3両目
トンネルを抜けるとそこは雪景色だった。
あぁ、原文では『そこは』という一文はないんだったっけか。空しさの残る胸の内が、ふとそんな他愛ないことを思い出していた。
窓の外には粉雪がちらつき、眼下の水面は分厚い雲に覆われて日の光を反射できずに、その身を一面濁った灰色に汚している。遠く望む山々は僅かに残る生命の息遣いすらも覆い隠すほどの白に染まっていた。体を寒さが襲わないのは列車がその古さに似つかわしくない遮熱性を誇っているからか。
いや、違う。さすがの僕でもこのめまぐるしい景色の移り変わりや、いつまでたっても終わらない橋を渡っている線路に異様さを感じないほど鈍くはない。自分がどこにいて、この列車はどこに向かっているのか、それが今頭に浮かんでいる想像通りだとするならば。僕は。
――この先、列車大きく左へと曲がります。お立ちのお客様お気を付け下さい。
突如車内に響く間延びした声のアナウンス。思考の果てに飛んでいた意識を呼び戻されたように歩を進め出そうとした。とにかく次に停まるまで誰にも怪しまれる事なくいなければならない。そして、降りなければならない。終着駅に着くまでに。
……降りて、どうする。内に潜むもう一人の自分から問いかけられたように浮かんだ疑問が踏み出す足を止めた。あの少年の輝いた目と夫婦の睦ましさが、知らぬ間に心の内に名状しがたい変化をもたらしている。
降りたところで、何かが変わるのだろうか。
戻ったところで、彼らのようになれるのだろうか。
迷いに泳ぐ目線の先に映る車内は、今度こそ正真正銘の満席。その光景こそが自分の疑念に強い否定を叩き付けているように感じて、目の前を覆う諦観に薄い笑いすら浮かんでくる。
――相席でよければ、今詰めるよ。
そんな僕の腰辺りから、突然しゃがれた声が届いた。その声は立っている右側のブースからで、そこにはベージュのスーツに身を包んでいる老人と、向かい合って座る伴侶らしき和服を纏った老女がこちらを見て手招きしている。
――立ちっぱなしではいくら若くても疲れるだろう。
――ええ、そうですね。ここに似つかわしくなく若くても。
戸惑う僕を見ながら笑う二人の姿には、その中身が外見とは裏腹に老いてはいないことを感じさせる溌剌さを感じる。しばしの間の後こちらが異を唱える事を言下に許さぬそのエネルギーに負けるような形で、僕は厚意に甘えることになった。老人が通路側に体を寄せ、その隣へと老女が座ったところでブースを覗き込んだまま中腰になっていた腰を下ろし、
――お世話になります。
頭を下げて一礼を述べる。
――若いのに礼儀正しいな。感心する。
と、並ぶ二人はまた笑った。恐らくここで謙遜すればまた笑って堂々巡りになるだろう。かといって曖昧な答えは却って不興を買いそうな気がしたので、ここは素直にもう一度礼を重ねておいた。
それきりしばらく会話は途切れ、三人の間にはレールに降り積もる雪をものともせずに、かたんかたんと揺れる列車の音のみが響いていた。老人は僕を興味深げに眺めつつ、時折満足そうに息をついてその音を聴き入り、老女は窓の外、はるか遠くにぽつりぽつりと灯る灯りを目で追っては、風景に魅入られた様子でほうと溜息をついている。僕の状況に合わないほどゆったりとした時間が流れる中、ふと先程の切符に起きた変化が気になりポケットをまさぐっていると、
――君は、どこまで行くんだ?
僕の値踏みが終わったのか、はたまたレールの立てる音に飽きたのか、老人は唐突に訊ねてきた。一人か、と問われなかった幸運を心の中で密かに感謝する。それにその質問なら今改めて切符を確認せずとも応えられる。ポケットを探る手を一度止めた。
――終着駅までです。
――とすると「きょう」か。
きょう?この列車は京都へでも向かっているのか?訊ね返そうとする僕を遮るように老女が笑った。
――嫌ですわ。まだそうとは限らないでしょう?
――イメージだよ、イメージ。
そうとは限らない……?どういう意味だろう。陽気に笑う老人と少し戸惑いながら笑う老女。僕にとってはどこかボタンを掛け違えているようなやり取りに思えたが、節目節目に通じ合ったような目配せを挟む様子から察するに、二人にとってはそうでもないらしい。
という事は、何かを知っているかもしれない。
――お二人も京まで?
意を決して切り出す。なんとなく二人の言い方に倣い、昔の呼び方を使ってしまった。
――ああ、そうだよ。今日まで、人生の最後に良い旅を楽しめている。
今の状況では割と笑えない冗談に僕が反応に困っていると、老人の目が一度僕を視界から外し、車窓の遠くを眺めるものへと変わった。ただ、その視線はただ景色を眺めるために向けたものではないことを、僅かに寂寥の色を浮かべた横顔が語っている。
――本当に、実りの多い人生だったよ。それもこれも本当に。
誰に向けるでもない言葉、しかしありきたりな言葉。続きは恐らく周囲の人間や環境への感謝だろう。この快活な老人といえど、そのあたりは普通の熟年期を迎えた男性と大差はない……
――私たちの努力のおかげだな。
と、思っていた僕の考えはその一言で見事に覆された。誰だって心の中では少なからずそう思っているものだが、それをここまで堂々と口に出す人間を見るのは初めてだった。豪放というよりも、いささか自尊に過ぎやしないだろうか。
――いや、少なからず周りの助けがあったからこそじゃないんですか……?
その驚きのあまり、気が付けば口から勝手に反論が飛び出していた。いつの間にか窓からこちらに顔を戻していた老人の目が鋭いものへと変わっている。
――そうかな?確かに私は環境に恵まれていたのかもしれないが、それを活かすも殺すも結局は自分の心ひとつだろう?
向けられた言葉は静かなものだったが、しかし容赦なく僕の心に切り込んできて、刻まれた小さな傷が後ろ暗い痛みを伝えてくる。
――そもそも与えられた環境が恵まれているかどうかなんて人それぞれだろう。光を疎む者もいれば闇が落ち着く者もいる。それを羨んだり卑下したりなんてのは、動かざる者の言い訳にしか聞こえんね。そういう人間に限って大抵、どんな恵まれた環境にお膳立てをしても動かない。
つらつらと並び立てられる辛辣な言葉を浴びせられながら、僕は頭の隅でさっき出会った若い夫婦のことを思い出していた。
彼らは光を浴びて幸せそうに目を細めていた。
僕だって、闇に身を落ち着けたかったわけじゃない。
光を求めていた。ならば、いったい何が違ったのだろう。
――下種な喩えで悪いが。
気付かないうちにぎりと奥歯を噛んでいた僕をじっと見据え、老人が切り出す。
――よく金の無い人間は金のある人間を妬むだろう?しかし一方で金があることについての悩みまでは考慮しない。もしかしたら妬んでいるその人間は金を持つ人間が失った、金では買えないものを持っているかもしれないというのに。
――それって、なんですか。
そう訊き返す僕もまた金のない、持たざる側の人間だった。
――まぁ、一概には言えないが、私はなまじ金を持ったせいで挑戦する心を忘れて破滅していった人間を何人か見てきたよ。金を持つとね、金を失いたくないって心が一番に働くんだ。守りに入って、それでもたった一度ミスをしたならば簡単に浮足立って、瞬く間にすべてを失う。
無論私は違ったが、と付け加える老人。金というある種この世で最強のオールマイティーだと思っていたものが、実は破滅を呼ぶ何よりの原因である。持たざる僕には考えたこともなかった事だった。
――逆に、何もないことが強みになる事だって多々ある。失うものがないという事は、次の挑戦にロハで挑めるという事だ。そして必ず動いた分だけプラスになるという事。背水とはまた違う。最悪の結果になったとてゼロに戻るだけだ。
――失ってばかりの人間に、それでも前を向けっていうんですか。
勝手に荒くなっていた声に目を丸くする老女。それとは対照的に、老人はあくまで、冷徹とも言えるほど平静なままこちらを見据えている。
――そういった心がけで這い上がる人間は強いというだけさ。それも私の経験した真実だ。にもかかわらず途中ですべてを諦め、その身に残された最後の一物さえも投げ捨ててしまうようなものは――
老人の目が更に細く、抜身の刃を思わせるものへと変貌した。
――
眼光同様の鋭さで放たれた言葉の白刃によってつけられた傷の大きさは、さっきの比ではなかった。まるで目の前に座っているものがサトリの類であるかのように、的確に自分の心を抉ってくる。
――そうだ、僕は……
その尖痛がもたらしたものは心の傷だけではなかった。その一言によって
――あまり言い過ぎてはかわいそうですよ。
二重の苦痛に顔を歪める僕を見て、老女ははらはらした表情で心配そうに老人に耳打ちした。彼も少しばつの悪そうな顔で、
――年寄りの説教が過ぎたか。
と頭を掻く。
――だがな。君は根本的に勘違いをしている。必ず誰しもが、私すら失ってしまったものを、まだ持っているんだぞ。
そう言って不意に老人は僕の手を取って、隣に自分の手を並べてみせた。
皺だらけの手の甲、その先に伸びる血色の褪せた爪。自分の手と並べるとより、そこに彼が刻んできた足跡と、その先の短さが見えるように感じる。
――誰もが生まれながらに与えられ、幾ら振るっても目減りはしない。だが、必ず失ってしまうもの……やはりここには不釣り合いな、若者の手だな。
彼の言葉に一拍の間を置いてその暗喩を汲み取った僕は、額を射抜かれた様に顔を上げる。
――だが君は今、それすら手放そうとしている。何より私が言いたいのは、それで本当にいいのか?という事だ。
――いいえ。
意識せず、口からは否定の言葉が零れた。
――君がここまで来たのは、ただ追い来るものから逃げる為だけか?
再び強く首を振る。老人の論は確かに心を折られそうなほど痛烈だったが、記憶が戻った今、その言葉たちがただいたずらに若い者をいびるための文句ではないという事なぞ明白だった。
だからこそ心の中に残ったのは持つものへの嫉妬でもなく、自分への卑下でもない、ただ背中を押された事への感謝。
――いえ、行きます。ありがとうございました。
それを素直に言葉に変えて真っ直ぐに目を見返すと、彼は出会った時同様、瞳に優しい色を浮かべて一度大きく頷いた。ポケットの切符が三度熱を帯び、新たな文字が浮かび上がったことを伝えてくる。
――急げ、列車が曲がり出した。もうあまり時間はないぞ。どこに向かうかは分かっているな?
立ち上がりながら頷く。
――ええ、アナウンスが聞こえてきたという事は、彼は車掌室にいる筈です。
――よし、行きなさい。
もう一度深く頭を下げ、差し出された老人の手を握り返す。
――頑張って。
次いで老女が手と言葉を重ねてきた。聞き飽きた文句に籠もった、感じた事のない温かさが喉の奥を締め付ける。そんな心地に込み上がってきたものを抑え込みながら礼を述べるのに苦労した。
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