蠱咒

 そして、時はうごき出す。


 無我へと到っていた神門が意識を取り戻すと、金色の粒子が世界を満たしていた。ほどけていくのは神の軀――機神黑燿。先ほどまでの光景、実のところ神門の記憶に刻まれていた。にも関わらず、拭いきれない非現実感は自身が途方もない存在へと置換していた、荒唐無稽さ故か身に今もくすぶる全能感故か。


 気配を感じ振り返れば、白銀に身を染めた咲夜の姿があった。黒々しく艶の乏しい銀色の無骨な機械装置に天地を挟まれ、拘束されていれる哀美さを黄金の粒子が飾り立てていた。


 艶めいた銀の肌膚を蒸着させられた少女は無表情の内に瞳を閉じており、意識は無いようだ。どうして、朴訥な自分がこのような行動に駆り立てられたのかは不明だが、神門はふと彼女の頬を撫でようとしている自分に気がついた。反射的に手を戻すも、そっと白銀の肌に指が触れる。


 そして、神門の触れた頬から柔弱の感触が芽生える。雪解けだ。溶けぬ永久の凍土、もしくは山頂に積もる幾千年もの時を留める雪の華が、今、解けていく。巡る冬を経て、春の日差しはそれだけに留まらず、世界に色彩をもたらす。


 銀の肌膚が剥がれ、二重螺旋の銀鎖となって天地へと昇り墜ちる。少女を戒めていた白銀の――無命むみょうの縛鎖がまさにほどけているのだ。頬から次第に瑞々しい肌膚が色づき、支配圏を広げていく。美しき鏡面の肌理もつ彫像から、白く、そして赤らかな深部が透ける肌の色は、それだけで世の女性の羨望と嫉妬を呼ぶだろう。長い髪の鍍金も昇華し、濡羽色から桜色へ、そして桃色へと変化していく。天然自然であり得ぬ色味の移り変わりを見せる艶髪だが、芯からの潤いと表層の滑らかさが、あり得ぬ髪色の違和感を払拭していた。紅を塗っていないというのに口唇の艶やかさな照りが、そして濡羽色の豊かな黒髪が金屏風の琥珀に艶めく。


「咲……夜」


 呆然と名を呟いていた。或いはそれが呼び水だったのか、長い睫毛の奥の瞳が開かれていく。薔薇石色の瞳は、複雑な虹彩もあってまさに有機的煌めきを封じ込めた宝石に見えた。


「お久しぶりです、神門様……。長らくお暇をいただいておりました」


 神門に焦点を合わせた瞳に乏しいながらも感情の色が滲む。解けて現実味を帯びてくる世界の中で、少年と少女は再び出逢った。金屏風の琥珀色が薄まるにつれ、彼らの身体は次第に重力の手に捕まる。ゆっくりと、しかし確実に浮遊し、寄る辺のなかった足裏が落ち着ける地上へと降り――そして、靴底が確かな感覚を伝えてきた。


 裸体の少女に赤面しつつも上着を渡した神門の姿は、王たる吸血鬼が見れば微笑ましい再演と映っただろうが、白き人狼には無感動な情景に過ぎぬ。しかし、今の彼は久しく忘れていた心の弾みに、浮足立つような武者震いのような感触に囚われていた。


 あのジラ・ハドゥを……人柄を好む好まざるは別にして、狼我ランウォも認めている強者を……あの闘争と虐殺において珠玉の才覚を遺伝子レベルで植えつけられた被造子デザイナーズチャイルドを一触で沈めた事実。しかも、恠神かいじんと化していたジラから〝光却のサウゼンタイル〟という宍叢ししむらを剥がしてのけたのだ。これを、究極の力を目指す者が心打たれぬわけがない。


 これが機神黑燿。所詮は亜機神に過ぎない恠神かいじんではなく、絶対たるを宿づけられた機神のすめらぎにしてみかど。神々しさと禍々しさの二律背反的矛盾を兼ね備えた世界の創造神にも荒神にもなる存在と――称したのはメルドリッサだったろうか――吹聴されたのは、大仰ではなかったらしい。


 先ほどまで渦巻いていた圧力をただ在るだけで放つ存在が二柱、己が覇を競って削り合うという〝相剋の儀〟とは如何なる規模と領域で行われるのか。劣等感からか上昇意識からかは知らぬが、あの到達点を見てなお、いずれ辿り着くと豪語するジラ・ハドゥの身の程知らずな矜持は称えてもいい。


 ――オレもまた同類おなじだからな。


 そう、〝蠱毒〟を生き抜いた狼我ランウォもまた、壷の中の地獄の頂点を極め、犠牲にしてきた者の屍を踏みしめてここに立っている。巫蠱ふこに植えつけられた呪詛は、彼に歩を止めることを許さない。更に上へ、更に深い、更につよく、更に累々たる屍山血河を越えて、壷の内に世界を満たしてなおも生き残れと叫ぶ本能。生まれ落ちる前に刻まれたか、産み落とされた後に移植された違いはあれど、上昇を強要する本能は共通している。


 ――だからこそ、例え身を焦がす炎熱に翼を溶かされても、オレたちは止まれない。


 そして、狼我ランウォは高揚感の正体に思い当たった。これは、自分が向かうべき未知の領域を垣間見た興奮と畏怖だ。おそらく先の存在しない究極が在り、それが眼前にいたのだ。今は、星々の運行に対する蟻にしか過ぎぬかもしれぬ我が身だが、必ず昇り詰めると決めた座標。


 人狼の相貌がもし、鉄仮面に覆われていなかったとしたら、彼は間違いなく笑っていた。凶々しい、いっそ狂気に囚われたといえる笑みを浮かべて。

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