4両目


 季節は巡り、深い青空には桜の花びらが舞っている。芽吹く草木に舞う鳥の群れ、そんな命の萌芽を一面に映し出す車窓からは、暖かな春の日差しが差し込んできていた。

 差し迫った身でないのなら、存分にその光景を堪能できたのだが、今はそんな猶予はない。奥に見える『車掌室』を書かれたドアを目がけて、乗客のいない1号車を歩き出す。


 あのまま誰とも逢わずにいたら、僕はこうしていただろうか。

 ふと、この列車で目を覚ましたばかりの自分を思い返していた。もし仮にそこで列車の正体に気付いたとしても、それでもいいと動く事すらしなかったかもしれない。

 いや、動かなかっただろう。だからこそ僕はここにいるのだから。

 帽子の少年に出会い明日を心待ちにする希望を思い出した。今日までを悲嘆と共に過ごしたとしても、明日は誰だって未だ白紙。ならばなんだって出来るのだと、覚えきれないほどの予定を語る真っ直ぐな目が教えてくれた。

 若い夫婦に出会い今の自分を振り返り恥じた。持つものを悔やむ思いを募らせながら、その実何も積み重ねてこなかった自分を惨めさが襲った。一方で、積み重ねた末の実りがあれほど輝いて見えることを知った。

 年老いた二人を見て、彼らのようになりたいと思えた。いつか在りし日の自分と同じ悩みを抱えた物に厳しい叱咤を述べられる。それほどまでに結果と自身に満ちた晩節を迎え、傲岸とも取れる程に自身を誇れる時を迎えたいと。



 ――でも、彼らが見せた物はただの理想かもしれませんよ。



 声がした。目の前には初めて見た時と変わらず帽子を目深に被った車掌が、まるで最初からそこにいたかのようなさりげなさで立っていた。


 ――あるいはその道は、限りなく細い綱渡りか。


 温度を感じさせない乾いた声が続く。


 ――現実がそう美しく転がる訳がない。そう思っているからこそあなたは、ここにいるのでしょう。

 ――そうですね。


 アクリルで出来た帽子の鍔に隠れて奥の瞳は見えず、意志を探りあぐねるその佇まいは静けさの中に畏怖に似た威圧を滲み出している。それでも視線を外せば心の奥に沸いたものが嘘に戻ってしまう気がして、只々じっと彼の額から鼻先にかかる半透明の三日月を見つめた。


 ――だからこそ僕は今日の朝、屋上から飛び降りた。


 情報としての記憶はここに来る前に取り戻していた。しかしそれを言葉にした瞬間、事実を思い出した身体は、至る所に傷を浮かび上がらせ、滲み出した血が瞬く間に視界を赤く染めていく。


 ――虫がいい話だとは分かっています。でも、僕はまだ終着駅に向かうつもりはありません。下ろしてください。


 財布を取り出し、収まっていた六枚の小銭を窓の外へと投げ捨てる。散らばった硬貨が一瞬だけ春の日差しに煌めいて、ずっと海だと思っていた広大な水の流れへと吸い込まれていく。遥か下にあるはずの水面が爆ぜるぱしゃんという音が、確かな輪郭を持って車内に響いた。


 ――渡し賃を投げ捨てたところでそれは出来かねます。切符に書かれている行き先には逆らえません。


しかし車掌は動じず、ただ事務的に、そして冷淡に否定の文句を並べる。


――それに、例え戻すことが出来たとしても、再び打ちひしがれるだけかもしれませんよ。大人しく向こう岸へと着くのを待っていれば、もう苦しむこともないというのに。


 開け放った窓から舞い込んだ風が桜の花弁を車内へと運んできた。穏やかに囀る雲雀の声、温かな風、美しい眺めにかぐわしい香り。窓の外、これから向かう彼の岸は感じ取るもの全てが優しさに満ちている世界であると、そう己の五感が伝えてくる。

 疲弊した心を委ねる終着としてはこれ以上無いほどに安らげるところなのだろう。彼の言う通り、いくらこの列車での出会いによって心を新たに出来たとしても、現世での自分を取り巻く周囲がすぐに変わるわけではない。目覚めれば相変らずいくつもの苦難が待っていて、現実は弱く何も持たない僕へと牙を向き、再び噛み砕く機会を伺っているだろう。


 ――分かっていますよ。

 

 それでも。ポケットから切符を取り出し、開け放たれた窓へと向ける。表面には今や日付も、行き先も、料金も浮かび上がり、全ての文字を取り戻していた。日付は飛び降りた日で、乗車駅は飛び降りたビルの名前。行き先は人生の終着駅、彼の岸に最も近いと言われる京。不足料金は先ほど捨てた六文銭。でも、今はそれに従うわけには行かない。

 このまま膝を折り、彼の岸へと流されたならば何も持たず、何も成さず、ただ苦しい今から逃げ出した事実を変えることは、もう二度と出来なくなる。やがて抱えた引け目が決して晴れることのない未練へと変わる。そうなればこの安寧に満ちた光景もやがては色褪せてしまうだろう。

 全てを投げ出すことはいつだってできる。生きている限りどの道いつかはこの列車に乗せられて彼の岸へと向かうのだ。それならばもう一度、最後の一時まで何かを積み重ねるために足掻いてみてもいいだろう。愚かなまでに明日は変わると信じ込んで、いつか過去の自分に誇る今を迎え、まだ見ぬ未来に受け渡すために。

 普通の人ならば己の命を打ち捨てる前に思い至る簡単な事なのかもしれないが、僕は三途を渡すこの列車に乗って、席を同じくした彼らと話すことで初めてそれに気づくことが出来た。


 ――そこに行くにはまだ、抱えた引け目が多すぎる。


 切符が再び指先へと熱を伝えてきた。僕がそれに気づくよりも先に動揺を浮かべたのは車掌の方だった。相変わらず帽子の奥は覗けないままだが、その震える声は、自身が経験したことのない事態が起こったという戸惑いを伝わってくる。

 

――切符を、拝見……


 縋るように手を伸ばしてくる車掌へと渡す前に、熱の元へと目を向ける。

 全てが変わっていた。乗車駅が飛び降りた日の日付、料金欄に終着と書かれ、行き先の所は変わらず京と書かれた真新しい切符が、今僕の手に握られている。そのでたらめな配列を理解できずに切符から目を離すと、何かを理解した車掌の肩が小さく揺れていた。その頬はおかしさを抑えきれないように緩んでいる。目深に被った帽子の下で、彼は悟った様に笑っていた。

 

――なるほど、こういう事ですか。


 僕の手から切符を取り上げる。それに反応する間もなく彼は懐から取り出したペンで何か所かに訂正を加え、もう一度僕の手にしっかりと握らせた。渡された切符の料金は終着ではなく『執着』。行き先は京ではなく『今日』と直されている。

 

 ――今までにない事態なもので、列車も戸惑ってしまったようです。


 彼が笑うと、列車が照れ隠しかのようなタイミングで一度大きくガタンと車体を鳴らした。その音と同時に僅かに減速を始めたようで、窓を流れる景色がだんだんと緩やかになっていく。車掌は懐からマイクを取り出し、息を大きく吸い込んだ。

 

 ――ご乗車中のお客様。大変申し訳ありませんが、列車一時停止いたします。お急ぎのお客様にはご迷惑をお掛け致します……。


 彼がマイクのスイッチを切ると同時に、車掌室から見える前の風景の先に寂れた駅が見えてきた。巨大な川の流れの上を行くレールに柱もなく立っているそのホームは、まるで彼の声によってたった今生み出されたかの様な存在の曖昧さを浮かべているようにも見える。


 ――すみません。僕の我儘で。


 要望が通じた安堵と共に謝罪を投げかけると、彼は事もなげに首を振った。


 ――いいんですよ。あなたはあなたの意志で登り列車の切符を手にした。それは同時にこの列車に乗る資格を失ったという事ですから。下ろして差し上げるのは当然のことです。

 失くしてはいけませんよ、と念を押し、ペンを懐に戻そうとした彼は急に何かを思い出したようにもう一度切符の印字を見やった。


 ――この料金では足りないですね。


 どこかわざとらしい口調でしげしげと切符を眺める車掌に、僕の喉からは思わず当惑の声が絞り出された。


 ――ですので。こちらを乗り越し運賃として頂いていきます。


 彼が手袋を外し、額に走る一番大きな傷に触れてきた。すると一瞬だけ淡い光が僕と車掌を包み、消える頃には視界を塞いでいた血と、体の痛みの全てが嘘のように消え失せていた。


 ――これで、現世に返っても一生ベッドの上、という事は無いでしょう。


 笑う彼の額からは血が流れ始め、顎の先から滴り落ちて藍色の制服にどす黒い斑点を作り出していく。

 

――まさか、傷を移して……。


 驚きと焦燥が混じった声を出す僕を安心せるかのように、彼はふふんと鼻を鳴らし、手袋をはめ直す。


 ――血も足しておきました。合わない筈はありません。なあに、どうせ私はもう生きてませんので。


 それはそうだけどと言葉を重ねようとした矢先、列車がホームに滑り込んで止まった。装飾の一つもない白木造りの簡素な駅舎と、その前に備え付けられた反対側のホームへと続く階段の前でドアが開く。


 ――ほら、早く降りないとすぐに閉まってしまいますよ?ただでさえ彼は無駄に止まることが嫌いなんですから。


 急かす車掌の声にそうだとも、と言わんばかりに列車がブレーキのコンプレッサを鳴らした。そのまま彼に背中を押され、僕は何もないホームに降り立つ。


 ――階段を登って反対側へ。すぐに上り列車が来るはずです。


 運転席のドアから車掌室に戻った彼が、車内から身を乗り出して指を差す。

 

――ありがとうございます。


 深々と頭を下げる僕から目線を外し、彼はあえて事務的な文句でそれに応える。

 

 ――ご乗車、ありがとうございました。またのご利用心よりお待ちしております。

 

 時を同じくして発射を促すベルが鳴り、ゆったりとした動きでドアが閉まって列車がもう一度嘶きを上げる。じわりと動き出す車輪を見届けてから、背を向けた僕も階段を登り始めた。




 かたん、かたんと列車がリズムを刻み始める。階段を登り終え、ホームを跨ぐ廊下に開いた窓からもう一度列車の先頭を見やると、未だ体を半分乗り出している車掌がこちらを見て、脱いだ帽子を手に大きく腕を振っていた。

 思わず目を見開く。速度を上げる列車は彼を瞬く間に豆粒大にまで縮めて消えたが、僕には確かに見えた。

 露わになった顔が余りに僕と瓜二つだったから、だけではない。既に消え始めている傷と、風に声をかき消されて尚何かを伝えようと動く口。彼は何を伝えようとしていたのだろう。二、三度口の動きを真似て、不意に笑いがこみ上げた。

 それは船旅で使う言葉だろうに。声なき言葉の意味を解しながら反対のホームに降り立つと、それを待っていたかのように登りの列車が姿を現した。停止線の一つも引いていない位置に立っていた僕のちょうど目の前で止まり、ゆっくりと開いたドアへと足を踏み出す。同時にけたたましいベルが鳴り、音の切れ目に片開きのドアがゆっくりとその口を閉じていく。

 下り線とは打って変わって、中は全くの無人、まさに貸し切り状態といったところだった。気配一つなく静まり返る客室を見渡し、それも当然かと一人頷いて手近な席へと腰を下ろす。

 頬杖をついて眺めていたホームが段々と後ろに流れて、列車が動き出した事を知らせてくる。窓の外の景色を後ろに追いやる速さに比例して、段々と遠のく意識にかくりかくりと着いた頬が揺れる。

 なるほど、まさに舟を漕ぐか。彼の言っていたこともあながち間違いでは――

  

 

 


 眠りに落ちた一人きりの乗客を乗せ、列車は川の流れを進む。

 ――VON VOYAGE。

 目覚め再び歩むその旅路に、実り多からん事を。

                          

                   「しゅうちゃく きょうと」 完

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連作投稿テスト短編「しゅうちゃく きょうと」 三ケ日 桐生 @kiryumikkabi

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