置換

 白い、おそらくかつての姿を取り戻した〝穢れた白鵶はくあのゼクスルク〟が神門の元へと参じようと馳せている途上――


『ッ!』


 大気を、そして地をも揺るがす大音声が世界を満たした。同時、此度三度目の光柱の建立。度重なるアニマの搾取に機能不全を起こしたのか、塵級機械ナノマシンの雲が刳り抜かれた滑らかさで晴れている。雲海の中で円形の青空が晴れている光景は、灰色の世界でなくとも現実離れしている。仔細に見やれば、その外縁の雲が次第に穿孔痕じみた晴れ間を再び覆い隠さんと蠢いていたが、あいにくゼクスルクにはそのような余裕はなかった。


 ――まさか、〝比翼の魔杖ビルヘイムフル〟が覚醒めたのか?


 しかし、解せぬのは、先程大音声と共に感じた波動だ。近場の起動した樋嘴同士に伝わる感応波とでも呼ぶべき波長は、しかしビルヘイムフルと親しいものの、何処か違って感じられた。


 まるでビルヘイムフルであってビルヘイムフルが別のなにかに置換していくような――それも、悪意という感情が混じって。


『捕まっていろ。黒き君の前に馳せ参じる前に、確かめる必要がある』


 自身の胸中に収まる人像柱の少女に言うと、柱の時代の王はかつての配下の元へと脚を向けた。


 流石にゼクスルクほどの巨軀であるならば、大した距離ではなく、程なくビルヘイムフルの〝緑の玉座〟の深奥へと辿り着く。鬱蒼たる樹々はゼクスルクに迫るどころか包み隠さんとするものもあり、ビルヘイムフルのの莫大さが視覚的に察せられた。


 若葉の濃淡入り乱れた葉叢の幕の向こうに、ビルヘイムフルの巨体が見え隠れする。自らが育んだ巨木の一部と化した〝比翼の魔杖ビルヘイムフル〟は先程の大音声の発生源とは思えぬほど、静寂の中で沈んでいた。しかし、ゼクスルクはこれが嵐の前の凪であると、半ば本能的に悟った。


 ――来るッ!


 人類が勘や直感と呼ぶ曖昧かつ不確かな感覚のまま、ゼクスルクは構える。


 同時、迸るアニマの吐水。膨大なるアニマは周囲の樹々を猛烈に生長させ、そして朽ちてさせる。過剰なアニマの供給により、百年或いは千年先を見越せる樹々が短い生涯を終えていく。


 おかしい。いくら〝比翼の魔杖ビルヘイムフル〟の吐水量が並外れていたとしても、ここまでの量は異常だ。するということはすなわち、そうするに足るアニマが供給されているという事実他ならない。だが、ここまでの量となると天空から降り注ぐアニマからだけでは説明がつかない。


 ビルヘイムフルを抱え込んでいた巨木も急速に生涯を終え、乾いた木片と病葉を撒き散らす。枯れ葉色に降り注ぐ羽根には荘厳さよりも、むしろ末期の病じみた不吉さが感じられる。


 ビルヘイムフルの右半身を覆う〝比翼〟と呼ばれる布地が翻り、幾星霜を共にした巨木を完全に粉砕した。木片が残滓となって大気に漂うも、その雄壮な姿を見せていたのがほんの数十秒前だったと誰が信じよう。


『へぇ。龍神神門の従者に成りてた魔王が、一体何の用だい?』


 少年の――。断じて〝比翼の魔杖ビルヘイムフル〟のものとは異なる。


『見込んでいた通りだ。やはり樋嘴は宍叢ししむらに適している』


 ビルヘイムフルの身体は、動きや馴染みを確かめるような動きをしている。一見無防備なのだが、その実、容易に踏み込ませない気配がある。己一機ならばともかくとして、桃李を抱えたゼクスルクから勝負を仕掛けるのは躊躇われた。


『――貴様、何者だ?』


 巨木は〝比翼の魔杖ビルヘイムフル〟を経年劣化から身を守る被膜となっていたようで、かつての艶めいた黒を今に留めていた。往年と変化の乏しい姿は――ゼクスルクに懐心を抱かせるものの、その内部は別の存在へと置換されている。警戒心も顕らとなったゼクスルクの誰何に、ビルヘイムフルの躯体を持つ者は嘲笑の響きを声に含ませて応える。


『ジラ・ハドゥ。君のご主人さまに伝えてくれ。今の僕では足りない。だが、いずれ必ず君の生命は貰い受ける』


 布地だった〝比翼〟がアニマに励起され、まさしく翼へと変化する。巨大な片翼の堕天使を思わせるビルヘイムフルの脚が、そっと大地の束縛から離れた。


『それから――〝穢れた白鵶はくあのゼクスルク〟と言ったかな、君は』

『……それがどうした』


 敵意も剥き出しにゼクスルクが応える。ジラ・ハドゥと名乗ったの一挙手一投足を見定めながら。おそらく、向かい合う二対の鴉に似た眼であっても、その視線はジラに伝わったろう。


『君もいずれ頂戴する』

『どういう――』


 意味を問ういとまもなく、今は、自身をジラ・ハドゥと呼ぶ〝比翼の魔杖ビルヘイムフル〟が大気を乱しながら、刳り抜かれた空目指して飛び去っていった。目の醒めるような、と表現したらよいのか――銀河人類にとってはそれほど珍しいものではない、青空をゼクスルクは初めて眼にした。


「はあ――」


 自身の〝御座〟に坐した桃李がため息をつく気配を感じられた。どうやら、自分と同じく、色のある空という存在に魅入っているのだろう。灰色の濃淡が常に紗幕フィルターがかった世界が、鮮やかに色めく姿の衝撃……。何周期を生きたか自身でも定かでもない魔王ですら打ちのめされるものが、確かにそこにあった。


 次第に、碧空の領域が狭まっている。塵級機械雲ナノマシン・クラウドが疵を埋め尽くそうとしているのだ。恒常性が為せる業か、空白を埋めてる塵級機械ナノマシンが元の、灰色の世界へと復元する動きを見せるも――既に、この世界は空の色を知ってしまった。喪失うしなわれた色彩を取り戻した世界は、もう止まらない。亡くしたものを取り戻そうと、運命は奔り出す。

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