第20話 プロローグ

何の変哲もない、ただの民家にしか見えない建物の奥底にある、およそ民家に似つかわしくない高価な研究機材に囲まれた部屋で、1人の女性が椅子にもたれ掛かってコーヒーを煽っていた。

カップに満たされているのはモカとキリマンジャロのブレンド。

ブラックのまま飲み下すと、爽やかな酸味と苦みが芳醇な香りとともに胸一杯に広がり、溜まった疲れを丸ごと押し流していく。


1日の激務を終えてようやく訪れた至福のコーヒータイム。

それを邪魔したのは、一本の会議電話通知だった。

「なあに?槇島クン、こんな時間に今日の研究進捗報告かしら?」

モニターに映し出されたのは、眼鏡を掛けた七三分けの生真面目そうな男。

「すみません、神谷所長、シミュレーション結果の解析に想定より時間が掛かりまして。」

「それで、結果は出たの?」

「はい、映しながら説明しますね。まずはこちらが受容体変異のパターンをグラフ化したもので・・・」


BCL副所長、槇島修一の報告は、待たせただけあって所長の神谷要女を満足させるものだった。示された数値は研究が順調に進んでいることを表している。想定通りにならなかったものに関しても、論理的に深く考察がなされ、次のアクションが的確に設定されていた。


「上出来よ、ご苦労様。今日はもう遅いしゆっくり休んで、明日からもこの調子でよろしくね。」

そう言って通話を切ろうとした要女は、槇島の様子が少しおかしいことに気付いた。

普段なら、無駄話を好まない槇島のほうからさっさと通話を切るのが通例だが、今日はどうも何か言いたげに視線を投げてきている。

「どうしたのかしら?まだ他に報告でも?」

「いえ・・・というより、1つ伺っておきたいことがありまして。」

「何かしら?」

「先日の件です。アレックス・クロフォードから上がってきた、薄野芹花確保の計画書・・・本当に通してよかったんでしょうか?」

「あら、あなたが興味を持つなんて珍しいことね。研究以外はどうでもいいと思っているのではなかったの?」

「思っていますよ。だからこそです。今後の研究活動に支障が出そうな事項には気を掛けずにいられません。」

真意を探るように要女の目を見据えつつ、槇島は言葉を続ける。


「薄野芹花は、担当ミッションで公安と揉めて組織に不利益をもたらした落とし前に、PELの連中にフィールドテストでの標的として提供したはずじゃないですか。

それをあんな形で我々のチームに妨害されたんじゃ、あちらさんきっと今頃カンカンですよ。」


「そうね、でも結果的にはいいテストになったでしょう?問題点が洗い出せてこそテストした甲斐があるってものよ。親切にも課題の抽出に協力してあげたんだから、感謝して欲しいくらいね。」

「今回ばかりはそんな憎まれ口では誤魔化せないでしょう。」

軽い調子の要女に眉を顰める槇島。

「せっかく興味深い被験体が手に入ったんです。これから成果が上がっていくというときに余計な邪魔が入るのはごめんですよ。」

「そんなに気に入ったの?龍輔クンのこと。」

その名前が出た途端、槇島の顔色が変わった。

「素晴らしいですよ!彼は! 螺旋状のシナプス結合により形成された腫瘍が三半規管を圧迫するほどに肥大化していますからね。おそらく最大出力はミコトをも凌ぐはずです。」

興奮で頬を上気させつつ捲し立てる。

「鴉、と呼ばないと怒られるんじゃない?」

要女に口を挟まれて、槇島はやれやれと首を振った。

「名前なんて記号ですよ。そんなどうでもいいことに拘るなんて、はやり気取っていても所詮は子供ですね。」

「あら、私からしたら、あなたの行動原理の単純さだって余程子供っぽく見えるけれど?」

面白くなって問答を仕掛ける要女に、しかし槇島は微塵もたじろぐ様子はない。

「解釈の違いですね。大人になるというのは、より思考が整理されて、的確な判断ができるよう単純化されることを言うんですよ。

自分が何を欲しているかを順位付けし、必要性の低いものを躊躇なく切り捨て、重要なものへと持てる資源を集中的に投入する・・・そうやってベネフィットを最大化できるようになってこそ、大人としての役割を果たせるんです。」

「ふふっ、あなたの考えって私の若い頃にそっくりね。」

「それはどうも。それより今は、演習の標的として処理されるはずだった薄野芹花を匿ったことによって我々にどんな制裁が下されるかについてです。

大体、アレックス・クロフォードも、彼女に対する本当の処置を察知しつつ作戦書を出してきたんじゃないですかね。他にも何やら怪しい動きをしているようですし・・・彼は米軍属歴もありますから、もう少し手綱を締めたほうがいいのでは?」

「その行動の結果をこちらの利益に組み込めばいいだけよ。おかげで計画が早まりそうだし。」


「・・・計画・・・?」


承知していない話を匂わせる要女に、槇島は怪訝な表情を示した。

「そう、計画。槇島クンにはまだ話してなかったものね。そろそろ頃合いかしら。」

今の状況は、BCLにとって間違いなく危機である。もし、所長が情に絆されて薄野芹花の保護作戦に許可を与え、現状の窮地を招いたのだとしたら、身の処し方を考えなければならない・・・そう懸念していた槇島であったが、槇島から見た要女の表情は不気味なほどに余裕に満ちていた。

「今、あなたの端末に計画書を送ったから、目を通しておいて。」

槇島が確認すると、専用線に繋がった端末に、厳重な暗号化が施されたファイルが届いていた。

復号化して中身を確認した槇島は、漏れそうになった声を押し殺して、ふうっと息を吐いた。

「私たちが研究に埋没している間、どうも留守が多いと思っていたらこんなことを企てておられたんですか、いやはや・・・」

「呆れたかしら?」

「いえ、安心しました。かなりのギャンブルですが、確かにこれが上手くいけば研究は飛躍的に進展しそうですから。」

「気に入ってもらえてよかった。それじゃ、槇島クンには色々準備を手伝ってもらうからよろしくね。」

「そういう面倒な役回りは本来御免蒙りたいところですが、仕方ないですね、今回は吞みましょう。研究のためです。」

「うふふ、ありがと。」


予定から大幅に遅れて始まった日次報告は、時間を大幅にオーバーしてようやく終了した。

要女が通話を切ると、彼女の部屋に再び元の静寂が戻った。

噛み締めるように目を閉じ、椅子を軋ませながら、要女はゆっくりと天井を仰いだ。


(いよいよ、始まる・・・)


長年掛けて1つずつ拾い集めた歯車がようやく噛み合い、二度と引き返せない現在を離れ、未来へと向かって回り始める。


「真澄クン、あなたはどんな答えを見せてくれるのかしら。」


虚空に吸い込まれた呟きには、幾ばくかの感傷の色が窺えた。



物語の開幕を告げる鐘の音が、今、ひっそりと鳴り響いた。










―――― 第二波 完

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漣 第二波 やどっく @yadoc

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