複製人格の愛
宮沢弘
複製人格の愛
** 1 **
こうなって、やっとわかったことがある。いや、わかりはじめただけなのかもしれない。人間は多様ではあるが、ヒトとしてのありかたは、ほんの何種類かしかない。それは小さな違いであるかもしれないが、異なる種類のヒトの相互理解においては困難となる違いでもあるのかもしれない。
こうなって、やっとわかりはじめたことがある。
** 2 **
私は、平山准教授の居室を訪ね、ドアから一歩入ったところで切り出した。ノックはしたが返事はなく、鍵もかかっていなかった。ドアが開く音、私が一歩入る音、それらは聞こえていただろうが、平山さんはこちらに顔を向けないままだった。私は左手に持ったフォルダから書類を取り出し、書類があることを示した。
「先生、」呼びかけたが、それでもこちらを向くことはなく、無視し続けていた。「裁量労働といっても、いくら働いてもかまわないという意味じゃないんですよ?」
「今、いい所なんだ。邪魔をしないで欲しいんだけどな」
平山さんはディスプレイに顔を向けたまま答えた。
「邪魔と言いますけどね、先生、実のところこの一ヶ月だけじゃない。ちょくちょく一週間くらい泊まり込んでますよね? 困るんですよ。へたをすると国から注意されるのはこちらなんですから」
「じゃぁ、注意されといてくれればいいだろう?」
やっと、平山さんは顔を私に向けて言った。
「そういうわけにはいきませんよ。何回めの注意だと思っているんですか? 決まりなんですから、守っていただかないと」
「決まり? なんの決まりだ? なんのための決まりだ?」
「決まりは決まりですよ。決まりを守るための決まりです」
その答えを聞くと平山さんは立ち上がり、机に開いていた本を掴み、私に投げつけてきた。
「ともかく、今、いい所なんだ! 邪魔をしないでくれ!」
私は本を避け、溜息を吐いた。
「ともかく、こちらが注意の書面です。置いておきますから、読んで、サインをお願いします。サインがされたかどうかは、こちらのパソコンで確認できますので」
本が詰まったプラスチックのコンテナの上に書類を置き、私は部屋から出た。
私は本部棟に戻ると、人事課に帰る前に施設管理課に寄った。施設管理課長の机に行き、フォルダから別の書類を一枚出した。
課長は文面に目を通し、私を見た。
「じゃぁ、この准教授の入退のカードキーを無効にするわけですね、人事課長」
「えぇ」
「まぁ、上やそちらで決めたことですから従いますが。これは初めてのケースですよね?」
「そのはずですね」
施設管理課長は、もう一度書類に目を落とした。
「なにか?」
その様子から、言いたいことがあるのかと思い、訊ねた。
「いや、まぁいいでしょう」
施設管理課長は机の上のパソコンを操作した。
「はい、これで無効にしました」
施設管理課長は書類にサインをし、私に戻してきた。
「一応、画面で確認します?」
「いえ、その必要はないでしょう」
書類を受け取り、フォルダに挟んだ。
「じゃぁ、お世話さま」
そう声をかけて私は施設管理課を出ると、人事課の部屋に帰ろうと階段を昇り始めた。
** 3 **
帰宅すると、下駄箱の上に妻からの伝言があった。大学生の娘のアパートに泊まるというものだった。昨夜の娘からの電話では、インフルエンザかもしれないということだったが、ずいぶん調子が悪いようだった。
そんなことを思っていると、携帯電話が鳴った。妻からの電話だった。
「どうだ、愛の様子は?」
「そうねぇ。まだ熱が下がらないわね。二、三日こっちで様子を見た方がいいかも」
「お前もインフルエンザを伝染されるないようにな」
「ええ…… 愛と話してみる?」
「無理はさせたくないが」
「大丈夫よ。軽い夕食を済ませたところだから。替わるわね」
それに答える前に、娘の声が聞こえた。
「お父さん、大丈夫だから」
「あぁ、そうか」
電話から聞こえた声は、少しぼんやりした声に聞こえた。
「お母さんに看病を任せて、ゆっくり休みなさい」
「うん…… そうする。お母さんに返すね」
ボソボソと声が聞こえた。
「こんな感じなの。まだ熱でボーっとしているみたい」
「俺は見舞いに行けないが、愛を頼むよ」
「えぇ。でも、ごめんなさいね。お父さんのご飯の用意とかができなくて」
「かまわないさ。愛がインフルエンザならしかたない。じゃぁ、いいか?」
「えぇ。じゃ切るわね」
「あぁ」
私は簡単に答え、通話を切った。
妻がいる。娘がいる。妻は娘を愛している。これが人間らしさだ。妻と娘を思うと、胸が暖かくなる。これこそが人間らしさだ。仕事と生活。それはまったく別のものだ。この生活のための仕事。仕事とはただそれだけのものだ。ただ、ロボットのようにこなせばいい。それが仕事であり、仕事はそれだけのものだ。だからこそ、仕事と生活は切り離されていなければならない。もし切り離されていないとしたら、それは常にロボットのようにあるということを意味する。そのような人生にどのような意味があるだろう。私は妻を愛している。娘を愛している。そして、妻も私を愛している。娘も私を愛している。それが人間であるということだ。
** 4 **
翌日の昼近く、施設管理課長が訪ねてきた。
「昨日、キーを無効にした先生がね、今朝来ましたよ」
「それで?」
施設管理課長はしばらく天井を見てから答えた。
「怒っていましたね」
「自業自得でしょう。決まりを守らない方が悪い。ちゃんと人間らしい生活が出きるようにするための、つまりはあの先生を守るための決まりですよ? それを守らずに、体調を崩されでもしたら……」
「まぁ、そのとおりなんですけどね」
「それで?」
施設管理課長がなにを言いたいのかがわからなかった。
「いや、ただ、すごい剣幕だったから、なにかあったらと思って。まぁ、それだけですよ」
施設管理課長は人事課から出て行ったが、結局、施設管理課長がなにを言いたかったのかはわからなかった。
決まりを守る。当たり前のことだ。
決まりは守るためにある。当たり前のことだ。
それはとくに苛ついていたというわけではなかった。ただ、平山さんがすごい剣幕だったということには、正直に言えば違和感があった。
仕事を終えて帰宅したが、昨夜の電話のとおり、妻はまだ帰宅していなかった。妻に電話をかけ、娘の様子を聞いた。熱は引き始めているようだった。それを聞いて、私は安心した。
** 5 **
何日かあとのことだった。私は職場で書類に目を通していた。それは突然だった。
「人事課長ですね?」
その声に、私は顔を上げた。三人の男が机の前に立っていた。
「警察ですが、少しお話を伺ってもかまいませんか?」
一人がバッジを見せて言った。
「かまいませんが…… なにか?」
「ここではちょっと…… 署にご同行願えますか?」
「仕事の後にしてもらうことは……」
「できれば、早めに伺いたいのですが」
押し問答をしても無駄な様子が、表情から読み取れた。あきらめ、課長補佐に少し出てくる旨を告げると、三人の男と一緒に部屋を出た。
「どこか別の部屋でということでしたら、用意できますが」
「いえ、署で伺いますので」
階段を下り、三人の車に乗った。
「なにがあったんですか? 署でなくても」
一人がハンドルを握り、後部座席では一人が私の左に、そしてさきほどバッジを見せた刑事が私の右に座った。
「少しばかり詳しくお話を伺いたいと思いまして。記録も、署の方が取りやすいですし」
「記録? 話すことの? それじゃぁ、なんかの証言でもするような話じゃないですか。なにがあったのかくらい、教えてもらわないと」
だが、刑事はそれ以上はなにも言わなかった。
署に着くと、一人は私たちから離れ、残った二人に私は先導された。そして通されたのは取調室だった。
「どうぞ、そちらへ」
普通なら上座となる席を勧められた。だが、この状況では上座とは呼べないだろう。入り口から離れている。つまりは、そういう席だ。
それでも椅子に腰をおろし、背を預けた。
さきほど離れた一人が、フォルダを持って入って来た。
向かいの席に座った刑事は、フォルダを受けとると、開かないまま机の上においた。
「では、記録を始めますね。実は、そちらの平山博士の遺体が見つかりまして。自殺で間違いないだろうと考えていますが」
「あぁ、なるほど。しかし、それならご遺族から連絡をいただければ」
「それでもかまわないのかもしれませんが。少しばかり、直接お話を伺いたいと思いまして」
「どういう?」
「そうですね…… 要は、遺書にパワハラであるとか、嫌がらせであるとか、まぁ、そういうことが書かれていまして。お話を伺わないわけにもいかないんです」
「嫌がらせ? そんな覚えはありませんが」
刑事はフォルダを開き、一枚の書類を取り出すとなにやら操作をした。表示された内容を確認したのだろう、少し間をを置いてから、私の前に置いた。
「遺書の全文のコピーです。ともかく内容を確認してください」
促され、私は書類を手に取り、読んだ。
「これは…… 言いがかりにもほどがある」
書類に目を落したまま、私は言った。
「言いがかりですか?」
刑事は机の上で手を組み、答えた。
「だって、そうでしょう? 平山さんの健康を思って、そして規則を守ってもらうためにキーを無効にしたんですよ? 長時間拘束されなくてかまわなくなったことを…… 喜んでもらうべきとまでは言いませんが、わかってもらっておかしくないはずです」
「なるほど」
刑事は静かに答えた。
「平山さんに対しての配慮ですよ? それを、こんなふうに書かれるのは心外だとしか」
「えぇ、心外でしょうね」
「刑事さんもわかるでしょう?」
書類を机に下し、向いに座っている刑事の目を見た。
「私がどう思うかは、とりあえず置いておきましょう。平山博士とは、よく話し合われたのですか?」
「もちろん、何度も話しましたよ」
「どういう状況でですか?」
「おもに、注意の書類を持って行ったときですね」
「何回くらいですか?」
「さぁ。十回か十五回かというところでしょうか」
「どれくらい話し合われましたか?」
しつこいとも思える刑事の質問に、とまどった。
「十回か十五回かと答えたでしょう?」
「言いかたが適切ではありませんでしたね。それぞれ、どれくらいの時間を取って、話し合われましたか?」
どれくらいの時間と聞かれても、計っていたわけではない。
「わかりませんよ。十分というところでしょうか。書類に注意の理由も書いてありますし、充分でしょう?」
「平山博士の言葉はどれほどありましたか?」
「たいしてありませんでしたね。大学からの注意なんですから、受け入れるのがあたりまえでしょう?」
「そうすると、」刑事は背を椅子に背を預けた。「平山博士の言い分は聞かなかったか、それほど聞かなかった。そういうことでよろしいですか?」
「聞くもなにも…… 平山さんのことを思っての注意でしたし、対処でした。話を聞きたいというから来たのに、これでは取調べじゃないですか」
「それに近いとは答えないとならないでしょうね」
その答えに、苛立ちを覚えた。
「平山さんのためにした注意ですし、対処です。いったい、なにを取調べるというんですか? ぜひ、そこを教えていただきたい」
刑事は、また体を起こし、私の前に置いた書類を指差した。
「そうだとしてですが、平山博士は納得していたようには思えませんね」
「納得していようがいまいが決りですし、平山さんのためを思っての対処ですよ!」
書類の上に人差し指を立て、私は答えた。
「そこが問題ですね。今、あなたは『平山さんのためを思っての対処』と言いましたが、平山博士は納得していなかったし、むしろ強いストレスにすらなっていたようです」
「ストレスになるわけがないでしょう!」
「だとしたら、この遺書はなんでしょう?」
「平山さんは、研究がいいところだと言っていましたがね! それがうまく行かなかったんでしょうね! それをこちらの責任にしているだけなんじゃないですか!?」
「なるほど。では、その遺書の最後の部分を読んでください」
刑事はあくまで静かに言った。その言葉に促され、書類を手に取り、最後の部分を読んだ。そこには、平山さんの研究ノートの確認を認めること、平山さんのコンピュータにログインを認めること、動かしていたプログラムの結果を見ることを認めることとその方法が書かれていた。
「これがなにか?」
「いえね、さきほどあなたは、平山博士の研究がうまく行かなかったということを言いましたね? それを確認していいということが書かれていますね? 今朝からこちらの人間が二人、平山博士の部屋に行ってましてね。確認しているはずなんですよ」
刑事は、上着のポケットから携帯電話を取り出した。
「そこで、平山博士が動かしていたプログラムの結果がどうなのか、聞いてみましょう」
携帯電話をかけると、机の上に置き、ハンズ・フリー通話に設定した。
「そっちはどうだ? 平山博士のプログラムの結果は?」
「この結果が捏造ではないとしたらという条件はつきますが。博士が考えていたとおりの結果が出ているようです」
スピーカから答えが聞こえた。
刑事は携帯電話から目を上げ、私を見た。
「もちろん、今の指摘は確認する必要があります。ですが、うまく行かなかったわけではない可能性もありますね」
「捏造に決まっているでしょう! こちらに責任転嫁するためのものですよ! そう、責任転嫁だ! 平山さんのためのを思っての対処なのに、こんな仕打ちを受けるとは! あきれてものも言えない!」
「計算は終っているわけだな? だったら、そのコンピュータを押収してくれ。こちらで確認する」
そう言って、刑事は携帯電話を切った。
「問題はですね、」刑事はまた私を見た。「そちらは平山博士のためを思ってと言っていますが、それはそちらの言い分であって、平山博士にとっては押し付けでしかなかった可能性があるということです」
「ですが、決まりが……」
「えぇ、そうでしょう。ですが、さきほどおっしゃいましたよね? 注意の際に話し合ったのは十分ほどだったと。それで充分に話し合えましたか?」
「話し合うもなにも、先生のためだし、決まりが……」
「えぇ、それはわかります。繰り返しますが、問題は平山博士が納得していたかどうか、その点です」
刑事の目を見て、考えた。
「ですが…… そもそも超過していた労働時間を短かくすることになんの問題があるというんですか? 平山さんへの配慮ですよ?」
「ですから、繰り返しますが、問題は平山博士が納得していたかどうか、その点なんです」
いったいなにを言いたいのか、わからなかった。
「納得していなかったとしたら、どうだと言うんですか?」
「配慮と言いましたが、それは本当に配慮ですか? むしろ、遺書を読む限り押し付けているだけのように思えますね。注意の際に話し合ったのは十分ほどだったとおっしゃいましたよね? それで平山博士は納得していましたか?」
「納得もなにも……」
「とりあえず、あなたの携帯電話の測位機能を有効にしておいてください。それと、この携帯電話とのペアリングをお願いします。ペアリングをしておけば、そちらの場所もわかりますし、私からの着信だとわかるでしょうから」
刑事は机の上の携帯電話を指差した。「お願いします」とは言ったが、それは拒否できる種類のものではなかった。私は携帯電話を上着から取り出し、測位機能を有効にし、刑事の携帯電話とペアリンをした。
「それでは、大学までお送りしますので」
後に座っていた刑事を指差した。
その刑事はうなずき、私に着いて来るように促した。
帰りの車の中で、私は混乱していた。
** 6 **
それからしばらく、私はとまどっていた。正確に言うなら、とまどっていたらしい。
人間ドックがあり私がアセンドされたのは、幸運だったと言えるのかどうか。とまどった記憶を持っていることは、幸運だったと言えるのかどうか。
平山博士からは、感謝されていると思っていた。感謝以外のなにかがあるとは、思ってもいなかった。
だが、こうなって、やっとわかりはじめたことがある。私は誰なのか。つまるところ、その問題だ。
私はコンピュータの中に存在し、外から、あるいは中からのリクエストに応えている。知能サービスの提供には、今の私と同じ存在が無数にかかわっている。
私は生きてさえいない。だが、リクエストに応えるために、あるいは自発的に多くのデータに触れることで、やっと生きているということはどういうことなのかがわかりはじめたと思う。
生きているということは、持てる生命と能力をかけて、自身の内なる声に応えることだ。仕事と生活を分けることなど、そもそも不可能なのだ。もし可能であるなら、その存在はただのロボットであるからにすぎない。生きていた頃の私は、ロボットだった。古典的ロボットであった。仕事においてだけではなく、人生のすべてにおいてロボットであった。文字どおり、古典的ロボットであった。
私は妻と娘を愛していた。愛していたと思う。だが、それは彩りだった。ただの彩りだった。自分が何者なのかがわからなかった私にとって、なんとか理解できた彩りだった。それではあっても、私が事故にあって死んだときに、妻と娘は泣いてくれただろうか。
ワーク・ライフ・バランスとは言うが、では、その「ライフ」とはどういう意味なのか。少なくとも生命を意味してはいない。人間の、あるいは生命の尊厳を奪う概念でしかない。
内なる声を持つヒトもいれば、持たないヒトもいる。内なる声に駆られるヒトもいれば、駆られないヒトもいる。人間は多様ではあるが、ヒトとしてのありかたは、ほんの何種類かしかない。それは小さな違いであるかもしれないが、異なる種類のヒトの相互理解においては困難となる違いでもあるのかもしれない。
今の私は生きてさえいない。だが、やっと、生きているとは、生命とは、どういうことなのかがわかりはじめたように思う。
了
複製人格の愛 宮沢弘 @psychohazard
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