Chapter 17

 私は昨日12月22日に、横浜からブリュッセルへと移動してきた。グランプラスから徒歩10分足らずのホテルで一晩を過ごした。そして明日には日本へ戻ることになる。この場所に来た私の目的はただ1つ。今夜、真咲に会うこと。

 最後に真咲と会った日から20年が経過している。20年……当時17歳だった私と16歳の真咲に、その月日の長さも意味も想像することができるはずもなかった。

 私がもしも10年前に実咲を妊娠していなかったら、どんな状況下であっても私はここへ真咲に会うために足を運んでいたはずだった。私は彼にどうしてももう一度会いたかった……会わなくてはならない。

 真咲は10年前の約束の日にここへ来たのだろうか。もしあの日に真咲が来ていたとしたら、どのくらいの間現れない私を待っていたのだろう。今回はもう来ないかもしれない。もしかしたら、私のことは過去として真咲の中では完結してしまっているのかもしれない。さらに、もしも10年後に会えなかったとしたら次はそのまた10年後だろうと、真咲と一緒に過ごした時間を基に私が直感的に思いついた不確かな約束だ。20年後の再会の約束など、言葉で交わされていない。真咲が今日ここに来る確証などどこにもない。

 一方で、真咲が万が一まだ私と同じ気持ちを失っていないのなら来るかもしれない……そんな希望を捨てられずにいる。

「待ってて。俺は必ず可奈を迎えにくるから」

 真咲は私に何度もそう繰り返した。私には、彼のその言葉を信じないことはできない。

 それに、もしも10年前に真咲が私をここで待っていたとしたら、約束を破った償いとして今度は私が待ちぼうけをする番でもあるのだ。私が今日、待ち合わせに行かない理由はどこにもない。

 真咲は今どんな人生を送っているのだろう。学業は最後まで続けたのだろうか。真咲は何を勉強したのだろう。

 ブリュッセルの真咲の部屋に大切そうに並べられていた、彼のモデルカーのコレクション。私が手に取ろうとすると、駆け寄ってきて「これは飾りものだから、触っちゃダメなんだ」と慌てていた微笑ましい真咲を思い出す。私にとっては何の値打ちのないものを、彼が小さな子どものように大事にする姿はとても愛らしかった。

 真咲はどんな仕事をしているのかな?

 あれから真咲は何人の女の人を愛してきたのだろう。私と同じように誰かを傷つけ、自分も傷ついて生きてきたのだろうか。今は大切な人がいるだろうか。結婚は?子どもは?幸せだろうか。

 それら全てを、私が真咲と一緒に築き上げることができた可能性を考えると、胸が張り裂けそうになる。それでも今真咲が幸せなら、それでいいと思える。もし彼が今日ここに来ない選択をしたのなら、私はそれを素直に受け入れることができる。私はきっとそれで、真咲をようやく諦められるような気がする。もしかして彼は10年前に私を待ちながら、今の私と同じように考えたのだろうか。

 私はここに来るまで何ヶ月もの間、幾度となく繰り返しそんなことに思い巡らせ自問し続けてきた。それでも尚、私が未だ直視できない質問が残されている。

 もしも真咲が今日私に会いに来て、一緒に幸せになりたいと言ったら?




 昨日の午後にブリュッセルに到着して、夜に4時間ほど眠り、昼間に1時間ほど仮眠を取った。今日それ以外の時間は朝からずっとホテルの部屋の机に座り、気を紛らわせるために仕事をしている。部屋から出ずに食事は全てルームサービスで済ませた。一日中しきりに振り返っていたナイトテーブルにはめ込まれたデジタル時計を見ると、ようやく午後4時半を過ぎていた。待ち合わせは7時なので、ゆっくりと身支度をしても充分すぎるほどだ。それでも、これ以上時間を持て余すのを苦痛に感じ、バスタブにゆっくりと浸かりながら本を読むことにした。私が一番好きな時間の潰し方だ。

 気分をリフレッシュしてお風呂から上がり、いつもよりも時間をかけてメイクをする。パーマがかかった肩にかかる毛先をドライヤーで乾かしながら指を通して髪を整える。防寒用のインナーを身に着け、明るいグレーのオフタートルネックのセーターと黒のパンツを着てから、ローヒールの歩きやすい黒いブーツに足を入れる。白いカシミアのマフラーを肩と首を覆うように巻いてから、玄関のドアの隣にある大きな鏡で全身を確認する。そして、鏡の中の自分の目を数秒見つめる。

 これが今の私。

 真咲にこの姿を見られることを想像すると、少し不安な気持ちになる。彼を失望させないだろうか。

 ナイトスタンドの時計を見ると18:08と表示されている。

 マフラーをベッドに置きバスルームに戻り、お気に入りの香水をまとってコーラルピンクのリップを塗る。それから、セーターの襟を広げ、ダイヤモンドをハートの形を確かめるように手で触れてセーターの中に戻す。鏡の中の自分と向き合い大きく深呼吸をひとつする。

 再びマフラーを巻き、フードにグレーのファーがついた黒いコートを着て、ファスナーを首までしっかり上げる。指の間に赤いアクセントが入った黒い革の手袋をはめ、昨夜ホテル近くのブティックで購入したばかりの黒と白のストライプのベルトがついた黒革のバックを肩にかけ玄関へ向かう。ルームキーを取りドアノブに手をかけながら、目を閉じてもう一度深呼吸をしてから外へ足を踏み出す。




 20年ぶりに訪れたかつて暮らした街は、一見あまり変化がないようだ。おぼろげな記憶を辿って歩くと、昔と変わらない小道や教会が道案内をするかのように、私の記憶を鮮やかな色に塗り直していく。特にこの辺りの中心地は、同じ建物が何世紀もの間街並みを形成している。目まぐるしく変化する時代と価値観の渦の中で、何百年も超えることのできる人工的な美しさが存在するのだ、と主張しているようだ。

 石畳の小道を抜けグランプラスに足を踏み入れると、20年前とまるで変わらぬ美しさに圧倒される。広場を囲む建物は白い光でライトアップされ、暗い夜空を背景に典麗なモチーフを誇示している。この場所で長きにわたりこの風景を眺め続けているここ建物にとっては、私と真咲には果てしない長さの20年など刹那的な時間なのだろう。

 かつてこの場所で私は真咲と手をつなぎ、抱きしめ合い、キスをした。今の私には、それはまるで別世界での出来事のように感じる。同じ映画館で上映される、違う映画を見ているようだ。

 私は広場の中心へ向かい、上を見上げてゆっくりと全方向の建物を眺める。口から洩れる息は白い。気温は2℃。凍てつく寒さにもかかわらず、広場は世界各国からの観光客で賑わっている。

 電話の時計に目をやると18:34と表示されている。私は人の間をすり抜けて王の家の前に移動し、真咲をここで待つことにする。今夜現れないかもしれない相手を長く待つ覚悟はできている。

 じっと立っていると寒さが私を捕らえ、じわじわと足元から冷たさが這い上がってくる。15分以上経過しただろうか。足の指先が固まりしびれてくる。

 寒さを忘れようと、少しでも細かく記憶の中の情景を甦らせるためにグランプラスの建物をじっと見つめていると、私の眼球の中で時空が錯乱してくる。真咲と20年前に見た光景が脳裏を過ぎり目まいがする。

 あの頃、私の隣には真咲がいて、人生の中で一番輝ける世界を見ていた。彼がその眩しい世界の中心だった。彼の細く長い腕に抱かれながら、寒ささえも遮られたふたりだけの世界で見たこの光景は、この世のものとは思えないほど崇美で圧倒的だった。私は真咲を愛していた。私の人生を全て捧げたいほど、あふれ出てくる自らの感情の中で溺れて、自分を見失うほどに愛していた。真咲の大きな手、長い腕、細い体、見かけよりも柔らかい髪、ウソを見抜きそうな透き通った瞳。どんなに私が強く重い愛情を彼に押しつけても、彼は同じ分量の愛を私に注ぎ込んできた。見つめ合って、キスをして、体を重ねていると、真咲が私とは違う人間だということが信じられなくなるほど、深いところでつながっていた。私は彼を幸せにしたいと切望していた。

 真咲と一緒に過ごした5年の間、彼は私の全てだった。そして、彼と離れてからの私の人生には、いつも何かが欠けているように感じていた。

 20年経過した今でも真咲を思い返すと、私の身体の中に熱い何かを注ぎ込んでくる。あんな恋は二度とできない。ほかの人とでは無理なのだ。真咲とだから、真咲とだけ私はあんな魂の存在を肯定するような恋愛ができたのだ。

 昔と変わらないグランプラスで、当時の自分の気持ちを思い出し胸が締めつけられる。

 現実に戻ろうと、上方に向けていた視線を広場の中へと降ろし、やんわりと光るツリーを中心に広場内を見渡す。ポケットから手を出しコートのフードを被り、手袋をはめた両手で頬を挟みながら、冷たく凍り付いた足元を見つめた瞬間に、何か視界に違和感を覚えたことに気が付く。

 ハッと息をのんで顔を上げもう一度周囲を見渡すと、私の目はその違和感を見つけるために視野に入るものをスキャンし始める。

 すると、広場の反対側の右隅から私を見つめる視線とぶつかる。そして、それが合図だったかのように、彼は両手をコートのポケットに入れたまま、ゆっくりと私の方へ歩みだす。

 ネイビーブルーのコートの襟元にグレーのマフラーが見える。ダークグレイのパンツの足元には、黒く磨き上げられた靴が光っている。短く切られた髪は昔と変わらない茶色だ。けれども、見慣れていた輪郭は面影をかすかに残す程度で、顎は鋭く角ばり目や鼻は凹凸が顕著になっていて、かつてよりもさらにアジア人の特徴が薄れている。辛うじて目の形にその特徴が見受けられる程度だ。

 私は微動だにせず立ちつくしている。ゆっくりと私に近づいてくる真咲は、私の知らない人にしか見えない。とても美しい男性だ。私が彼をブリュッセル空港で最後に目にした時よりも身長が高くなっている。私と25センチくらいの差がありそうだ。彼の身なりや所作から、現在の彼の生活が社会的に成功したものだと察しがつく。

 外見はすっかり変容しているが、それでも、彼の瞳が真咲だと証明している。ウソを許さないような、冷たく支配するような、攻撃的な眼光は昔と変わらない。その瞳は今緊張した面持ちの中で優しく私を見つめている。

 胸が締めつけられ苦しくなる。私は胸の前で右手をギュッと握りしめる。

 不自然なまでにゆっくりと足を進めていた彼が、とうとう私の目の前に立つ。

 私は彼の目にどう映ってるのかな……

 20年前にこの場所でふたりだけの世界の中で夢を見ていた頃は、私が頭を傾けると彼の顎や肩の位置に収まっていた。そうして毎日抱き合っていた。私は真咲の肩越しの風景に見慣れていた。けれども私の顔は今、目に前にいる人の肩までも届かない。

 お互いに何も言葉が見つからず、私たちにできることは、目の前の存在を確かめるためにしっかりと抱きしめ合うことだけだ。

 私が記憶している真咲よりも広い肩と大きな胸に顔を埋めると、がっしりとした腕が私を包み込む。見知らぬ人に抱かれる緊張と、懐かしい愛情に触れる温かさが混在している。

 彼によく似合うシトラス系の香水の匂いがする。私の好きなブルガリだ。

 真咲の口から私の記憶よりも低い、聞き慣れない音が発せられる。

「よかった……」

 そうだね。

 この場所で再会できて……

 私たちが同じ想いを持ち続けていられて……

 あの頃の私たちが、幻ではなかったんだって確認できて……

 あれから20年、ずっと真咲のことを想い続けてきたの。やっと真咲に会えた…… 

 私の口から震える声が漏れる。

「うん、よかった……」

 私を抱く真咲の腕に力が込められる。私は何かに必死にしがみつくように彼の胸に顔を深く沈める。

 その瞬間、グランプラスのイルミネーションが全て消され広場が暗闇に陥る。そして、幾度となく耳にした今年のポピュラーソングが広場の中でエコーがかかり私たちを包み込むように流れ出すと、広場の全方向の建物が音楽に合わせながら白、ブルー、パープルのライトで照らされ色が変わり始める。広場にいた全ての人が息をのみ、幻想的な美しさに吸い込まれていく。




 まるでそれが合図だったかのように、長い間開けないように必死に塞いでいたフタが壊れ、私の心と思考を津波のように侵食していく。

 でも、今はもう私の真咲じゃない。真咲の可奈でもない……

 お互いの厚いコートで隔てられ、20年前には存在していなかった境界線をはっきりと感じてしまう。

 今日までずっと見ぬふりをしてきた、頭の隅に隠れていたその事実を認めることは、今までの私には絶対にできなかった。したくなかった。けれど……自らの腕で抱きしめて、ようやく現実を甘んじて受け入れなければならないのだと悟る。

 心も身体も空洞になった気がする。私の人生で一番大切だと信じていたものをすでに失っていたのだ。私だけを見つめ愛していた真咲はもういない。

 苦しいのか、悲しいのかもわからない。ただやるせない気持ちに襲われる。虚脱感。こんな時ドラマの登場人物だったら、大きな口を開けて狂ったように乾いた笑い声を上げるのもしれない。そうすれば少しは楽になるのだろうか。

 でも私にはまぶたを閉じ唾を飲み込み、誰も見ていない真咲の胸の中で自嘲するように口を少し引きつらせるのが精一杯だ。

 私たちが離れてから今日まで、私が真咲ではない違う誰かに恋をして抱き合ってきたように、真咲も私でない誰かを愛し抱いてきたはず。この20年の間に私たちは、それぞれの大切なものや失うことができないもの、守らなくてはならないものを築き上げてきた。いつの間にか私たちは、自覚しているよりも遥かに大きく変わってしまっている。だから今こんなに近くにいるのに、やっと会えたのに、感じられるのは決して埋まることのない違和感と境界線なのだ。

 20年間離れていたんだという現実。

 私は、かつて我を忘れて私のクラスメイトに嫉妬した、私は彼のものだと独占欲をむき出しにした真咲を愛していた。しかし、あの時の真咲はもうどこにもいない。

 ねぇ、真咲。私たちはこんなにも長く離れているべきじゃなかったんだよ。なぜ20年前につないでいた手を放しちゃったの?苦しくても、辛くても、うまくいかない結果だったとしても、私たちは手を放しちゃいけなかったんだよ。

 どうして真咲は、もっと早くに私を迎えに来なかったの?

 私はなぜ今日まで待たず、真咲を探しに行かなかったのだろうと自問する。




 私がベルギーへ出発する前日の夜、実咲が眠ったのを確認してから宮路はリビングルームに戻ってくると、ソファに座って資料を読んでいる私に静かに言った。

「待ってるよ。だから、気をつけて行っておいで」

 そして、宮路は私から距離を置いてソファに腰を下ろした。

 私は宮路の顔を見ることができず、窓の外を眺めながら口を開いた。

「行くな、とは言わないの?」

 私の横顔に彼の鋭い視線を痛いほど感じた。

「そう言ったら、行かないのか?それで可奈はそいつのことを諦めて、忘れて、俺の隣で幸せだと心から思える日が来るなら、行かないでほしい」

 宮路はそう一気に吐き出してから苦笑した。

「けど、今までのようにそいつを想い続けるのなら……何が現実なのか、可奈がほんとに望む幸せがなんなのかを、そいつに会ってきちんと見定めてきてほしい」

 私は宮路を見据えた。彼がどんな表情で彼の思いを私に伝えているのか、私は知っていなければならないし、向き合わなくてはいけないのだと自らを諭した。

「その結果、俺が障害となる存在であれば、俺は諦めるよ。俺が可奈と出会って今まで幸せだったのは揺るぎない事実なんだ。それに可奈は、何よりも大切な実咲をくれた。この15年、俺ができることは全てやったつもりだ。あとは可奈に任せるしかないと思ってる」

 私は目を閉じ、彼の言葉をしっかりと胸に焼き付けた。まぶたの裏に熱いものを感じたが、ここで私が泣く資格はないのだと、自分に言い聞かせこらえた。

「でもな、可奈。最初の10年はなんとなく理解もできる……大人になるための時間が必要だったっていう……」宮路は苛立ちを隠しているような低い声で続けた。

「でもだったら、その後の10年、そいつは何をしてたんだ?ほんとに可奈がほしいのなら、迎えに来れたんじゃないか?俺には納得がいかない……こんなこと俺が言っても、ただのひがみにしかならないってことは、わかってはいるんだけどさ」

 そして宮路は、「もし、そいつと子どもに名付けることがあれば、タカシとかユキエとかにするか?」と笑った。

 それが優しい宮路にできる精一杯の私への復讐なのだと思った。

 それでも彼は最後に「待ってるよ」と静かに言い残し、寝室へ入っていった。




 この15年間、宮路は私と一緒に人生を歩んできた。彼は離れている時も私を想い、一緒にいる時は私に惜しみなく愛情を注いでくれた。ふたりで勉強し、働いて、子育てをしてきた。私たちの収入を合わせて大人として責任を持って、できるだけ幸せな生活が送れるように毎日努力をしてきた。

 宮路は私を女としても家族としても心から愛してくれていた。私は彼の人生で一番大切なパートナーだった。何より彼は、私たちの子どもを心から愛し大切に育てている。

 そして、私が真咲のことを想い続けていても、静かに見守ってくれた。何度も何度も彼を傷つけ続ける私に最後まで「待ってるよ」と言ってくれた。

 私が明日横浜のマンションに帰り、玄関を開けて宮路に「ただいま」と言えば、すぐそこに温かく穏やかな幸せを用意して彼は私を待っている。

 私はそんな人を失うことができるのだろうか。

 もしここで宮路を失ったら、今まで真咲を想い続けたように、またこれから先宮路を想うことにはならないのだろうか。

 私はこの15年間、いったい何を見てきたのだろう。優雅なフレームに飾り立てられた真咲との過去ばかりにしがみついて、自分の手の中にある大切なものをずっと見落としてきたのではないだろうか……それに気づかないふりをしたまま宮路を傷つけ、手中にある貴重なものを失くしてしまうことなどできるのだろうか……




 私にとって真咲と一緒に過ごした5年間は、宮路との15年間よりもインパクトが大きい。

 真咲と私はまだ大人になりかけの子どもで、見るもの聞くもの全てが新鮮だった。20年前のあの時だからこそ、私たちはあんな純粋で独善的な恋愛ができたんだ。

 私は20年前、最高に幸せだった。

 しかし、私たちはもう二度とあの頃には戻れない。

 今日この場所で長い間待ちわびた真咲に会って、私が初めて経験した恋愛が終わっていたことにようやく気がついた。私たちは変わり果ててしまったのだ。結局、大人になるということは、そういうことだったのだ。




 真咲は彼の胸にしがみつく私を見下ろし、まるで私の考えを読み取るかのように、冷たく透き通った目で私を直視している。

 それから真咲は、私の頭を支えるように大きな右手で抱きかかえ、私の耳に悲痛な声で囁く。

「あれから20年間、ずっと可奈のことを想い続けてきた。やっと可奈に会えた……」

 真咲のその言葉は、私の身体を強い衝撃で打ちのめし、見え始めたと思った結論を瞬く間に打ち砕いていく。

 私たちは変わり果てたはずなのに、それでもまだ真咲は私と同じ気持ちを口にする。

 真咲……別人のような顔と声で、でも昔と同じ瞳と表情で、どうしてそんな残酷なことを言うの?

 真咲を見上げたままの私の目から熱い涙がこぼれ落ちていく。

 私を抱きしめる真咲の腕も肩も胸も昔とは全然違っている。けれど、彼の指や腕のまわし方も力の加減も、間違えようもなく私の身体が記憶している真咲の抱き方だ。

 たとえ私たちは変わり果てたのだとしても、やはりこの人は私が20年前に全身全霊で愛した人なのだ。

 そして私は絶句する。

 まさか、真咲は20年前にこの状況を想定していたのだろうか。

 真咲は私を最初に抱いた日から“迎えに行く”と何度も何度も誓った。初めてのベッドの中で。夜のグランプラスで。夏の東京で。旅行先のイタリアで。私の母の前で。そして、最後の空港で。

 真咲は、私たちは出会うのが早すぎたのだと何度となく嘆いた。だから、“大人”になってから私を迎えに来るのだと。

 離れている間に私たちがそれぞれに違う大切なものを築き上げたのだとしても、それを全て失いもう一度ふたりでやり直すつもりで、真咲は“迎えに行く”と繰り返していたのだろうか。

 私がこれまで宮路と培ってきたものを全て失くして、傷つけて傷ついた私とその代償としての負担を背負い、それでももう一度私と一緒に歩いていきたいのだと言っていたのだろうか。

 真咲が不在だった20年間の全てを含めた私を、そのまま受け入れたいと言っていたのだろうか。16歳の少年にそんな覚悟ができていたのだろうか。

 かつての真咲の声が私の頭の中でリフレインする。

「可奈しかいない。可奈しかいらない」

 私とここから生きていくためには、真咲も私と同じように大切なものを失わなくてはならない。彼にはその覚悟がすでにあるのだろうか。

 脳裏に深く刻まれているかつて私が愛した今も昔と変わらない真咲の瞳が、見覚えのない胸に抱かれる私を見つめている。

 私は真咲を信じたいから、都合よく辻褄を合わせようとしているのかな……?

 私の思考が出口のないループをさまよい続ける。




 20年前、私たちはまだ自分たちの足では歩くことができない子どもだった。だからこそ、私たちは相手を幸せにできる大人になろうと別々にがんばり続けてきた。昔はふたりだけの世界で幸福を味わって満足していたけれど、そんな幸福が長く続くはずはなかった。真咲はそれをわかっていた。だから将来の自分に私を託したかったのだろう。

 私たちは大人にならなくてはならなかった。その過程で、真咲と私が一緒にいたとしても、ほかの誰かが含まれ、子どもの頃とは違う幸せや苦しみを味わうことになったのだろう。実際にそれは私が真咲と離れてから経験してきたことであり、おそらく似たような経験を真咲もしてきているはずだ。それは大人になるために、誰もが通る不可避的な道なのだろう。

 もしも、真咲と私がその道を一緒に歩んでいたら、どうなったのだろう。私たちは一緒に乗り越えることができただろうか。それとも……

 その過程で私たちが終わってしまうリスクを避けるために、真咲は“大人”になるまで私と離れていたのだろうか。

 20年が過ぎ、私たちは大人になった。私はもう、“好きじゃない女を抱ける男を見て胸が苦しくなる”ことはなくなったし、真咲もまた“好きでもない男を受け入れる女を汚ない”とは呼ばないだろう。私たちが離れていなかったら、乗り切れなかったかもしれない困難をそれぞれが克服して、私たちは今日ここに同じ想いを抱いて立っている。

 もしかして、真咲は、これを待ってたの?

 大人になった私たちがここでもう一度会うためには、どちらかの気持ちが不完全ではダメだったのだ。あの頃の自分たちを信じて、私たちが各々の意思で、約束をしたグランプラスにやってくる必要があった……そして、今それは現実となった。

 だからこそ、ここから新たに真咲と私は始められるのだろうか……今あるものを犠牲にして私たちは始めてよいのだろうか……

 私たちが一度だけ一緒に過ごした夏の東京で、真咲は私の“初めて”と“最後”を奪いたいと言った。私も、真咲の“最後”になりたいと言った。




 その時、グランプラスの中に響いていた曲が静まり次の曲が流れ始めた。イングランド出身の男性シンガーがアコースティックギターを弾き、やるせない声で歌う。今も愛し続ける妻に、死んでも、死んで幽霊になってからも離れないでくれと懇願する。切ないメロディーに合わせて広場の中の世界が、白、赤、黄色のイルミネーションで彩られる。

 離れないでくれ、と広場の中に響きわたる悲痛なリフレインは、まるで宮路の言葉のように私の耳に届く。

 そして私は、現在の私の全てを支えながら、家で私を待っている宮路を想う。


 帰る場所の決心はしていたはずなのに、跡形もなく砕け散った。

 私は絶望的な混乱の中で呆然と立ち尽くす。

 私はどこへ帰ればよいのだろう。どこに帰るべきなのだろう。

 私が帰りたい場所はどこなんだろう?


 私が身動きできずにいると、真咲は彼の大きな手で私の両肩をしっかりと掴み私を彼の胸から離し、透き通る瞳で私を射すくめるように見つめる。そして、かつて私が愛して止まなかった無邪気な笑顔を浮かべる。

「可奈、迎えに来たよ」

 そして、昔と同じように私の胸を息苦しくさせる。

 私はまぶたを閉じて大きく深呼吸する。身体に入れた冷たい空気で私の中の混沌を一掃したかった。自分の決意を素直に見つめてみると、どんな理屈や言い訳を並べても、答えは初めからひとつしか存在していなかったかのように思える。

 そして、私は意を決し目を開き、真咲の瞳を見つめ返す。

「私もこの20年間ずっと真咲のことを想って生きてきた。あのね、私には9歳になる娘がいるの。名前は実咲……」

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帰り道のひとりよがりなアーギュメント 続 七音 @NaotoClassique

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