2両目

 またも列車はトンネルへ入ったようで、僕が前の車両のドアを開けると再び漆黒の闇が客室を包んでいた。車掌の影が直前まで迫っていた事を思い返し、電燈が前を照らし出す前に進み出す。

 歩を進めながら暗闇に目を凝らしてみると、前の車両よりは人が少ないようだが、どうやら並列シートが備え付けられていないようで、僕一人が入れこめそうな空席は見当たらなかった。

 何はともあれ、どこかに腰を落ち着けないと。橙の灯りにぼんやりと浮かぶボックスシートのブースを一つ一つ確認しながら前に進む。

 左右に振る頭の中でふと気づく。そういえばこの列車、僕以外に席を立っている人がいない。いくら走行中とはいえ、座席指定もない車両を三つも移動して、一度も誰かと擦れ違う事がないという事はそうそうあり得るとは思えない。

 相変わらずこの列車の、というより自分の行先や現在地の推測すらままならない状態である上、虫食い切符の事もある。今までみたいにただ無策のまま前へ前へ逃げたところでいつか捕まってしまうのは明らかだし、頭の整理も兼ねて次の駅に着いたら一度降りなければならないだろう。

 そんな思案に耽るうちに足は車両の中ほどを通り過ぎ、室内灯の明かりが徐々に光を強める中で運良く再び空いているボックスを見つけることが出来た。今度は予期せぬ先客がいないことをしっかりと確認して腰を下ろす。

 ――あれ。一息ついて懐から切符を出した矢先、穴だらけの字面にある変化が起こっている事に気が付いた。

 表面に少しずつ、文字の断片が浮かび上がってきている。相変わらず出発駅や料金は不明瞭なままだが、切符の中央やや左、本来ならば行き先が記載されている場所に、かろうじて判読できる小さな文字があった。

 ――糸、冬、着?うろんげに口にだし、その三文字の意味がわからず一瞬戸惑ってから、すぐに自分の読みが間違っていたことに気付く。

 なるほど、『終着』か。文字のバランス、辺と作りが離れすぎていて、そこに文字の大小や配置の揺れも相まってそれぞれが独立した文字に見えていた。

 その文字と意味を信用するならば、文字さえ全て浮き上がってしまえば、レールの続く限り乗っていても問題はないということか。どうやったらこの不思議な切符が本来の姿を取り戻すかという根本的な問題は残っているが、少しばかり心が軽くなった気がする。

 気圧の差で勢いよく風の抜ける音がして、車窓から一斉に光が差し込む。中天に差し掛かったというのに、膝元を照らす陽光はさっきよりも柔らかく心地よい温かみを伴っていた。窓を上下に隔てる桟とほぼ平行に走る稜線の色は、気づけば鮮やかさはそのままに一面の色を深緑から深い赤へと変え、吹き付ける風がもみじの葉を運んでくる。トンネル一つでここまで慌ただしく景色が変わるとは……本当に一体どこを走っているのだろう。答えの出ない疑問は目の前を横切る木の葉の如く思考を上滑りしていく。


 ――すみません。


 頬杖をついて遠景を見ながらそんな考え事をしているうちに、背中から遠慮がちな声が掛かった。途端に汗が脇の下を濡らす心地を覚える。

 しまった。車掌の接近に気が付かなかったのか。慌てて振り返ると同時に過ったそんな予感は幸運にも外れ、そこには困り果てた表情を浮かべた若い男性、そしてその後ろに眠っている赤ん坊を抱えた病弱そうな女性が立っていた。どちらも年の頃は僕と大して変わらないだろう。

 思わず胸を撫で下ろし、改めて一行をよく見ると、女性の額に少しばかり汗が脂浮かんでおり、顔色も優れない。


 ――妻が、体調を崩してしまいまして……もしよろしければ。


 言葉を最後まで聞かなくても、彼らの要望は明白だった。求められているのはさっきの車両で図らずも僕が受けた施しと同じもの。手で彼らの言葉を遮って体を窓に寄せ、どうぞと促すと、二人の表情が明るいものに変わった。

 それから旦那さんの額がシートにめり込むんじゃないかという勢いで必死に頭を下げ、先に奥さんを窓側へと座らせる、それから遠慮がちに隣へと腰を下ろし、もう一度丁寧な礼を重ねてきた。

 見知らぬ女性の対面というのも何か落ち着かない。僕はさりげなく通路側へと体を滑らせ、旦那さんと向き合う形になる。対する彼はと言えばそんな僕の所作を気に留める事もなく、はらはらした表情で奥さんの様子を息遣いの一つも見逃さないように注視していた。


 ――少しは、落ち着かれました?


 そんな旦那さんがようやく一心地着いたタイミングで出来るだけ自然さを装って話しかけてみる。顔に少しだけ血色を取り戻した奥さんがええ、と透き通った声で返し、それを聞いた僕よりも先に旦那さんの方が大きく息を吐くのを見て、この夫婦の仲の良さを伺い知ることができた。


 ――なんか、いいですね。


 それは無意識の一言だった。頭に浮かんだことが間を置かずに口から滑り出たと言ってもいい。不穏当な事を口走ったわけではないのだが、問題はなまじ話がひと段落ついたタイミングで発してしまったせいで向かい合う二人に思い切り注目され、咄嗟に言葉の矛先を変えることもできなかったことだ。そんな嘘偽りの挟まる余裕すらない反射のことばが誤解無く伝わって、二人の顔に浅い朱を差し込む。

 たっぷりの間のあとそのまま俯いてしまった奥さんをちらりと見て、それとは対照的に旦那さんがでしょう?と若干誇らしげに胸を張る。



 その仕草に思いの外、大きな苛立ちを覚えた自分がいた。



 ここまで狭量な器ではなかったはずだが……、上塗りするような愛想笑いで場を濁し考えてみるも、胸に澱のように溜まっていく暗い感情への理解が追いつかない。単なる美人の奥さん持ちへのやっかみ、というなら感じるのが少し遅い気がする。


 ――あなたは、おひとりで?


 しまった。不機嫌な気分を隠しきれていなかったか。慌てたように新たな話題を振ってきた旦那さんをみて心中で失態を恥じた。正直にわからんと返しても彼らが頭に疑問符を浮かべるだけだろうし、ひとまずここは首肯を返しておく。


 ――ええ、一人旅です。


 ひとり。それは辻妻合わせの返し文句に過ぎなかったはずだが、自身の放ったその一言が、頭の中で何度も繰り返される。耳鳴りにもにた反響に覚えた眩暈のせいか、返答を聴いた旦那さんの顔が一瞬、憐憫にかしいだように見えた。

 ああ、そうか。ずくりと突き刺されるような心地を胸に覚えながら、二人の薬指に光る指輪と抱きかかえられて穏やかな寝息を立てる赤ん坊を改めて見て、心の中のわだかまりは確信へと変わった。

 僕はこの人に嫉妬しているんだ。同じ年を経ているというのに彼は僕の持っていない色々なものを既に手にしている。その差はまぎれもなく二人の努力の結果であり、同時に自分が何も積み上げてこなかった事の証左にも見えて、新たな命という確たるかたちを以ってそれをまざまざと見せつけられた心がささくれ立ったのだ。

 逃げるように視線を外して眺めた窓の外には、紅葉の中に果樹がいくつも身をつけている。目の前の夫婦もまた、今が人生における豊穣の時なのだろう。


 ――本当は、みんなで乗るつもりはなかったんですけどね。


 呟くように、空しそうに。ぽつりと虚空に響く旦那さんの声も、羨望の眼差しを向ける僕には真意を図る意識すら向かない。

 対して僕はどうだ。何も積み重ねていなければ、何かを成したわけでもない。

 僕は目の前の二人とは異なる、持たざるものだった。

 思いがそこに至った瞬間、ポケットに入れてある切符が僅かに熱を帯びた気がした。そういえば少年と話していた時も、席を立つ寸前にこの熱を感じた気がする。また何か切符に変化が起こったのかもしれない。

 そう思い立ちポケットに手を入れた矢先、背後から車両のドアが開く音が響く。


 ――すみません、僕はもう行きますね。


 あらかじめ通路側に移動しておいて正解だった。車掌の姿を確認した僕はさっきと同様に他の客へと注意が逸れている間に立ち上がる。

 通路の突き辺りまでついて、改めて彼らに一礼しようと向き直ると、いつの間にか目を覚ました赤ん坊がこちらに小さな手を振っていた。窓の外に踊る椛にも似たその掌に見送られて、僕はドアを潜る。

 その幼い指にすら、心をくしゃりと握り潰された心地がした。

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