Chapter 16

 その同じ年の11月、妊娠32週目に私は下腹部に軽いしびれを感じ産科に出向き検査をすると陣痛が探知され、自宅のベッドで絶対安静を言い渡された。そのため、大学には予定よりも早く休職届を提出することになった。

 私の両親には実家に戻ってくるよう何度も説得をされたが、私はただ寝ているだけだからとマンションに残った。宮路は通勤しながら家事をこなし、私の身体を大げさなほど心配し献身的に世話をしてくれた。

 12月に入ると、ベッドに寝たきりで暇を持て余していた私は、真咲のことばかり考えていた。考えれば考えるほど、約束の日に彼がグランプラスに来ないことはありえない気がしていた。

 23日に待ち合わせに来ない私を、彼はどう受け止めるのだろう。冬の寒いあの場所で、私をどのくらい待つだろう。そして、私がもう彼に会うつもりがないのだと受け取るのではないか。真咲も今誰か大切な人と一緒にいるのだろうか。彼は幸せだろうか。

 そして、いつもたどり着く最後の疑問は、真咲との子どもだったらどんな子が産まれただろう、というものだった。何度も同じ質問を自問しながら、生まれてくる女の子の名前を決めた。その名前は私の娘にとてもよく似合うと思った。

 1月5日に朝起きてトイレに行くと、両足の間に生暖かい感触があり、見ると透明な液体が私の両足を濡らしていた。宮路がまだ出勤する前だったため、購入したての車ですぐに私を父の知り合いの病院まで運んだ。最終的に日付けが変わったばかりの夜中に、私は帝王切開で娘を出産した。

 手術中、私の隣で不安そうに見守る宮路が「可奈、大丈夫か?」と3分に一度たずねていた。私は局部麻酔の副作用せいで少し気分が悪くなっていたが、「大丈夫」と繰り返した。手術が始まって間もなくすると、お腹を乱暴に引っ張られた感触があり、その数秒後に新生児の泣き声が聞こえた。私よりも先に赤ちゃんを目にした宮路は、涙で顔がぐしゃぐしゃになっていた。

 私の胸元で、体を震わせ驚いたように泣き続ける生まれたての赤ちゃんは、初めて見るのに懐かしい気がした。心の底から湧き上がる手にあまる感動で当惑しながら宮路を見ると、彼も同じ感動を味わっているのがわかった。私と宮路は強く手を握り合った。私たちがふたりで、この感動を一緒に感じ合えたことを何かに感謝したかった。

「愛してる、宮路さん」と私が言うと「愛してるよ、可奈。ありがとう」と泣きながら宮路が答えた。

 恐ろしく柔らかな赤ちゃんを怖々と抱きかかえながら、この瞬間を真咲と味わいたかった、と私の胸が苦しくなった。

 私が手術室から病室に移されしばらくすると宮路が笑顔で部屋に入ってきた。

「可奈のお母さんとお父さんが、すでに孫バカになってるぞ」と笑った。

 私は無表情に彼を見て、「ものすごく非道なお願いがあるの」と言った。

 宮路さんをどれだけ傷つけ続けるんだろう……

 彼は笑顔を消し去った顔に、怯えのような不安そうな表情を浮かべた。私はそれでも、宮路を見据えて、かねてから心に決めていた質問を口にした。

「私たちの大切な子どもに、私の人生でかけがえのない人の名前から、名付けてもいいかな?」

 宮路は無言のまままぶたを閉じ、ベッドの隣に置いてあるイスに力尽きたように腰を下ろし、目を覆うかのように右手を額に当てた。

 私は彼が何かを言うまで静かに待つことにした。

 5分以上目を閉じたままだった宮路が「どういう名前にしたいの?」と右手を額に当てたままの姿勢で尋ねた。

 私は「みのるに、さく、って書いて実咲(みさき)」と答えた。

 宮路は「みさき……」と発音してから、ゆっくりと目を開き私を見つめて「いい名前だね」と言った。




 実咲が生まれた頃、人見は同じ会社に勤める営業部の人と恋愛をしていた。相手は既婚者だったが、人見には結婚願望がなく恋愛を楽しめる相手でちょうどよいのだと言って笑っていた。しかし彼女が見せた笑顔はどことなく寂し気で、もしかしたら人見にしては珍しく自己制御ができないほど本気で恋をしているのかもしれないと感じた。

 実咲の生後20日目に、人見は出産祝いだと言ってオムツのパックを両手いっぱいに持って、平日の昼間に私のマンションに顔を見せに来た。

 リビングルームに隣接する部屋に置かれたベビーベッドでおとなしく寝ている実咲を、人見は起こさないようにそっと数分間のぞき込んでから、私がコーヒーを用意しておいたダイニングテーブルに戻ってきた。

 人見は「なんか可奈が母親になったっていうのが、まだ実感が湧かないんだけど」と微笑みながら「赤ちゃん、パパ似だねぇー。今のところ、可奈の面影は見えないなぁ」と感想を述べた。

 私は「会う人みんな、実咲はパパ似だって口をそろえて言うんだよね」と牛乳をたっぷりとコーヒーに入れひと口飲んだ。

 左隣に座る人見に目をやると、彼女は口を大きく開けたまま私を食い入るように見つめ、何も言わなかった。その時になって、人見に子どもの名前を教えてなかったことを思い出した。

 彼女は沈黙の後に、声の大きさを抑えていたものの、怒鳴るようにまくし立てた。

「あんた、自分が何をしてるか、わかってるの?!宮路さん、真咲の名前を知らないの?」と人見はひどく剣幕だった。

「宮路さんに真咲のことは何度か話したことがあるけど、でも真咲の名前は出したことがないと思う」

「ってことは、宮路さんに内緒で、実咲ってつけたの?!可奈、あんた……残酷にもほどがあるでしょ……」と人見は愕然とした。

 私は「確かに宮路さんには真咲の名前を教えてないけど……でも、私にとってかけがえのない人の名前から名付けたいって説明したの……」と言い訳がましく答えた。

「……信じらんない。それで、宮路さん、それを受け入れたんだ」

「いい名前だ、って」と私は消え入りそうな声でつぶやいた。

 人見は呆れ果てた顔をしていた。

「まあ、それはあんたたち、ふたりの問題だからいいけどね。でも、実咲ちゃんが大きくなって、事実を知ったらどう思うだろうね」

 私は「……でも、大切な人の名前だし……幸せになってほしいから」と視線を両手で握っているマグカップの中へと落とした。

「ふーん……言いたいことはわからなくもないけどさ。でも、もしそれが自分だったら、やっぱあんまりいい気はしないな。“母親の想い続ける男の名前”っていうのは……」

 私は返す言葉が思いつかなかった。

 人見はブラックでコーヒーを数口飲んでから私に笑顔を向けた。

「実咲ちゃん、か。どっちにしても、いい名前には変わりないもんね。あんたは、実咲ちゃんを幸せにすることだけ考えればいいよ」

 人見は私の親友であると同時に人生の批評家だった。それは私にはとても稀有で大切な存在だった。




 実咲が生まれてからの10年は文字通り瞬く間に過ぎ去った。

 私は出産3ヶ月後に大学に復職し、その後3年間ポストドクターとして働いた後に、製薬会社に研究員として職を得た。

 宮路は実咲が生まれて間もない頃、ミルクやおむつ、お風呂など日常の世話はもちろんのこと、家にいる間は常に実咲の傍にいた。夜中に実咲が泣くと駆けつけるのはいつも宮路だった。実咲が大きくなるにつれ、彼女と宮路のつながりはいっそう強くなっていくようだった。幼児期の実咲が泣いているをなだめられるのは、私ではなく宮路だった。

 宮路はよく実咲を連れて外出した。時間があれば散歩や公園に彼女を連れだした。彼は実咲を喜ばせることを生きがいにしていた。実咲が私と一緒に宮路に愛情を注いでくれているようで嬉しかった。宮路に対して私から欠けている大事ななにかを、実咲が私の代わりに彼に与えているように見えた。ふたりを見ていると少し心が軽くなった気がした。

 実咲が生まれてからも、宮路は依然と変わらずに私を愛し大切にしてくれていた。




 現在、実咲は9歳になり、私は37歳になった。私と宮路は6年前に横浜市内に3LDKマンションを購入し、今もそこで実咲と3人で暮らしている。宮路は目に入れても痛くないほど、実咲を相変わらず溺愛している。何をするにも“実咲”というのが、宮路にとっての動機や理由になるほどだ。

 マンションからは私の実家が近く、私の両親が実咲の世話を手伝ってくれるため、私も宮路もとても助かっている。恐らくこれが、一般的に幸せと呼ばれる人生であるはずだ、と私は常々感じている。

 それでも、私は真咲を諦めることはできていない。私の中にはまだ、彼しか埋めることができない空洞がある。私と宮路は入籍をしないまま、彼は法的に実咲を認知している。

 今年は真咲と離れてから20年目だ。そして、とうとう私は今日ベルギーへ出発する。あの約束の場所へ真咲に会いに行くためだ。




 ベルギーへの出発の2日前に人見と電話で話をした。平日の午後、予め約束をした時間に人見が職場から私に電話をしてきた。私は勤め先で青空の下、屋外の駐車場を歩きながら話をしていた。

「やっぱり、本当に行くんだね」と人見は質問と言うより、ひとり言のようにつぶやいた。

 私は「うん」と静かに答えた。

 沈黙する向こう側から人見がペン先で机を叩く、コツコツという規則的な音が聞こえてきた。

「可奈、私さ。あんたが宮路さんと出会う前から真咲の話を聞いてたし、本音を言うと、どこかに応援したい気持ちもあるんだよね」と人見は言葉を慎重に選びながら話した。

「だって、初めての大恋愛のカレシと20年後に結ばれるとか、恋愛映画の世界みたいじゃん。そんな美しいおとぎ話を私の親友が実現できるかも……って、夢見る気持ちはわかるんだよね」

 人見はまた黙り込み、コツコツというペン先の小さな音が時間を刻んでいた。

「でも20年てさ、あんたと真咲が一緒にいた4倍の長さだよ。今となってみれば、あんたたちの関係って、自分たちの頭の中だけでしてきた、現実性のないひとりよがりな恋愛にすぎないんじゃないかな」

 私は人見に完全に賛同していた。

「人見の言う通りなんだと思う。それでもね……今のままじゃ私にはどうしても、真咲と一緒にいた時間を、ほかの時間軸と比較できないの。それは若さのせいだった、はずなんだよね。それなのに、私はあれが真咲とだったからなんじゃないかって……その思いがまだ捨てられないの。このままじゃ諦めきれないの」

 人見は、はぁー、と大きくため息を吐いた。それは、私の言っていることには全く同意できないと断言していた。

「でもさ、私は宮路さんを知っていて、この15年間、彼がどれだけ可奈と実咲ちゃんを大切にしてきたか、この目で見てるじゃない?そしたらやっぱり、人間として、女として、親友として“行ってきな”とは言えないよ」

 人見のひとつひとつの言葉が私の心に響いた。

「うん。人見が正しいよ。私、自分でもよくこんな非情で無責任なことができるなって呆れてるんだ」

 ふたりとも無言で一呼吸おいた。

「それでも行きたいんだね?」と人見が聞いた。

「うん。行かなきゃいけないの」と私は答えた。

「それで?行ってどうするの?」人見の語気が強まった。

「真咲に会う。会いたい」私は稚拙な返答をした。

「それはわかってるの!その後、あんたはどうするのかって聞いてるの!」と人見は苛立ちを隠そうともしなかった。

 私は「わからない……」と気弱に答えたものの、本当は自分の中で答えはもう出ていた。

 少なくともこの時には、そう思っていた。

 そして人見は、今までにない辛辣さで私をなじった。

「可奈の理想は、“ずっと真咲を愛してました”って、彼の元に走ることなんだよね?しかも、宮路さんがあんなに溺愛してる実咲ちゃんを、あんたが宮路さんから取り上げるわけないってことも、私は知ってる」

 私は答える言葉が何も思いつかなかった。

 それでも人見はやめなかった。

「でも可奈が、今の時点で決心がついてないって言うからには、真咲と会って、“やっぱりもう終わってました”って、宮路さんのところに戻る可能性もあるんだよね?」

 私はやはり何も答えられずに黙っていた。何か言うべきことがあるのではないかと、息苦しくなった。それでも、何ひとつ私の口から出せる言葉が見つからなかった。

「私もあんたがバカじゃないってことはわかってる。その上であえて言うけど、あんたの行動次第で、あんたの大切な人たちの人生が大きく変わる立場にいるんだってこと……“行かない”って選択肢もあるんだってことを再認識させたかったの。だって、こんなことを可奈に言えるの、この世界で私だけだし」

 そう告げる人見の声は、私の心に温かく浸透してきた。

「……ありがとう、人見」私は心を込めてお礼を言った。

「まぁ、どんな結果になっても、私は立場も人生も変わらないところにいるから気楽なんだけどね」と笑い「気をつけて行っておいで」と優しい声音で言った。

 私は「うん。行ってきます」と電話を切った。

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