第二話 廃部の危機(前編)

  翌日の放課後、藍川昴は机に肩肘をついて窓の外を眺めていた。

 級友たちは次々と教室を出ていく。学校が始まって一週間以上が経ち、多くの生徒は、なんらかの部活に入部し、練習を開始している。だが、昴はまだだった。


「おい、昴。何をぼさっとしてるんだ。早く新入部員の勧誘に行くぞ!」 


 そんな昴に声をかけたのは、同じクラスで小学生から付き合いがある南雲海だ。背が低くて、胸も小さく、顔も童顔の小学生みたいな女だが頭はもっとガキだ。


「あのなぁ、俺はもう柔道はやらないって言っただろ」


 昴は何度もそう言っているのに、海は聞く耳を持たない。


「何言ってんだよ、お前から柔道とったら、ただの性悪クソ女になっちゃうだろ」


「相変わらず失礼な野郎だな。俺は部活の見学に行くから勧誘でもなんでも一人でやってろ」


「そんな冷たいこと言うなよ、長い付き合いじゃないかぁ」


 泣きつく海を無視して、昴は鞄を肩にかけて教室を出た。廊下で待ち構えていた先輩方の姿も今はない。そろそろ部活を決めないと帰宅部になってしまう。


「はぁ、どうして誰も柔道部に入ってくれないんだろう」


 たった一人の柔道部員である海は、ため息交じりにそう言った。


 かつては強豪校だった日向女子の柔道部だったが、顧問の安斎先生が引退すると見る影もなく弱体化。そして、昨年、三年が引退して部員が一人もいなくなり、廃部の危機に瀕していた。


「ところで何の部活を見学しに行くの?」


 そんな現実から目を逸らしたいのか、海は何気ない様子でそう訊いてきた。


「う~ん、文科系はないな。頭悪いし。かと言って集団スポーツもなぁ。協調性皆無だし。そうなると、やっぱり子供の頃からやっていた柔道しかないな!」


 昴の声を真似て海がそんなことを言うので、昴は怖い顔で彼女を睨んだ。


「おい、海、人の声真似をして適当なことを言うんじゃねえ」


「昴の本心を代弁したんだよ。色々な部活を見て回ってるけど、ピンとこないんだろ?」


 海の言う通りだ。どの部活にも柔道に注いだ程の熱意を持てる気がしない。だが、もう柔道はやらない。あんなことがあったのに、続けられるはずがない。


「なぁ、昴」


「いい加減にしろよ、しつこいぞ」


「いや、そうじゃなくて、アレ何だと思う?」


 海は五mほど後ろを歩いている妙な女を指出した。能間美雪だ。能間は何故か教科書で顔を隠し、昴と海についてくる。まさか尾行のつもりなのだろうか。


「もしかして昨日のことで怒ってるんじゃないのか?」


「それはねえよ。ちゃんと謝ったし、昨日の放課後は困っているアイツを助けてやったしな」


「嘘だぁ、昴は弱っている人に止めを刺すタイプだからな」


「人聞きの悪いことを言うな。能間に訊いてみろ、俺の徳の高さが分かるからよ」


「へぇ、そうかい、なら聞いてみるか。お~い能間さん!」


 海が振り返って能間を呼んだ瞬間、能間は回れ右して逃げ出した。


「え、なんで?」


 そんなこと訊かれても、昴に分かるはずがない。


 能間の奇行が気にはなったが、追いかけて問い詰めるほどでもない。二人は昇降口に向かい、下駄箱の前で靴を履きかえる。その時、また視線を感じた。

 横を向くと、下駄箱の角から顔を出した能間がジッと昴を見つめていた。


「……もしかして幽霊かな、実は私たちにしか見えていないんじゃないか?」


 海が不安そうに言うが、おそらくはただのバカだろう。


 二人が昇降口を出ると、能間も大急ぎで靴を履きかえて追いかけてきた。

 何か言いたいことがあるのだが言い出せないのだろう。このままだと家までついてきそうだ。


「おい、昴、どこ行くんだよ?」


「もう面倒くさいし、さっさと話を聞こうと思ってな」


「おぉ、いいね。面白そうだし、私も付き合ってあげよう」


 二人は校舎の角を曲がると、壁に身を寄せて隠れ、能間を待ち伏せた。数秒後、間抜けな追跡者が角から飛び出してきた。


「よう、能間。俺になんか用か?」


 昴に睨まれると、能間美雪は観念したように教科書を下して顔を見せた。

 なんだ、この得意げな顔は。

 能間は口角を僅かに上げて微笑んでいる。


「流石は柔道家。私の尾行に気付いていたとは恐れ入ったよ」


 それは能間美雪のボンクラ疑惑が確信に変わった瞬間だった。

 あれで隠れているつもりだったのか。マジか、マジだな、能間の瞳は馬鹿特有の輝きを放っている。


「それで、何の用だよ。俺も忙しいんだけど」


 馬鹿の相手は面倒なので、昴はさっさと要件を済ましたかった。

 だが、能間は何も言わない。頬を赤らめ、俯いているだけだ。そのまま三分が経過した。


「昨日はありがとうございました!」


 ようやく能間がそう言って頭を下げた。礼を言われて悪い気はしないが、こんなに引っ込み思案な奴だとは思わなかった。


「私、感動しました。藍川さんは女の人なのに、男の人を二人も投げ飛ばして、本当にカッコいいって。それで、その……私……」


 能間は顔を真っ赤にして、身をくねらせ、熱っぽい視線で昴を見つめている。その真剣な眼差しに、昴は少し恐怖した。まさか、この女は――


「藍川さんみたいに強くなりたいって思ったんです!」


「そうか。まぁ、頑張れ」


 愛の告白かと身構えたが杞憂に終わり、安堵した昴は溜息をついた。


「だから、私に柔道を教えてください!」


 能間は再び頭を下げる。昴はすぐに返答をした。


「嫌だよ」


「ありがとう、私、一生懸命頑張り……え、嫌なの?」


「うん、嫌だよ。じゃあな」


 昴は愕然とする能間に背を向けて、校門へ向かって歩き出した。


                   疾風怒濤 完


「まだだ、まだ終わらんよ! ちょっと待って! な、何で嫌なんですか!?」


 これ以上、話すことはない。だが、能間はしつこかった。


「悪いが柔道はもう辞めたんだ」


 昴がそう言うと、能間は雷に打たれたみたいな顔をした。

 少し気の毒だが、辞めたものは辞めた。それに柔道がやりたいなら昴に教わる必要はない。


「そう落ち込むなよ。柔道がやりたいなら柔道部に入ればいいさ。そこのアホ部長は頭には蛆が沸いたようなポンコツだが柔道は中々のもんだぜ」


「誰がアホ部長だよ。それはともかく、能間さん、柔道がやりたいなら私に任せなさい」


 前に出て海がそう言うと、能間は苦笑した。


「ごめんね。私はお姉さんと大事な話をしているの、あとで遊んであげるから」


「妹じゃねえよ! 同い年なの、花の女子高生なの!」


 能間に昴の妹(冗談じゃない)と勘違いされた海が文句を言う。たしかに失礼だが、海は中学生にすら見えない幼児体型なんだから仕方ない。


「ご、ごめんなさい。小さ……可愛らしいから間違えてしまって……」


「まぁ、たしかに背は低いし、胸はないし、童顔だし、入学一週間でミスランドセルという蔑称までついたけど、中学の全国大会ではベスト48に入った猛者なんだからね!」


 海はまな板のような平坦な胸を張ったが、能間は首を傾げている。

 県大会の四〇㎏級個人で優勝とでも言えばいいのに、この馬鹿は。


「要するに、全国大会の一回戦で負けたんだよ」


「そう言う言い方をするなよ、あれは組み合わせが悪かったんだよ! くそぉぉ、新潟人め、仮に決勝で当たっていたらスタミナで上回る私が有利だったんだ。きっと不正だよ。私の無尽蔵のスタミナを恐れた新潟人が一回戦で当たるように細工したに違いないんだ!」


 海は校舎の壁をガンガンと叩きながら、ありもしない陰謀論を叫んでいる。


「……まぁ、見ての通り頭は悪いが柔道の腕は確かだ。千葉県の代表者だった女だからな」


 昴がそう言っても、能間は曖昧な返事をするだけだった。

 あんな馬鹿に教われと言われたら、誰だってこんな感じになるだろう。だが、柔道をやりたいなら他に選択肢はない。


「あれ、藍川さん、どこに行くんですか?」


「サッカー部の見学だよ。じゃあな、そいつにしっかり柔道を習えよ」


 校門まで歩くのも面倒なので、昴はフェンスを飛び越えて道路に降りた。


「おい、昴、せっかく新入部員が来てくれたのにどこに行く気だよ!」


 横断歩道を渡った辺りで、海が追いかけてきた。


「第二運動場だよ。お前は能間とよろしくやって……」


 昴が振り返った時、海の真横から軽自動車が突っ込んできた。


 危ないと言う暇もなかった。


 昴は軽自動車に撥ねられて、宙を舞う幼馴染を見ていることしかできなかった。

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