第7話

挑戦と冒険と現実逃避。

二〇〇二年、日本と韓国の共同開催のワールドカップ。私は、もう、二十七才になっていた。おばあちゃんは七十八才になった。相変わらずサッカー中毒の日々を送っているらしい。

おばあちゃんは、フランス大会のカズがいないワールドカップ初出場なんて絶対に認めないと言っていた。

「だったら日韓ワールドカップが名実ともに我がジャパンの初出場?」

と言う私の問いには、

「うーん。これもねー、何ともねー、予選がないからね・・・でも、トルシエさんはゴンちゃんと秋田君を入れてくれたからねぇ。ま、贅沢は言えないか」

などと複雑な胸中を話すわりには随分と楽しそうなおばあちゃんであった。

この話をしたのは国際電話を通してで、私はこの時、ハワイにいた、と言うよりはハワイに住んでいたのだが。

私は結局、就職はせずにハワイ大学の心理学部の専門課程に進んだ。

どうしても自分自身を知るために心理学が勉強したくなった、とは表向きの理由であり、実際はなんだか現実から離れたかった・・・いや、逃避したかったからかもしれなかった。


サッカーは大学を卒業した時にやめた。

正確に言うと、最後の大会、十二月の全日本学生の一回戦、後半二十三分、鎖骨を複雑骨折の大怪我で私の短いサッカー人生は幕を閉じた。

私と田崎マコトが代表候補に選ばれたのが、もう、六年も前になる。

懐かしくもあり、誇らしくもあり、そして、切なくもあり。



おばあちゃんは若い時、外国に留学することが夢だったらしい。

大正から昭和初期にかけての時代の流行か、ただ一族の生活環境か一獲千金の思いか、とにかく、お婆ちゃんの親戚の多くはアメリカに渡っていた。もちろん、お婆ちゃんの親戚は私にとっても遠くあっても親戚には間違いなかった。

退院祝いってことで、家族みんなで行った赤坂の「ざくろ」で私は恐々折った右手を動かし、新鮮な気持ちでシャブシャブ味わった。その時、突然、お婆ちゃんは、

「今日子、おまえ、ハワイに行きなよ」

「ハワイへ卒業旅行?」

「違うよ、留学」

私にハワイへの留学を勧めた。

「そりゃ、興味あるけど、なんでハワイ?」

聞けば、お婆ちゃんの従兄弟がいて、向こうで成功して大きな家に住んでいるから。そして、最大の理由はおばあちゃんがハワイに行きたいから・・・私がいれば毎度理由に困らず便利だから。表向きは、そう。でも、お婆ちゃんはきっと、私からしばらくの間、「サッカー」というものから離してあげたい、という思いが強くあった、ということは後で知った。


卒業してすぐに私は留学の準備にかかった。向こうの九月からの新学期に待ち合わせつもりだった。試しに受けた英語の検定試験、TOEFLの点数は八百七十点。ハワイ大学の入学基準には十分に満たすものだった。ま、一応の帰国子女の面目を保つとともに、父親からの留学承認の約束手形を取り付けた。

「何のための留学だか、いったい・・・」

疑問を呈する父親との約束で、一発でハワイ大学の英語能力基準、つまりはTOEFLの五百八十点以上を取れなかったら私は、きっぱり留学なんぞは諦めて、父親の勤める商社の子会社の派遣会社にもぐり込む取り決めをしていた。

留学とて一年から入学して教養課程をやり直すのも億劫なもんで、私は三年生、サードグレードの専門課程に入るつもりだったが、やっぱり心配なのは英語力。不安解消のために夏前から行って、ハワイ大学の留学生向けの語学特訓サマースクールに入学する予定だった。


私は、一九九七年七月十日に日本を出発、ハワイへ向かった。サマースクールが終われば九月から心理学部へ入る。

おばあちゃんは当初、従兄弟らと旧交を温めることもあり、私と一緒に行って半年くらいはハワイに居るつもりだった。しかし、人気者の辛さ、後輩チームの夏合宿前の世話や、今でも殺到する練習試合を裁く仕事もあったので当初のハワイ行きは断念。おばあちゃん的にはマネージャーの任は引退し、応援団長として今後の老後を満喫すると公言していが、予想通り、山本ゆかり新キャプテン以下、三年間苦楽を共にした皆の強い依頼もあり、マネージャー続行を快諾した。それでも、私がいる間、十一月の末から二月まで、日本の寒い時期に必ずハワイを訪れていた。


アメリアではサッカーなんて、と思って私を大いに驚かせたのは、いたるところで目にする少年少女のサッカー。聞けば、アメリカの四十%の小学生はサッカーをし、スクールスポーツとして圧倒的な支持があり、競技人口は世界最多の七百五十万人。私は自分が代表候補に選ばれるくらいの日本の選手層とは大きな違いだと思った。

選手層が厚いということは協会にお金があるからアメリカや北欧では子連れで代表合宿、試合に来る選手も多く、女子でもけっこうな出場給が貰える・・・日本は、私たちみたいに卒業したら「終わり」で競技から離れてしまう人間がほとんど。

だから、日本の女子サッカーの実力向上に時間がかかる・・・月・火・水は夜の銀座クラブ「マティス」で働き、練習が休みの空いている昼間は川崎大師のスーパー「マツケイ」のレジ打ち、川崎の名門女子サッカーチームに入り、週五日の練習と週末の試合に歯を食いしばる田崎マコトが羨ましくもあり、同情もし、私は心底、彼女を応援した。

まさに、アメリカと日本との「社会基盤」の差がサッカーをも通してわかる現実も、たががハワイ、されどハワイ、二十種類以上の民族が割拠するハワイにはアメリカの明と暗が同居し、様々なアメリカが持つ問題を縮小化し抱えていた・・・だから、されどハワイと私の学生生活も多くの驚愕を楽しみ、時間はあっと言う間に過ぎていった。サッカーのせいにしても申し訳ないが、学生時代、勉強した記憶が全く無い。が、こっちの勉強は本当に大変で、レポート×レポートに加えて議論×議論の毎日。せっかくのハワイを遊ぶ暇は全く無かった。毎日の英語は、私の髪の毛をそのうち金髪に変えてしまうのではないかと思うほど疲弊した。

マノアという学校のある場所とハワイカイという私の住むアパートのある町の単調な往復の中、息抜きに出たアパートの屋上から眼下に広がるルーズベルト小学校の芝生のグランド、放課後に週末、いつもの少年少女のちびっ子ボールゲームを見るたびに、私の心は嬉しく癒されるも、少し切なくもあり。

それは、サッカーを捨てた自分に対する虚しさ、いや、サッカーというスポーツに戻りたくても戻れない郷愁だったのかもしれない。



二〇〇二年の日韓ワールドカップの日本の活躍、おばあちゃんは敵に激しく当たられても潰されても立ち上がる金髪のFW、ベルギーでプレーする鈴木隆行が特にご贔屓だった。

トルシエ・ジャパンのベスト十六進出、その喜びもつかの間、名将ヒギンズの率いられた永遠のライバル、韓国の準決勝ベスト四進出のショックのせいでもあるまいが、七月の中旬、おばあちゃんは夏風邪をこじらせ入院の知らせを母親から受けたのは、私の博士論文の最終稿を書き上げた深夜二時だった。だから日本は夜の九時。

「なんかジメジメした嫌な天気が続いてねぇ、変に涼しかったり暑かったりでさ」

「おばあちゃんの調子は?」

「風邪っぽくて調子が悪いって、そしたらね、急に食欲がなくなって、パパと話してこれはまずいって病院に連れて行ったのよ、昨日」

「おばあちゃんは嫌だ嫌だって言わなかった?」

私は病院嫌いのおばあちゃんがよく行ったと思ったが、反面、それくらい具合が悪かったのだろうとちょっと心配になった。

「もちろん、最初は嫌だって。でも、無理やり連れて行って良かったわ、すぐに検査したら肺炎だって言うじゃない。それですぐに入院」

「ね、ママ、おばあちゃんいくつだっけ?」

「そうね、確か、七十八才。でも普通の爺婆よりは全然元気よね・・・頭の方もしっかりしているし」

「そうだよねぇ・・・ね、私、お見舞いに帰った方がいいかなぁ」

「ま、明日どうなるって話ではないから、帰ってくる必要はないよ、今は。そうそう、今日子には知らせるなって、おばあちゃんには言われてるからね。今、今日子は卒論だか論文に追われているんだから、無駄な心配させるなって」

「相変わらず、気の使いすぎだね、おばあちゃんは」

「おばあちゃん、とっても、その論文、楽しみにしていたわよ」

「ほんと」

「ほんとよ、でも、いったい、あなたごときが書くその論文って、なに?」

「ごときが余計よ、ママ」

私の博士論文が教授会の承認を得れば目出度く私は心理学博士、そして、大学に一応の就職、ハワイ大学精神心理学研究所の研究職員としての一歩が始まる予定。おばあちゃんは、九月に開かれる大学主催の新博士を集めてのパーティに出席することをとても楽しみにしてた。

ひと通りの概要を母親に説明したところ、

「しかし、あなたが博士って、まぁ凄いっていうか、ハワイの大学は誰でも博士とかになれるのね。そういえば、あなたはサッカーでもあと一歩の日本代表だっけ、いや、その目の付け所は素晴らしいわ・・・」

などと馬鹿にされているんだか、ほめられているんだか、どうでもよいが、メールの発達によって激減した親子の直接トークは気が付けば一時間超、私は母親に明日また状況を電話してねっと告げて電話を切った。


私は窓の向こうの夜空を光るホノルル空港から飛び立った飛行機を眺めながら、人間最後の旅立ち、必ず誰にでも訪れる「永遠の別れ」についての思いが浮かぶも、すぐにその悲しみのリアル感が中枢神経を刺激する前に素早く脳裏の思いを無理やり閉じ、桜舞い散るスクリーンセーバーを消して、博士論文のワードのファイルを再び開き、一回目の校正に入った。

私はタイピングのミスを示すワードの赤線を頭から目で追いながら、博士論文を七月中に何とか仕上げて、八月は一ヶ月ほど婆様孝行、親孝行を兼ねて日本に帰り、私とおばあちゃんとの一緒の時間を多く作って元気をいっぱい付けてあげるのも悪くないと思った。

ただし、父親だけはこの時、おばあちゃんがただの風邪をこじらせての入院でないことを知っていた。


死は終わりではない。友よ、あの世でまた会おう。

二〇〇三年一月十四日、ちょうど初入院から半年後、ハワイにいた私におばあちゃんからの手紙。メールではなくて手紙。たぶん、よほどの伝えたいことが詰まっているんだろうと私は思った。


今日子様

燦々と降り注ぐハワイの陽光の下、今日子も大学の難しい仕事に頑張っておられること、私は大変嬉しく、また、羨ましく思います。

さて、今日、このようにお手紙をお出ししたのは、私の体のことを正直にお知らせしたからです。びっくりしないでください。

私は肺癌で、あと一年がせいぜいの命ということが解りました。

年末に再入院した時、なんだか変だなと思った私は、パパと先生を呼んで正直に自分の病状を言ってくれと頼んだんです。

二人とも最初は、悪性の肺炎だと言い張ってましたがが、私が、残り少ない人生をできるだけ後悔をしないよういに生きるためは時間が無さ過ぎるから、どうか正直に「残り、どれくらい生きれるか」言ってください、と頼んだところ、パパはついに白状しました。こんな状況を今日子に知らせようかどうか迷いましたが、やっぱり私とて貴方に嘘を突き通す自信もなく、手紙で知らせようと思った次第です。あと半年なのか、一年なのか、二年なのか私の命は解りませんが、これからも一生懸命に残された時間を過ごすつもりですか、是非、今日子も協力してください。

私の残された人生の喜びは、今日子が頑張って生きているのを見守っていること、そして、もう一回絶対にハワイに行くこと、ついでに書けば、ジーコが皆を連れて二〇〇六年ドイツワールドカップへいくこと。できれば私もジーコジャパンの応援にドイツに行きたいところですが。これは無理かな。ともかくも、私の余生、今までと変わらずお相手をどうか宜しくお願いします。

最愛の孫娘へ

平成十五年一月 好江婆

追伸

 白洋女子大サッカー部が3年ぶりにインカレに出場。ベスト八までいきました。


私は胸が痛くなり、鼻の奥がツンとした。人間の「死」というリアリティに直面すると、どんなに理屈をつけても、この現実からは逃げられないことを知った。

つけっぱなしのFMからハワイアンの切ないウクレレが流れていた。



その夏、おばあちゃんは、やっぱりハワイに来た。この時、七十九才。

これが肺癌患者と思うくらいにアクティブに行動し、和洋中、ハワイアンと何でもござれとご飯もたくさん食べた。

「この死にそこないの元気の元は、薬の力ではなくて、間違いなく『マナ』と綺麗な海の『マイナスイオン』のおかげだね」

おばあちゃんは、姉夫婦も合流して、皆で行ったヒルトン・ハワイアン・ビレッジの中にある鉄板焼「紅花」で、マイタイ片手に豪快にサーロインステーキを頬張りながら言った。

ハワイには「マナ」と呼ばれるか超自然の力、神の力というか魂が宿っているという伝説があり、私はこのおばあちゃんお生きるパワーは絶対、「マナ」のチカラだと思った。


肺にできた癌は、リンパ線に転移し、ゆっくり、ゆっくり段々とおばあちゃんの体を蝕んでいった。その年の年末年始を挟んで三ヶ月滞在したのが最後のハワイの楽園生活だった。

私はハワイ、いやアメリカでは一般化している、それこそ「マナ」いっぱいのハワイのホスピスへの入所を勧めたが、どうしても首を縦に振らなかった。両親も姉も皆も勧めたが、でもダメだった。いつもおばちゃんは言った、

「こう見えたって私だって、いろいろ日本でやることもあるのよ」

このいつもの答えには一同、まったく「?」だった。

おばあちゃんの様態のせいでもないが、二〇〇四年の十二月をもって私はハワイを一旦撤収、七年ぶりに帰国を決意。四谷にある大学の心理学研究所に就職することにした。



ジーコジャパンがドイツW杯出場を決めた二〇〇五年六月四日、それは図ったようにその翌日だった。

去年の二月の一次予選オマーン戦から薄氷を踏む勝利、マスコミからのジーコ采配に対する疑問に対して、

「腐れマスコミが何を言うか、まったく。私はジーコを信じる。絶対に大丈夫!私はジーコの運の強さを知ってるんだから」

空を見つめ自信一杯に言い放ち、ジーコ率いる日本代表の最終予選突破を信じて疑わなかった。その日の夕食はもちろん特別注文の「カツ丼」。

慶応病院の七階特別室のテレビに映るは、灼熱のバンコク・スパチャラサイ・スタジアム、無観客試合で行われた対北朝鮮戦を日本代表は二対〇で制し、ジーコジャパンはドイツへのチケットを手に入れた。


おばあちゃんがサッカーの虜になったのは一九六四年東京オリンピック。

私が幾度となく聞いた、雨の国立の話。

とにもかくにもおばあちゃんは何故だか観戦に行っていたらしい。たぶん当時商船会社勤務のお爺ちゃんに無理やり連れて行かれたと思う、と言っていた。

試合は、大方の予想を裏切り、早稲田大学・釜本選手のセンターリングを古河電工・川渕選手が頭で決めて優勝候補のアルゼンチンから奇跡の勝利でベスト八進出、おばあちゃんは「人生、一生懸命は報われる」と実感し、それを以後の人生訓とする。

そして、メキシコオリンピックの銅メダル獲得に狂喜乱舞。

しかし、世の中そんなに甘くなく以後、日本サッカーは暗黒時代へ突入、一九九三年のドーハの悲劇、一九九八年、おばあちゃんが大いに嘆くカズ抜きの不完全燃焼のフランスW杯初出場、予選免除の二〇〇二年の日韓大会・・・雨の国立、あれから苦節四十年、ついに彼女の半生をかけた正々堂々の夢、実力で勝ち取ったW杯出場が実現した。

その翌日、彼女は静かに八十二年間の人生の幕を閉じた。

まさにジーコジャパンに送られか如く。



通夜も本葬もおばあちゃんが最も愛した神田明神下の自宅でやることにした。

年も年でそんな弔問客も数える人しか来ないだろうと。父親はなんか、当たり前かもしれないが元気がなかった。

私は起きている事象があまりにも淡々と通り過ぎていき、まるで夢を見ているようだった。その夢を見ているような私の虚無感を吹き飛ばす出来事が通夜から始まったのだ。


通夜の準備をしていた夕方、ニッコリ笑った田崎マコトが現れた。

「よっ、久しぶり、元気?」

元気ったって、通夜なんだから元気なわけもないが、私も、

「おっベテラン日本代表じゃん、嬉しいね、手伝いに来てくれたんだ」

と照れも隠してヤツに言った。マコトは、

「うん、当たり前じゃん。きっと後でみんな来るんじゃないの」

なんだかマコトは自慢げに言う。玄関に順子と由美と美佐が来た。

私は誰にも知らせなかった。マコトが言う通りかもしれない。

「何で知ってるのよ?」

私が疑問を呈せば、こいつらは後輩から聞いたと言う。

「後輩からって?」

ゆいと美和子、翔子に寛子、次から次へ懐かしい、インカレをベスト四まで勝ち上がったメンバーが顔を揃えた。

GK 大熊順子・・・実家の鎌倉・和菓子「たらふく」女将

DF 沢井ゆい・・・ラジオ局。高校野球担当デスク

DF 吉田由美・・・実家の巫女。幼稚園副理事

DF 大城美和子・・・ビール会社退職後、実家の洋食レストラン

DF 神保佳乃・・・外資系ホテル。シンガポール駐在から帰国

MF 山本ゆかり・・・脳神経外科医と結婚。二人の子持ち

MF 川島美佐・・・実家の新橋・明月庵(信州蕎麦)

MF 森部翔子・・・テレビレポーター

MF 和泉今日子・・・大学職員

FW 田崎マコト・・・サッカー選手。

FW 佐藤寛子・・・社内結婚。サンパウロ駐在から先月帰国。

「あんた、ハワイに行ってて知らなかったかもしれないけど、おばあちゃんはずーっと、うちらのサッカー部の面倒見ていたんだってさ。私達が卒業してからもさ、ずーっと今まで、癌になっても、ずーっと。入院の前の日まで・・・ずーっと」

佳乃が言う。マコトが続ける。

「グランド取るために、毎週、毎週、区役所とかに朝から並んでくれてたんだよ・・・」

マコトが目を潤ませた。

私は全く気が付かなかった。おばあちゃんは私に、サッカーの事は内緒にしていたのだ。

「おばあちゃんは、前からさ、今日子とサッカーとのしがらみを無くしてあげたいなぁって言ってたもんね、別の世界へ開放してあげたいってさ」

由美が言った。聞いていたマコトが、

「あん時さ、そ、今日子が代表から落選した時に言ってたよ・・・年寄りが自分の孫を、自分の夢のために縛り過ぎたら申し訳ないってさ」

きっと私が代表に落ちた時、私の切なさ以上におばあちゃんは悔しく、そして辛かったのだろう。趣味で始めさせたサッカーで、もう私にこんな気持ちを味あわせたくないと。私はおばあちゃんの気持ち、優しさ考えると胸が熱くなった。

「でも、今日子のおばあちゃんの存在が無かったら私たちの青春も、思い出も、なーんも残っていなかったもんね・・・それにこんな仲間もね」

順子が涙を流して昔を思い出した。

「それに、サッカーをしていなかったら、みんな、もう、とっくに堕落してますよ、絶対に、もちろん、私以外はね」

子供を抱いた、私達のせいで新体操でオリンピックに行きそびれた山本ゆかりが優しい笑いを誘う。だから、サッカーを皆でやっていて良かったね・・・と。

本当に好江おばあちゃんとサッカーに感謝だね・・・みんなが口々に言う。だから絶対に最後まで笑顔で送ってあげようと。


梅雨の走り、ひんやりした静寂がみんなの思いを包みこむ。

じっと遠くを見つめるもの、目を閉じてあの日に帰りたいと思うもの、思い出に唇を噛むものと、様々な青春が混じり合う。過ぎ去りし日を思い、涙を我慢しても、どうしても頬を涙が落ちる。


三つ以上離れていると私は後輩の顔を知らない。でも、知らない顔でも雰囲気で我が部の後輩たちと解る面々が続々とやってくる。この雰囲気も私達から脈々と引き継がれていたと思うと、何だか感慨は深い。現役の子たちは皆、健康的に小麦色に焼けている。うっすら化粧も伝統か、女は強く美しく。後輩の子たちは口々に感謝の言葉を私達家族に言い、私の手を握って、「ありがとうございました」と涙を流す。

癌で言うことを効かなってきた体を引きずり、死ぬまで大好きだった「サッカー」に身を投じ、どこかに置き忘れた自分の「宝物」をグランドに見つけた・・・おばあちゃんの「癌」との闘いにおいて、有益だったのはハワイの「マナ」ではなく、「サッカー」だったのだ。



その日私達は久々に飲みまくり、学生時代に帰ったように盛り上った。母親は私たちの常識を逸脱した酒量の多さに呆れていた。

高校、大学の友達連中と焼酎を酌み交わし、顔を真っ赤にした父親は台所の隅でこっそり涙を流していた。やっぱり、学生時代に同じ志を持った仲間は良いものだと、私は心底思った。

あの私達の珠玉の時代・・・遠くもあり、近くもあり。

私は、私とおばあちゃんの最後の時間を、通夜の晩にみんなに話した。


あの時、彼女は薄れ行く記憶の中で、私の手を掴んで言った。

「この年になるとね、今日子、あんまり死ぬのは怖くないのよ、ホントさ。なんというかね、死は、決して終わりじゃない、そう、終わりじゃないって思うようになるのよ。だいたい、『生きる』って事はさ、辛いことと楽しいことの積み重ね、私の青春は戦争。辛かった人生の後には楽しくて、嬉しいことたくさん・・・」

病室には静かなハワイアン。ジェイク・シマブクロのウクレレのバラード。

「最高の人生だったよ。今日子、ありがと・・・ねー、随分とサッカーもハワイも楽しんだね」

「うん、おばあちゃん、私も最高に楽しかった」

「最高だったなぁ。正直言うとさ、いつか、私は今日子のプレーがね、またね、もう一回見たいと思ってたんだ・・・今日子のパスセンスはヒデも俊輔も顔負けさ。そして、マコトがガンと決める・・・ま、いつか、またね」

「そうだ、もうそろそろOG戦でもやらなくちゃね。そしたら・・・」

「あの世からさ、いっぱい応援するさ」

「ありがと、おばあちゃん」

「あの世で、みんな、また、会おうねって言っておいてね」

そう言って、おばあちゃんは静かに目を閉じた。

「おばあちゃん、ほんとに、ありがとうね」

私はそう言って、最後に力一杯おばあちゃんを抱きしめた。


おばあちゃんは最後までサッカーを愛してやまなかった。目を閉じて耳を澄ませば、病室の窓から臨む国立競技場ではJリーグの鹿島対横浜マリノス、スタンドからの歓声が風にのって病室に届く。私たちの記念すべき公式戦デビュー、〇対十四の大敗。ひときわ大きなおばあちゃんの声援を私は思い出した。

「明日があるさぁ!元気を出せ~白洋女子!」

私は、また、この世で、絶対に、サッカーボールを蹴りたくなった。


そして七年後、天国のおばあちゃんの熱い願いが通じ、なでしこ達は世界一の大輪の花をドイツで咲かせる。

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