第四話 夜の寝業師(前篇)

 美雪が柔道部に入部してから一週間が経ったが、相変わらず部員は三人のままだった。


「今時、柔道なんて流行んないかなぁ」


「そんなことないですよ。頑張りましょう、南雲さん」


 机に突っ伏している南雲を励ます美雪だが、彼女も内心焦っていた。

 四月中に部員を五人集めなければ、柔道部は廃部になってしまうのだ。今は三人、その一人は期限付きの入部だ。


「なぁ、海、お前の足、もう治ってるよな?」


 藍川が柔道部にいるのは、南雲の足の怪我が治るまでという約束だった。とうの南雲だが、足はもうすっかり良くなって――


「ど、どうしたの、南雲さん!」


 突然、南雲が椅子から転げ落ち、左足を両手で抑えて呻きだした。


「うぅ、皆に心配をかけまいと無理をしていたんだが、やっぱり駄目みたいだ」


 なんてことだ。南雲の脚はまだ治っていなかったのだ。今日の体育のサッカーでオーバヘッドキックを決めて、喜びのあまりサンバを踊り狂っていたけど治ってなかったんだ!


「おい、海」


「なんだい、昴。気にするな、こんなの大した傷じゃない」


「お前が怪我したのは右足だ」


 痛いような沈黙が十秒続いた後、南雲がゆっくりと顔を上げる。


「怪我をした右足を庇うあまり、左足も痛めてしまったのだよ、ワトソン君」


「だぁれがワトソン君だ。まったく、早くしないとみんな帰っちまうぞ」


 藍川は勧誘のちらしを手に取って教室を出ていく。何だかんだ協力してくれる藍川を追いかけて、美雪と南雲も教室を出る。


「はぅ!」


「ど、どうしたの、雪ちゃん!」


 美雪が奇声を発すると、南雲が心配そうに声をかけてくれた。

 だが、別に心配するようなことではない。美雪は頬を赤くし、もじもじしながら、口を開いた。


「すいません、ちょっと尿意が……」


「そっか、あと一時間の辛抱だよ」


「いや、そこは笑顔で送り出して下さいよ!」


 美雪は南雲に頭を下げて、女子トイレに早足で向かう。

 もってちょうだい、私の膀胱。廊下を直進、階段横にある女子トイレに入室。入口に一番近い個室にパンツを下ろしながら飛び込み便座に座り込む。


「ふぅうう、ヤバかったわ!」


 あと一秒遅ければ社会的に死んでいた。美雪は幸せそうな顔で出すものを出すと、パンツをはいて便座から立ち上がった。


「こんな所にいやがったか、神崎!」


 怒鳴り声を聞いた瞬間、美雪は流れるような動きで便座に座りなおした。


「あれ、どうしたんですか、島袋先輩」


「北島がお前に話があるんだよ。いいから、来いよ!」


 さらにもう一人が怒鳴り声をあげ、複数の人間がトイレから出て行った。

 女子トイレで話していた二人組のどちらかが連れて行かれてしまったらしい。


「あの、何かあったんですか?」


 美雪はドアを開けて、女子トイレに残った茶髪の少女に尋ねる。連れて行かれたのは、金髪の方か。


「ごめんね、騒がしくしちゃって。別に大したことじゃないんだよ。神崎が北島先輩の彼氏とデートに行ったのがばれちゃったみたいでさ」


 みなさん不倫ですよ、不倫。

 先月まで中学生だった美雪には、ややディープな話で、つい興奮してしまった。そのノリのまま美雪は不良少女の肩を掴んだ。


「だからって喧嘩はいけません! 先生を呼びに行きましょう!」


「ちょ、ちょっと、ウンコした手で触んないでよ!」


「安心してください、オシッコです」


「どっちにしろ汚いでしょうが。まず手を洗おうよ、手を」


 不良少女に諭されて、美雪は素直に手を洗った。


「じゃあ、私、あの人を助けに行ってきます!」


「いや、神崎なら放っておいても大丈夫だって!」


 不良少女の制止を振り切って、美雪は女子トイレを出て行った。

 品のない罵り合いが廊下の左手から聞こえてくる。神崎という不良少女が他の二人と口喧嘩をしているのだ。

 早く職員室に先生を呼びに行きたいところだが、神崎がどこに連れて行かれるか分からない。こうなると、先生に喧嘩を止めてもらうのは難しそうだ。


「フフ……ここは私の出番ね」


 一週間に及ぶ柔道の練習で、以前とは見違えるように逞しくなった気がしないでもない。今の私なら、不良の一人や二人、楽勝で倒せたとしても不思議はないはずだ。


 美雪がそんな妄想をしている間に、神崎は校舎裏に連れて行かれた。

 校舎裏には太めの女子生徒が待っており、そのデブは神崎を見るなり、大声で怒鳴り始めた。あれが北島先輩か。他の二人も謝れ、謝れと言いながら、神崎の周りを回っている。


「よし、じゃあ、そろそろ助けに行くか……って、無茶言うな。たった一週間の練習で、そんなに強くなるわけがないでしょうが!」


 美雪が正気に戻った時、携帯電話に着信があった。南雲海からだ。

 そうだ、彼女に先生を呼んでもらおう。美雪は電話に出た。


「あ、雪ちゃん、トイレ終わった?」


「はい、すっきりしました。それより大変なんです。校舎裏で喧嘩が始まりそうなんです」


「マジか。すぐ行く、待っててね!」


 そう言って、南雲は電話を切ってしまった。かけ直しても出てくれない。

 たぶん、南雲は先生を呼んではこないだろう。藍川と二人で殴りこんでくるはずだ。相手は三人だが、男二人を投げ飛ばした藍川なら楽勝のはずだ。後は彼女たちが来るまで、神崎が無事でいることを祈るしかない。


 ドンと鈍い音が校舎裏から聞こえてきた。人が地面に叩きつけられる音だ。


 喧嘩が始まってしまったんだ。藍川と南雲が校舎裏に駆け付けた時には、神崎はボロ雑巾のようになっているだろう。だからといって、美雪が助けに入っても仲良くボロ雑巾にされるだけだ。自分にできることなんて何もない。


「だからって、何もしなくていいわけないじゃない」


 仲良くボロ雑巾、それでいいじゃないか。根性なしの弱虫、そんな自分を変えたくて柔道を始めたんだ。

 部員勧誘の後で、藍川や南雲が熱心に柔道を教えてくれたのは、そんな自分の決心を信じてくれたからだ。それを裏切っていいわけがない。


「貴方達、喧嘩はやめなさい!」


 美雪は校舎裏に飛び出して叫ぶ。だが、予想外のことが起きていた。

 二人の女子生徒が倒れ、北島先輩の上に神崎が伸し掛かっている。神崎は美雪と大差ない体型なのに、はるかに大柄な北島先輩は背に乗る彼女を振り落せないでいた。


「何だよ、てめぇ。見世物じゃねえんだ、失せろ」


 北島先輩の背に覆いかぶさった神崎は、その太い首に左腕を巻き付けたまま、切れ長の眼で美雪を睨む。神崎は北島先輩の首を絞めつけているのだ。


 困ったぞ、一体誰の味方をすればいいんだ。

 美雪は元いた場所に戻って考えた。

 神崎を助けに行ったのだが、助けが必要なのは絞め落とされそうになっている北島先輩だ。よくよく考えれば、神崎が北島先輩の彼氏に手を出したのが悪い。


「よし、北島先輩を助けよう」


 一人で頷いた美雪は、その辺に落ちていた木の棒を拾って、忍び足で神崎の背後に接近する。そして、そうっと棒を振りかぶった。


「喧嘩はやめなさい!」


「何だよ、しつけ……うお!?」


 美雪が棒を振り下ろすと、神崎は北島先輩の首から腕を放して地面を転がった。


「うわぁ、しまった、大丈夫ですか!」


 そのせいで、気の棒は北島先輩の後頭部に当たってしまった。

 その一撃で、地面に腹ばいになっていた北島先輩は、そのままの姿勢で動かなくなった。


「何やってんだよ、お前は!」


 神崎は大急ぎで北島先輩の手首を掴み、脈があることを核にした後、怖い顔で美雪を睨んだ。


「いや、喧嘩を止めようと思って」


「喧嘩どころか北島先輩の息の根が止まりかけただろうが!」


「え、何で私が悪いみたいになってるんですか。あなたが避けたのが悪いのに」


「いきなり背後から木の棒で殴られたたら誰でも避けるわ! 大体さぁ、暴力を止めるのに暴力を使うなよ、口で説得しろよ、口で!」


「だって言っても分からなそうだし、あなた見た目からしてバカそうだし」


「ああ、そうだな。だが、喧嘩売ってることくれぇなら分かんぞ」


 神崎の顔が怒りに歪み、ズンズンと地面を揺らしながら、美雪の方へと近づいてくる。

 どうしてこんなことに、彼女を助けに来たはずなのに。


「お、落ち着いて、話せばわかるわ!」


「とか言いながら、棒を振りかぶってんじゃねえか!」


「これは自衛のためだからセーフ!」


「セーフじゃねえよ、この糞――」


「あ、UFOだ!」


 美雪は東の空を指差して叫んだ。もちろん嘘だが、アホは引っかかったようだな。

 神崎がUFOを探しているうちに、美雪は攻撃を開始しようとした。


「って、引っかかるわけねえだろ!」


 しかし、神崎がすぐに振り返るのでゴルフの練習をしているフリをした。

 駄目だった。仕方ない、この棒を投げつけて逃げよう。


「これでも喰らえ、アバズレ!」


 美雪が投げた木の棒はクルクルと回転しながら飛んでいき、神崎の真横を通り過ぎて、意識が戻ったのか起き上がろうとした北島先輩の頭部に直撃した。


「てめぇ、北島先輩に何か恨みでもあるのか!?」


 再びぶっ倒れた北島先輩を見て、神崎が怒鳴る。


「起き上がらなければ当たらなかったんだけどね」


「北島先輩が悪いみたいに言ってんじゃねえ。いい加減にしろ、このクソ女!」


 どうして絞め落とそうとしていた人に、こんなに怒られなきゃいけないんだろうか。それはともかく大ピンチだよ、どうしよう!?


 神崎は目の前、逃げるのは無理だ。唯一の武器は投げてしまった。助けを求めたくても人もいない。戦うしかない。思い出すのよ、この一週間に練習したことを。

 美雪の脳裏に閃光のように思い出が駆け抜けた。優しかった母の笑顔、初めて自転車に乗れた時のこと、仲の良かった友人と喧嘩したこと、襲いかかるムササビの群れ……違う違う、走馬灯じゃない、この一週間に練習したことを思い出すの!

 この一週間、部員集めと並行して柔道の練習をしてきた。その成果を見せる時がきた。


「たぁあ!」


 美雪は地面を蹴って後ろに跳躍、両手を高々と振り上げて、背中が地面を打つと同時に、上げていた両手で地面を叩いて衝撃を分散する。

 これが一週間かけて習得した後ろ受身であるって痛いぃ、母なる大地、マジ固い!

 冷静に考えたらまだ受身しかしていない。投げられても怪我をしないようにする練習しかしていない。だけど痛いよ、全然衝撃死んでないよ、私が死にそうだよ。


「な、何やってんの、お前……」


 完全にテンパった美雪の奇行を前に神崎の顔が引き攣る。当の美雪は返事もできない。救急車を呼んでと口を動かすことしかできなかった。

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疾風怒濤 @aliens

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