第2話

皆、もう忘れられてしまったかもしれないドーハの悲劇。

私たちのサッカーは、あのドーハの悲劇から始まった。

ずいぶん昔のような、ちょっと前の事件のような。


あと十秒だった。あと十秒我慢できたら、日本はイラクに勝っていた。

W杯アメリカ大会アジア最終予選、勝てばワールドカップ初出場。二対一で迎えた後半ロスタイム、ショート・コーナーからMFオムラムのヘッディングがゆっくりの弧を描いてゴールに吸い込まれていった。

ワールドカップ本戦、一九九四年アメリカ大会への夢にまで見た史上初の出場権は遠い彼方の幻に消えていく。勝負の神は、「そんな、世の中、甘くないよ」と嘲笑うかの如く。 今は当たり前と錯覚されつつあるワールドカップ出場、ちょっと前まで、その出場権の獲得は先人の誰も成し遂げることができなかった困難の極みだった。


天国から地獄、だからサッカー、いやサッカーに限らずスポーツは面白く、楽しく、時に恐ろしく、悲しくもあり、人生そのもの。でも勝っても負けても、とっても素敵なドラマがそこにある事には違いなく。そんな刹那な一九九三年、十月二十八日、中東カタール、ドーハ。アルアリ・スタジアムの出来事だった。


あの時、このワールドカップ予選のテレビ中継を見るまでは、サッカーなんかに私は興味なんか微塵もなかった。

そんな奈落の底へ落ちたイラク戦のちょうど二週間位前の夜中。眠れずに小腹が減ってベッドを出て階下のキッチン、冷蔵庫へプリンを取りに行こうとした時、リビングから聞こえるおばあちゃんの嬌声。その時、偶然に引き込まれるように第一戦、日本とサウジアラビアの戦いを見てしまったら、もう、止められなくなってしまった摩訶不思議。



十月十五日、対サウジアラビア、〇対〇の引き分け。十月十八日、対イラン、一対二で負け。十月二十一日、対北朝鮮。もう崖っぷちは三対〇の勝利。十月二十五日、対韓国、根性のゲームは一対〇の勝利で薄氷の日本は次戦のイラク戦にすべてを賭けることになる。

そして、イラク戦。勝てば日本スポーツ史上初めてのワールドカップ、アメリカへ。最終予選の最後の試合途中経過はギリギリのシナリオ通り、一点差のリードで後半四十五分を過ぎたロスタイムへ突入。選手もベンチもテレビの前の人々すべてが、九分九厘ワールドカップ初出場のチケットに我ら日の丸イレブンが手をかけたと思っていたであろう、その時・・・相手のラスト・プレーはテレビの右上からのコーナーキック。私は青いユニフォームの選手のストッキングが、足首までだらしなく下げらたルーズソックス状態になっているのが妙に気になった。


審判のプレーオンのホイッスル。敵のコーナーはショート。短くつながれてカズの必死のカバーも間に合わず日本のゴール前にセンターリングが上がった。

次の瞬間、すべての視聴者は目を疑ったことだろう。さすがの私も呆然と持っていたホットカルピスの入ったマグカップを床に落とした。

フワッと上がった運命のボールは、イラクの選手の頭を経由して日本のゴールネットを揺らし、GK松永は飛ぶことも出来ずに呆然と運命の丸いボールを見送り、地獄へ堕ちた。


ラモスにカズにゴン・・・ピッチ上の選手、ベンチ、そして、テレビの前に陣取るにわかサポーターを含めた日本人数千万の視聴者達はワラをもすがる思いで審判を見た・・・が、判定がくつがえるはずもなく。青いユニフォーム、日本の選手達はもんどりうってその場に倒れ、起き上がることができない。

アナウンサーも解説の人も声を発せず。ただただ涙を流していた。何か幻を見たかのような、放送事故がごとくの無力な静寂オーラがテレビから発せられていた。


私は和泉今日子、生まれも育ちも神田は明神下、ちゃきちゃきの江戸っ娘。当時は十九才、同じ区内の白洋女子大に通う一年生だった。四つ上の姉は青学を出て大手町の商社に勤めていた。もちろん、サッカーなんかには無関心で、その日の夜も仕事に酒に、そして男に疲れた、疲れたと言って、明日も早いと溜息をつき、さっさと寝てしまった。

父親も商社、母親は普通の主婦。父親が商社勤務ということで、海外も長く、私は小学校のほとんどをニューヨークで過ごした。高校一年の時、父親の再度の海外駐在はロンドン。この転勤の時は、学校や進学のこともあるので、私は姉と日本に残っておばあちゃんと暮らしていた。


深夜、一緒にアラブからの生中継を見ていた私の祖母、好江おばあちゃん、六十九才は、その悪夢のシュートの瞬間、食べていたミカンを食べるのをピタッと止め、遠い彼方を見つめて溜息混じりにつぶやいた、

「あーぁ世の中、なかなか思い通りにいかないねぇ。あぁ、ラモスにカズ、ゴン、松永に高木に都並ちゃん。吉田に森安・・・あぁ、あまりに可哀相で・・・」

食べ残したミカンの皮と半分の身を残し、続ける。

「ねぇ、今日子、次の次はフランスだよ、五年も先だよ。私は七十四だよ全くぁぁぁ、こりゃ、頑張って長生きしなくっちゃ、全く。ふぅぅぅ、明神様も遠い中東の国までは効き目も無いが・・・そんじゃお休み」

 肩を落としてフラフラと寝室に消えた。

 私は「たかがサッカー」に激しく落ち込むおばあちゃんの姿に少々驚いた晩秋の夜だった。



翌日、私はテクテク十分歩けば学校に着く。みんな寝ぼけ眼の学食、ランチタイム。高校からサーフィン仲間で、この大学に上がって一緒に波乗同好会を作った中で一番の熱血漢である由美が、カツ丼を食べ終わると突然、宙を見つめて言い放った。

「ねぇねぇ、夜中、見たでしょアレ。ね、サッカー。サッカーやってドーハの恨みを晴らそうよ、ねぇ。そう、で、皆でオリンピック!オリンピック出ようよ」

ドーハの恨みったてアンタ、何の恨みを誰に晴らすのって、いつもの由美の思いつき、冗談、冗談ってみんな思っていたはず。それにオリンピックと言っても、昨日の試合はサッカーのワールドカップであって、オリンピックとは無関係だって、誰かが何度言っても彼女は、

「そんな細かい話は、どーでも良いじゃん、ね、私は女子サッカーに光明見つけたの!」

と聞く耳持たず。


一週間後、由美からの突然の召集は江ノ島、西浜海岸。

ビーチには五つのサッカーボールにミニゴールが用意されていた。おまけにコーチには由美がどこで手配したのかK大の体育会サッカー部からの三名のコーチが用意されている準備万端。ちょうどドーハの悲劇から数えて八日目。その恨みを晴らすべく?記念すべきは一九九三年、十一月四日。私達、軟弱波乗愛好会はその目的を改め、白洋女子大体育会サッカー部がここに無理やり結成された。そう、吉田由美は本気だったのだ。

我が国における女子サッカーの選手層の薄さに光明を見つけたのか、この由美の訳の解らぬ野望に乗らされた私たちも驚くべきことに、以後、このマイナースポーツの「女子サッカー」に熱中することになる。



一ヶ月も毎日のように西浜だ、辻堂の小学校の校庭、由美の家の裏にある小さな餓鬼の溢れる公園だと暇さえあればサイドキックにインフロントキック、ボールを止めるトラップのイロハなどボールに触れて習得すれば、基本のスキルは完全にみんなマスター。さすがは白洋女子大きっての運動神経軍団と自画自賛の日々、K大のコーチ陣も大いに驚いていた。

キャプテン決めようって話になってもキャプテンをやろうなどと奇特なメンバーは誰もおらず、結局、キャプテンは言い出しっぺの由美に決定した。もめたキーパーはチームの総意ということでメンバーの中で一番体のしっかりしている、つまりは頑丈(デブ)な順子に決定。反対は順子自身の一人だけ、本人のイメージはFW希望でゴールに飢える狼、イタリアのデルピエロ、当時的にはヴェルディの武田あたりだったが、それはキッパリ諦めてもらった。

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