晩夏の風物詩 -5-
瑞奈は床に転がった空の財布を拾う気力もなく、しかし仕事だけは淡々と進めていた。明日使うためのアメニティを注文し、フロント販売しているジュースの在庫を確認し、売上日報にそれを書き込んでいく。安いボールペンは、ペン先を押し付けるようにしないとインクが満足に出ない。
フロントの外では、同棲相手の恋人が苛々した様子で歩き回っている。何か話しかけてくるわけでもなければ、中に入ってくるわけでもない。監視カメラの存在を気にしているのが、酷く滑稽に見えた。
この店では先輩にあたる二人のことを思い出しながら、瑞奈はボールペンを回す。あの二人は恐らく酒でも飲みに行って、そしてホテルに向かったのだろう。明日香の貞操観念が雑なことは皆知っている。それでいて身持ちが堅そうに見えるのは、虚言癖の成せる技だ。
「馬鹿みたい」
どうしてあのクズ女に、金を取られた挙句に見下されなければならないのか。瑞奈は考えてみようとしたが、寝不足の頭では根本原因までは理解出来なかった。同棲相手は働いていないために暇で仕方ないらしく、瑞奈が帰ってくると文字通り朝まで付きまとう。
一人の時間が欲しいと最初の頃は言ってみたが、淋しいとか一緒にいたいだけとか言いながら結局離れてはくれなかった。そのうちに瑞奈も麻痺してしまって、それが自然だと考えるようになった。
「私は、あの人と違う」
自分のほうがメイクも上手いし、肌も綺麗だし、煙草なんて吸わないし、言葉遣いだって丁寧である。ちゃんと「愛してくれる」恋人がいて、一緒に幸せな日々を過ごしている。ブランドのバッグだって、質屋にいくつか入れても困らないぐらいには持っているし、留学先では現地の男達に可愛いと持て囃された。
あのクズ女とは絶対に違う。馬鹿にされるのは明日香の方であって、瑞奈は高みから見下ろして優越感に浸れるはずだった。なのに明日香は瑞奈を羨ましいとも妬ましいとも思ってくれない。
「何ブツブツ言ってんだよ」
スタッフルームの外から声がする。よりによって第一声がそれか、と瑞奈はうんざりした。もう少し頼りがいのある男だと思ったのに、監視カメラ如きに怯えている。
明日香の着信に恋人が怒りだした時に、瑞奈はチャンスだと思った。あのクズ女も、男から強気に出られれば萎縮くらいはするに違いない。そう思って連れて来たのに、結果はこの有様だった。
「役立たず」
相手に聞こえない程度の声で呟く。
わざわざ情けない姿で来るというリスクを犯したのに、何も得る物はなかった。それどころか痛い出費である。
図らずもこのような形で「一人の時間」を手に入れた瑞奈は、押さえ込んできた不満が溢れかえるのを止めることが出来なかった。
こんな店で働かなければよかった。此処にいる連中より上に立とうと思わなければよかった。短期留学した時に辞めてしまえばよかった。帰ってきてから自慢してやろうなどと思わなければよかった。
そもそもクズが他人のことなど気に留めるわけなどない。どんな自慢話も不幸話も、全て「だれかのおはなし」として処理されてしまう。
「瑞奈?」
年上の恋人に憧れた。個人事業主という肩書が格好良く見えた。長ったらしいブランド名の時計が輝いて見えた。出かけもしないのに毎日磨いている革靴が格好いいと思っていた。
「なぁ、キャッシュカード貸してくれよ。金下ろしてくるから。朝ごはんも買ってきてやるよ」
猫撫で声の金の無心に、瑞奈は嫌悪感を抑えられなかった。役立たずの居候が、言うに及んで「買ってきてやる」とは何事だろう。風邪を引いて寝込んでいた時にかつ丼を買ってきて、食べられないと言ったら不機嫌になった男に朝食の調達など出来るわけがない。
何か言おうとした時に、階段を昇ってくる二つの足音が聞こえた。明日香と智弘だと気付いた途端、瑞奈の脳に熱い血が一気に昇る。
言われた通りに仕事をしている瑞奈を見て、あの二人は笑うだろう。それは容易に想像が付く。人の心など下取りサービスに出してしまったような人間に良心を期待しても無駄だった。
瑞奈は座ってたパイプ椅子から立ち上がると、丁寧にそれを折りたたんで右手に持つ。運動など滅多にしない腕には重すぎるが、今の瑞奈には大したこととも思えなかった。
惨めな思いはもう十分だった。どう足掻いても、あのクズ女は自分を認めない。気付くのが遅すぎた。だが行動するのはまだ間に合う。
「大野生きてるー?」
「まだ彼氏帰ってないの? ラブラブじゃん」
瑞奈は薄い木の扉を開く。外に一歩踏み出すと、手に持ったパイプ椅子を思い切り振り上げた。血走った瞳には、呆気に取られている恋人の顔が映っている。
「あんたのせいだーーっ!」
自分は悪くない。自分が悪いんじゃない。
恋人が悪い、明日香が悪い、智弘が悪い、天気が悪い時計が悪いキャッシュカードがブランドのバッグが時計ボールペン留学携帯スウェット革靴アメニティ。
自己顕示欲と責任転嫁をパイプ椅子に押し込めて、瑞奈は建物中に響くような叫びを上げた。真夏ほど暑くなく、秋と言うにはまだ早い。そんな中途半端な季節を象徴するかのように、どこか冷静に狙いを定める。
その後のことは、いつものように何も考えてはいなかった。
END
即席風物詩 淡島かりす @karisu_A
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