連作投稿テスト短編「しゅうちゃく きょうと」

三ケ日 桐生

0、1両目

 腹の底を思い切り叩かれたような衝撃に、微睡の中を揺蕩たゆたっていた僕の意識は引き上げられた。

 ソファから文字通り飛び上がりそうなほどに腰を跳ね上げ、きょろきょろと辺りを見渡す。しかし辺りは平静そのもので、年代を感じさせるウッドを基調とした車内はあれほどの大轟音にもかかわらず周りの人々の談笑が響いている。話に花を咲かせている全員が毛程にも気に留めていないその様子は、まるで音と衝撃が『周囲が気付かなかったもの』というよりも『僕だけにしか聞こえなかったもの』だったという事を物語っているように思えた。

 このまま見回していてもなにもわかるまい。とりあえず中腰に浮かせた腰をソファに沈め直し、窓辺に肘をつく。木枠の古さを感じさせない程よく磨かれ、曇り一つもない窓ガラスから見えるのは、照り付けるさんさんとした日差しを反射して細かい光の粒子を散らす紺碧の海。防砂林に隔てられた足跡の一つもない白砂と夏特有の濃い緑を讃えた草原も目に心地よい刺激を与えてくる。

 そういえば、僕はなんでこの列車に乗っているんだろう。しばらく車窓を眺めて落ち着きを取り戻し始めた心に、ふと疑問が浮かんだ。目的も解らずにただ電車に揺られているなんてことは普通ならばあり得ない。しかしいくら頭を捻ったところで自分がここにいる理由を思い出すことはできなかった。

 体を襲った衝撃で記憶まで飛んでしまったのだろうか。自分が誰であるのかという基本的な事まで忘れていなかったのは幸いだったが、何がどうあってこの見覚えのない列車に揺られているのか。その点だけまるで水面に口を開けるダム穴のように不自然な欠落を示している。

 腰掛けているボックス席には自分以外誰も座ってはいない。旅行を思わせる大きな鞄も置いていない。でも日々の暮らしで使うような電車に乗っているわけでも、まして外の景色が見知ったものであることもない。そもそも未だにキャビン中が板張りの車両なんてものが現役である事など知らかった。一体この列車はどこを走って、どこに向かっているというのだろう。

 ――そうだ、切符。乗車券にならば行き先が書いてある。まさか無意識の中で無賃乗車をした訳でもあるまい。思い立ち窓から肘を離してジーンズのポケットを探ると、その考えが正しかったことを示すように、指先へ固い紙が突つく小さな痛みが走った。つまんで引っ張り出すと、中から出てきたのは今ではすっかり見る事も少なくなった名刺大の乗車券だった。

 ――あれ。ほぼ黒に近い焦げ茶色の裏面をひっくり返した僕から、思わずそんな声が漏れた。橙と白の幾何学模様をベースとした表面は、行き先も運賃も、購入日付すらも掠れて読むことの出来ない有様だった。ところどころ判別できる文字があるものの、酷い場所ではまるで始めから何も書いていなかったかと疑う程、印刷が殆ど消えてしまっている。

 どうしたものか……悩む僕を見計らっていたかのようなタイミングで後ろのドアが開き、帽子を目深にかぶった車掌が姿を現した。ゆっくりとした歩調で各々のボックス席を回っては、中腰になって客から何かを改めている。

 そういえば子供の頃、理由もなしに車掌になりたがっていたっけ。恐らく運転手と混同していたのだろう。そんな事を思い出しながら続いて聞こえてくるぱちん、ぱちんという小気味のいい音に耳を澄ませていると、唐突に血の気が引いた。

 あれは切符を拝見、って奴だ。辺りを伺っていた視線を手の中に落とし、虫食いの切符を見やる。こんなものを出したところで、そのままはいどうぞと素直に切ってくれはしないだろう。最悪の事態を想定して懐をまさぐり財布を取り出すが、そこに入っていたのはわずかな小銭が数枚。勘定する気も失せていく。

 さて、どうする。車掌はもう三つ後ろの席まで迫っている。悠長に弁解を考えている時間もない。

 しばらく思案した後、さりげなく後ろの様子を伺い、車掌が受け取った切符を切るために手元に目線を落としたのを見計らって、僕は極力さりげなく席を立ち、足早に前の車両へと向かった。


※     ※     ※


 連結部を抜ける間に列車はトンネルに入ったらしい。ドアを開けた先は真っ暗で、歩き出すと同時にゆっくりと室内灯が灯っていった。浮かび上がってきた車内はさっきまで座っていた車両と同じ程度には人がおり、どこを見回してもボックス席の長い背もたれからは乗客の頭が出ている。こうなると僕一人が四人掛けの席を占領、というような真似はとてもじゃないが出来ず、かといって歩みを落として並列シートを注視しても人の座れるスペースは空いていない。

 逃げたところでいつかは車掌もこの車両へと来るだろう。その時に一人だけ立っているのは悪目立ちしてしまう。どうするか悩みながら車両の中腹まで差し掛かった辺りで、一つだけ頭の出ていないブースを見つけた。辺りは当然の如く埋まっているのになぜここだけ……?そんな不自然さを覚えたが、このまま進んで行っても恐らく空席などないだろう。幸運に感謝しつつ素早く滑り込む。

 ふう、と大きく息をついてひとまず窓辺に肘を掛ける。後はゆっくり言い訳でも考えよう。いざとなれば寝たふりでもしてやり過ごせばいい。切符の不備が見つかったところで自分の責任ではない。切符の不良だと開き直ればいいし、最悪咎められてとっ捕まっても別に、いいか。

 改めて落ち着いて考えてみると驚く程に捨て鉢な考えしか浮かんでこないのがどうにも不思議だった。どうなったところで――


 ――お兄ちゃん、一人なの?


 窓辺に移る己の顔に一人自虐気味な笑いがこみあげてきた矢先、僕の真正面から突然掛けられた声に、再びシートから飛び上がりそうになった。目の前にはいつの間にか屈託ない笑顔をこちらに向ける少年が座っていた。年は小学校の高学年くらい、野球帽を逆さに被りやや体に合っていない大きめのTシャツを着て、時折瞳だけをちらちらと外の景色に向けている。確かに碌な確認をせずに席に着いたものの、まるで気付かないなんてことがあるだろうか……。

 風を切る音と共に列車はトンネルを抜け、少年の小さな感嘆と共に濁りない瞳に太陽の光が反射する。どうやらいつトンネルを抜けるのかと気が気でなかったらしい、ひとしきり景色を堪能した後に戻してくるそのまっすぐな視線に晒されては答えをはぐらかすことは許されないように思えて、かといって答えを思い出せない僕は口ごもってしまった。


 ――君こそ、お父さんやお母さんは一緒じゃないの?


 気づけば向けられた目とはまるで対照的な、質問を質問で返す大人の切り返し方を口にしていた。すると少年は一瞬目を大きく開け、その後直ぐに年にそぐわないほどの暗い憂いを帯びた表情を浮かべた。僕の小狡さが彼の何かを刺激したのかはわからないが、ちくりと痛む良心に思わず目を逸らし、慌てて首を窓の外へと向ける。


 ――お父さんとお母さんは、あとで来ると思う。


 表情も口の動きも伺い知れない僕の耳にしばらくして飛び込んで来たのは、そんな乾いた声だった。


 ―先に一人でおじいちゃんの家でも行くの?


 その声色の意味は解らないまま、ただこの年の子供が一人で電車を利用するのに有り得そうな理由を口にしてみる。少年は小さく頷き、そんなものかなと少し困ったように笑う。それにしては少年も僕と同じく荷物の一つも持っていないのが不思議にも思えたが、先に荷物を送ってあるのだろう。大して気に留めることもなかった。

 ボックスの中を再び沈黙が包む。一度少年から視線を外して振り返るが、まだ誰かがドアを開ける気配はない。あまり頻繁に席を動いてもそれはそれで不自然だ。僕はこの少年をしばらくの旅の輩とする事を腹に決める。


 ――おじいちゃんの所には、何をしに行くの?


 こちとら暇つぶしの一つも持っていない。成り行きとはいえ赤の他人と黙りこくったままボックス席で過ごすというのも気まずい。ここは取り留めもない会話を振っていくのが大人というものだろう。


 ――お兄ちゃんこそ、どうしてこの電車に乗っているの?どこに行くの?何しに行くの?


 そう判断した一瞬前の自分を後悔した。さっき自分がやったずるい切り返しをそのまま返されてしまい、恐ろしい子……と思わず畏怖すら覚える。もう一度同じ切り返しはできない、とはいえ相変らず答えを持っていない。気さくに会話を続けようとした目論見は即座に崩壊した。


 ――僕はね。


 黙り込み、考え込み、口ごもる。そんな僕を少年はしばらく見守っていたが、やがて答えが待ちきれなかったのか、はたまた実は話したくて仕方なかったのか、先に口を開いたのは少年の方だった。

 そこから続く彼の予定はもはや覚えきれない程に膨大なものだった。

 朝に虫取り、昼にはドライブ、大好きなアイスを内緒で買ってもらって、ついでに新しいゲームをねだる……燦然と目を輝かせながら語る彼を見て、自分にもこういう時期があったのかと考える胸に、いつの間にか少し空寂しい感情が芽生えていた。

 あれが欲しいとか、これがしたいとか、そんな能動的な計画を最後に思い立ったのはいつだったろう。車輪がレールの継ぎ目を踏む緩やかなリズムのせいか、気づけば僕はそんな柄にもない事へ思いを馳せていた。リソグラフのようにせわしなく、無感動に吐き出される日々に追われ、ただ生活たつきの道を立てるだけの毎日。いつしか心は削られて、当たり前の判断がつかなくなって……


 ――お兄ちゃん!


 知らぬ間に思考の果てに飛んでた意識を少年の一声によって急激に戻されて、僕ははっと面を上げる。何時の間にドアが開いたのか、気づけばもう二つ後ろの席にまで車掌の姿が迫ってきていた。


 ――僕が引き留めるよ。その間に早く!


 少年に小声で急かされるまま席を立ち、車掌の目を盗んで足早に歩き出す。なぜ彼が僕の事情を知っていたのか、その理由を考える余裕もないまま、僕は錆び付いた引き戸に手を掛けて、列車の継ぎ目へと逃げ込んでいく。

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