子に愛情を注ぐというのがどういうことか、お分かりにならないのですね」


 一瞬にして先生の顔が凍った。図星だったようだ。

 けれど、大丈夫。

 私は我が子に愛を注ぐつもりで先生に語りかけた。


「先生にもご両親がおありでしょう。機会がありましたら、先生のことを愛していらしたか、お尋ねください」

「あー……いえ、私は……」


 先生は少し気まずそうに頬を掻いた。やはり、親と上手くいっていないのだ。だから無条件の愛がわからない。いや、わかっていないからこそ。


「すべて許してあげてください。受け入れてあげてください。無条件の愛を注いでください」

「そんなの愛でもなんでもないじゃん」


 アシスタントが吐き捨てるように言った。

 先生が慌てて立ち上がろうとしたが、私はそれを止めた。


「では、愛とはどのようなものですか?」

「どんなって――」


 アシスタントは私と先生のあいだで視線を往復させ、先生が頷くや否や私を睨んだ。


「無条件の愛って、そういうものではないと思います」

「ですから、どんなものかとお尋ねしているんです」

「だから……暴力を振るわれて、愛せると思っているんですか?」

「思います」


 私は即答した。当たり前の話だった。


「それどころか、実際に、私はあの子を愛しているんです。噛みつかれたことなんて一度や二度じゃ足りません。血が出たことだってあります。そのたびに私は罰を与えましたが、愛がなければ罰なんて与えません。放っておけばいい。私にはそんなむごいことできません」

「そんな――」


 アシスタントは口をパクパクと開閉していた。次の言葉がでてくる気配が見られなかったので私は話を続けた。


「あなたはご両親に愛されていないとお思いでしょう」

「なっ――愛されてます! 失礼な!」

「キミ!」


 声を荒らげるアシスタントを止めようと、先生が席を立った。

 まったく呆れた人たちだと思いながら、私は言った。


「いいんですよ、先生」


 これは、本当に仕方のないことなのだ。


「アシスタントさん、無条件の愛がわからないからといって、ご両親を責めないであげてください。やり方が間違っていたかもしれない、教え方が間違っていたのかもしれない、ご両親もきっとお悩みのはずです。でも、試行錯誤の結果なのです。許してあげてください。すべてを許し受け入れるのが無条件の愛というものですから」

「――っ、ふざけんな! あんたがやったのはただの虐待だ! 愛なんかじゃない!」

「ふざけてるのはどっちだ!」


 私は思わず声を荒らげた。愛を理解できないことは悲しいことだが、悪ではない。いずれ分かるようになる。だが、


 虐待とはなんだ!


 絶句する先生と、顔を青ざめるアシスタントに、私は言った。


「無条件の愛さえあれば、どんなことをされたって許すことができる。受け入れることができる。親の愛をなんだと思っているんですか? 愛に形を作ろうだなんて馬鹿げて、ます『普通』だの『世間』だの『一般的』だの、世界でたったひとりの私の子どもをなんだと思ってるんですか!」


 叫び声を聞きつけて監視員が部屋に飛び込んできて、何をやっているんだと、私を羽交い締めにした。 

 私は愛を理解できない馬鹿者どもに叫んだ。


「私はあの子を愛しているんです! 誰よりも愛してる! いつかあの子もわかってくれます!子どもに会わせろ! 取り返しがつかなくなる前に、私にあの子を返せ! お前たちはなにも分かってない!」


 監視員に引きずられてカウンセリングルームを出て、なかば押し込まられるようにして車に乗せられたとき、私はすでに落ち着いていた。

 私は私をシートに縛り付けるベルトと腰縄に目を落とし、流れていく窓の外を見つめた。


「無条件の愛に条件をつけるだなんて、ナンセンスだ」


 早く我が子に会いたかった。

 可哀想に、今も条件付きで愛されているだろう自慢の子を、私の愛で救ってあげなくては。

 ああ、次の赤信号はいつだろう。

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思いつき短編供養 λμ @ramdomyu

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