ビューティー殺し合う

異次元

第1話

〈奇妙な人〉


 彼らは、少なくとも一つの巨大な恨みを抱えている。そんな人達が集まっているのだから、このなんの変哲もない貸し会議室には、異様な雰囲気が漂っていた。

 彼らは、情報を共有する。普段は、お目にかかれない醜悪な容姿を持つ同種族達が集う場なのだ。それをしないで、何をするというのか。

 彼らは、ここで恨みを吐く。憎悪を貪る。悲哀を飲み干す。そうでもしないと、やっていけない。彼らは己の容姿が原因で虐げられてばかりで自分達より下位がいない、と思い込んでいる、もしくは迫害者達を自分達より下位だと信じきっている。どちらも真であるのだろう。

 彼らの人生を破壊したのは、全て別人である。しかしながら、共通項くらいはあるはずだ。皆で、その分析をしてみたこともある。

 だがそんなことをして、一体なんになるのか、と喚いて、『奇妙な人』から脱退していった者もいる。だが、誰も引き留めない。皆、自分のことだけで必死なのである。

 ある日、この団体に新入りが何名か入ってきた。彼らは、すぐに意気投合した。自分達が奇怪な容姿をしている以上の共通項を見つけたようである。

 彼らは、興奮気味にこう囁き合っていた。

 復讐しないか、と。

 他の会員達は、やめておけ、と言っていたが、それくらいなもので、それ以上の制止はなかった。やはり、誰もが自分のことだけで精一杯なのだ。それに、加害者が華やかな人生から転落してゆく様は見ていて愉快だろうし、それが道理である、とも少なからず思っていたのである。

 自分だけが不幸だなんて、不合理だ。私達は何もしていない。平凡に生きること、それが彼らの求める幸せだった。多くの人が非凡なものを望んでいる中で、なんと慎ましい願いなのだろう。けれども、それが彼らにとっての最大の幸福なのだ。それ以下も、それ以上も、それ未満も、何もかも要らない。ただ欲しているのは、普通、という二文字だけである。

 だが、どうやらそれだけでは足りない者が入ってきた。彼らは、どうやって加害者を虐げるのだろう。何か策でもあるのだろうか。訴訟でもするのか。リンチでもするのか。殺すのか。それとも、気づかれていないだけで、それ以上の名案が実はあるというのか。

 興味はあったが、誰も、新入り達に、どうやって復讐するのか聞かなかった。どうせ、新聞紙に載るだろう。もし載らない程度の小さいことなら、興味は湧かない。

 ただ彼らが恐れていることは、新入り達が事件を起こして、この会が問題視されたゆえに解散に追いやられないか、というものだった。

 だから、彼らは新入り達を除名した。どこの社会でも、異質なものは排除されるものだ。それは、異質な者達だけで構成された組織内でも同じことだった。排斥を初体験した彼らは、なるほど加害者はこういう気持ちだったのか、となんとなく感心し、除名された元新入り達は、ここでも自分達は受け入れられないのか、と落胆していた。

 だが新入り達の胸は、打ち震える喜びと興奮で溢れかえっていた。これから彼らが始めることを考えると、それも当然のことである。


〈池田真衣〉


 嗅ぎ回るのはやめてくれ 私で遊ばないでくれ

 私は遊園地じゃない 終戦はいつ訪れる?

 何もないのに 叩かないでくれ

 埃なんか出ないさ 殺した心からは……



 最近このような類の歌詞ばかりを書いている気がしてきて、なんだか暗澹とした色が心の底から染み出てくる。しかしながら、池田のゴシップネタは後を絶たない。

 人々はどうしてここまで自分のことを嗅ぎ回るのか、池田はほとほと嫌気が差してきており、ここ数日はずっとそれ関係の歌詞ばかりを綴っていたわけであるが、やはりこういうものは精神に暗いものを落とし込むことしかしてくれない。

 池田は、ブロンドの長髪をかきあげた。鏡を見ると、顔には底深い疲れがにじんでいる。そして、それ以上に心が軋んでいる。

 彼女は、現実がなんであるかを知らない。一般人の生活も、生き方も、人間関係も、友人も、恋人も知らない。

 幼少期からずっと音楽と暮らし、踊りに身体を委ね、完成と理論の世界に身を投じてきた。良く言えば音楽の申し子、悪く言えば世間知らずである。

 音楽業界に入るきっかけはなんだったのかというと、父がかけていたレコードに合わせて歌詞カードを見ながら歌ったところにある。あまりの美声に驚いた父が彼女を音楽コンテストに出場させると、判定者五人は突出した池田の歌唱力を認めた。

 彼女は十一歳から音楽業界に入ったので、今年で芸能活動歴はちょうど二十四年になる。無論、子供の頃は作詞作曲をしなかった。他人が作った曲の上で、誰とも存じぬ作詞家の歌詞を吐き出していた。

 当然、意味がまるでわからない。デビュー曲は恋愛歌だったのであるが、十一歳の彼女にその歌詞は根本から表層までかすかにもわからず、当時の池田の心は薄い霧で包まれたようで、はっきりしなかった。

 それでも彼女は、なんとなく感情を込めて歌い続けた。よく事務所の窓の外では子供達の遊んでいる風景が広がっており、それを見ていると、なんだか自分はひどく勤勉家で、遊びというものを知らずに、このまま生涯を終えるのであるが、果たしてそれで良いのだろうか、と自問してしまうのだった。

 自問自答。

 異論は色々ある。音楽を休憩して、遊んでみたい、というのもある。しかしながら、マネージャーは決してそれを認めてくれなかった。

 幾許かの寂しさを抱えつつ、彼女は精力的に音楽活動をしていた。なんといっても、歌うことはありとあらゆる中で最も楽しかったし、デビュー曲から立て続けにスマッシュヒットを重ねてもいたし、仮にやめたくともやめられないというのもある。

 十五歳になると、彼女も作詞作曲する力をつけ始めた。そうなると、自分が最高と思えるものを最高の形でこの世に送り出してきたくなってくる。

 だが現在いるレーベルでは色々と自由が拘束され、詞や曲もある程度の路線が定められており、彼女が思い描く世界は完全に殺さなくてはならない事実を知った。

 そこで池田は、すっぱりとその会社との契約を打ち切り、移籍することにした。

 彼女は寡作な音楽家である。移籍した後に作成したアルバムは、僅か三枚しかない。なので、よくレーベル会社は彼女をせっついた。

 ファーストアルバム『音楽の中の私』作成後にゆっくりと時間をかけて熟成させていっていた『フリッカー』の時も、会社はしょっちゅう池田に催促した。

 しかしながら、彼女は長時間をかけていく。それでも会社が池田を解雇しないのは、彼女のアルバムがモンスターアルバムに化けてくれるからである。セカンドアルバム『フリッカー』はまさかの三百万枚を売上げ、もうこれを抜かすアルバムはないだろう、と思っていた矢先、彼女が五年後に発表した『ザット』は四百万枚のセールスを記録した。

 この頃になると、彼女は踊りの技術も磨き始め、ライヴでも披露し始めていた。初期こそ動きにキレがなく、どこかたどたどしさが残っていたものの、彼女の猛烈な練習の成果もあって急速にダンスの技術を成長させ、今ではプロダンサーとともに舞台で踊りながら、歌っている。

 今や世界で彼女を知らない者はいない。類い希なる踊りのセンスと、神が与えたと囁かれる美声、加えて一歩も二歩も先をいく革新的な曲。どれをとっても彼女は独自性を持ち、なおかつ魅力があった。

 しかし、それが間違いだったのかもしれない。池田は大きな溜息を吐き、窓の外を覗いた。

 外を歩いていると、わらわらと人が群がってくるので迂闊に散歩もできやしない。いや、集まってくるのがファンであるならば、まだずいぶんと良い方だろう。今や、彼女の最大の敵はマスコミであった。

 彼女は新聞紙を広げ、悪意ある文字の軍団をしげしげと眺める。

『繰り返される整形』

『暴行を加えられたと訴えるプロデューサー』

『乃斗満里奈への執拗な攻撃』

 どれもこれも彼女がやったと新聞紙は、声高に主張している。

「私は、そんなことをしていないのに」

 彼女は、胸が苦しくなってきた。たれこめた厚い黒雲が心の中で渦を巻き、精神を冷たくする。動悸が激しくなる。池田は胸を強く押さえた後、常時している精神安定剤を口に放り込み、水なしで勢いに任せて飲み込んだ。

 心から冷たさが引き、動悸が薄れてゆくのを感じてから彼女は濡れてもいない口を拭い、安堵の息を吐いた。

 信頼していた友人に裏切られたり、やってもいない暴行罪で訴訟を起こされたり、とで十年ほど前から精神は切り刻まれ、精神安定剤に頼らなければ生きていけない状態にまで池田の心は追いつめられていた。

 一時的な安息をもたらしてくれた薬に感謝の念を捧げた後、彼女は男物の帽子をまぶかにかぶり、サングラスをかけた。それからズボンにはきかえた彼女は、一見すると男性にしか見えない。

「じゃあ、散歩にでも行こうかしら」

 今日はライヴのために遠征中で、高級ホテル全フロアを貸しきっている。ここに池田がいる、という情報は外部に漏れてしまっているがしかし、裏口から出れば大丈夫なはずだ。しかし念には念を入れよ、である。

 池田はソックリさんをホテルの窓から顔を出して、手を振ってもらうように携帯電話で連絡を入れておいた。そうしておけば、まさか裏口から本物が出ていっている、とは誰も思うまい。

『わかりました。じゃあ、今からそちらに向かいます』

 ソックリさんの了承を得た後、裏口から外に出ると、柔らかな陽光の匂いが鼻腔を優しくくすぐる。

 太陽によって熱くなっている道路の上を軽やかな足取りで歩き、裏口を抜ければ洒落た煉瓦造りの建築物が視界に殺到してくるものだから、思わず感嘆してしまった。

 ここは都市化の洗礼を受けておらず、良い意味で昔の名残が残っている場所でもある。もっとも、それは外観だけに留まっていた。単にここの建築基準法が古き良き町並みを維持するために色々な制約を設けており、それがゆえにこの町は過去の面影を残しているのだが、室内は極めて近代的な造りになっており、その激しい落差に最初は戸惑いを感じたものである。

 池田は、ここの電化製品が秀でており、他国でもかなりの評価を得ていることをふと思い出し、USBメモリでも買おうかな、と考えた。

 彼女は完成した曲をパソコンに保存しており、加えて万一に備えてUSBメモリにもそのデータを入れて持ち歩いているのだが、最近それが壊れたのである。もっともたとえ壊れていなくとも、近年大容量になりつつあるUSBメモリに魅力を感じていたので乗り換えていたであろうが。

 風情のある町を越えると、電化製品店や百貨店などが見え始めた。とはいえそれらの建物も趣のある造りになってはいるので、一見してまだ情緒ある建物が続いている、と錯覚しかねないが、建築物の大きさと、こぢんまりとした地味な色の看板でなんとか判別がつく。しかし、せめて看板くらいは堂々と目立つような造りにして欲しいものである。

 電化製品店に入って、USBメモリを探しているとテレビが目についた。そこには、池田を嘲笑するための情報がごろごろと転がっているので、なるべく観ないようにしている。

 しかしいったん目に入ってしまうと、気になってしまうのが人の性で、池田もついついテレビを観てしまい、不運なことにそれが自分のことを批難するものだったから心が深くえぐられた。

 眼球の底が明滅し、耳の付け根に鋭い痛みが走る。

 今回のゴシップネタは、彼女が何度も何度も整形手術した、ということについてであった。

「また池田かよ。あいつは、何回整形したら気が済むんだよ」

 傍らにいた男が、やれやれ、と吐き捨てるようにして去っていく。

「違う」

 池田は、独白した。

 彼女は確かに整形手術をした。しかしそれは目だけであって、他の部分は全くいじっていない。なのにマスコミときたら、輪郭や鼻にも手を加えている、と主張している。彼らは過去の写真を引っ張り出してきて、現在の池田のそれと比較検討して、どこがどう変わっているのかを指摘し、だから整形しているのだ、と論じるのであるが、そもそも比較対象に使われている写真がおかしいのである。

 昔の写真は照明が薄暗く、なんだか写りが悪いのだ。撮影時の角度にも問題があるようで、現像された写真を見た当初も、これはどこかしら自分ではない自分が写真の中にいるようだな、と感じたほどなのだ。

 なのに、マスコミはそれを使う。

 池田の容姿の変貌は成長の過程により形成されてきたもので、決してそこに人工的なものが介在しているわけではない。

 嘘をたれ流していいのか。

 虚偽でも紙面上、画面上を盛り上げ、人々の好奇心を豊かにすることができるのならば、どんな作り話をしても無罪放免なのか。

 彼女の鼓動が激しくなる。慌てて、池田は薬を飲み込んだ。錠剤が喉を通って落ちていく感触を確認しながら、彼女は電化製品店を出て人気の少ない路地裏に向かった。

 人が多いところは、どうにも落ち着かない。

 自分があの池田真衣だとばれることを恐れているというのも理由にはあるのだが、それ以上に自分の顔が人々の好奇の視線にさらされるのがたまらなく嫌なのである。

 彼女は、己の目にまるで自信がなかった。

 瞳。

 酷いものである。

 池田は、三姉妹の内の三女として生を授かった。物心ついた時から、父がお前の目つきは悪い、と言っていた。元々、自分の瞳に自信がなかったわけではなく、父から言われてみると、そういえばそうかもしれない、と思い始め、やがて『そうかもしれない』は『そうに決まっている』に変化していった。

 確信の切っ掛けは父にあったが、それを決定づけたのは、近所に住んでいた女の子にある。名前を口にするだけで吐き気がするので、池田は彼女のことを『葉っぱ』と呼んでいた。それが、池田に『そうに決まっている』との確信を抱かせた主犯なのである。

 彼女が小学生の時である。外で出くわすだけで、意地悪――例えば、肩がすれたとかどうとか、果ては聞こえよがしに悪口を言ってきたりといった類である――をしかけてきており、ある日、「あんたの目付きは悪いね」と葉っぱが言ってきた。

 父だけではなく、葉っぱもそう思うのか。池田の心は萎縮した。これは偶然の重なりではない。本当に自分の目がそうであるから、二人の人間がそう主張するのだ。

 しばらくすると、葉っぱの同調者が現れ始める。近所の子供達と一緒になって、池田をイジメてきた。

 空き缶を投げられたことは、一度や二度ではない。最初は反抗していたが、多勢に無勢で、まるで意味がないことを悟ってからというもの、池田は無抵抗を決め込んでいた。

「お前は、産まれてくるべきではなかったの。あなたは悪魔。その目が、何よりの証拠よ」

 葉っぱは、いつしか演説をするようになった。近くの公園で子供達を集めて、悪魔退治の方法を説明し、何やら怪しげな儀式をしていた。

 見ていると不愉快なので、彼らがそこにいる時は足早に立ち去る。翌日、あそこで何をやっていたのか気になり、公園に入ってみると、地面には一面に池田に対する雑言が書かれていた。

 それを見た瞬間、腹の底から震えが込み上げてきて、何か呟こうとしても声が震えて、上手に喋られなくて、心が重くなったのは今でも覚えている。

 以来、彼女は目に関する自信を喪失した。

 さすがに自信はなくなり。

 自分に対する人々の危ない扱い、それら全てが迫害、殺害、そう錯覚する思いが拡大してゆく。

 見られるのが恥ずかしい。

 歌手としてステージに立つ時、自分は、自分の瞳は、無数の視線に晒される。たまらなく恥ずかしい。

 それはそれはたえ難い羞恥心が彼女を包み込み、心が窒息してしまいそうなのである。だから、彼女は目を整形した。たった二度だけ。なのに、人々は池田を整形中毒者とみなしている。

 それどころか、この顔を、紛い物、作り物、汚い、と罵る新聞記者まででてくる始末である。

 しかしながら仮に整形手術を繰り返していたとしても、よくよく考えてみればそれの何が悪いというのか。誰が困るのだろうか。

 池田は犯罪者ではない。警察官から逃れるために、顔を作り替えているわけではない。自分の顔を自分の金で変えてゆくことを批判する権利が、一体全体誰にあるというのだろう。

 例外を除き、人は誰しも自分を自分の好きな容姿に近づけようとしているはずである。色白にしたり、日焼けしたり、化粧をしたり、眉毛を整えたり、それらは程度の差こそあれども、結局のところ整形手術と目的は同じはずである。

「こんなのは馬鹿げている」

 何度そう言ったことか。彼女の心の安らぎは作詞作曲をしたり、歌ったりしている時にしかできない。彼女は、最近、他のアーティストを批判する系統の歌を歌ったことがある。

「結局、私も、私をなじる記者達と同類なのかもしれない」

 池田が矛先を向けている相手は、乃斗満里奈。喧嘩が始まった原因は、池田にある、と言っていいかもしれない。

 元々、池田と乃斗は仲が良かった。最初に所属していたレーベルが一緒だったのである。よく二人で買い物に出かけたり、映画を観にいったりした。乃斗とコラボレーションしたこともある。が、やはりアーティストの性なのだろうか、二人とも自分自身が納得する方向性を主張するものの、それは時にまるで違う方向だったこともあり、かなり険悪な状態に陥った。

 そんな時、ちょうど昨年のことである。池田が狙撃された。銃痕から、彼女のいた場所からおよそ一キロメートル離れたホテルの屋上に犯人がいたと鑑識は断定。そしてそのホテルに、しかも池田が狙撃を受けた時刻に乃斗がいた。

 加えて二人は、池田が乃斗を睨んでいるいないで喧嘩をしている矢先のことであったので、池田の疑いの眼差しは一気に乃斗に殺到し、以来、互いに曲を使っての貶し合いが始まったのである。その勢いは二人だけに留まらず、ファンの間にも広まり、そこかしこで銃撃戦が起きる始末であった。

 何はともあれ、実際のところ、池田は乃斗と和解したいのだ。正直な話、命の危険を感じるのだ。乃斗のファンに、いつ自分が撃ち殺されてもおかしくない。それに、元々こういう攻撃的な歌詞を書きたいわけでもなかった。

 事実、池田は最近では乃斗を貶めるような歌詞を書いていない。乃斗の方は精力的にこちらに攻撃をしかけてきているのだけれども、それも大前の書いた記事を鵜呑みにして、激昂してのことである。言うなれば、乃斗も欺かれた被害者なのである。

 路地裏を抜け出すと、音楽が流れてきた。聞いたことのある悪意のこもった音楽。それは乃斗の曲だった。



 事の発端はあいつだった

 子供より幼稚で正直困る 私の声は凶器にもなる

 狙撃犯は他にいる それすらわからぬのなら永久に死ぬ



 曲名は、確か『真実の判断』だった、と思う。

 聞いているだけで、気分滅入る。精神が、湿った音を立てて沈んでいく。自分でいることすら難しくなる。

 と、腰の辺りから振動音を覚えた。携帯電話が震えて、着信を知らせている。

 携帯電話を取ってみると、相手はマネージャーで、つい先程、乃斗が何者かによって暗殺された、と教えてきた。

 心を落ち着けるために生唾を飲み込んだが、生温い感触が喉をゆったりと這い進んだだけで、逆に内面に汚泥を上塗りしたようなものである。

『池田さんも、早くホテルに帰ってきてください。いつ、あなたも暗殺されてもおかしくないんですから』

 マネージャーの言うことは、もっともである。乃斗も、大方、池田のファンによって撃ち殺されたに違いなく、そして乃斗が死んだ今、彼女のファンが池田に対してより一層の敵愾心をもって、暗殺に挑んでくるのは想像に難くない。



 行う予定だったライヴを全て中止とした。あんな風に無防備にステージに立って、派手な衣装を着飾り、歌って踊るのは、どうぞ私を殺してください、と言っているようなもので、さすがにそんな馬鹿な真似はできない。勇気がないのではない。無謀な行為を実行したくないだけである。

 池田は、豪奢な部屋の中で呻いた。予定外のことだ。このままでは、人生の計画が狂わされるのではないか。

「なんでこうなるのよ?」

 自分は確実に命を落とす。乃斗のファンは、それこそ掃いて捨てるほどいる。池田までとは言わないが、乃斗もかなりの売れっ子ミュージシャンなのである。

 敬虔であり、狂信的で、妄信的なファンの数が、かなり存することは間違いない。

 あらゆるマスメディアから叩かれ、その上、乃斗のファンからも命を剥奪できる機会を執拗に窺われるとは、生きた心地がしない。

 おまけに、どうせ日頃から池田をこきおろす記事を書くことしか考えていない大前莉奈記者が、無駄に洗練された文章であることないことを作成し、乃斗信者達の怒りの炎に油を注ぐことは目に見えている。なんとかしなくてはならないだろう。一刻も早く、池田は大前に記事の差し止めを訴えるべきである。

 胸が冷たくなる。

 その時、インターホンが鳴らされた。誰だろうか。もしや、暗殺者か。

 恐怖が、池田を締め上げる。しかしこの家は世間には知られていない上に、そもそもこの家にある敷地には数々のセキュリティーが施されており、関係者以外入ることは不可能と断言していい。

「誰ですか?」

『私は、MTM管理人の武田と申します』

 一瞬、なんと言われているのかわからなかった。指が震える。

 ICカードを使って扉を解錠すると、そこには中肉中背でぴしっとしたスーツを着こなした、いかにも真面目そうな男がいた。

「どうぞ」

 池田は彼を部屋に通した。

「私は、こういう者です」

 彼はそう言って、名刺を差し出す。

 受け取ってみると、MTM管理人と端正な文字で書かれてある。

「あなたは、復讐したいでしょう?」

「復讐? 私が誰に? 私は誰も恨んで――」

「乃斗さんを恨んでいたでしょう?」

 その二文字で、彼女の心は大きく揺さぶられた。この男は、池田があの池田であることを知っている。どうやって見抜いたのだろう。

「その他にも、いるでしょう? 例えば、ジャーナリストの大前莉奈とか?」

 彼は、そこで口を静かに閉じた。

「どうなんです? 彼女に復讐しませんか?」

「復讐……大前に……」

 池田は、拳を握り締めた。掌に、汗がじんわりと染み入る。

「確かに、あいつを殺してやりたい。恨んでも恨みきれません。あることないことを書き散らし、私の人生を狂わせ、計画を潰し、嘲笑の対象にした罪は償って貰うべきでしょう」

 池田は、歯軋りした。

「父からも、そして葉っぱというやつからの雑言からも逃げおおせて、確かに私を揶揄する者がいるとはいえ、まだ許容範囲で、だからなんとか目をつむって、やり過ごせました。しかし、大前は無理です。あいつを思考から閉め出せません、何をどうやっても……。

 大前が整形手術について誹謗中傷するごとに、余計にこの目がどこかおかしく思えてきて、夜も眠れない日々が続く始末です。あいつは、私から平穏な生活を奪った。だから、私は彼女を殺してやりたい。けど、そんなことをしたら……私という人間は……もうまともな道に戻れないかも……」

「何を仰っているんです? あなたは、自分の目に自信がない。だから、整形する。しかしいくら整形しても、大前は池田さんの目を醜いと主張する。そんな人に復讐しないで、一体誰に復讐するというのです?」

 男は流れるような言葉で大前の復讐心を揺さぶるが、決して強い語調ではない。あくまで、ブランコに乗る子供の背を親が優しく押してやるような柔らかさがあり、しかし十分な力を秘めていた。

「ひとまず、こちらのパンフレットをお渡ししておきましょう」

「あ、ありがとうございます」

 受け取ると、『Murder The Mind』という文字が飛び込んできた。

 パンフレットから男に視線を移したが、すでにそこに武田の姿はなかった。一体、どうやってここから音もなく瞬時にして立ち去ったのだろう。

 池田は鼻から溜息を吐いてから、パンフレットを読むことにした。


Murder The Mind


『MTM』Murder The Mindとは?

 美しくありたいと願う女性は多いはず。心さえ清ければいいという人もいるが、やはり外見は大切である。それゆえに整形に走る人もいるが、少し考えて欲しい。そもそも、どうして整形をする経緯に至ったのだろう。それは、あなたの容姿に向けて雑言を吐く者がいるからである。

 この番組は、そんな悩める相談者のために、人生の熟達者と、加害者の心を美しくすることなら誰にも負けない世界最高の技術を持った技術者たちがその総力をあげて、悩める女性たちを応援し、愛と勇気を与える。『MTM(Murder The Mind)』はそんな番組なのだ。



 一読してみると、どこか違和感がある。容姿に悩む者がいるなら、整形手術を提供してくれるはずで、文章的には『加害者の心を美しくすることなら』ではなく、『被害者の顔を美しくすることなら』ではないだろうか。

 これは、もしや。池田の心臓が、喜びと驚きと興奮がないまぜになった感情で激しく震える。

 話に聞いたことがある。ようやく接触できたのか。この日をどれだけ待っていたことか。

『Murder The Mind』

 池田もその存在を、音楽業界の人間から聞いたことがある。なんでも、金と暇を持て余した人々が、ひっそりと開いているテレビ番組があり、それは限りなく違法に近いもので、番組参加者は幸福を手に入れることができるかもしれない番組らしい、ということを。

 池田は、詳しいことを知らない。ただ、そういうものがあり、参加してみないか、と声をかけられたことがあるだけだ。だがしかし、池田はその申し出をやんわりと断った。

 なぜ、断ったか。

 金はありあまるほどあるが、そんなものに関わっている時間がないということもある。しかし、状況は変わったのだ。今の池田にはMTMが必要である。

「ついにこの時が来たか」

 パンフレットを握る手に力が入る。彼女は、それをポケットにしまった。



 地図を頼りに、MTMへと向かった。幸い、最近はライヴもなく、新曲は先週出したばかりなのでレコーディングの準備もない。今はただMTMに行って、目的を達成するだけだ。

 電車を乗り継ぎ、ようやく訪れた場所は、オフィス街。やや薄暗い灰色のタイル張りの床が印象的である。

 近代的な風景の中を歩いていくと、ようやくお目当ての建物が見えてきた。しかしそれはなんの変哲もないビルで、果たしてそこにMTMがあるのか、大いに疑問が残る。

「でも地図上では、ここだし……」

 池田は生唾を嚥下し、ここに入ることに腹を決めた。

 扉を開けようとすると、

「お待ちしておりました」

 どこかで聞いた声が、背後からする。

 あまりに唐突なことだったので池田は息を飲み、振り向いてみるとそこには武田がいる。それも何食わぬ顔で、である。

「い、いつからそこにいるの?」

「では、こちらへどうぞ」

 武田は池田の質問を無視して、案内を始めた。実に無礼で常識に欠ける奴だな、と池田は思いつつも、彼の後についていった。

 中も外見同様、至って普通である。床と壁は綺麗な乳白色で、清潔感が漂っている。

 しばらく進んでいくと、大きな黒い扉が見えてきた。重厚感を漂わせるそれは妙な威圧感を着飾っており、なんとなく近寄り難い。

「では、ここをお通りください」

 その扉には取っ手がない。どうしたら開けられるというのか。池田は武田に聞こうとしたのであるが、またも彼は忽然と姿を消していた。

 扉に歩み寄ってみると一人でにそれが開かれ、眩い光とスモークがそこから溢れてくる。

 刹那、驚いて池田は立ちすくんだが、ややあってから意を決し、光と煙が渦巻く空間に足を踏み入れた。

 盛大な拍手で迎え入れられる。

「ようこそ、マーダー・ザ・マインドに」

 張りのある声が、前方から聞こえてくる。スモークを抜けると、それが女性の司会者であることがわかった。

 高身長である。顔は微笑みに満ちているが、それがまるっきりの作り笑いで、しかも下手くそな笑顔なものだから、なんとなくいびつで、どこかしら不気味に感じられる。

「おっと、紹介が遅れました。私は、MTM司会者、小野陽子と申します。ささ、どうぞ、こちらにおかけください」

 先程通ってきた床以上に透明感のある白いフロアを歩いて、椅子に座る。椅子は、フロアがやや盛り上がって円柱になっている部分の上に置かれている。

 座してから、池田はそこには司会者と三人の男女がいることに気づいた。

「では、我らがMTMレギュラー陣を紹介したいと思います。向かって右から、伊藤仁慈さん」

「どうも、どうも」

 伊藤が、軽く手を挙げる。小柄で、細身。黒縁眼鏡をかけており、田舎の駄菓子屋でも経営していそうな、物腰の柔らかさがにじみ出ている。

 彼はポケットからカプセル状の何かを取り出して、飲み下す。

「草敏さん」

 こちらは、人差し指と中指を合わせて、額につけてから、さっと離してウィンクする。ずいぶんときざったらしい。

「千葉嘉穂さん、です」

「はーい」

 妙に英語の発音のような「はーい」である。特筆すべきは、この女性が室内であるにも関わらず、日傘をさし、大きめの真ん丸サングラスをかけ、ずっと日焼け止めクリームを塗りたくっているところだろう。

 それにしても、一癖も二癖もある連中だ。

「続いて、本日の悩めるゲストを紹介いたしたいと思います。池田真衣さんです」

 再び、拍手が湧き起こる。観客席の方には、十名ばかりの男女しかならんでいないのに、やけに大きな拍手だな、と思っていて、耳を澄ましていると、どうやら録音した拍手音を流しているだけらしい。

「では、この方のお悩みを収録したVTRをどうぞ」

 いつそんなものが収録されていたのだ。

 それは盗撮。プライバシーの強奪。心へ侵入する毒ガス。告発したくなる、それが犯罪レベルに到達している、と。

 部屋が暗くなり、正面にある巨大スクリーンに、『狐目の天才アーティスト』と表示され、続いて池田の顔と名前、年齢が映し出された。

『彼女は目にコンプレックスを抱えていた。幼い頃に、父からお前の目は細くて睨みつけているようだ、と言われたこともある。それからというもの彼女は目に対して醜形恐怖症を煩い、幾度となく自分で整形。しかしここ最近、大前記者を筆頭に、マスメディアが彼女の容姿を批難し始めるようになり、ますます彼女の心をえぐった。整形を繰り返した現在も、池田は自分の目を嫌い、それが世間から嫌われていると思っている』

 VTRが終わると照明が強まり、室内に元の明るさが舞い戻った。

「目、なんですね?」

 小野が、作り物の微笑を浮かべる。

「ちょっと見せてもらってもいいですか?」

 池田が肯定も否定もしていないのに、司会者はこちらにつかつかと歩み寄り、じっと目を覗く。

「確かに、細いですよね。あれだけ整形をしたのに」

「あ、あの、このマーダー・ザ・マインドってなんですか? あのVTRはいつ作ったんですか? それに……」

「なんと、なんと。マーダーを知らないんですか? それで、ここに来たと?」

 小野は大仰にのけぞった後、「いや、それが普通です」としれっとして言う。

「簡単にご説明いたしましょう。おっと、その前に……あなたは、自分の容姿、目が醜いと思っていますか?」

「も、もちろん」

 か細い声で、しかし池田は即答した。

「でも、それは違うんですよ?」

 司会者が優しく言う。

「え……で、でも……この、釣り目で、細い目はコンプレックスで……」

 池田の声は、先程よりもますます消え入りそうなものになってゆく。

「あなたの目が醜いんじゃなくて、あなたの容姿を悪く言う人の心が醜いんですよ」

 なるほど、それはあながち嘘ではないだろう。もし父が池田の目についてとやかく言わなかったのなら、葉っぱが執拗な攻撃をしてこなかったのであれば、大前があれやこれやと目について特集を組まなければ、池田は全く苦しまずにすんだかもしれない。

「だから、マーダー・ザ・マインドなんですよ」

「え?」

「相手の心を殺すんです。まあ、選択肢は他にもありますが……」

 司会者は池田に向かって、満面の笑みを見せ、しかしすぐに真顔に戻り、手を叩いた。するとスクリーンに、次のような文字の群れが現れた。



I→相手の心を整形する

II→相手を捕らえて、MTM本部に運び込み、相手の美をもらい受ける

III→相手を殺害し、内蔵を売り払い、それを整形手術代に当てる



「IIとIIIの違いは、あなたが殺すかどうか、ですね」

「ちょ、ちょっと待ってください。人殺しなんてしたら、私は本当に犯罪者になってしまいますよ。何もしていない今でさえ、私はマスコミに叩かれて、してもいないことで訴訟されているのに……」

「そこはご安心を」

 小野は至って落ち着き払ったまま、穏やかな表情を見せた。

「全ての不都合な真実は、マーダー・ザ・マインドが全力でねじ伏せます」

 彼女はまたもあの紛い物のの笑みを浮かべたが、今度のそれは人を蔑むようなもの、冷徹さ、無感情さが介在していた。

「安心して、殺人を犯すことができますよ。さて、あなたはどれを選びますか?」

「け、けど、そんなことを言われても、信じられません」

「では、IIを選べばいいでしょう。ここ、MTM本部に運び込むだけで済むのですから」

 確かにそれだと殺人を犯すことは免れるがしかし、それでも監禁罪などに問われそうである。できるなら、なるべく犯罪は行いたくない。潔白のままでいたい。

「やっぱり帰ります」

「それはなりません。もし帰るのであれば、私はあなたを殺さなくてはなりません」

 司会者の顔から作り物の表情が掻き消え、若干の憎悪が見えた。顔に浮かび上がるその表情は人工的なものでも無機的なものでもなく、心からのもので、嘘偽りの感情ではなかった。

「殺します」

 小野は、重ねて言った。

「だからあなたはIIを選ぼうがIIIを選ぼうが、罪に問われることはありません。なんといっても、私はあなたを脅迫しているんですからね」

「で、でも……」

 司会者が内ポケットから黒光りする銃を取り出し、池田に向けた。

「死にますよ?」

 有無を言わさぬ、絶対的な重みを持つ言葉である。

「わかりました」

 池田が拒絶の意を示すことを取りやめると、背中から冷たいものが広まり、腕の方にまで這い登ってくる。

「それでは、再度聞きます。あなたは、どちらを選びますか?」

 とうとう、この時が来た。どちらを選ぶのか。答えはもうわかっている。どちらを選ぶべきか、それは明白だ。彼女には、もともと選択肢などなかった。答えはただ一つで、それ以外を選ぶのは、池田が死を受け入れることでもある。しかし、その前に聞いておきたいことがまだある。

「IにしてもIIにしてもIIIにしても、本当なんですか? 本当にIを選べば相手の心は綺麗になり、IIは相手から美を奪い、IIIは臓器を売り払って、それを資金に整形手術できるんですか? それに、IIIの場合、私にとっては意味がないような……私は、この気になる目を何度も優秀な美容整形外科医に頼んでいますし」

「世間一般に知られている技術の水準なんて、たかだか知れています。間違いなく、MTMの持つ技術者の方が優秀です。そこは保証します。

 そうそう、あなたにはいくらかの点数が与えられます。それは、番組をどれほど盛り上げたかによってどれほどの点数が与えられるのかで決まりますけれども」

「ば、番組を盛り上げる、ですか」

「そうです。あなたがMTMに被害者として参加するたびに点数を加算し、百点を取りましたら、MTM支配人の座をもらえる権利を手にできます」

「何をすればどれくらい点数がもらえるんですか?」

「適当にレギュラー陣が決めます」

 身も蓋もない解答である。もう少し具体的に言って欲しいものだ。

「それに、MTM支配人になって、何か意味があるんですか?」

「あなたが思うままの美を、常に得られます。美に対する欲求は限りがありません。人は一度だけ美を手にしても、それで満足できるものではありません。いずれ、またMTMに来ることになるでしょう。しかし支配人になれば、常に美を得られるのですから、その必要がありません」

「支配人になれば、良いことずくめ、ということですか?」

「支配人になるには、現支配人と殺し合って勝った暁にですよ?」

 小野は口の両端を引き上げたが、それはまるで釣り針がそこに引っかかり、引っ張り上げられたような不自然さがあった。

「さてさて、それでは審議に入りたいと思います」

「審議?」

「そうです、あなたが本当に整形手術をしなくてはならないのか、ということについてですよ」

「必要ですよ。この目で、私は人生を狂わされたんですから」

 少し憤慨して、池田の口調に棘が混じる。

「例えば、どんなことがあったんですの?」

 MTMレギュラー陣が、初めて会話に入ってきた。口火を切ったのは千葉、あの日傘をさしている女性である。とても上品な語り口で、育ちの良さが感じられる。

「私のマネージャーは、今までに何人も替わっているんです。それは、私の目が睨んでいるようだから……」

 観客席がどよめく。いや、どよめく音がスピーカーから流される。観客席には誰もいないので、そういうことにしているのだろう。

「私が少しここをこうして欲しい、とか、あるいはちょっと注意しただけで、マネージャーは怯えて、そして辞めていくんです。最初はなぜそうなるのかわからなかったんですが、ある日、耳にしたんです」

 池田は次に続く言葉をぐっと飲み込み、深呼吸して、湧き上がってくる緊張感を押さえ込んだ。

「あいつは、いつも私を睨んで、何様のつもりだよ、っていう言葉を」

「他にもそういうことはあったんですかあ?」

 草敏が髪をさっとはらいのけて、尋ねてくる。実に、何かときざったらしい。語尾を伸ばしてくるのも、気に障る。

「は、はい。実際、先日お亡くなりになった、結局、喧嘩したままで終わっちゃった満里奈ちゃん、乃斗満里奈との喧嘩の発端も、元をたどれば私が睨んでいる、いない、でした。

 マネージャーに限らず、私に関係する人の多くは、私のことを狐目と呼んで、嘲ります。この人とコラボしたいと思って他のアーティストと会っても、彼らは表面上は私を快く迎え入れてくれますが、結局コラボの話はなかったことに、と流されます。後で聞くところによると、あんな狐目と誰が一緒に歌うか、と愚痴っていた人もいたり……」

 池田は下唇を噛んだ。

「周りの人は、私を避けます。今のマネージャーも、私とはなるべく関わらないようにしています」

「それは、さぞお辛いだろうね。わかるよ、うんうん。でも、そんな酷いことがあるんだね」

 人柄が良さそうで、義理人情に溢れ、レギュラー陣の中で一番まともに見えた伊藤であったが、人の不幸話を、こうもにこやかな顔で、しきり頷かれては常識に欠けた人にしか見えない。

 歪んでいる。ここにいる人の心は、皆、異形であり、奇怪である。

「大変だったんですねえ」

 草敏が、無意味にも指を鳴らす。

「本当に。でも、それだけでこの人に整形の機会を与えていいのかしら?」

 千葉が、小首を傾げる。

「だって私からしてみれば、この人ってずいぶんと端整な顔立ちで、どちらかというと愛らしい方だと思いますけど? 目もそこまで気にする方じゃないとも思えてきますもの」

 鼻から抜けたような語尾に、池田は少しいらだちを覚えた。

「そうだね」

 伊藤が、にこやかに頷く。

「僕なんか、かなり顔が大きい方だと思う。よくそのことでからかわれたものさ。けどね、それだからといって落ち込んだり、塞ぎ込んだりしたことはなかったよ。笑い飛ばして、それで終わりさ。

 だから、僕は思うんだよ。君は悲観的すぎるんじゃないかな、って。だから、周りも君に近寄り難いんじゃないかな?」

「それはあるかもしんないですねえ」

 キザ男、草敏が鏡で自分の顔を満足げに見ながら頷く。この男は、本当に伊藤の話を聞いて、納得した上でそんなことを言っているのかどうか甚だ疑問である。

「見た目が原因ではなくて、君が見た目を気にしているから、他の人も近寄りがたいところがあるのではないでしょうか? そういう可能性はありませんか?」

 小野が、聞いてくる。

 紛い物の表情ばかりを見せる割に、言葉にはしっかりとした本物の感情がにじみ出ており、その落差に少々戸惑った。

 池田が黙っていると、「もう少し考えてみませんか?」と司会者が言ってきた。

「今回の被害者選出は、あまりに早急すぎたのかもしれません」

「ま、待ってください。私は……私は、本当にこの目で悩んでいるんです。この目、この目さえなければ、私は自信を持てるんです。あなた達は、私の態度が他の人を寄せつけない空気を作っているって言うけど、その空気を作ってしまうのはこの目があるからなんです。もしこの目が狐目じゃなかったら、釣り目じゃなかったら、私は普通に振る舞えます……実際、私はステージに立つのを躊躇ったことが何度もあります」

「そうそう整形で思い出したんですけど、君は目以外も整形していたんじゃないんですかあ?」

 草敏が、ウィンクしつつ尋ねてくる。

「いえ、していないです。あれは、全部デマなんです。大前が……化粧をこれでもかと塗りたくっているあの女が、勝手に並べ立てている嘘です。だから私は彼女を恨んでいるんです」

 実を言うと、大前の池田への誹謗中傷はそれだけではない。大前莉奈は、週刊誌で池田の事件――被害者を主張する男によると、池田が彼を監禁し、暴行してきたらしいが、全くの事実無根である――を、あたかも真実であるかのように主張する特集を組んだり、池田の整形を事細かに分析したりし始めた第一人者である。

 再三、根拠もない嘘を書くのはやめるように申し立てているのだが、大前は手を変え品を変え、活字による攻撃を続行する。池田の生活を脅かす存在、それが大前なのだ。

 加えて、池田と乃斗の不仲を急速に展開させていったのは、大前莉奈である。池田が乃斗に反旗を翻したと書き立てたのも、池田と乃斗の不仲説を論じたのも、彼女だ。乃斗が死んだ今、おそらく新たな記事を今頃せっせと書いているに違いない。それが発表されたのならば、池田に突きつけられる銃口の数が増加するのは確定的である。

「できるものなら、大前がそんなふざけた記事を書く前に、殺してやりたいです……」

「なるほど……ふうん……」

 まるで池田の言うことなんてどうでもよいのか、草敏は感情の込められていない台詞を吐いた。この男は、一体なんなのだろう。人が話しているというのに鏡を出したり、髪を掻き上げたり、自分の身だしなみばかりを気にしている。

「だいたいわかりましたわ。あなたは自分の目がちゃんとしたものなら、自分自身に自信を持てる。だから、整形したいんですのね? でも、その目も何度か整形したのではありませんこと?」

「え、ええ。でも失敗したこともあって、少し変な感じになっちゃって……」

 池田の語尾は、蝋燭の火のようにか弱い。

「わかりました。私は、いいですわ。あなたがその目を整形して自信が持てるなら、それでいいと思いますもの。皆さんは、どうかしら?」

「僕も別に構わないかな。それで、人生が良くなるなら」

 伊藤が、鷹揚に頷く。

「私も同じかなー」

 草敏が、髪をいじりながら答える。

 彼らは各々の机に配されているスイッチを押して、机の前部に取りつけられているスクリーンに、『賛成』を表示させた。

「はい。では、満場一致で、池田さんには美、被害者の権利をお約束します」

 小野は咳払いした後、

「それでは、どの選択肢を選びますか?」



I→相手の心を整形する

II→相手を捕らえて、MTM本部に運び込み、相手の美をもらい受ける

III→相手を殺害し、内蔵を売り払い、それを整形手術代に当てる



「IIIにします」

「皆さん! 彼女は、IIIを選びました! それでは、十五点満点で評価してください!」

 レギュラー陣が、手に数字の書かれた札を持つ。

「九点、七点、十点! 池田さんは、合計二十六点を獲得しました!」

 小野が、やけに嬉しそうな声を上げる。

 池田には、それがどうにも無神経に思えてならない。

「彼女は、どうやらこの番組を盛り上げたいようです」

 小野は一人で拍手をした後、

「続いて、世界最高の技術を誇る技術者達と対談してください」

 池田の座している椅子が、独りでに後ろへ移動し始める。いや、椅子の置かれている場所、フロアが盛り上がって円柱状になっているものが後退し始めているのである。

 椅子を通して、規則的で冷たい振動音が全身に伝導してくる。電車が、線路の繋ぎ目を走る時に感じるそれによく似ている。

 池田が後退していくにつれて、背後の壁が左右に綺麗に割れて、開き始める。観音開きである。

 次に一体何が起こるのだろう。

 椅子が回転し始める。視界に飛び込んできたのは、三名の技術者達だった。

「まず……一番の問題は、やはり心ですね。心が酷く荒んでいて、ぼろぼろです」

 開口一番、右の男――胸には『内面整形外科医』という名札がつけられている。

「え、ええっと、それは、私のことを言っているんですか?」

「とんでもない」

 内面整形外科医は、大きく頭を振った。

「あなたが、これから殺そうとしている相手の分析です」

「私が分析を聞いて、どうするんですか?」

「もしかしたらあなたが考えを改めて、Iの『相手の心を整形する』を選ぶかもしれません。やはり殺生を防ぐことができたら、いいのですから」

「そ、そんな酷い分析を聞いたら、普通はますます殺したくなるんじゃないんですか?」

「まあまあ、落ち着いて。これは、まだ大前さんの心の一部分です。他の部位については、他の人が意見しますから」

 彼が言った途端、

「基本的にね――」

 隣の男、胸には『メンタルメイクアップアーティスト』と書かれてある男が、口を開く。

「大前さんの心は、灰色なんです。黒ではない。ここが重要なんですよ。後もう少し白色を私が足してやれば、ずいぶんマシになると思うんです」

「後は、心をもう少しスリムにすれば完璧です」

『メンタルエステティシャン』の名札をつける彼が言う。

「幸い、大前さんの心はそれほど太っていないし、形も綺麗な方だから、少しダイエットすれば、綺麗な心を取り戻せると思います」

「総合すると――」

 内面整形外科医が、手を挙げる。

「――大前さんの心は、実はそこまで汚くない。ちょっとした整形で、どうとでもなる心の持ち主なんです。そんな人でも、あなたは殺せますか?」

 彼の瞳孔が、くっと大きくなる。それは、まるで獲物を見つけたゆえに残忍な考えを心に宿した猫のようで、いくらか薄気味悪いものを覚える。

 内面整形外科医、メンタルエステティシャン、メンタルメイクアップアーティストが、池田に視線を注ぐ。

 池田は一呼吸した後、「IIIを選びます」と静かに、しかし強固な意志をもってして主張した。

「わかりました。それでは、今から二十四時間以内に大前を殺してください」

「もし殺せなかったら?」

「あなたが、美を手に入れられなくなる。ただそれだけです。他は、なんのペナルティもありません」

「わかりました」

 内面整形外科医は小さく頷き、目に少し儚げな色を浮かべた。

 彼は立ち上がり、池田に歩み寄り、あるものを差し出した。

「これは?」

「高性能ピンマイクです。カメラ機能もついています。あなたの行動の全ては、監視されるのです」

「そ、そんな……なぜ、そんなことを?」

「これが番組だからです。視聴者のためのものだからです」

 池田は下唇を少し噛んでから、鼻から小さな吐息を漏らした。

「また、あなたの背後から、ビデオ撮影者が後を追いますが、気になさらずに」

「私にプライバシーはないんですか?」

「元々、あなたにはあって、ないようなものでしょう」

とメンタルエステティシャン。

「あなたは、芸能人なのですから。それに今回のプライバシー放棄は、二十四時間だけの話です。それくらい我慢しなさい」

 そう言われては、どうにも反論できない。

「それでは、お行きなさい。もうすでに時間は、計られているのですよ。明日のちょうど午後三時十一分が、終わりの時刻です」

 内面整形外科医は、手を叩いた。

 池田は厳かに頷いてから席を立ち、彼らのいる部屋を抜け、MTMレギュラー陣、司会者のいる部屋を通り越し、扉を開けた。

 廊下を歩いていると、背後からテレビ撮影者が――と思ったけれども、まるでその気配を感じない。本当に、彼らはいるのだろうか。

 池田はビルを出て、携帯電話を取りだした。

「池田財団管理人兼池田真衣のマネージャー、矢口光太郎と申します。大前記者の今回の記事に関して少々お伺いしたいことがあるので、×××ホテルまで来てもらえないでしょうか」

 以前にも、マネージャーと池田で大前の記事について申し立てをして、話し合いの場をもったことがある。今回もそうやって、呼び出せばよい。もっとも、今回、池田のマネージャーなんて来ないのだが……。

「わかりました。では、大前と責任者を、×××ホテルに向かわせます」

 それは、なんとしてでも避けねばならない。大前一人で来てもらわないと、何かとやりにくい。

「いえ、大前記者だけで結構ですよ。今回は、そこまで立ち入った話をしないので……」

「ですが――」

 相手が言葉を濁していると、


――別にいいですよ、私だけで


 微かに大前の声が聞こえてきた。どうやら、近くにいたらしい。


――そうですか。では、一人で本当にいいんですね。

――別に大丈夫です。殺されるわけあるまいし。


 電話の外で、そのようなやり取りが数秒あった後、

「わかりました。では、大前をそちらに向かわせます」

と、相手は言った。

「そうだ、大前のために包丁を買わなくちゃ」

 池田は、近場の店で手頃な大きさの出刃包丁を購入した。残る準備は、ホテルの部屋を借りることぐらいである。

 ×××ホテルは、ここから歩いて十分ほどのところにある。



 ホテルに着くと、適当な偽名で決して高級ではない一室を借り、大前を待つことにした。一時間と少ししてから携帯電話が震え初め、電話に出ると、どこの部屋を借りているのか、と大前が聞いてきた。そもそも私を呼び出した理由はなんなのか、と問われたが、それはここに来たら言うからということと、今自分がいる場所を教えて、電話を切った。

 寸刻の後、チャイムが鳴り、扉が軽く叩かれた。チャイムだけで十分なのに、この女は、と池田は少しいらだちを覚えたがしかし、あくまで冷静さを保ち、これから起こる、いや、起こすことに意識を集中させ、精神から曇りを拭い去る。

 扉を開けると、「私の記事が、気に入らなかったんですかあ? ねえ? あれぐらいいいでしょ、本当に。嘘は人の心を潤すものですよお?」

「ああ、そのことじゃないです。まあ、早く中に入ってください」

「あ、あれ? マネージャーさんは、いないんですか?」

「もうじき、来ますよ」

 池田はそう言ってから、少し自分の声が震えていることに気づいた。

 包丁は、バッグの中に入ってある。バッグは、ベッドの上に置いてあった。

「あ、そこの椅子に座っていてください。飲み物を持っていきますから」

「あら、そう? ありがとう」

 ベッドの横にある椅子に大前を座らせてから、池田はさりげなくバッグをたぐりよせ、冷蔵庫に向かった。これで、大前の視界から外れた。池田は、鈍い光及び生殺できることを実感させる確かな質量を持つ凶器をバッグから取り出すと、途端に病的な恐怖感と興奮感を覚えた。

 正直なところ、凶器を持ちながら、正気を保ちつつ勝機をつかみ取ることは、池田にとって難しいことである。

「ねえ、まだですかあ?」

 大前の、なんとも間延びした間抜けそうな声が聞こえてくる。

「今、行きます」

 池田は背に出刃包丁を隠し、大前に近寄った。幸い、彼女は携帯電話を打つのに勤しんでおり、池田が飲み物を持たずに近づいているのに、微塵も気づいていない。もっとも気づかれていたとしても、曖昧な微笑を浮かべて、殺傷可能範囲内に入り、後は一思いに殺害対象の首を掻き切っているだろうが。

 そして、池田は実行した。大前を殺し、MTMにその死体を捧げるために。

 が、その直後、大前は携帯電話から目を外し、不自然すぎるほど早い反応で池田の一撃を回避し、出刃包丁を構える彼女の鼻を、手の甲で殴打した。

 痛さのあまり、池田が凶器を落とす。


〈大前莉奈〉


 その隙を突いて大前は凶器を拾い、池田に鋭利な物体を直線的に突き刺した。綺麗に下腹部を貫く。

「ど、どうし――」

 池田が、口から血をこぼす。

「こんなはずじゃ――」

「あらあ? どうして、私を殺そうとしたのかしら? 何があったの?」

「こ、殺すのは――」

 池田は深々と突き刺さった出刃包丁をゆっくりと引き抜き、そして血を吐く女の首を切りつけた。

 池田は濁点のついた汚くて小さな悲鳴を上げた後、絶命した。命が抜けてゆく様を静かに見守った後、死体になった池田のポケットを探った。

 中から財布、そしてあのパンフレットを見つけた。

「MTM?」

 大前は読んで、ほくそ笑んだ。しかしながら、やや引きつっている。

「池田の奴、私を殺そうとしたのは、このMTMと関係があるのかなあ? にわかには信じ難い。よし、真偽の程を確かめるために、そこに行くとしようかなあ? でも、嘘臭いなあ」

 大前の声からは、幾許か感情が抜けていた。人の死が間近で起これば、そうなるのも無理はないのだろうか。

「嘘臭くても、確かめる価値がある。だって、たとえ嘘でもそれはそれで心が潤うし、真実なら儲けものだから」

 大前は証拠となるようなものが出ないように、ドアノブ、机やら出刃包丁やらから指紋を綺麗に拭った後、ホテルを出た。証拠隠滅をする必要があるのか。当然である。裁判になれば正当防衛を主張して勝訴に持ち込むことはできるだろうが、そんな面倒なことをしていたら仕事はおろか、このMTMについて調べることができなくなってしまう。



 MTMは、ホテルから歩いてすぐのところにあった。

 そのビルはなんの変哲もないもので、本当にここで現実離れしたことが行われているとは到底思えなくて、やはり自分の勘違いなのだろうか、と大前が訝っていると、

「お待ちしておりました」

 やけに通る声が、背後からした。

 どきりとして振り向くと、いつからいたのか、そこには中肉中背でぴったりのスーツを着こなした、勤勉そうな男が立っていた。

「武田と申します。大前莉奈さんですね。お待ちしておりました」

「ど、どうして私の名前を?」

「誠に僭越ながら、池田様には高性能ピンマイクをつけてもらっておりまして、そこから音声と動画を送信し、私どもの方で事の成り行きを拝見させてもらっていたのです」

「じゃ、じゃあ、あの話は本当なの?」

「もちろんです。あなたも、ご参加なさいますか?」

「うーん……」

「あなたは、自分の容姿にコンプレックスを抱いていますか? もし抱いていないのでしたら、私どもの番組に関わる必要はありません」

「あります。自分の容姿を馬鹿にされたことがあります」

 あれだけ池田の容姿を、ことごとく揶揄してきた大前であるが、力強くそう主張した。

「わかりました。それでは、こちらへ」

 男がビルに先陣を切って入り、大前の案内を開始した。

 冷たい印象を与える廊下をしばらく歩いていると、目前に巨大な扉が見えてきた。黒くて、どことなく不吉なものを感じる。

「では、どうぞ」

 武田はそう言って、一歩後退った。

「ここに入れば――」

 ――MTMに?

 そう聞こうとしたのだが、すでに武田の姿はない。

 仕方なしに扉に手をかけると、すうっと開き、激しい光とスモークが彼女に殺到する。あまりの眩しさに、大前は瞑目してしばらくやり過ごした後、前進した。

「ようこそ、マーダー・ザ・マインドに」

 活力に溢れる声がする。

 スモークをくぐると、声の主が女性であることが視認できた。

 結構な身長を有している彼女の顔には笑みが張りついていて、それは文字通り『張りついた』という感じで、自然らしさがまるでない。

「私は、MTM司会者、小野陽子と申します」

 彼女は一礼した後、

「こちらにおかけください」

 小野が、中央にある椅子を指す。

「はあ……」

 どこにも奇抜さがなく、普通の番組となんら変わりないことに大前は、やや拍子抜けしていた。

「では、我らがMTMレギュラー陣を紹介したいと思います。向かって右から、伊藤仁慈さん」

「どうも、どうも」

 伊藤が、軽く手を挙げる。小柄な男性だ。黒縁眼鏡をしており、独特な雰囲気を醸し出している。

「草敏守さん」

 呼ばれると、ウィンクする。やけにきざったらしい男である。

「千葉嘉穂さん、です」

「はい」

 日本語離れした発音ゆえに、“HI!”と聞こえなくもない。室内であるのに、サングラスに日傘をさしているのは異様である。

「続いて、本日の悩めるゲストを紹介いたしたいと思います。大前莉奈さんです」

 盛大な拍手が湧き起こる。誰が拍手しているのだろう、と客席を見てみると、誰もいない。目を凝らしてみると、客席の方にスピーカーを見つけた。あそこから流しているようである。

「では、この方のお悩みを収録したVTRをどうぞ――と言いたいところですが、正直、あなたが来るのは予想外の展開でした。池田さんを返り討ちにするくらいならともかく、その張本人がこの番組に来るのは初めてです。この番組としても、かなり盛り上がってきている状態ですが、MTM支配人になれる権利獲得からはまだ程遠いです」

 最後の一言に、スピーカーから残念がるような溜息が漏れた。

「ちょ、ちょっといいですかあ?」

 大前が、手を挙げる。

「この……MTMっていうのは本当なんですか? 本当にこんな仕組みが……」

「もちろん! 池田さんがあなたを殺そうとしたのは、選択肢でIIIを選んだからです」

「選択肢?」

 池田が聞き返すと小野が手を叩き、するとスクリーンに文字の列が現れた。



I→相手の心を整形する

II→相手を捕らえて、MTM本部に運び込み、相手の美をもらい受ける

III→相手を殺害し、内蔵を売り払い、それを整形手術代に当てる



「池田さんはあなたを殺して、その内蔵を売り払い、自分の整形手術代の足しにしようとしたのです」

「で、でも、池田は唸るほど金を持っているし、最高レベルの整形外科医に手術をしてもらっていると思うんですけどお?」

「私達が有する技術者達のレベルは、その上をいくのです」

「そう、なの? でも、証拠がないと信じられませんよお。それに、容易く殺人を犯すなんてできないしい……」

「ですから、選択肢が三つあるんです」

「ここから逃げる、という選択肢はないんですかあ?」

「ありません。もし逃げようものなら、あなたを殺さなくてはなりません」

 小野は、内ポケットから鈍い光沢を放つ銃器を取り出して見せた。

 大前は、生唾を一息に嚥下した。唾と一緒に冷たい恐怖感が胃袋に向かって流れ落ちる感触は、誠に不快である。

「それと、点数制度について説明しましょうか?」

「点数?」

 そこで、管理人はつい先程、池田に話したことと同様のことを語って聞かせた。

 番組を盛り上げるたびに点数が加算され、百点に到達したら、MTM支配人と決闘し、その結果、相手を殺せたのなら、MTM支配人になれる権利を得られるということを。

「そんなものになってなんの意味が……」

「あります。あなたは究極の美を手に入れられるのです」

「で、でも――」

「あなたは、今の容姿に満足ですか?」

「いいえ」

「なぜ?」

「見たらわかるでしょ!」

 大前は、自分でも驚くくらいに叫んだ。今年で三十歳を迎える彼女であるが、まだ自分の中にこんな青い感情が残っていただなんて、と少し感心した。

 大前は叫んでから、そういえば今日は化粧を厚めに塗っていることを思い出し、それでは彼らが自分の抱えている大きな、しかし現実としては頬に、小さなあるものが鎮座しているのを認識できないことに気づいた。

 彼女は己の左頬を力強く擦って、化粧を落とし、そこが赤くなっているのを見せた。リンゴがややくすんだような赤色が、そこに腰を下ろしていた。

「それは……」

 司会者の声はまだ冷静さを保っていたが、視線には好奇と戸惑いの色がにじみ出ていた。それは司会者だけではなく、レギュラー陣とて同様である。

「これでも、一部なんです。化粧を全部落としたらわかりますけど、人前でそんなことをしたくないですから」

 彼女の声が曇る。

「これは、単純性血管腫というものです。生まれつきなんです。私はこの赤痣のために、幼少期をどれだけ苦労して過ごしたことか……。化粧で誤魔化そうと思えばいくらでもできました。でもそれをするともう素顔ではいられなくなるから、しなかったんです。しないように努めました……」

「でも、負けたんですね」

 司会者が呟くようにして言うと、大前は彼女を鋭く睨みつけ、「あんたに何がわかる?」と囁くように言葉を吐き出した。

「私だって、それが間違いだってわかっています。でも、それ以上に世の中は間違っているんです」

「もちろん」

 小野は間髪入れず、それに同意した。

「だからこそ、この番組があるんじゃないですかあ?」

 キザ男、草敏が指を鳴らした。

「醜い顔を整形するのではなくてえ、醜い心を整形してやる、という考えの基に生まれたのが、この番組なんですからあ」

 草敏の言うことに大前は大きく頷いてから、冷たい風が当たってスウスウするような感触を頬に覚えたが、どうやらそれは久々に他人に見せたこの血管腫を早く隠したくてしようがない気持ちが膨張してきているがゆえの感覚だと気づいた。

「幼稚園児の時、私はこの痣を特別なものだと思っていませんでした。これが普通だと思っていたんです。でも小学生になると自分が特殊だと薄々感じるようになり、やがてそれは確信に変わりました」

「イジメを受けたことも?」

 伊藤が、身を乗り出して問う。

「ええ。私に触れて、『あ、汚いものに触っちゃった。タッチ!』と汚い物の擦りつけ合いが始まったり、単純に『お前は汚い。こっちに来るな』と言われたりしたことは、一度や二度ではありません。高校生になるとそのイジメも落ち着きましたが、就職活動時にまた困りました。この顔が原因で、なかなか採用してくれないんです。

 その顔で、記者はねえ、と言われて、記者は顔で記事を書くのか、と面接官に向かって怒鳴り散らしたこともあり――」

 大前は、言葉に詰まった。何度か呼吸して心を落ち着かせてから、

「記者になってからも、苦労の連続でした」

「しかしあなたが池田さんの容姿を批判していたのは、どういう理屈なのかな?」

 伊藤が、うん? と語尾に小さく言い加える。

「あれは批判ではありません」

 心外だ、とでもいうように、大前は語気を荒くした。

「真実です。池田は、実際に度重なる整形手術をしていました。私は、それを報道しただけです。一度たりとも整形が悪いだなんて言ったことはありません。批判していたのは、他の記者でしょう?」

 ふうむ、と伊藤は悩むように顎を親指と人差し指で摘んだ。

「そうか、悪かったね」

 ややあってから、そう言った。

 話を続けてもいいですか、と池田が言うと、「どうぞ」と司会者が笑顔で応じる。

「今の職場では化粧をして出かけますが、それ以外は素顔で暮らしています。そうしたら、やはり好奇の視線を浴びます。無遠慮に、私の顔をまじまじと見てくる人もいます」

「そんな時は、どうするのですか?」

 司会者が、優しく問う。しかしその声は、レジ打ちの人間が「ありがとうございました」という台詞なみに感情が流れ落ちていて、空虚な雰囲気をまとう言葉であった。

「小学生の頃は、睨めっこをしていました。見つめてくる人を、私も見つめるんです。けど次第にそれにも疲れてきて、中学生か高校生の頃からは、何か用ですか、と聞くようにしました。大抵は、それで解決します」

「解決しない時もおありなのかしら?」

 千葉が、日傘をくるくる回す。

「あります。あんたを見たらいけないのか、と猛烈に怒ってくる人も……。少数ですけど」

「面倒臭いお人ですわね」

 千葉は心外そうに言ったが、サングラスをかけているので、表情がいまいち読み取れない。

「もう、全てを終わりにしたいんです。毎日、毎日、化粧して私自身を誤魔化し、周囲を欺き、時々、厚化粧はやめなよ、と何も知らないくせに私に注意してくる男に関わり合うのも、好奇の視線に晒されるのも、もううんざりなんです」

「でも、あなたはかなり強い人なのでは?」

 司会者が言う。

「ここに来る人達は、自分の容姿が原因で引きこもったり、精神病を患っていたり、日常生活に支障が出てきたりするような人ばかり。他方、あなたはたくましい精神力を持っているとお見受けするのですが?」

「違う! 違うんです。私は――最近までは、まだ心も安定していたんですけど、駄目なんです。毛利……毛利真弓が憎いんです」

「その人が、あなたに何を?」

「毎日、職場で、私のことを、『赤斑点』と呼びます……一度だけ、化粧をする時間がなくて出勤したことがあって、その時に皆にバレて……中には私の容姿を少し口にする人もいましたけど、彼女は開けっ広げに、私を馬鹿にするんです。『赤斑点』と……。周囲も同調して、次第に私を『赤斑点』と言う者もでてきました」

 大前が口元を覆う。彼女の頬は紅色に染まり初め、目からじんわりと涙が芽生えつつあった。

 冷たい静寂が、スタジオに優雅に舞い降りる。

「私は、今の職場にはもうたえられません。あの……あの……あの毛利だけは許せません。同調していた他の人も許せないけど、あいつだけは許してあげられません」

「わかりました。他の皆さんは、どうですか? もう話を聞かなくていいですか?」

「もう少し話を聞きたいな」

 伊藤が、錠剤を脇に置く。

「酷いイジメをしてきたのは、その毛利さんっていう人だけかい?」

「いえ……過去にいました。葉っぱっていうのが、今までで一番酷かったと思います」

「具体的にどんなイジメを?」

 伊藤が、深い部分について触れてくる。

「その痣は、神様があんたに天罰を下したんだ。その罪を償うべきだ。そう吹聴して回っていました。当然、そんな馬鹿らしい話に聞く耳を持たない人もいるにはいたんですが、尻馬に乗る者、悪乗りする男の子……やはりいました……」

「吹聴した人の名前は?」

「言いたくもありません。それでも言え、と言うんなら、『葉っぱ』とだけ言います。あ、もちろん、本名はそれじゃありませんよ? 仮名です。私は、その葉っぱに小さい頃の人生を狂わされました。

 そいつは、私の赤痣を天罰と言うだけではなく、清めの水と言って、真冬に私へ冷水を浴びせてきたり、体操服の背中に油性のマーカーで十字架を描かれたり。しかも、それが書かれたのは体育の時間で……私は気づかなかったんです。いつの間にか描かれていて、授業中くすくす笑う人がいたから、何か嫌な予感はしていたんですけど……」

「先生は指摘してくれなかったのかしら?」

 千葉が、猫のように目を細める。

「多分知っていたんですが、教えてくれませんでした。以前から、生徒と一緒になって面白がっている節はありましたけど……」

「しかし、それは酷いな。その先生は、ありえない。辛いだろうけど、ちゃんと話してくれてありがとう」

 伊藤が、にっこりと笑む。

「でも、それ以上にその毛利って人は酷かったのかい?」

「どちらも同じくらいに憎いです……ただ、葉っぱは過去の人です。今はもう接触しないで済みます。時間が、彼女への恨みを溶かしていきます。今では、時たま思い出して、夜にうなされるくらいで、だいたいが平穏な心を保っていられたんです。なのに、その平和をあいつは打ち破った……」

 彼女の目に、鈍い虚ろが宿る。

「私を赤斑点と言い、三週間くらい前からはダーツ投げも始めました」

「ダーツ投げ?」

 レギュラー陣、司会者全員が首を傾げる。

「頬の赤い私をリンゴと見立てて、鉛筆を投げてくるんです。逃げ惑うと、お前は先端恐怖症か。なら柔らかいものをやる、と言って、ゴミ袋に詰まった生ゴミを頭からかけられたことも……」

 話すにつれて、大前の目には涙がたまり、とうとう嗚咽を漏らし始めた。

「もし、私に人を殺せる権利があるのなら……殺さないと……あいつを殺したい……」

 司会者は大前の背中を優しくさすった後、

「それでは、そろそろ時間の方が差し迫って参りました。彼女に、美を約束してもいいと思いますか?」

 司会者が問う。

「賛成」

 三人が同時に各々の机に配されているスイッチを押して、机の前部にあるスクリーンに『賛成』を表示させる。

「満場一致ですね。それでは、大前さん、相手の心を整形するのか、相手の美をもらうか、それとも、殺して内蔵を売り払い、それを整形手術費の足しにするのか、どれにします?」

「ちょ、ちょっと待ってください。Iはともかく、IIとIIIを選んだら、私は犯罪者になります」

「犯罪者になるのと、ここで死ぬのとでは、どちらがいいですか?」

 小野は、自身の胸ポケットを軽く叩いた。硬くて無機質な音が、聞こえてくる。

「あなたがIIやIIIを選んでも、私はあなたを脅迫しているのです。あなたは、他に選択の余地がないのです」

 大前はしばしの黙考の後、

「じゃあ……IIIで」

 そう言うが早いか、小野は「それでは点数の方をお願いします!」と叫ぶようにして言うものだから、大前は耳を塞いだ。もう少し声量を抑えてくれないか、と大前が注意しようとした時だった。

 レギュラー陣が、点数の書かれた札を手にする。

「十点、九点、六点。合計、二十五点です。よって大前さんの持ち点は、五十一点となりました!」

 大前が怪訝そうな顔をすると、「実はですね」と小野が口を開いた。

「点数所有者を殺すかMTMにその身を渡すかすると、その得点を手に入れることができるのです」

「なるほど……」

「続いて、我が国最高の技術を誇る技術者達と対談……としたいところですが、その前に少しばかり調査に時間を要するので、しばし別室にてお待ちください」

「調査?」

「ええ。あなたはたまたまここに来て、たまたまレギュラー陣を納得させ、たまたま美をもらい受けられるようになりました。普通ならば被害者のことは事前に調べているんですが、大前さんは違います。ですから、あなたの話の真偽を調査する必要があります」

「わ、私が嘘を吐いているとでも?」

 大前が先程流した涙を拭って、小野を睨みつけた。

「いいえ、その可能性がある、と言っているのです。失礼ですが、奥の部屋でしばらく待っていてください」

 小野が手を叩くと、スクリーン横にある扉が独りでに開き、大前を手招きした。

 大前は深い溜息を吐いてから、その扉をくぐり、その先にある部屋で調査が終わるのを待つことにした。その部屋は、白いテーブルと、ふわふわの革張りのソファのみが配されており、極めて簡素である。ここでどれほど待たされるのか、少々不安になってきた。

「なに、すぐに終わりますから」

 小野はにこやかに言って、扉を閉めた。



 三時間程経ってから、扉が開かれた。

「お待たせいたしました。調査は終了しました。あなたの話は、全て真実ですね。少なくとも職場では赤斑点と呼ばれてイジメられていて、その首謀者は毛利さんでした」

「だから言ったでしょお?」

 大前は、歯軋りした。

「申し訳ありません。それでは、こちらの席にお座りになってください」

 大前が椅子に座すと、

「それでは大前さん、世界最高の技術を誇る技術者達と対談してください」

 司会者がそう言うと、後ろで重くて低い音が響き渡った。振り向くと、背後の壁が真っ二つに割れ、開いてゆく様が見て取れる。

 椅子が自動で後退してゆき、開かれた壁を越え、大前は新たな部屋に放り込まれた。

 椅子が移動をやめると、次に回転し始め、大前の視界に三名の技術者が入り込んできた。

「大前さんは、IIIを選んだのですね」

「は、はい……あ、あのお、あなた達は?」

「これは失礼いたしました。私は、内面整形を担当しております」

「私は、メンタルメイクアップアーティストです」

「私は、メンタルエステティシャンです」

 左から順に彼らは紹介するが、一体どういう役割を担っているのか、大前は全く理解できず、小首を傾げながら彼らを眺めた。

「簡単に言えば、加害者の心を治療するのが私達の役目です」

「え? わ、私はIIIを選んだのに……」

「その決断が果たして正しいのかどうか、それの一助を担うのが私達です」

「ど、どうやってですかあ?」

「私達が毛利真弓さんの内面をあなたに教えて、あなたに新たな判断材料を与えます。それで、もしかしたら変え――」

 大前は、眉をひそた。

「変えるつもりはありません」

「しかし、変えた人もいます」

 メンタルメイクアップアーティストが言う。

「私達は、最後の門なのです。その門をくぐっても、あなたの意見が変わらないというのであれば、誰もあなたを引き留めません」

「それでは、私から」

 内面整形外科医が、おもむろに手を挙げた。

「毛利真弓さんの心は、極めて安定的です。ちょっとした汚れは見受けられますが、それはあくまで平均値であります。あなたを……本当に率先してあなたを『赤斑点』と罵り、虐げるような腐ったものではないはずなのですが……」

「私も同感です。彼女の心の色は大変綺麗です」

 メンタルメイクアップアーティストが首を傾げ、盛大な溜息を吐く。あまりに大きい溜息ゆえに彼の唇が震え、気色の悪い音を立てた。

「薄い青色をしています。所々で淡い灰色がありますけれども、許容範囲です」

「彼女の心は、やや肥満傾向にはあります」

 メンタルエステティシャンが、主張する。

「しかし、これも個人差程度で済ませられるものです。そうなると、どうして毛利真弓さんがどうしてあんなに酷いことをしたのかますますもって疑問に思えてきます」

「もしかしたら、不可抗力があったのかもしれませんな」

 内面整形外科医が、悩ましげに唸る。

「そうですな」

「そうに違いないですよ」

 メンタルエステティシャン、メンタルメイクアップアーティストも賛同の声を上げる。

「ふざけないで!」

 大前が椅子を叩いて、怒鳴った。

「心を分析してなによ! 毛利が二重人格者かもしれないでしょ! もし、いい人格が出てきている時の内面だったら、まるっきり意味がないじゃない!」

 大前は息を荒くし、目に烈火のごとく憎しみをたたえ、頬を僅かに痙攣させている。怒りが身体の底からみなぎり、全身を満たし、溢れてきているかのようであり、技術者達は皆ややおののいて、身を少しばかりのけぞらせた。

「た、確かにその可能性はなきにしもあらず、ですな。特に今回は急なことだったので、調査で至らぬ部分もあるかと思います……」

 大前の猛烈な怒りようを見てか、内面整形外科医の声は後半になるにつれて、じょじょに萎縮している。

「それでは、あなたの決意は変わらない、ということで大丈夫ですか?」

 おそるおそるといった様子で、彼が尋ねる。

「ええ、もちろん」

「わかりました。それでは、二十四時間以内に毛利真弓さんを殺してください」

 彼は立ち上がり、あるものを大前に差し出した。

「これは……なんですか?」

「高性能ピンマイクです。カメラ機能もついており、あなたの行動の全てを監視します」

「なんでそんなものを?」

「これは番組ですから。あなたの行動を撮っておかないと、番組は成り立ちません」

 大前はそれを受け取り、身につけた。

「なんだか監視されているようで、とっても嫌なんですけど?」

 大前が率直な意見を述べると、「失礼ですが」と内面整形外科医が大変言い難そうに、口を開いた。

「あなたの後ろから、撮影者が数名ついていきます」

「もう結構です!」

 大前は彼を睨みつけてから技術者のいる部屋を抜け、レギュラー陣のいる部屋を無言で足早に通り抜け、ビルを出た。

 これから、彼女は毛利真弓の美を剥奪しにいく。その身を拘束し、MTMに捧げる。慈悲も情けもあってはならない。何があっても、だ。

 ただ黙々と計画通りに殺人をこなし、心を鉄にし、自分がなすことやること一切合切は正しいと思うべきである。

 大前は、ひとまず毛利の自宅に行こうとして、彼女の家がどこにあるのか知らないことにはたと気づいた。

 期限は、明日の午後五時三分。それまでになんとかして毛利を殺害し、MTMに遺体を運ばねばならない。今日は日曜日だから明日は会社があるのだけれども、そこで毛利を殺すわけにもいくまい。いくらMTMに脅されているという建前があったとしても、衆目に晒されつつそんなことをすれば、結果は自分が周囲に取り押さえられるのは明白な事実である。

「いや、待てよお……」

 毛利は、大前と同じく記者をしている。確か、明日に彼女は岩見ヶ崎に行かなくてはならない、と記憶している。ご当地グルメの特集を書くために、ということも。もしかしたら二人組くらいで行くかもしれないが、一人でそこに向かう可能性も十分にある。たとえ二人以上で行動していても、一人で動く時もあるはずで、そこを突けば生殺することも不可能ではないはずだ。

 大前は会社に電話を入れた。体調が悪いので明日は休む、という連絡である。

 さて、後は岩見ヶ崎に先回りして、毛利を待ち伏せするだけだ。

「おっと、忘れちゃいけないのが武器ねえ」

 池田は出刃包丁を片手に襲いかかってきたが、あえなく大前の反撃によって沈没してしまったことを考えると、直接的な凶器はあまり頂けないのかもしれない。

 もっと自分の身の安全も確保できて、相手の息の根を確実に止めるものはないものか。少しばかり思案して銃器が頭に浮かんだが、この国では銃刀法による規制があり、一般人はそれらを安易に使用することはおろか、購入することさえできない始末であるからして、これも却下。

「そもそもどうして池田は凶器を手にしていながら、私に殺されたんだろ? 武器を手にしている上に、先制攻撃をしかけられるほどの優位性を持っているのに……。いえ、池田が馬鹿だっただけよお……。私ならうまくやれるって」

 彼女は自分に言い聞かせるように言ったが、胸の内から溢れてくる失敗に対する恐怖感は捨て去りきれなかった。

 ただ一切の思考が鈍くなり、全ての悪い可能性を考えてしまう。もし大前がしたように毛利にうまいことしてやられたら、どうすればいいのか。

 あの毛利のことだ。怒りに怒りを重ねて、大前の顔面と心を、これでもかというほど叩き、精神と外見を蹂躙してくることは想像するに難くない。

 しかし、やらなくてはならない。この赤斑点を消し去り、毛利を消し去る。まさに一石二鳥である。

 彼女は、通行人の視線が己の頬に突き刺さるのを感じた。

 今まで殺人計画についてあれやこれやと頭を捻っていたからか、外部情報の認知が疎かになり、今までそのことについて気づかなかった。

 MTMで、自分の頬を拭ったゆえに、赤斑点が顕わになっているのである。

 信号が赤に変わったので足を止めていると、身も知らぬ男が大前の頬を凝視してくる。

「私に、何か用ですか?」

 容赦ない視線を浴びせるスーツ姿の男性にそう問うと、彼は気まずそうに「いえ」と消え入るような声を発した後、横断歩道を渡らずに、どこかへ足早に去っていった。

 それを見届けてから、大前は横断歩道を渡ってすぐの百貨店に入り、化粧室に行くことにした。そこに向かっている間にも、頬に痛いほどの視線を感じる。

 化粧室で赤斑点を消してから外に出ると、人々の視線は静かな海辺のように落ち着いていた。誰も、彼女に対してまるで関心を払わない。

 人はしょせん外見。

 気にされない内面。

 見た目だけで人を採点。

 大前は口元に微笑を浮かべた。彼女は包丁を購入し、自宅に戻ることにした。



 自宅にて一夜を明かした後、彼女は車に乗り込み、岩見ヶ崎に向かった。走るにつれて、周囲の風景は田舎のそれへと変形してゆき、目的地に着く頃、そこは情緒溢れる世界となっていた。

 右も左も田圃に挟まれた道路を走り抜け、住宅街を通ってから、車を適当なところで駐めて、あらかじめ調べていたご当地グルメの場所が書かれた紙を取り出した。

 地産の岩見鳥をこんがり焼いて、秘伝のタレをかけた料理を扱っている『おみし』が、石見ヶ崎では一番の名物らしい。他にも色々とあったが、ここには必ず来るはずである。地図で場所を確認した後、大前は車をそこへ向かわせた。

 竹林を通り抜けると、線路が見えてきた。地図によれば、線路の向こう側にあるはずだが、と視線をそこに向けると、ちょうど二両編成の電車が通っている最中だったので、視界が遮られた。

 踏切も閉じられているので、いらいらしながら待ち、電車が過ぎてから、ゆっくりとそちらに目をやると、『おみし』はあった。ゆったりと上がった遮断機を尻目に茶色くなった線路を越え、右折し、『おみし』の駐車場を確認したが、毛利の車はない。まだここに到着していないのだろう。

 時刻はまだ朝の八時。しばらくここで待機することになりそうだ。

「それにしても、私を監視している奴ってどこにいるのよお……」

 バックミラーで見る限り誰もおらず、ここに来るまでにも、つけられている気配はまるでなかった。

 大前は『おみし』から少し離れたところにある神社の前に自動車を駐車し、ハンドバッグを上からなでて、中にある硬くて重量あるものの存在を確かめた。

 それは、まるで大前の今の心そのもののようであり、彼女の緊張感を増幅させた。

「やるのよ。やってしまうのよ……私だけが、私だけが幸せになればいいんだから」

 大前は自動車を降り、『おみし』の前にある喫茶店に入ることにした。こんなにも早朝なのだからまだ店は開いていない、と思って、中を覗くと、案の定、閉められていたが、大前の存在に気づいた店主らしき人物が特別に店を開けてくれた。

 彼に礼を言ってから大前は席について、モーニングセットを頼んだ。そういえば、ここに来るまでに彼女は何も食していなかったのである。

 空っぽの胃袋を満たすことはできるものの、これからのことを考えると、どうしても空洞になる心を満たすことはできない。



 雑誌を読み、適当に追加注文して時間を潰していた。時折、自動車が通り過ぎるたびに顔を上げて、それが見慣れたものかどうか確認しながら、というのは言わずもがな。

 そうしていると、毛利の車らしきものが『おみし』の駐車場に入っていくのが見えた。もしや、と思い、席を立ち、会計を済ませた。バッグから眼鏡と帽子を取り出し、一見して、大前とはわからないように変装した。

 駐車場から一人の女性が現れた。肩まで伸びた黒い長髪、大きくてくりくりした感じの瞳、筆ですっと引いたような薄い唇。毛利に間違いない。

 大前は今すぐにでも命を強奪したい衝動を抑えた。まず、彼女が一人でいるのかどうかを確認してみる。

『おみし』には一人で入っていった。

 用心しながら彼女は『おみし』の駐車場に入り、車の方を見たがそこには誰も乗っていない。毛利は、一人で取材に来たようである。

 さて、どうやって不意を突いて、毛利の命をもらい受けようか。駐車場で一思いに殺すか、と大前は思考を巡らせたがしかし、万一、毛利が悲鳴を上げて、それを『おみし』の人間に聞かれれば、面倒なことになりそうだ。ここは田舎だ。人気のないところを車が通ることもあるだろう。そしてその時に毛利を車から降ろさせることができたのなら、殺人は円滑に行えそうだ。

 しかし、そんなことが果たして現実にできうるのか。大前は、ちらと車内を覗くと、中には次の行き先――堂坂――が書かれたと思われる紙が、助手席に置かれていた。

 それを記憶して、大前はいそいそと自分の車へと向かった。神社にたどりつき、まさか駐車違反の切符がきられてはいまいか、と思っていると、やはり杞憂であった。

 彼女は、車に乗り込んだ。ダッシュボードから地図を引っ張り出し、毛利の次なる目的地であろう『堂坂』の場所を確認した。『堂坂』も岩見ヶ崎ではそれなりに評判のある料理を振る舞っているので、大前はあらかじめそれの存在を知っていたし、その住所を書き留めた紙も持っていた。

 堂坂までの道中に、片仮名のハをかぶったアルファベットのLを見つけた。確か、これは竹林だったはずである。その周囲には民家もなく、おそらくまるで人気のないところに相違ないはずで、大前が提示していた条件にまさに合致する場所であった。

 後は、そこを走行中の毛利をいかにして下車させるかが最大の課題である。

「いや、待って……」

 走る場所を知っているのだから、そこに爆発物でもしかけておけば、なんの危険も冒さずに殺すことは可能ではないのか、と大前は思い至った。

 しかし爆発物に関してこれといった知識のない自分にそんな大それたものが、と今の名案と思われた作戦を打ち消そうとして、スプレー缶を思い出した。

 スプレー缶を燃やせば、凄まじい爆発が起こる。あれを利用して、なんとかして毛利を殺すことはできないものか。

 幸い、コンビニエンスストアが三十メートルほどいったところにある。そこで、スプレー缶とライターを二本ずつ、そしてヒモを購入した。その際、マスクもしておいた。これで、購入先から犯人が割れる可能性は薄まるだろう。

 駆け足で、『おしみ』の駐車場に戻ったが、まだ毛利の車はある。大前はそれを見て安堵の吐息を漏らした後、自車に乗り、竹林に向かった。

 道路を走っていると、身体に僅かな振動が小刻みに与えられる。身体が、少し揺れる。彼女の心もそうであった。不安と期待のないまぜになったものが、大前の内面を周期的に打ち続けているのである。心臓も不自然に多量の血液を送るものだから、変則的な動悸を覚える。



 竹林に着いた。竹の密度が薄い場所を通った先に、車を置いておく。それから大前はライターをスプレー缶にヒモで巻きつけ、それを道路の両端においた。できあがったその小さな塔のライター部分――厳密にいうと着火スイッチ部分――に結びつけておく。

 これで、道路に糸の橋がかかった。ここを車が通れば糸が引っ張られ、その力によってスイッチが押された結果、点火されることになる。

 しかし、ここで見張っておかなくてはならない。万一、別の車が来て、せっかくの罠を起動させてもらっては困る。

 大前は毛利が来るべきであろう方角を双眼鏡で確認し、反対方向は耳を澄ませることで対処した。

 名も知らぬ鳥の鳴き声が、大前の耳をつく。それは、大前の内面にある張りつめた緊迫、雪のような不安とは正反対で、実に穏やかで落ち着いたものであった。

 聞いていると、いらだちが積もり、こちらの気分の一つでも考えてくれ、と最初は思っていたが、その気持ちはしだいにするすると抜けてゆき、どうしてそんな矮小な思考にとらわれていたのだろう、と大前は少し反省した。

 今では、鳥のその鳴き声も、こののどかな風景と相まって、大前の硬くなった心を癒してくれるものとなっていた。

 どれだけの時が流れていたのか。いつの間にか大前の意識は虚空に消えて、視界に映るもの全ては情報として認識されなくなっていた。

 ただ呆けていたのである。が、エンジン音が前方から聞こえてきて、ハッとして大前が視覚からの情報を読み取ると、ようやく毛利のお出ましであるらしいことがわかった。

 腕時計を見ると、僅か二十分ほどしか経過していない。意外に短い時間で、大前は放心状態になっていたらしい。

 彼女は、罠から離れた。十分すぎるくらいにまで離れておく。どれほど距離をおけば安全圏なのかわからないのだから、それも当然のことである。

 念のため姿勢を低くし、目と耳を手で塞いでおく。こうしておけば、視覚、聴覚が爆風と爆音でおかしくなることを防げる。

 くぐもった音、地鳴りの音を更に低くしたような、苛烈な爆音が辺り全てを聾する。耳を塞いでいても、あまりに凄まじい爆音ゆえに、大前の思考も一瞬だけ鈍くなった。

 音がまるで聞こえない。歩いているのに、自分の足音が聞こえない。無音の世界に足を踏み入れたかのようである。

 毛利の車があるだろう場所では、炎と黒煙が混合している。闇をまとった炎が燃え盛っているかのようである。あまりに活発で肥大な炎のため、毛利の車はまるで見えない。

 空に登るこの盛大な煙のために、地元民が駆けつけて騒ぎが大きくなるのは間違いない。早いところ、ここから立ち去るのが得策だ。しかしながら、毛利を殺した証拠として彼女の死体をMTMまで運ばねばならない。

 そこで、大前ははたと思い当たった。これだけの炎に囲まれている死体を、どうやって自分が持ち運べるというのか。計算外である。大前は舌打ちをして、低く唸った。

 聴覚が次第に回復してきて――

 足音がした。背後から。

 誰だ、と振り返ろうとして、脳天に強烈な一撃を受けた。

 思考が一瞬途切れるが、なんとか意識を繋ぎとめて、背後を見る。

 そこにいるのは、毛利である。

「ど、どうしてよ……」

 頭は意外と痛くない。

 毛利は、右手に金属バットを持っている。

 彼女は舌打ちして、忌々しそうに大前を見た。

「少し狙いが逸れた……次は外さないから!」

 彼女は両手で金属バットを構え、鋭い攻撃を放つ。

 打たれる、というより、斬られる、という表現が真実に近い。

 毛利は金属バットを持っていながら、彼女はそれを叩きつけているのではなく、あくまで斬りつけているのである。

 大前は毛利の太刀筋を見て、嫌なことを思い出してしまった。

 彼女は、剣道の有段者である。

「くそっ!」

 頭から血を流す大前は、回れ右して逃げ出した。

「待て!」

 毛利が追いかけてくる。

 しかし、ハンドバッグしか持ち物のない大前の方が小回りは利く。

 ここは竹の密集度がかなり高めで、長いものを持って走るのは骨が折れる。

 この調子でならば、逃げきることは可能だろう。

 大前の内面は恐怖と錯乱で波打っていたが、思いきって振り向き、毛利を睨みつけた。

 果たして、剣道有段者とやりあって勝算はあるのか。

 勝算がない。

 冗談抜きにして、そんなことは考えたくない。

 そもそも毛利の腕の善し悪し云々以前に、使用している武器の違いからくるリーチの差異も大前にはかなり不利である。

 大前に追いついた毛利は、怒りで身をたぎらせていた。

「殺してやる。本当に殺してやる」

 声をひそめるようでいて、低音域がかなり強調された声である。声の端々に怒りと憎しみがにじみ出ている。

 相手は真剣である。なぜこれほどまでに激怒できるのか。大前にはわからない。確かに、大前は彼女を殺そうとした。しかし、だからといってここまでの憎しみをもってして殺害に身を乗り出せるものなのか。

 理解不能である。ただ一つ理解できることがあるとすれば、正攻法でやりあおうものなら、大前の勝機は欠片もなくなるということであろう。

 大前は、歯噛みした。

 互いにしばし睨み合っていたが、毛利が先に静を打ち破り、動に転じた。

 流れるような足さばきを見せ、気づいた時にはもう間合いが詰められていた。その距離の取り方は絶妙で、毛利の攻撃はなんとか大前に到達できるものの、大前の出刃包丁はただの装飾品と化しうる間合いである。

 閃光のような一太刀が、頭上から振り下ろされる。

 大前は勝負に出た。姿勢をかがめたかと思うと、水泳でやる飛び込みの要領で毛利の足下に飛びついたのである。

 金属バットは、しかしそれでも確かに大前の身体をとらえたが、それは背中であった。加えて予想だにしなかったことが起こったゆえに、毛利の攻撃には迷いが産まれ、威力は失速していたし、第一、高い位置にある部分、頭を狙っていたものだからますます彼女の攻撃は無意味といっていいほどに弱体化していた。

 大前が、毛利の足を切りつける。

 硬いダンボールを抉るような、そんな手応えがあった。

 それと同時に毛利が絶叫し、のけぞる。

 大前は内心で、してやった、とほくそ笑んだが、安心するにはまだ早すぎる。なんといっても、彼女自身も毛利同様体勢を崩しているどころか、完全に地面に伏してしまっている。

「こいつがああ!」

 毛利の声は砕け散っていて、まさに割れ鐘と化していた。

 大前は、しかし彼女がここまで激情するほどの攻撃を加えてはいなかった。足を地につけて切りつけたわけではないので、切り込み自体は浅かったはずである。

 毛利の金属バットが振り下ろされる。

 起き上がる暇などない。

 大前は素早く回転し、彼女の攻撃をよける。

 精神が沈着していない毛利の攻撃は、威力の増大が明白であるものの、鋭さは失せていた。斬りつけるようだった攻撃も、今や単なる叩きつけるようなものに成り下がっている。

 間隙を縫え。

 反撃に転じるのだ。

 反省させてやれ、冷静さの欠落を。

 一撃をやり過ごした大前は、出刃包丁で毛利の足の甲を突き刺した。これが火事場の糞力というのだろう。渾身の力を込めた一撃には相違ないが、大前の出刃包丁は毛利の足と大地を繋ぎとめた。

 包丁が貫通した足を、毛利は魅了されたように見入っている。毛利は、自身の足に何が起こっているのか解せないようであった。毛利は足を動かそうとしたが、包丁は巨大な釘の役割をしっかりと果たしており、彼女の動きを封じている。

 その間に大前は立ち上がり、毛利の攻撃が及ばぬ範囲へと退いた。

 金切り声が、天を貫く。

 毛利が、またも激痛による悲鳴を上げたのである。

 彼女は右足を抱擁する包丁に、おそるおそる手をかけ、そして引き抜いた。湿ったような音がする。

「殺す……あんたは、一体どこまで私をこけにすれば気が済むんだ……」

 毛利の目は大きく見開かれ、そこに宿る正直な狂気を見せつけてくる。

 武器の一つも持たない大前は、またも窮地に追いやられた。敵は右足を負傷しているが、金属バットに加え、出刃包丁すら持っている。

 丸腰のままで勝算はあるのか。

 毛利に飛び込んで、一か八かの勝負に出ようか、という考えが頭をもたげる。いや、あまりに危険すぎる。最初に足に飛びついた攻撃が通じたのは、奇をてらった策が功を奏したのもあるが、実際、大前の運が良かったところも大きい。

 僥倖が二度も続くとは思えない。

 大前は駆け出した。とにかく逃げなくてはならない。

 振り向くと、足を引きずりながら毛利が追跡してくるのが見えた。

 彼女の目は大きく見開かれ、ぎらぎらとした光を宿している。それを見ただけで、大前の心臓は氷で刺されたかのような冷たさと痛さを覚えてしまう。

 しばらく駆けると、墨のような煙と紅蓮の炎が抱擁し合っているところにまで来た。戻ってきたのである。

 だがここに来ても、なんの意味も――大前の思考の隅で、小さな光の粒が弾ける。

「そうだ。車が……」

 大前は竹林に隠した車に戻った。これで、毛利を轢き殺そう。なるべく殺人犯を特定される証拠を残したくはなかったが、やむをえない。命あっての物種である。

 後方を見やると、毛利がしっかりとついてきている。足と大地を繋ぎ止められていたのが嘘のような速さである。

 彼女の顔は、激痛やら憎悪やらで激しく歪み、まるで梅干しのようにしわだらけになっている。目から涙を流し、狂犬病に感染した犬のように口から唾液を垂らしている。

「ろ、してや、る、ころ、殺して、や、る、ころ、ころ、殺し――」

 もはや、彼女は狂人と化していた。言葉の一つ一つが鉄槌で潰したように歪んでいて、ライヴ音源のヴォーカルなみに酷い雑音が入り混じり、声の大きさも全く均一でなく、ばらばらである。

 大前は扉を解錠しようとしたけれども、手が震えて、思うように鍵が刺さってくれない。

 そうやって手間取っている間にも、毛利が足を引きずりながら駆けてくる。

 なんとか鍵が刺さった。手に心地よい感触が伝わる。即座に扉を開けて、ハンドルの右にある鍵穴に鍵を差し込もうとしたのだが、なんということか彼女は鍵を落としてしまった。

 いらだちが、彼女の内面で膨張する。それ以上に、恐怖が大前を締め上げる。

 早くしないと毛利に追いつかれて、金属バットで乱打され、出刃包丁で滅多切りにされてしまう。

 あまりにも無惨すぎる死である。それだけは、なんとしてでも避けたい。落ちた鍵に手を伸ばして拾い上げ、なんとか鍵を拾ってエンジンを始動させた。

 扉を閉め――

 サイドミラーに、毛利が金属バットで横殴りしてくる姿が映った。

 慌てて、頭を下げる。

 それと同時に、窓ガラスが吹き飛んだ。

 細々としたガラスの雨と、弾かれた硬貨の音をかなり高くしたような効果音が、車内に降り注ぐ。

 大前の精神は絶望で引きちぎられたが、ほぼ反射的に反撃に出た。頭を上げて、毛利の目に拳をお見舞いする。

「かはっ……」

 相手は、喉に何かが詰まったような掠れた音を吐き出した。

 大前はその隙に鍵を捻り、エンジンをかけた。

 後は、簡単である。

 毛利に突進すればいいだけだ。

 大前は、口元に残酷な笑みを浮かべた。

 彼女には、慈悲深さも温情もない。ただあるのは、殺せ、という二文字だけ。やらねば、こちらの人生に幕が下ろされるのだ。

 先程、精神が絶望で粉砕されながら反撃に出たのもとっさのことであった。まだ死にたくないのだ。その思いが強くて、美に対する気持ちは誰よりも深くて重いがゆえ、なせた業なのである。

 大前はやや後進し、方向転換した後、

「くたばれ!」

 アクセルを全開にして、毛利に突撃した。

 バスケットボールをドリブルする時に、床が産み出す音をより低くしたものが奏でられる。

 鈍くて、湿っぽくて、陰惨な音が響き渡る。

 毛利を殺すか否かも、大前の意思にかかる。

 無論、大前は一切の躊躇を介さずに、毛利を屠ることを選んだのだった。

 大前は、確かに毛利に突進を放った。だがあまりに近距離からの攻撃ゆえに、毛利の身体を粉砕し、血飛沫をあげ、内蔵を飛散させることはできなかった。骨折ぐらいはさせただろうが。

 毛利の上半身が、ボンネットに乗っている。

 彼女は唾液混じりの血液を吐き出しながら、しかし闘争心の炎は消える気配を一向に見せない。それどころか、より激しく燃え立っているようにすら感じられる。

 口で荒い息をしながら、彼女はボンネットの上を這い進む。

 まだ生死をかけた戦いは、終わっていないのだ。

 毛利は金属バットこそ手から落としてしまっているものの、まだ出刃包丁だけはしっかりと握り締めている。

 大前がそれに目をやると毛利の手に力がこもり、手が小さく震える。絶対に手放す気はないらしい。

「あんたなんか、振り落としてやる!」

 大前は竹林を走り抜け、道路に飛び出た。速度を全開にする。大前は、車を稲妻状に走らせた。

 駆け抜ける。劇的に上昇する速度。これだけは譲れない。

 崩せない信念。腐った人間、と罵られても構わない。

 毛利を道路に叩き落とすまで、ただ速度を上げるだけ。

 しかし幅の狭いこの道でそれをやっても、毛利を道路に落とすのにはさほど効果が得られない。

 そうこうしている間にも、毛利が大前の命を摘出すべく僅かずつ前進する。全身に殺意をたたえる人間など、今の毛利のような死を恐れぬ人間に比べれば、その性質の悪さは霞んで見える。

 畏怖を忘却した敵には、恐怖を与えてやると見せかけて後退させることができないのだ。

 こちらが暴発して巻き添えを食らわせてやる、といったハッタリも効かない。

 実に厄介なもの、それは、命をくれてやる、という強靱な精神で追いつめてくる姿勢なのである。

 とうとう、毛利がフロントガラスに到達した。彼女は、狂気じみた笑いを口に浮かべている。

 今の毛利は、金属バットを持っていない。あるのは、ただの出刃包丁だけだ。

 大前が、ざまあみろ、と毛利を嘲笑しようとした時、彼女の腕がフロントガラスに突っ込まれた。

 フロントガラスが砕け、丸みを帯びた雨が車内に進軍を開始する。

 恐怖で、大前の顔が引きつった。

 もう悠長に車を走らせている時間はない。

 早急に毛利を車から振り払うなり、殺すなりしなければ、大前は死という一文字を抱きとめなくてはならない。

 毛利が、怒号を上げた。

 瓦解して、意味を成さない言葉。

 しかしながら、怒りをはっきりと認識させる雄叫びである。

 大前は覚悟を決めた。

 唐突にハンドルを切り、道路から逸れた。

「あ」

 毛利はそんな間の抜けた言葉を決して発しはしなかったが、表情はだいたいそんな感じである。

 樹木と車が激突する。

 木が張り裂ける。

 水分を渇望してやまない木だったのか、乾ききった音が木霊する。

 それとほとんど重なり合うようにして、濁った金属音が生ずる。

 乾いた音と濁った音の二重奏。

 激しい衝撃が、大前を襲う。特にベルトに添って、強烈な圧迫感が殺到した。

 もしシートベルトをしていなかったのならば、大前はとうに外に放り出されているに相違ない。

 しかしながら頭が前後に揺さぶられたゆえか、大前の気分は優れなかった。思考がまとまらず、視界に映る全てのものが歪んで見え、これからの行動がなんだったのかも思い出せず、肯定も否定もできない、支離滅裂な精神に陥っていた。

 やがて彼女の思考が、落ち着きを取り戻す。鼻腔に、焦げ臭い空気が入り込んできた。いや、おそらく嗅覚が復帰したゆえに、今しがた嫌な臭いを嗅ぎ取っただけで、先程から肺にその臭いはずっと侵入していたのだろう。

 機能を再開した視界から、彼女はフロントが押し潰されたゴムまりのように歪んでいるのを認めた。

 そこから黒煙が舞っている。毛利の姿は見当たらない。

 大前は下車した。フロントの方に歩み寄ると、手が突き出されているのが見える。活発に動き回っている黒煙のせいで、毛利が隠されていたのである。

 毛利の手は、血の池から救いを求めて挙げられているかのようであった。

 煙が息切れするのを待ってから死体を引きずり出し、MTMで綺麗になって生き抜きたいのも山々であるが、そんな気長なことをしている余裕はない。

 随分と派手な戦いを繰り広げたのだ。今頃、地元民が警察か消防士にでも一報を入れているはずである。

 大前は息を止めて、毛利の手をつかんだ。しかし足の部分が樹木と車の間に挟まっているらしく、動かない。仕方がないので車のエンジンをかけようとしたのだが、うんともすんとも言わない。仕方がない。サイドブレーキを解除して、車を押した。

 湿って、暗い音がする。

 改めて、毛利の死体を引いてみる。今度は、すんなりと動いた。

 息を止めて勢いよく引っ張ると、ようやく車体から毛利が地面に落ちた。

 それには、もう命がこもっていなかった。

 大前は魂の抜け殻を後部座席にでも置いて逃げようとして、車が機能停止している事実を思い出した。

「ど、どうしよう……」

 このままでは、逃げられない。車を置いて逃げようか、とも思ったが、そんなことはもってのほかである。

「車なんていう証拠を置いて帰宅したら、即座に逮捕されること請け合いよお……」

「大丈夫です」

 唐突に、この場にそぐわぬやけに冷静な声がした。

 振り向くと、そこにはMTMのあったビル前にて大前を待っていた管理人、武田と同じような燕尾服に身を包む男の姿があった。

「だ、誰?」

「私は、MTMの者です。毛利さんは、急いで本部に向かってください」

「い、急いで、って言われても……車はないし」

「それは自分でなんとかしてください」

 男の後ろには、いつの間にか、白のワゴン車が駐まっている。

「あれを使わせてください」

「駄目です。私は、あなたの競技を助けることはできません」

「競技?」

「殺し合いですよ」

 しばし競技と殺し合いが繋がらなかったが、ややあってから毛利の思考内部でその二つが一つになった。

「じゃあ、あなたはここに何をしに来たんです?」

「もとからいましたよ。私達は、競技の様子をずっと撮影していました」

「でも姿を隠して、ですよね? なぜ、今は目の前に現れるんです?」

「証拠を消しにきました。ただそれだけです」

「芋ヅル方式で捕まりたくないってことですか?」

「違います。あなたが証拠隠滅をはかってばかりいては、番組としてつまらないですから」

 大前は、舌打ちした。

 彼女は、あれほどの壮絶な戦いを繰り広げていた。命を賭して、戦いに望んでいたのだ。だのに、あれを娯楽として享受している輩がいる。

 憎いやら、嘆かわしいやら、で大前は下唇を噛み締めた。少しきつく噛んだゆえ、口の中にほんのりと鉄の味が広がる。それにつれて、負の感情も拡大する。

「さあ、早くお逃げください」

 だが、どうしろ、というのか。大前は焦げ臭い毛利を抱えて、悩んだ。

 彼女を自力で運ぶのは不可能である。

 しかし助けを呼べないし、たとえ呼べたとしても時間がかかるゆえ、お縄になってしまう可能性は大である。

 大前は、記憶を掘っていった。

 柔らかいところから硬いところまで。

 今、大前の思考に一筋の光がよぎる。

「そもそも、毛利はどうやってここに来たのかなあ?」

 爆破した車は、毛利が『おみし』に駐車していたものであった。あれに彼女は乗っていなかった。大方、なんらかの重しなりなんなりの仕掛けを作り、自動で走らせたのだろう。あそこの道は直線であり、ハンドルも固定しておけば後は道なりに進んでくれる。

 いや、そこが肝心なところではない。重要な部分は、どうやって毛利は竹林まで来たのか、ということだ。『おみし』から竹林は歩けば三十分ほどはかかるがしかし、毛利は二十分足らずで竹林に来た。

 大前が車を発進させてすぐに毛利が竹林に向かったとしても、この時間はおかしい。車などなら可能だが、徒歩は明らかに不可解である。

 この仮定が正しいのだとすれば、近くに車あるいは原動機付自転車があるはずだ。

 大前はぶつぶつと独りごちて毛利の遺体を引きずっていたが、その必要性がないことに気づき、地面に捨て置いた。

 炎上している毛利の車から百メートル足らずのところに、やはり車があった。薄い緑色の小型車が竹林の脇にある。

 すぐさま死体になった毛利を引きずって、後部座席に放り込んだ。鍵はささっていない。大前は眉をひそめてから、毛利のハンドバッグを漁って鍵を見つけた。

 鍵を回すと、エンジンが始動した。

 大前が美を手にするのも、もうすぐである。

 そう思うと、足下から伝わってくる振動と心からの歓喜による震えが重なる。

 苦悩や不幸という名の酷い味。

 それらを絞り出し。

 これでようやく単純性血管種から独り立ち。



 MTMのビルに到着すると、「証拠は始末しておきます」とMTM管理人の武田が微笑んだ。

 大前は礼を言って、後部座席の死体を取り出そうとすると、

「これに入れて、持っていってください」

 武田が、黒くて長い袋を渡してきた。

 大前はそれに死体を詰めて、ビルに入った。

 女一人分を引きずってスタジオまで行くのは、さぞかし疲労が積もるだろう。命の重みがのしかかるだろう。普通の人間ならば、まず間違いなく罪悪感に押し潰されかけているのだが、大前は意気揚々とスタジオに足を向かわせていた。

『物体と化した存在』を詰めている袋の表面が、つるりとしているからなのかもしれない。あまり労せずして引っ張れるからなのかもしれない。

 大前は、笑っていた。微笑を浮かべていた。本当はもっと盛大に笑いたいのだが、腹をよじって笑うのは不謹慎であり、MTMのメンバーに何か思われて、せっかくの褒美を受け取り損ねたら事である。だから、彼女は控えめに破顔するだけだった。

 十分に狂気である。女一人を殺して、『物体』にしているのに、彼女はこれからの輝かしい未来にばかり気を取られて、心を希望で満たしている。

 扉が見えてきた。

 ここだ。ここを開ければ、大前の美も開扉されるのだ。彼女の頬は緩むがしかし、それを厳しく己で叱りつけた。

 笑う門に福来たる、と人はよく言うが、大前の場合、笑っていると運はそれを快く思わないらしく、大抵、彼女の幸福を気持ちよいくらい素早くかっさらってゆく。

 単純性血管種がレーザー治療で治るらしい、と両親から言われて笑ったあの日。しかし、いまだに人生を不幸にした赤痣は消え去らなかった。

 彼氏ができて婚約の段階までいったこともあるが、嬉しいやら困惑やらで結婚することに二の足を踏んでいると、「その顔で、この機会を逃すともう結婚できないぞ」と彼が言ってきたことも思い出される。結婚寸前までいったあの日、確かに大前の顔は綻んでいた。笑っていた。がしかし、結果、聞きたくもない彼の本音を耳にしてしまった。ひょっとしたら、あれは本音ではないのかもしれない。たまたま心にない発言を、あの口が紡いでしまっただけなのかもしれない。けれども、聞いてしまったのだ。いずれにしても、そういう風に見られている事実を。そして、そんな時、そう、彼から婚約を持ちかけられた時も、彼女は笑顔であった。しかし、結局手にしたものは不幸であった。

 笑顔は幸福を遠ざける。

 彼女が得た結論はそれであり、真理であり、世の中でたとえどう言われようと、見紛うことなき法則なのである。

 扉を開けた。

 眩い光とスモークが、辺りを乱舞する。

 視界が白くなって盲目状態に陥ったけれども、彼女は落ち着いていた。二度目のことだから、それも当然のことであろう。

 しっかりとした足取りで進みスモークを抜けると、司会者が見えた。

「おめでとうございます」

 小野が、人工的な笑みを見せる。

「一応、死体の確認をさせてもらっていいですか?」

 大前は、死体と期待の詰まった袋を差し出した。

 司会者は中身を確認せず、そのまま技術者のいる部屋へと行った。

 レギュラー陣は皆押し黙ったまま、空白の時を過ごしている。

 カメラが回っていないからなのかもしれない。

 きざったらしい草敏は手鏡でしきりに自分の顔を確認しており、日焼けを極度に嫌う千葉は日焼け止めクリームを塗り続け、ひょろひょろの伊藤は何やら得体の知れぬカプセル状の薬を飲み続けている。

「あの……何をしているんですか?」

 意を決して聞いてみた。

「私がですかあ?」

と草敏。

「いえ、皆、です」

「ふうーん……私はですねえ」

 草敏が、唇を人差し指で撫でる。その様は、どことなく官能的である。

「この顔に我慢ならないんですよお」

 どちらかというと、でもなく誰が見てもナルシストに見える草敏からそんな言葉が飛び出す。

「どこか歪んでいるように感じるんですう」

「そうそう、だからこそ彼はそれを隠すんだよ」

 伊藤が、また何かよくわからぬ錠剤を口に放り込む。

「失礼ですね。そんなこと言わないで欲しいですよお」

 草敏が、唇をとんがらせる。

 彼は醜形恐怖症のようなものを抱えているのかもしれない。どれだけ普通でも、どれだけ美しくても、どこか自分の顔が滑稽に思えてくる精神病。それにかかると、人前に顔を晒すのは困難になるが、まだそういうところがない分、彼は軽症なのだろう。

「それに、さっきから薬ばっかり飲んでばかりいる人には、特に言われたくないですよお」

「薬? 君も飲んでいるじゃあないか。飲まないと、君は人の視線にたえられ――おっと失礼」

 伊藤は草敏の鋭い睨みに気づいて、すぐに言葉を引っ込めた。

 なるほど、草敏が飲んでいた薬は、醜形恐怖症を緩和する薬だったのか。

「ところで、伊藤さんの飲んでいるその薬はなんですか?」

「これかい? これはねえ、身体を強化するんだよ」

 うんうん、と彼は頷いてみせる。

「見ての通り私は小さいし、ひょろひょろだ。だから、もっとがっちりした身体が欲しいのさ。ついでに、身長も欲しいんだよ」

 がっちりした身体はともかく、その歳で身長が伸びるなんてことは起こりうるのだろうか。甚だ疑問である。

「千葉さんは、なぜそこまで日焼けを気にするんです?」

「では、どうして大前さんはその赤痣を気にするんですの?」

 千葉が、意地悪な質問をする。

 大前が答えに詰まっているのを見て、ほら言わんこっちゃない、というように大仰に肩をすくめてみせた。

「答えはない。本人が気にするのだから、仕方がないんじゃないかしら? それに曖昧な理由があっても、明確な理由によって自分が気にする物事なんてありませんこと?」

 そこまで言ってから、彼女は唐突に表情を和らげた。

「ですからなぜ私が日焼けするのか、その曖昧な理由を教えて差し上げますわ。だって、ほら、黒ってあまりいいイメージがないんじゃありませんこと? 悪魔、死、腐敗……白には天使、神、潔白、清潔、といういいイメージがあるのに対して、その正反対に位置する黒はどうにも負の要素しかない。だから、私は日焼けが嫌なのです」

 千葉の肌は、すでに白すぎるほど白い。あれ以上白くしてどうするというのか。

「それで、あなた達は理想の自分を手に入れられますか?」

「できる」

「できますよお」

「できると思いますわ」

 三人とも、断言した。

「だからこそ、この番組のレギュラー陣にいるんですのよ」

「ここにいれば、それらの願いが叶うんですか?」

「私達は、昔、あなたと同じだったのよ?」

「同じ、ですか……」

 ある美を手に入れるために苦労を厭わないという共通点はあるものの、それ以外は欠片も似ていないのに似ている、とこの女は主張する。

「私達は、昔、ここに招かれたんですよお?」

 草敏が、指を鳴らす。

 大前の心臓が、早鐘をつくように高鳴る。

「美を手に入れるために、選択肢を三つ授けられたんだよ」

 伊藤の顔からは、いつもの和やかさは掻き消えていた。

「私達は、それを達成できなかった……。殺せなかったの」

 千葉の言葉は、急速に空気の抜けてゆく風船のごとく小さくなっていく。

「ここでレギュラーをし、推薦した者が誰かを殺すことができたのなら、私達は美を授けられるんですのよ」

「推薦者の十名中九名が殺せたのなら、私達は醜悪から解放されるのさあ。でもこのままいくと、かなりリスクがあるんだよねえ」

「実を言うと僕達がレギュラーを務めてから、この世に送り出した殺人者は七名。殺人未遂に終わったのが一名。もう失敗は許されないんだ……」

「で、でも、選択肢Iがありますよ。それを選んだら、殺人も何も……」

「あれは、数えられない。殺す度胸がないな、と僕達が判断した人には、あの選択肢を選んでもらうように誘導するのさ。それでもその人がIを選ばないのなら、その人は美をもらう適任者ではない、と判断して、ここからご退場願うまでだよ」

 伊藤が、だよね、と草敏に同意を求めている。

「そうですよお。殺してもらわないと、私達も困るんですからあ」

「もしかして、あの司会者も……」

「そうですわ。あの方も、私達と同じ境遇ですわ。文字通り、運命共同体なんですのよ?」

「お待たせいたしました」

 小野が、技術者の部屋から帰ってきた。

「あの死体は――」

 司会者が、言葉を句切る。

 レギュラー陣が、息を飲む。

 空気が氷のように硬く、そして冷たくなる。

「――毛利さんのもので間違いありません」

 レギュラー陣の顔が綻び、どっと安堵の息が漏れる。

「それでは、大前さんに美を進呈したいと思います」

 司会者は彼女を手招きし、技術者の集う部屋に来るように言った。

「これで、この赤斑点ともおさらばなんですね」

「ええ、間違いなく」

 司会者が、紛い物の笑みを浮かべた。

 大前は技術者の部屋に入ったが、そこには誰一人いない。

 騙したのか、と大前が小野を詰問しようとすると、

「奥の部屋に、技術者の皆さんが集まっているのですよ」

 そう返されて、そしてそれは事実だった。

 技術者の部屋の先に扉があり、それを開けると技術者達が勢揃いしている。

「本来であれば、加害者の心を整形したいところなんですがねえ」

 内面整形外科医が、愚痴をこぼす。

「ちょ、ちょっと待ってください。あなた達は、メンタルに関する技術者なんですよね。なのに、私のこの痣を取る技術を持っているんですか?」

「そこはご心配なく。私達の技術は本物です。内面だけではなく、外面のスペシャリストでもあります。それに資金も、ほらこの通り毛利さんの内蔵をあるだけ全て売り払えばそれなりの額になります」

「そ、それでも足りないんじゃないんですかあ?」

「足りなければ、プロデューサーに出してもらいます」

 MTMは、富裕層の娯楽として成立しているものである。その遊びが破綻するとなると彼らも黙ってはいないはずで、足りなければ当然填補してくれるはずだ、と彼は言った。

「それでは、始めましょうか」

 内面整形外科医の言葉に、メンタルメイクアップアーティスト、メンタルエステティシャンは小さく頷いた。



〈具手堅清佳〉


 彼女はいない。血痕だけ残して、どこかに消えた。

 どこに?

 どこにいるのか。

 や、そう考えるならば、彼女は生きているのだろう。今もどこかで生活しているのだろう。

 いや、違う。違うかもしれない。

 具手堅は、ある広告を握り締めている。それによって、彼女は毛利がこの世を後にしたのでは、と危惧した。いや、したのだ、と確信した。

 杞憂かもしれない。

 真実かもしれない。

 確かめるにはどうすればいいのか。

 具手堅は、己の胸に手を当てた。心臓の拍動を感じ、憤りを覚え、湧いてくる絶望を押し潰し、MTMという組織破壊を決意した。



 扉が開かれた。

 スモークと眩い光が、具手堅をお出迎えする。

 やがてそれらは潮が引くようにして静かに消え去り、一人の女性の姿がはっきりと視認できるようになった。

「やれやれ、最近は飛び入り参加がやけに多いですね。ええっと申し訳ありませんが、お名前は?」

「具手堅です」

「ここが、どういうところか知っていますか?」

「なんとなくは。これは、本当なんですか? 真実なんですか?」

 具手堅の声には、棘が混じっている。

 彼女は手にする折り畳まれた一枚の紙を開き、それを司会者に見せつけた。

「これは何?」

「それは、この番組の広告ですね。どこでそれを手に入れたんですか?」

「どこもくそも竹林です!」

 彼女は怒鳴った。かなり激昂している様子で、今にも司会者に飛びかからんばかりの勢いである。

「おかしいですね。あの時も証拠隠滅を徹底していたはずなのですが……どうして広告が……」

「そんなことはどうでもいい! 毛利を殺したのはお前達だ!」

 具手堅の眦は裂け、怒髪は天を突かん勢いである。

 瞳には無垢な激情の渦がのたうち回り、顔では純真な痛憤が波立ち、手と足は激憤に支配されたゆえに小さくしかし明確に震え、体内は悲憤慷慨を宿していた。

「毛利を返せ!」

「死んでしまったものは、もうどうにもなりません」

「嘘だ! お前達には、得体の知れない圧倒的な力がある。ならば、毛利を蘇らせることもできるはずだ」

「だから、無理ですよ。第一、毛利さんの肉体は全て売り払った後ですから。いくらMTMといえども、毛利さんの全てを回収するのには相当な時間がかかるでしょう。なんといっても、毛利さんの肉体を買い取る資金をすぐにスポンサーが出してはくれないでしょうから。色んな審査をしなくてはなりませんもので」

「かかってもいい! 返せ!」

 具手堅が、司会者に詰め寄る。

「おやおや、わからないんですか?」

 司会者は激昂する女性を前にしてもなお冷静で、顔にはロボットのようなややぎこちないあの笑みを浮かべていた。

「それだけ時間をかけていると、毛利さんの内蔵はもうすでに誰かさんの体内に収まっているはずですよ。それに、彼女を殺したのは私ではありませんよ?」

「大前か! あれが殺したのか?」

 具手堅は瓦解した叫びを上げ、司会者に飛びかかったのだが、小野は内ポケットにある拳銃で彼女を撃った。

 足に異様な熱さを感じる。

 具手堅の思考が、激しく揺れる感情が、かすんだ。



 目覚めると、具手堅は白い天井を見つめていた。

「夢……」

 彼女は視界に映る天井をどこかで見たことのあるものだな、と感じていて、それが自室のそれであることに気づき、慌てて上体を起こした。

 撃たれた足をさすると、ほのかに痛い。ズボンをめくってみると、そこにはうっすらとした痣があるものの、銃痕は見当たらない。

 やはりあれは悪夢だったのだろうか。

 ポケットをまさぐると、あの広告が見つかった。そう、MTMの広告である。

 時計は夜の七時を示している。

 彼女はあれが夢の出来事なのかどうかを確かめに、MTMのビルに行ってみることにした。

 中に入ろうとすると、「お引き取りください」と入り口付近に立つ男から言われた。

「あなたは?」

「私はMTM管理人の武田と申します。あなたは、MTMに参加する意思をお持ちではありません。加えて、我々の内部事情を少なからず知っています。中に入れば、もう次はありませんよ?」

 やはり、MTMは実在したのだ。あれは夢でもなんでもない。MTMは明確に存在する。

「警察に相談しますよ?」

「勝手にどうぞ。誰もそんな嘘のような話に聞く耳は持たないでしょうから」

 武田は、涼しげな顔で応じる。

 確かにそうであろう。警察にMTMを暴露したところで、まともに取り合ってくれないことは想像するに難くない。

 ならば、どうするか。

 答えは決まっている。

 彼女は、MTM本部へと乗り込んだ。



 濃い水蒸気のようなスモーク、カメラのフラッシュのような光が視界に満ち溢れる。

「何を思って、ここに来たんですか?」

 司会者は、笑顔の代わりに老女の額にある皺のような渋面を作っている。しかもそれは人工的なものでも紛い物でもなく、正真正銘純粋な渋面であった。

「あなたを殺します」

 小野の声は、まるで無表情であった。

「異議はありますか?」

 彼女は、レギュラー陣に問うた。

「異議なし」

 三人全員の声が重なる。彼らは机にあるスイッチを押して、各々のスクリーンに『賛成』と表示させる。

 小野はそれを聞いて満足げに頷き、拳銃を具手堅に向けた。

「異議あり!」

 具手堅は、冷めた声で言った。

「私は参加します」

 小野の動きが、糸を切られた操り人形よろしく止まる。

「私は、マーダー・ザ・マインドに参加します!」

 今度は力強く主張した。

 小野は、悔しそうに歯軋りした。獲物を仕留め損ねた猟師のように顔を歪め、手を震わせている。具手堅を殺せなかったのが、よほど腹立たしいのだ。

「そうなると、この方を殺すことはできませんねえ」

 千葉が、日焼け止めクリームを塗る。

「わかりました」

 司会者は、呟くようにして言った。小野も、いくぶんか落ち着きを取り戻し始めている。

「それで、あなたの加害者は誰なのですか?」

「大前、大前莉奈です」

「駄目だ!」

 小野の顔が、切り立つ崖のように険しくなる。

「大前さんは今や立派に任務をこなし、美を手に入れていらっしゃいます。なのに、どうしてあなたに殺されなくてはならないのです?」

「基本的にここで美を得た者は、MTMによって殺されてはならない、という規則があるんだよ」

 伊藤が、少しずり落ちた黒縁眼鏡を正す。そして、錠剤を口に放り込んだ。

「彼女は、毛利をイジメていました」

「え?」

 四人の声が重なった。

「私も彼女にイジメられていました」

 スタジオが、不気味な静寂で包まれる。

「ちょ、ちょっと待ってください。大前さんは、毛利さんにイジメられていた、と仰っていましたが?」

「それは嘘です。誰がなんというと、それは確実に嘘です」

「し、しかし、大前さんの会社の人間に、我々のスタッフに話を伺わせましたよ。そうしたら、確かにそれは真実である、と……」

「口裏を合わせるくらい容易いことでしょ?」

 司会者は、口をつぐんだ。

 うつむいて目元に影を作り、固まっている。心が抜けて、どこかに行ってしまっているかのようである。何を考えているのか、それとも何も考えられなくなっているのか。

「しかし、あなたが嘘を吐いているかもしれない」

「おいおい、ちょっと待ってくんないですかあ?」

 草敏からは、いつもの優雅な素振りが失せている。今の彼にあるのは、険しい目つき、強張った頬、ひくひくさせる眉と鼻であった。そこには、気品の欠片もない。

「万が一、彼女の言っていることが本当なら、私達の目標はどうなるんですかあ? 大前さんの殺人はカウントされないわけですかあ?」

「嘘に決まっている!」

 司会者が、叫ぶ。激しい運動をしてもいないのに、彼女の呼吸は荒くなっていた。

「本当なら?」

「それでもカウントされます。規約上はそうなっています。しかし、そんなことはどうでもいいです。こいつは虚言症候群の持ち主だ!」

 司会者が、具手堅を指差す。

「わ、私が証拠をつかんできたら、ここのゲストとして認めてくれますか?」

「もし、大前さんとあなたが加害者と被害者の関係であるのなら……。後、あなたが容姿を理由にイジメられていたのなら……」

 小野は、顔面蒼白だった。致命的な過ちを犯したのかもしれないがしかし、それにしてもずいぶんと極度な不安を背負っている。

「こ、このままでは……」

 小野の口から、嗚咽する声が漏れる。息苦しそうに胸を掻きむしる。

「み、見、る、な……」

 ざらついた、濁音混じりの声を発する。

 司会者は、自分の顔を腕で覆って隠していた。しばらくしてから震える手でポケットをまさぐり、小さな瓶を取り出す。その時に、具手堅は彼女の顔を見た。

 引きつっている。

 痙攣を起こしている。

 スピーカーの振動板が揺れるかのごとく、震えている。

「し、視線を……向、け、る……な」

 彼女は苦心して瓶から一粒の錠剤を取り出し、ゆっくりと口の中に放り込んだ。おそらく心の内ではなるべく早く嚥下しようとしているのだろうが、絶対零度の中にいて凍えているように腕が震えているものだから、彼女の動作はずいぶんと愚鈍である。

 彼女は乾いた呻き声を漏らし、うずくまっていたが、やがて震えはおさまり、いつもの様子に戻った。

「お見苦しいところをお見せして申し訳ありませんでした。常用している薬の効果がきれたもので……」

「なんの薬ですか?」

 躊躇いもなく具手堅は問うた。

「私は……」

 言い難そうである。小野は一呼吸置いてから、「あなたは、私の表情を見ましたか?」

「え、ええ……」

 具手堅は、遠慮がちに肯定した。

「笑みを常に保っていないと、人に見られるだけで息苦しくなります。極度の上がり症で、人から見つめられると、顔が強張り、痙攣します。そう思っていました。でもそれを通りこしていて、表情恐怖症とかいうのをわずらっているみたいです。しかしこの薬を飲めば、しっかりとした表情を作ることができるのです」

 彼女は、満面の笑みを見せた。

 どうりで、小野の表情が人工的なわけである。彼女の顔にあるのは、整形された表情なのだ。

「そんな薬があるんですね」

「そう、ここMTMには、ね」

 司会者は、歯を見せて笑った。

 彼女は気づいていない。今、自分が浮かべている表情がいかに作り物臭くて、痙攣している頬同様に醜いものであるのか、ということを。

 いや、所詮、人とは自己を納得させられているかどうかで、精神面の違いが出てくるだけなのかもしれない。

 他人がなんと言おうと、自分が満足しきっていれば自信を得られるし、他人がどれだけ承認しても、自分が自分を認めていないと充足感は得られない。

「とにかくあなたは、大前さんが嘘を吐いていた、という確固たる証拠をつかんできてください。そうすれば、MTMはあなたをゲストとして迎え入れます」

 具手堅は、彼女の表情を見た。

 具手堅は司会者の顔にあるものに憐憫の情を抱いていたが、自分のそれはどうなのかしら、と少し不安に感じた。

「わかりました」

 具手堅の瞳から同情の色は消え、代わりに強靱な意志の炎が宿った。



 具手堅は、大前の住所を知っていた。彼女とは同期で、初対面時に連絡先を交換していたのである。

 透明感のある乳白色の家が有する黒豆色の鉄製の扉、その前で彼女は待った。いつ大前が帰ってくるのかわからない。

 しかし、いまだに具手堅はやや実感が湧かなかった。MTMとは本当なのだろうか。一杯食わされているのではないだろうか、そう思えてならない。今さら、であるが。

 具手堅は、そっと自分の左手に右手を添えた。

 左手の感覚が鋭くなるにつれ、具手堅の心にも平穏が戻り始める。

 ちょうどその時、目の前に誰かが立っていた。

 全く変わっていない。

 いつもと同じ雰囲気に袖を通している。

 具手堅は、訝った。

 大前の外見は、以前とまるで変化が見られない。彼女は美を手にしたはずではなかったのか。具手堅は、彼女を食い入るようにして見つめた。

「何見てんのよ。ていうか、どうしてここにいるわけえ?」

「大前さん……いえ、大前、あなたは人を殺したよね?」

「人を殺す? ふふん……何馬鹿なことを言ってんのよ」

「真弓ちゃんを殺した!」

 具手堅は、大前に一歩詰め寄った。

「さんざんいじめ抜いた挙げ句に、殺した!」

「殺してなんかないって。だいたい、どこにそんな証拠があるわけえ?」

「あなたは、心が痛まないの? 私を、そして真弓ちゃんに言葉の暴力を……嫌らしいイジメを繰り返して……」

「イジメえ? いつ、私があんた達をイジメたの?」

「わざとぶつかってきたり、足を引っかけてきたり、物を隠したり、皆で一斉に無視したり……さんざんやってきたじゃない!」

 しかし、大前はとぼけたような顔をする。

「はてさて、確かにぶつかったことはあるけど、『わざと』じゃないし、足を引っかけたんじゃなくて『足を引っかけてしまった』だけだし、物を隠した? 無視した? そんなの知らないけどお? 何か証拠でもあるのお?」

 そうくると、具手堅の立場は急速に劣位に落ちる。

 男のイジメは比較的発見しやすく、周囲も注意しやすいのであるが、女のイジメはそもそもそれが起こっているのかどうか判別し難いのが常だ。

 直接的暴力でもなく、暴言でもない。

 肉体的な、瓦解、破壊、粉砕、圧砕、破砕、それら一切を伴わない。実際、女性のイジメは陰湿ではあるものの、それがあったと証言するのは極めて困難な性質を帯びているのである。

「私が怖いの? だから、自分がイジメてないなんて言うの?」

「はあ? あんたが怖いわけないじゃん」

 大前は、不快で声を曇らせる。

「いいえ、怖いのよ。怖いから、イジメがあったと認めたくないのよ。そうよ、あなたはいつだってそうだった。大勢といる時だけ、私と真弓ちゃんをイジメた。けど一人だけの時、私と会うと何も言ってこなかった。

 あなたは一人の時、勝ち気だった心も弱って、大人しくなって、むしろ私の方が強いくらい? ほら、今だってそうじゃ――」

 大前の右手が、具手堅の頬をつかむ。力強く締めつけ、彼女から言葉を吐き出す自由を奪った。

「調子に乗ってんじゃないよ! じゃあ、言ってやるよお。私は、確かにあんたらをイジメたって。で、だから何? そんなの女でも男でも、それこそ社会でも当たり前のように行われているじゃない? 動物社会だってそうよ。除け者は必ずいる。その除け者がいるからこそ、秩序が保たれているんじゃない。

 あんたは、それに選ばれたのよ。感謝しなさい。社会の和は、あんたがいることで成立するんだからあ」

 大前は、一気にまくし立てる。瞳に力が入り、まるで鬼のような形相へと変貌している。

「イジメられた奴がイジメたり、イジメた奴がイジメられたり、誰が悪いかなんてないのよお? イジメとどう向き合うかが、重要じゃないのお?」

 そこで、大前が具手堅を突き放す。

 ふいに突かれた具手堅は均衡を失して、よろよろと数歩だけ後退した。

「言ったね」

 具手堅は頬をさすりながら口元に微笑を作ると、大前は顔に疑問符を浮かべた。

「あなたが加害者かどうか……もし加害者で、私が被害者なら、あなたを殺すことができる」

 具手堅は、ポケットからICレコーダーを取り出した。

「覚悟しなさい。今度は、私があなたを殺すんだから」

 具手堅はせせら笑ってみせたが、大前は意外にも冷静で、というより実感が湧かないらしく、数秒間、無表情で立っていた。

 やがて彼女の脳にも具手堅の言葉の意味が浸透して、見る間に顔を紅潮させ、「貴様あ」と低くて、暗い声を押し出した。

「そのICレコーダーを、こっちによこせえ……」

 具手堅は無言で返答し、そのまま立ち去ろうとして一歩下がると、大前も一歩詰め寄る。

 具手堅は、少し反省した。このまま何も言わずにしょぼくれて帰れば、この一悶着もなかったことだろう。

 しかし、もう遅い。

 具手堅は被害者として、大前は加害者として、MTMに認識され、一方が他方を殺害するようになるにはなるのであるが、その前提として具手堅はまず大前という加害者から逃れなくてはならない。

 さもなければ具手堅はこのまま、おそらく死を迎えるだろう。

「よこせえ……」

 大前は緩慢な動きから、俊敏な動作へと急速な展開を見せる。

 具手堅はとっさに反応して、彼女の手を叩いた。

 そして回れ右して、駆け出す。

「だ、誰か――」

 しかし、誰もいない。こんな時に限って、外には誰もいないのである。

 もはや運の尽き。

 いつもならばこの時間でも、多少なりとも人がいる。不運としか言いようがない。

 具手堅は、夜の中を駆けた。

 背後からは、道路を力強く打ち叩く足音が追跡してくる。

 彼女は車に戻ろうと考えたが、解錠する時間すら大前が与えてくれないことは明白なので取りやめた。

 角を曲がってすぐのところに公園があった。

 具手堅はそこに入り、土管の裏に身をひそた。

 土管の裏は薄暗い。

 そこにうずくまり。

 その公園は右折してすぐだから、大前には見られていないだろう。

 しかし、その考えは甘かった。

 一定のリズムで道路を叩くことで奏でられる力強い音は打ち消され、静寂が舞い降りる。しばらくしてから、ゆっくりとした足音がこちらに向かってくるのがわかった。

「そこにいるんでしょお? 気づいているから」

 大前の声に、活気は少しもなかった。あるのは、焦燥と怯えによって弱々しくなったものだけである。

「観念しなさい。もう逃げられないからあ」

 具手堅は土管の裏から姿を見せ、「嫌」と一言だけ放った。

 雨が降ってきた。最初は、一滴だけ。やがてそれは群れとなり、音質の悪いラジオの背後にある雑音のような音色を辺りに拡散し始めた。

「じゃあ……殺すよ?」

 大前の右手には、鉄パイプがあった。ここに来るまでに落ちていたのだろう。

 具手堅はしばらく悩み、無言でICレコーダーを放り投げた。

「賢明な選択ね」

 大前がそれを足で踏みつけると、プラスチックが割れる軽い音がした。ICレコーダーは死んだ。

 大前は、何事もなかったかのように去ってゆく。

 具手堅は雨に濡れながら、使い物にならなくなったICレコーダーをただただ眺めていた。どれだけ見ていたのだろう。

 気づけば、雨は少し緩やかになっている。具手堅は、潰されたICレコーダーをまたいで自車に向かった。

 車を走らせた。

 我が家に向かっている途中で、彼女はポケットからICレコーダーを取り出した。そう、具手堅はICレコーダーを二つ持っていたのである。

 大前に渡したのは、何も録音されていないもの。まんまと騙してやった。具手堅は、小さく笑った。雨の中で空を見上げると、雨粒が顔を打ち叩く。何度も何度も雨粒と額合わせしてから、彼女は録音されているICレコーダーを取り出した。

 具手堅はそれを再生して、証拠の声を聞いた。

 確実だった。

 明確で、正確な、揺るぎなき事実がそこには記されている。



 翌朝、具手堅は会社を休み、MTMに向かった。

「お待ちしておりました」

 そこには、武田がいた。

「では、中へどうぞ」

 このビルの勝手はもう知っているのだが、相手の好意を無下にすることはできない。具手堅は、「ありがとうございます」と言った。

 そして、あの扉をくぐった。スモークと光の中を抜け、作り物の表情を貼りつける司会者と対面する。

 具手堅がICレコーダーを取り出そうとすると、

「証拠は、もうよろしいですよ」

 司会者が言う。

「え?」

「全てを見させてもらいました。誠に失礼ながら、全てを見ていたのです」

「い、いつから?」

「あなたがここを出てから、です。どうか、非礼をお許しください。我々としても、今回のことが本当ならば一大事だったからです」

「はあ……」

 具手堅の声は、ずいぶんと気が抜けていた。予想通りというかなんというか、といった様子である。

「大前は嘘を吐いて、美を手に入れました。これは、MTMの信用を失墜させる威力を持っており、ゆえに我々は全力で大前の美を回収し、毛利さんの蘇生を行わねばならないのですが、残念ながら規約上、それは阻まれます」

 司会者が咳払いすると、前方にある巨大モニターに文字が投影される。



 被害者がいったん美を手に入れたのなら、その美を回収してはならない。ただし、本人がその美を望まないのであればこの限りではない。



 大前が入手した美を忌み嫌うわけはないので、規約の後半部分にある例外の適用はなさそうである。

「では、こちらにおかけ下さい」

 司会者は、具手堅に着席するように勧めた。

「ところで、大前のどこが変わったんですか? 見た目は、全く変わってないと思ったんですけど?」

「彼女は、元々、化粧で頬にある赤痣を隠していましたからね。わからなくて当然です」

「そうなんですか」

 化粧をすれば隠せる程度の悩み。

 そのためだけに、毛利の命を破壊。

 他界。精神が瓦解。

 具手堅は、しかめっ面になった。両手に力が入り、稼働中のくたびれた洗濯機のように震える。

「許せないですね」

「さて、これでお互いの利益が一致したというわけです」

「え?」

「では、選択肢のお披露目に参りましょう」



I→相手の心を整形する

II→相手を捕らえて、MTM本部に運び込み、相手の美をもらい受ける

III→相手を殺害し、内蔵を売り払い、それを整形手術代に当てる



 どれを選んで欲しいのかは、小野の顔を見れば幼子でも容易にわかる。Iでは、人の命を強奪した者に与える罰としては非常に生温い。IIも同様。残るのはIIIであり、なるほどだから具手堅とMTMの利害は一致しているというわけか、と具手堅は独りごちた。

「け、けどIIIを選んだからといって、真弓が蘇るわけではないんですよね?」

「そうですね」

 具手堅は顔に怒りを表し、司会者につかみかかろうとした時、「ですが」と小野は逆説を口にした。

「あなたがMTM支配人になれば、その願いも叶います」

 小野の口調には、人知れず落ちている滝のような静けさと少しの強さがこめられていた。

「ど、どうすればそれになれるんです?」

「得点を稼ぎなさい」

「得点?」

 いきなり場違いな言葉を吐かれた具手堅は、目を瞬かせた。

「ええ、そうです。この番組には、当然のことながらスポンサーがついています。彼らはスポンサーでありながら視聴者でもあり、つまりお客様なわけです。そのお客様の満足度が得られないことには、この番組の継続はできません。ですから、ゲストが物語を盛り上げようとする意欲を持ってくれようとするために得点制度があるのです」

「具体的に何をすれば、点数が上がるんです?」

「それは、色々。とにかく、番組が面白くなるように努めればいいんです。例えば、ここでもしあなたが選択肢のIを選んだのなら、得点は零に等しいでしょうね。しかし、ここでIIIを選んだら? 相当な高得点を得ることでしょう」

 そこで、彼女は手を叩いてみせた。

 巨大スクリーンに、文字が浮かび上がる。その様は、まるでスクリーンが紙で、その後ろからインクを使ってにじませているような感じであった。



 得点は、レギュラー陣が各々十五点を持っている。

 点数所有者を殺害、もしくはMTMにその身を譲渡すれば、その所有者が持っている点数を得ることができる。



「大前が持っている点数は、どれくらいですか?」

「五十一点ですよお」

 キザ男、草敏がクシを片手に答える。

「とすると、もしレギュラー陣から四十五点満点をもらえても、私はMTM支配人になることはできない。真弓を生き返らせることは――」

 そこで具手堅の思考は機能停止状態になり、動きは、動力が残り僅かなゼンマイ仕掛けの人形のようにぎこちなくなる。

「確かに気の毒ですね、これじゃあ」

 伊藤がサプリメントを頬張りながら、主張する。

「確かに。小野さん、ここは一つ、あなたも得点を与えたらどうかしら?」

 日傘を手に、千葉が提案する。

「ですが、それは……いえ、しかし今回の件は我々の落ち度で、具手堅さんに迷惑をかけたこともありますし……。いいでしょう、スポンサーの方と話をしてきます」

 小野は小さく頭を下げた後、スクリーン横にある扉をくぐっていった。

「で、でも私が百点を取るには、そもそもあなた達全員が相当な高得点をくれないと……」

「それは、大丈夫ですわ。与えますよ。こんな展開は、前代未聞。満点を与えても、スポンサーから不満の声が上がることはまずありえませんもの。それに、司会者さんにも得点付与の権限が与えられたら、それこそ満点を与えないと、逆にスポンサーから大目玉をくらうことは必至ですわ」

 具手堅は、ほっと胸をなでおろした。もしここで満点を取ることができなければ、もう二度と真弓には会えない。

 ここに二度も参戦したのならば、百点獲得は容易いだろうが、ここに二度も来られないだろうし、二度と来たくもない、というのが彼女の本音であった。

 スクリーン脇の扉が開けられ、司会者が戻ってきた。

 彼女は開口一番に「私に得点付与の権限を与えられました」とだけ無感情に言った。

「それでは具手堅さん、あなたがどういった被害者か、そして大前がどういった加害者なのか、そしてあなたの容姿についてのコンプレックスなどを話してもらえないでしょうか?」

 具手堅は口で無言を紡ぎ、これからの物語を織るべく、左目、右目に手をもっていった。

「大前さん、いえ、大前は化粧で赤痣を誤魔化していましたが、まさかあなたはカラーコンタクトで隠していたとは……」

 小野は、息を飲んだ。

 美しさからかもしれない。醜さからかもしれない。その両方からなのかもしれない。

 具手堅は、官能的な美とよじれた醜怪さの両方を持っていた。それら二つを所有しながらにして、彼女の顔は平静さを保っている。

 彼女の右目は新緑色のダイヤモンドのような輝きを放ち、左目は雷鳴を轟かせる灰色の雲海のごとき禍々しさを放出していた。

 美と醜の共存。

 誰の悪戯。稲妻のごとく素早い所業。いらつかせる程度の問題ではない。皆すかさずこう言う。

 悪魔の目。そして、死体という不名誉な渾名。

「幼少期の頃から話してくれますか?」

 司会者が言い、具手堅は頷いた。



 幼稚園児でもなかった頃、まだ世界を世界として認識していなかった時、具手堅清佳は自分が特別なんてことは思ったことがない。

 だがやがて世の中をそれと理解してゆくと、自分の目はそういうもので、父母の目はああいうものだと認識し、それを常識化し始めたのであるが、そう考えると外出時に見かける人々の目をどう説明すればいいのかわからなくなる。

「ねえ、あの人達と私の目はどうして違うの?」

 そう聞いたことがある。

「どうして目だけを見るの? 色んな大きさの人がいる。太い人、細い人、足が長い人、短い人……。清佳の目についてもそうよ。色んな目の人がいる」

 母の説明を聞いた時は、得心した。

 しかしながら、幼稚園児達は残酷である。彼らは、容赦ない言葉を具手堅に平気で投げつけてきた。

 目が汚れているよ。

 目に曇り空を飼っているの?

 そんな時、「ううん、私の目はね、色んな大きさの人がいるのと同じなんだって。目にも色んなものがあるんだって」と返していた。

 ふうん、と何人かは言い、そんなことないよ、と何人かは口をへの字に曲げた。

「色んなものがあるの!」

 具手堅も、負けじと言い返した。

 もっともその時はまだそういうことを言われても、具手堅の心もそれほど傷つくことはなかった。しかしやがて小学生になるにつれ、そう、高学年になるにつれ、彼女の心は繊細になってゆく。なのに、周囲で彼女の目を『悪魔の目』と揶揄する者まで現れる始末。

 それを言い出したのは、ある人間だった。名前を言うのも嫌いで、具手堅は心の中で、そっとその人のことを『葉っぱ』と呼んでいた。

 葉っぱは、徹底して具手堅を貶めた。あれは、人の子ではない。悪魔が産み落とした子だ、と。悪魔の子だから、あれには何をしても咎められることはない、と。

 あまりに横暴すぎる考えであったが、小学生という時分も災いしたのだろう。最初こそ少数の者のみがその意見に賛同していたのであるが、しだいにそれは膨張し、それなりの数となった。彼らは葉っぱを先頭に、悪魔退治と称して、彼女の机にどこから持ってきたのか、大きな杭を打ち込んだり、塩をふりかけてきたりした。

 彼女はそのような扱いを受けるにつれて、彼らに対する憎しみを抱いたが、だからといってどうすることもできない。両親に相談すべきだが、その勇気すら彼女は持ち合わせていない。ではこの迫害を免れるにはどうしたらいいのかというと、己の目を変えれば全て丸く収まるのではないだろうか、という結論に達した。

 いっそのこと左目をくり抜けば万事解決するのではないか、という思いが脳をかすめたこともある。シャープペンシルで目を突いたのだが、あまりの痛みに思いきり刺せなかった。結果、彼女は両親の激怒を頂くに終わった。

 どうして、左右で目の色が違うのだろう。なぜ、左目だけ汚染され尽くしたどぶ川のような腐臭を宿しているのか。右目は、ダイヤモンドのように綺麗なのに。

 中学生になった時、彼女はカラーコンタクトの存在を知った。当然、具手堅はそれを欲した。買おうと考えた。だけれども彼女は小遣いをもらっていないゆえ、母にねだったところ、「駄目」と言われた。

「カラーコンタクトは、危ない。失明の恐れがある」

 母はそう言って、買おうとしてくれなかった。また、今、そんな逃げの姿勢を作ってはいけない、とも。

 その時、彼女は母の意図がわからなかった。なぜ、これほどまでに苦しんでいる娘を目にして、よくもまあそんな残酷で無神経な言を投げかけられるものだ、と憤ったものである。しかし今にして思えば、母はもっと先のことを見据えて、厳しい言を呈してくれていたのだろう。もし、あの時カラーコンタクトをして自分の一部を隠す選択をしていたのなら、目について何か言われることに対する耐性はつかなかったはずだ。長い目で見れば具手堅が左目で苦労することは目に見えているのだから、その場しのぎで楽をさせるより今苦しませる方が良いと、母は判断したのだ。とはいえ具手堅は高校生の頃、今までせっせと貯めてきた小遣いでカラーコンタクトを買ったのだが。

 そして、やはり思うのである。カラーコンタクトをすべきではなかった、と。あれがなければ、今はもう外出するのさえ怖い。

 恋愛をするのも恐ろしかった。付き合う前に、すでに隠し事をしているという引け目があったのだ。それにどのタイミングで、真実を切り出すべきかも全くわからない。母の言う通りにしておくべきだったが、もう遅い。

 大学二回生の時に、思いきってカラーコンタクトをやめてみたことがある。外を歩いてみた。視線が、身体に、内面に突き刺さる。相反する感覚、鋭い痛みと鈍い痛みが同時に彼女の心に殺到する。

 しかし、具手堅はたえた。そのまま講義にも参加したことがある。

「うわっ、なにその目? まるで悪魔みたい」

 いつも一緒に講義を受けている友人が言う。

 あまりに具手堅の心を慮っていない発言である。もともとずけずけと物を言う友人であったが、具手堅にとってその言葉はしまっておいて欲しかった。

 悪魔の目。

 小学校中学校時代に言われ続けた悪夢の雑言。

 心に生じる暴動、騒動。

 今日も産声を上げたのは、自殺しようという衝動。

 やはり、カラーコンタクトなしには生きていけない。もはや、彼女にとってそれは身体の一部と化していた。当然、今勤めている会社でも、カラーコンタクトは常時身につけていた。

 そのままであれば、何事もなく平穏無事な生活を送ることができただろう。しかしながら、そうもいかないのが世の常だ

 就職活動を経て、無事に内定を貰い、嬉々として仕事に勤しんでいた矢先のことである。

 大前が、毛利を目の敵にし始めたのだ。

 理由は至って明白だ。

 毛利の左手足は、時折、痙攣していた。

 生を授かった時からそうだ。彼女は、脳性麻痺をわずらっている。症状は軽度であり、手術をしたことで不随意運動はさらに軽減されたものの、今でも時折、左手足が痙攣し、立つのが困難になることがある。

 これには、感情の起伏が関係しているのではないか、と毛利は大前にこぼしたことがある。もしかしたら思い過ごしかもしれないが、経験則上、怒ったり、笑ったり、泣いたりした時に左手足の自由が奪われることが多かったらしい。

 大前は周囲に同調者を作り、毛利を執拗に迫害した。具手堅は、しかしその輪には入らなかった。もっとも、毛利の味方をすることもなかった。

 それでも、それだけのことで毛利にとって具手堅は仲間になりえたからこそ、彼女は自身が脳性麻痺を患っていることを告白してくれたのだ。

 具手堅も、実は自分が虹彩異色症である、ということを教えた。カラーコンタクトを外してみせると、黒雲母みたいで綺麗、と彼女が言う。汚泥みたい、悪魔の目と言われてきた具手堅にとって、その言葉はあまりに意外であって、実に心の膿を濾過してくれるものであり、真に救われる重みを持ちうるものであった。

 共通項のある二人は、急速に仲良くなっていった。

 最初は、具手堅も大前を面と向かって、イジメはやめろ、と言えなかったものの、毛利と親密な関係を築くにつれて、言わねば、言わねば、と思い始めていた。しかしながら、小学校、中学校の時、不条理な理由で虐げられ、根強い従属精神が心に巣食ってしまっており、大前に立ち向かうのは容易くはなかった。毛利もそうなのだ。強く反発できないのだろう。具手堅は情けなかった。自分のために立ち上がることはできなくとも、友のためには戦場に馳せ参じる気鋭を持ちたかった。

 今日も、毛利が『ゼンマイ』と揶揄されている。出来損ないのゼンマイ仕掛けの人形、という意味合いのようだ。手足の痙攣を喩えているらしい。

 立ち上がれ。そう思うのだが、そのたびに呼吸が浅くなり、苦しくなる。心臓が不自然に強く拍動し、肺が重たくなる。頬が引きつる。

「やめろ!」

 とうとう具手堅は、怒鳴った。大前に向かって、歩いてゆく。怒りをまとって、歩み寄ってゆく。

 と、大前の同調者の誰かに、足を引っかけられた。激しく転倒した拍子に、カラーコンタクトが取れる。落ちた。慌ててはめ直そうとしたけれども、亀裂が入っている。

 具手堅は、目を見られた。

 大前達の反応は、過剰だった。まるで凶悪な生物を見るような、汚物を視認するような、激しい嫌悪感剥き出しの瞳が、具手堅に向けられていた。

 それからだった。具手堅も、イジメの対象となった。

 悪魔の目とゼンマイは、揃って一緒にイジメられた。書類を隠されたり、会議に二人だけ声がかからなかったり、飲み会に二人だけ呼ばれなかったり。

 しかしながら、大前は開けっ広げにイジメはしない。常に言い訳ができるようなイジメしか、やってこないのである。

 書類を返せ、と言ってみても、「ごめんなさあい。返すの忘れてましたあ」だったり「どこかになくしてしまったみたい。ごめんねえ」だったり。

 会議に呼ばれない時も、伝達が行き届いていなくてごめんね、と一応表面上は謝るけれども、中身が空洞の謝罪であった。飲み会には、仲の良い人も出席するので行きたいのであるが、大前が言うには親友同士での飲み会だから、皆との飲み会はまた今度、と言う。

 正直、二人揃って、仕事を辞めてやろうか、とも具手堅は考えてみた。だがしかし、毛利は首を縦に振らなかった。

 私達は悪くない。それに、ここで逃げて解決するものでもない。いつまで私達は逃げ続けるのだろう。いつになれば、敵に背を向けずに済むようになるのだろう。

 たえよう。このままたえよう。私達は悪くない。二人はそう言い聞かせ合った。




「やはり、カラーコンタクトなしで生きたいんです」

 具手堅がそう主張すると、司会者は満面の笑みを浮かべた。

「自分を隠して生きるのは、嫌なんですね?」

 具手堅は、厳かに頷いた。

「わかりました。それではレギュラー陣の皆さんは、どうですか? 何か意見がありますか?」

「あるとしたら――」

 千葉が日傘を、そして口を開く。

「カラーコンタクトなしで生き抜く力を、自分で身につけようという意思はないのかしら?」

「あ、あります。私だって、色々と頑張りました。中学時代に。でも外を歩くだけで、私は好奇の的。興味津々な視線にたえられなかったんです。普通に生きたいんです、普通に……」

「わかりました。私からはこれくらいです」

「他の皆さんは、何か意見がありますか?」

 小野が言うと、「頑張って下さいねえ」と草敏がウィンクする。

「君は美をもらい受ける権利を持つべきだ、と僕も考えているよ」

 伊藤は腕組みを解いて、目尻に笑みを作る。

 彼らが机のスイッチを押すと、机の前部に取りつけられているスクリーンが『賛成』と主張した。

「満場一致です。それでは、具手堅さん、聞くまでもないことでしょうが、どれを選びますか?」

 司会者が尋ねる。

 具手堅は大きく息を吸い、ゆっくりと、そして静かに息を吐いた。

 停滞し、張りつめる空気の中で、彼女はこう言った。

「          」

 どよめき、意外な反応、それらは全くなかった。

 皆の思考は石のように停止したゆえ、誰も発言しなかった。

 一秒、希少な時が流れる。

 二秒、異常な空間で。

 三秒、惨状が展開されるのだろう

 四秒、損傷してゆく心。

 五秒、故障する意識。

 六秒目でようやく、司会者が「なるほど」とだけ小さく漏らした。

「それですか?」

「それです」

「本当に?」

「私は――」

 彼女は、自分の考えを詳細に説明した。

「当然の考えだね」

 伊藤が、感慨深げに相槌を打つ。

「大前のやってきたことを考えれば、それくらいの罰が妥当じゃないかな。誰も、君の選択に疑問を持つ者はいないと思うよ」

 千葉は、ふふふ、と優しく笑い、草敏は口笛を吹いた。

 賛同の意なのだろう。

「それでは、皆さん、採点をお願いいたします」

 しかしその言葉に対する返答は、模範解答を見てから解いた問題くらいに緊張感と面白味に欠けるものであった。

 全員が全て十五点を進呈してくれた。合計四十五点である。後は大前をMTMに引き連れてくれば、五十一点が手に入る。

 そして百点を獲得した具手堅は晴れてMTM支配人の地位を手に入れ、毛利を蘇らせることができる。

「一つだけ言い忘れていました。あなたが百点を取れば、支配人になれるというのは間違いです」

「なんですって?」

 具手堅の声が、驚きと怒りで裏返る。

「正確には、支配人になる機会を与えられる、です」

「そうですか……」

 具手堅は、冷静さを取り戻した。

「あなたは、現支配人と殺し合ってもらいます。そして勝利できたのなら、その時に支配人になってもらいます」

「どこで戦うんです? ルールとか何かありますか?」

 彼女の質問に、小野は片眉だけを上げた。いささか腑に落ちぬところがあるようである。

「普通、そんなことは聞いてこないんですけどね。皆、大抵、なぜ殺し合いをしなくてはならないのか、と聞いてきますが……」

 小野が、具手堅にじっと視線を向けてくる。

「まあ、いいでしょう。戦う場所は、別に用意してあります。どこかは、当日まで秘密です。ルールは、こちらが指定した武器以外を使ってはなりません。使った時点で敗北は確定し、その人の美は回収させてもらいます。ただし、戦場にあるものを使用するのは自由です」

 具手堅は、唾を飲んだ。心なしか、唾がいつもより冷たい。

「わかりました。それでは、大前をここに連れてきます」

「その前に、技術者達と話をしてもらわないと……」

「しかし今回に限っては、あまり意味がありませんこと?」

 千葉が、眠たそうに目を擦る。

 だがしかし、それでも具手堅は技術者達と話すこととなった。

 内容としては、本当にその選択肢で良いのか、大前の心は汚れているとはいえ、


 美を って、 悪 を し 人 馬 に れ 生 続 さ る 値するものか、というものであった。


 だが具手堅の決意は固く、選択肢を変更する気は微塵もない。

 技術者達との無意味な会話のやり取りを数分かわした後――もし意味がある会話が二つあるのだとすれば、それは具手堅の行動をMTMが撮影していること、二十四時間以内に大前を連れてこなくてはならないこと、だろう――具手堅はMTMを後にした。はてさて、どうやって大前をここに連れてくることができるのだろうか。

 大前はICレコーダーを破壊したとはいえ、具手堅に対して警戒心を抱いているのは明白である。それは、具手堅とて重々承知だ。

 帰宅して、具手堅は紙にペンを走らせた。

 ありとあらゆる計画。

 成功すれば、変化する生活。

 そのために今までで最も濃厚な二十四時間に精出す。

「駄目だ」

 具手堅は適当に書き並べてみた計画を見て、机に突っ伏し、頭を掻きむしった。どれも実現性に乏しく、駄作の推理物に登場する犯人でも使わないような犯行計画である。

 問題は山積みだ。

「大前が毛利を殺したのとは訳が違う。あれは警戒もされていないし、不意打ちがしやすい……」

 不意打ち。

 無理すぎて、息苦しい。

 食いつきは悪そうだ、罠をしかけても。

「罠、か」

 具手堅は、窓の外を見た。

 自分を撮影している者がいる、と聞いたので気になったのだ。しかしながら、外にはそれらしき人は見えない。



 具手堅は、大前の家に再び訪れた。

 今日の空は不機嫌で、灰を薄めたような色をしており、雨も降り始めた。

 具手堅は、傘を差す。傘に雨粒が当たり、木炭が燃えた時に生じるかさついた音を立てる。

 自分の心も、この音のように乾いてかなりの渇きを覚えるのだろうか。

 具手堅は、産まれて初めて自分がイジメられた経験の持ち主であることに感謝していた。もし自分が被害者となっていなければ、MTMに参戦できなかった。毛利を救えなかったのだ。

 人生に黒幕しか降ろさなかったと思われる虹彩異色症に、感謝の念を乱射せざるをえない。具手堅は、カラーコンタクトを外し、左目を露出した。

 これを外で取るのは、いつぶりなのだろうか。以前は、カラーコンタクトを取ろうとしても手が震えて、そしてその震えが心に伝わり、身体が不可視の圧力で拘束された。

 具手堅は、降りしきる雨の中、ひたすら大前を待ち続けた。

 もうすぐ。

 報復が始まる。

 どうする、大前よ。

 降伏するのか。

 具手堅は何もせずに、ただただ大前を待った。不思議と手持ち無沙汰である、という感覚はない。これから行うとてつもなく巨大なことを考えていると、段違いの威力を持つ緊張感が自然に心へ押し寄せる。何もしていないようで、思考内部は無数の考えでひしめき合っているのだ。

「真弓……」

 具手堅は、今までで憎んでも憎みきれぬ相手は誰か、と毛利に問うたことがある。そして、それがあの『葉っぱ』だと知った時は本当に度肝を抜いた。

 自分はあの葉っぱにはほとんど反抗できなかったけど、真弓はどう、と尋ねると、意外にも、一度だけ戦ったよ、と彼女は微笑した。

「頭の中で、何かが切れる音がしたの。その次の瞬間には水筒を振り回していて、彼女の左太股を思いっきり叩きつけていたよ。確か、今でも後遺症が残っていると思うよ」

 被害者が忍耐に忍耐を重ねた末に沸点に達した時の反逆は、実に苛烈なものである、とは言うが、毛利もそのご多分に漏れず、ずいぶん威勢よく葉っぱに牙を剥いたらしい。

 それを聞いて、少しだけ具手堅の胸も、すっと軽くなったものだ。

「彼女からは『電気女』とも言われた。身体の中に電気がいっぱい溜まっているから、触ると危ないって。『触れるな危険』って言って、皆が私から逃げていった。配られるプリントも私には配られない。プールに入ることも許されない。食事の時も皆教室から逃げていって、私だけが一人で食べていた……。そういう流れに乗った皆も憎いけど、でもその流れを作った葉っぱは、どれほど憎んでも憎みきれない」

 毛利は、拳を硬く握り締めた。

「死のうかと思った。自殺して、あいつを苦しめてやろうと考えた。死んだら意味がないっていうし、それに死んだってあいつはなんとも思わないかもしれない。でも、それでもいいんじゃないかな。あいつがどう思うかが肝心じゃなくて、私が恨みを背負って死ぬことに意味があるんじゃないかな……」

 そう言った時の彼女の瞳は、どこか遠いところを見るような目つきなっていた。

「死への過程は、生き様に繋がる。生への過程は、死に様に繋がる」

 毛利の目から、しゅうっと光が一瞬だけ消える。

「葉っぱの太股に後遺症まで残してしまったら、親同士でもめなかった?」

「ううん」

 毛利は、にこやかに否定した。

「多分、あいつは怖かったのよ」

「何が?」

「左太股を水筒で殴られた経緯を、私が葉っぱの親に暴露することが……だから、私を訴えるに訴えられなかったんだと思う」

 へへへへ、と彼女はまた笑ったけど、どことなく元気のない笑い声であった。

「葉っぱに対してあそこまでやったのは、何も彼女の行いだけが原因じゃないの。今までにたまっていたもの、それが噴火したのよ……」

 毛利は、理不尽な出来事を列挙してみた。

 レストランに入ったが、障害を理由に入店を拒否された。あからさまな断り方ではなく、ウェイターはとても気まずそうに、ただ「出ていってもらえませんか?」とだけ言ってきた。理由を問うてみても、他のお客様の迷惑になるので、しか言わなかった。

 左手足を痙攣させて歩いていると、気持ち悪い、と小学生が言ってくる。特に低学年の女の子だ。彼女達は正直である。あんた達の方が、よほど気持ち悪いっての、と内心で毒づいて、わざとゆっくりと彼女達の目の前をゆっくりとした足取りで通るのは、毛利の中でのお約束事となっている。

 これらが重なり、そして一欠片を毛利の心に何度も重ねていた葉っぱが貧乏くじを引いた、ただそれだけである。

「それに、その日は体育があって、自習させられていたってのもあったの……」

 脳性麻痺ゆえ、彼女の身体能力は著しく低い。運動音痴とかそういった次元の貧弱な運動神経ではなく、それ以前の問題なのである。

「でも自習を先生に言い渡されると、いいなあ、って言う人がいて、余計にむしゃくしゃして……こんなことを愚痴っても仕方ないね。

 暗い過去に目を這わせることは、うつむくことと同義。未来を作るために明日に目を向けるのは、前を見るのと一緒だよね?」

 そう言ってはにかむ毛利の顔は、具手堅の記憶にまだ鮮明に残っている。

 過去に思いを馳せていると、何やら人の気配を察した。

「来た……」

 向かいに、大前が現れた。

 今の大前の表情は、名状し難い。

 頬が震えている。緊迫感が感じられる。恐怖も見て取れる。

 ありとあらゆる感情が、大前の中で渦巻いていそうである。それは、具手堅とて同様である。

 加えて彼女はこれから始まることを認識し、果たして自分に事をしっかりとなしえるのかがとてつもなく不安に感じられてくる。

「な、何、しに、来た、の?」

 不自然に区切られた言葉に、具手堅は長年使われず、油も差されていないロボットのようなぎこちなさの残る言葉で返答した。

「わタしは、アなタのヒがイしャ。わタしハ、いマかラえムてィーえムにイきマす」

 具手堅は、いらいらを通りこした被害者。

 大前へ感じる多大な感情はただ一つ、嫌いだ。

 今しかない。彼女の美を奪うのは、今しか。

「な,na,なniをiっteいruのyo゜なnで、aんtaがaそkoをtsuかwaなkuちyaいkeなiのyo゜そ、soんnaこtoがyuるsaれte……」

 大前の言葉は、棒読みだった。棒読みな上に、言葉が崩れている。今の大前を見た者が、彼女の母国語は日本語ではない、大前は異邦人である、と錯覚しても無理はないだろう。

 大前は震える唇を押さえ、無言で急に駆け出した。

 具手堅より先にMTMに入り、被害者だとでも主張するのだろう。そうやってまた被害者を演じ、具手堅を加害者として殺すに違いない。

 彼女はガレージに戻って、車に乗り込もうとしたけれども、具手堅がそれを許すはずはない。

「私は、IIIを選んだのよ?」

 そう言って、ボストンバッグから小振りの鉄パイプを取り出した。

 雨に濡れて、鈍くて、殺意のこもったぬらりとした光を身につけている。それを見た大前の瞳孔が収縮する。

「死ね!」

 具手堅は、力任せに鉄パイプを大前に叩きつけようとした。

 大前は恐怖のあまり腰を抜かして、偶然にその攻撃を回避する。

「次はない」

 具手堅が鉄パイプを持ち上げ、第二撃に取りかかろうとする。だが大前は指をくわえてそれを見ていてくれない。路傍の小石を拾って、具手堅に投げつけてきた。

 彼女は具手堅の目を狙ったらしいが、ややずれて、頬に直撃する。とはいえ、それでも十分な効果があった。

 小石ではあるものの、それなりの質量を持っている。痛みのあまり具手堅は怯み、鉄パイプを落としてしまった。

 すかさず大前がそれを拾い、具手堅の太ももを横殴りにしてくる。

 具手堅の思考が、二秒ほど途切れた。痛みのあまり、感覚伝達能力が萎縮したのである。彼女は雨音が道路を打つ不規則なリズムの中で、倒れた。

 大前が具手堅の命を奪うべく、鉄パイプを振り上げてくるが、それを止める。どうしてだろう。具手堅は、素早く思考してみた。今、ここで殺すと、罪に問われる。それならば、MTMで合法的――実質は、合法化される――に殺人する方が、よほど利口というもの。大前の中に眠る冷たい幾許かの理性が、そう囁いのだろう。

 大前は舌打ちした後、車に乗り込み、MTMに向かった。

 具手堅は復帰した意識を頼りに起き上がろうとして、太ももに激痛が走り、思うように動けないことに気づく。

 ボストンバッグから二本目の鉄パイプを取り出し、それを杖代わりにしてなんとか立ち上がった。車まで歩けば、後はそれを走らせるだけで良い。

 大前の方が、MTMへ先にたどりつくかもしれない。いや、そうとは限らないかもしれない。

 具手堅は満身の力を振り絞って歩いたが、その様は誰がどう見てもナメクジが地を這うような愚鈍さを感じずにはいられないだろう。

 肺に水が流し込まれたかのようで、息をするのも困難である。

 大前を追わなくてはならない。

 大前が先にMTMに入ったのなら――身体中から畏怖という感覚が噴出する。

 彼女がもし予期せぬ行動を取ってしまったのなら――全身に、戦慄が噴霧されたと感じる。

 具手堅は腐りすぎたゾンビのようにのろりと歩きながら、どうにかこうにか車に乗り込んだ。扉を閉めて、発進させる。

 幸い、具手堅は近道を知っている。それを使えば、具手堅より先に入れるかもしれない。彼女の脳内から、法定速度という概念はたちどころに消え去った。



 そして予想通りだった。MTMのビル前に駐車した具手堅は、内心で拳を突き上げた。

 まだ大前はここに来ていない。

「どうなさいました?」

 武田が、不安そうに具手堅の負傷した足を見る。

「大丈夫です。それより、大前はまだここには?」

「え? ええ、来ていませ――」

 力強いエンジン音がしたかと思うと、大前の車が現れた。彼女は急ブレーキをかけ、乱暴に駐車したかと思うと、すぐさま飛び降りてビルの中に駆けていった。

「どうするんです? 先を越されますよ?」

 武田が、のほほんとした様子で言う。彼は何も知らないのだ。大前が嘘を並べ立ててMTMを都合良く利用したことも、その嘘のベールが剥がされていることも、そして――

「いいんです。私は後からゆっくりと入っていきます」

 具手堅は、武田にこれ以上ないくらいの笑みを見せた。

 そして、歩く。いや、走っているのだが、やはり遅い。

 冷たい廊下の中、ひんやりとした空気の中を歩いていると心も冷却され、沈鬱な精神が蓄積されてゆく。

 やがて、扉が見えてくる。その前には、大前が立っていた。

「来たわね。この勝負は、私の勝ちよ!」

 彼女は笑った。だが引きつった笑みであるゆえ、余裕は微塵も感じられない。

 大前が扉をくぐると、すぐさま扉は閉められた。もう入っても無駄である、とでもいうように。具手堅の入室を頑なに拒絶するかのように。

 だが、具手堅は入る。彼女の足取りは、自信に満ちていた。

 扉に手をかけて、開く。

 スモークも光もなかった。それらは、一回分しか用意されていないのだろう。部屋の中央には、大前がいた。

「だから、私が被害者よ!」

 大前は、今しがたまで全力疾走していたかのように肩で息をしている。おそらく同じような主張を、具手堅が入るまでに何度も声高に叫んでいたのであろう。

 司会者、レギュラー陣ともに、大前の声に耳を傾けていない。

「しかし、よく彼女を連れてこられましたね。正直なところ、殺す方が簡単なのに」

 司会者が、呆れたような、感心したような声を漏らす。

「な、なんのこと? なんのことなの?」

 大前が、慌てふためく。

「もうすでにあんたの嘘はバレているってことよ」

 具手堅が、大前を睨む。

「嘘?」

「あんたが被害者ぶった嘘よ。いつまで白を切るつもり? いい加減諦めたらどう?」

「違う! あれは、嘘なんかじゃ……」

「しかし、君がIIIじゃなくてIIを選ぶとはねえ。今は、そう意外でもないが……」

 伊藤が、顎に手を当てる。

「最初はIIIを選ぶ気満々でした」

と具手堅。

「しかし、大前に安直な死など生温すぎます。彼女には苦しみながら生きていく人生がお似合いです。そうするには、IIが一番じゃないですか? 大前の美を全て剥ぎ取ってしまうんです。あいつは私の容姿や毛利の脳性麻痺を嘲笑していましたが、今度は彼女自身がその苦しみを知ってもらうんです」

「な、なんの、こと、なの?」

 大前は、自分の置かれた状況を理解しているはずである。だが、知りたくないのだろう。認めること、それは自分の美を他者に明け渡すことと同義なのだから。

 司会者が軽やかに手を叩くと、技術者の部屋から数名の男が現れる。

「な、何よ!」

 大前は逃げだそうとしたが、一人の男が彼女を捕らえ、縄で縛る。

 拘束した後、中央にある床と繋がっている椅子に大前を座らせ、くくりつける。

「はい、では準備が完了したようですね」

 司会者が、やけに元気な声で言う。

「あ、そうか……これで、レギュラーの人達も、司会者も、皆、美を手にできるんだ……」

 草敏は柄にもなく、きざったらしいポーズは全く見せず、代わりにおいおいと号泣し、伊藤は満面の笑みを浮かべ、千葉は瞳から大粒の涙を一滴だけほろりと流していた。

「これで、終わりですよお!」

 草敏が大きく伸びをするのを小野が見て、手を叩く。



 レギュラー陣及び司会者並びに支配人は、案件を処理するまで、退任することができない。ただし、新レギュラー、新司会者、新支配人が就任した場合は、この限りではない。



「つまりあなた達は、まだ退任できないのです」

「そ、そんなあ」

 草敏が、悲痛の声を上げる。

「まあまあ。たった、一つの案件じゃないか。すぐに終わるだろ?」

 伊藤が草敏を慰めると、

「そ、そうですけどお」

 彼は、不満そうに唇を尖らせる。

「それでは――」

 司会者が咳払いして、話を再開する。

「技術者の皆さんは、彼女から美を抜き取ってください」

 大前を乗せた椅子が、下がり始める。

 彼女が後退するにつれて、背後の壁が左右に開かれる。

 壁の向こう側には、技術者が三人いた。

「取りかかりましょうか」

 彼らは、まるで天気の話でもするかのようにそう言った。

「では、まずは――」

 開かれていた扉が、重々しい音を立てて閉じられる。

「これ以上は、企業秘密ですから」

 司会者が言う。

「さて、これであなたは百点を獲得いたしました。よって、MTM支配人になる権利を得ました。それでは、現MTM支配人の神崎紅葉のご登場です」

 中央の床がくぼみ、螺旋状の階段のようになる。やがて、誰かが登ってくる音が聞こえ始める。その音は、錆びた鉄琴を打ち鳴らしたそれに似ていた。

 とうとう、神崎紅葉と具手堅が対峙する。

 神崎紅葉は、実に美しかった。

 非の打ち所がない。どこをどう切り取っても、綺麗である。

 ただ、汚点もあるにはある。一つ目は、毒を吐きそうな顔であるという点。少しでも気に障ることを言えば、すぐさま罵詈雑言を飛ばしてくる、そんな容貌だ。加えて、服装のセンスは申し分ないのに、いかんせん手首に巻きつけている腕輪の趣味が悪い。薄暗い紫と黒のマーブル色で、エナメル加工が施されており、ぎらぎらと輝いている。

 二つ目、彼女の容姿にはどこか人工的な臭いがある。もし彼女が四十代の女性であるならば、年相応の美人だと認定しても問題は全くない。だがしかし、神崎紅葉は――

「あんたは、三十五歳。その割には、老けた顔ね。四十歳少しってところかな?」

 具手堅は、いきなり毒のある言を彼女に向けた。

「あら? あんたに言われたくないわねえ。たとえ大前とかいう奴から美を手に入れることができても、大してあんたの美は変わらんでしょうよ」

 神崎が、ころころと笑う。

「そんなことより……あんたは、罪もない私を本気で殺すつもり?」

 具手堅は、思わず吹き出した。

 笑って、笑って、笑い尽くす。

 たまらず、相好を崩した。

 頬と口元、そして涙腺が緩みきって、涙をこぼしてしまう。

 腹をよじって破顔していたが、しだいにそれは冷笑、嘲笑に変化してゆく。

「ふざけないで。あんたは、背負っている罪を数えたことはないの? それとも、罪を認識していないの? あるいは、多すぎて数えられないの?」

「何が罪で、何が罪でないか、それは何を基準にしているの? あんたの基準なんていらないよ?」

 神崎が、不快そうに言う。

「そもそも、あんたが私の何を知っているっていうの?」

「知っている。あんたを、とことん知っている」

「気持ち悪いわね……あんたは、私のストーカー?」

「かもしれない。私はあんたのストーカー、でもあんたも私のストーカーよ。なぜなら私を追いかけさせたのは、あんたに原因があるんだから」

 いよいよ謎の掛け合いになってきたところで、司会者が咳払いした。

「それでは、今から支配人の座を賭けて戦ってもらいます。今から戦いの場に移ってもらいます」

 司会者が背を向けて、歩き始める。レギュラー陣も、のそのそと彼女の後についていぅった。具手堅と神崎も、その後を追う。

 ビルを抜け、今の具手堅の心境を投影したような冷たい廊下を通ると、そこには具手堅の車も大前の車もなかった。

 代わりに、二台の黒塗りのベンツが駐車している。その道の人がMTMに客として来ているのだろう、と具手堅は推測していたが、それは誤りで、MTM所有のものであるらしい。

 司会者が前のベンツに乗り込み、手招きする。具手堅と神崎がそちらに向かうと、

「神崎様は、後方の車にご乗車願います」

と小野が申し訳なさそうに言う。あくまで『なさそう』であって、失礼を詫びる心がまるでこもっていないのは言うまでもない。

 が、神崎はそのことを気にも留めず、「あら、そう」とだけ言い、後方の車に乗り込んだ。続いて、レギュラー陣も乗り込む。それを見届けてから、具手堅も司会者のいる車に乗った。

 発進してから、具手堅は口を開いた。

「これで、あなたも美を手に入れられますね」

 司会者が、おや、というように両眉を上げる。

「どこで、それを?」

「レギュラー陣の方に聞きました」

「そうですか。でも、それはあなたも同じでしょう? 技術者は、美を抽出し終えている頃でしょう。後はあなたがMTM支配人として帰れば、美を授けられるはずです。もっとも支配人ともなれば、好きなだけ好きな美を享受できるようになるんですが」

「それに、死んだ真弓を生き返らせなくちゃいけないですしね」

「そうですよ」

 小野は笑おうとして、頬を引きつらせる。慌てて、彼女は錠剤を嚥下し、ふう、と小さな吐息を漏らした。

「ところで、MTMの支配人を入れ替えることになんの意味があるんですか?」

「私には守秘義務があります。がしかしあなたは勝てば支配人となり、MTMの内部事情を言ってもなんら問題はないですし、負ければそれは死と同じ……死人に口なし、と言いますからね。いいでしょう。教えてさしあげましょう」

 小野が、口の両端を引き上げる。

「MTMには、あるエネルギーが必要なのです。美に対する異常なまでの執着心、そして美を毟り取ることに躊躇いを感じない頑強な精神」

「なぜ、それが必要なんです? そのエネルギーを、なんに使うんです?」

「我々は、世界を凌駕する技術力を持っています。考えてもみてください。どんな技術者でも、人の内面を整形したり、美を移したり、なんて芸当は逆立ちしてもできません。しかし、我々にはそれができます。先程のエネルギーさえあれば……」

「だ、だから? だから、司会者やレギュラー陣にも、そういう人を……」

 司会者は、鼻から大きく息を吐いた。

「その通りです。以前に、人を殺せなかったり、連れてこられなかったりした人全てがレギュラーや司会者になれるわけではありません。彼らもまた、かつてのレギュラー陣を殺して、その座を奪ったのです」

「そ、それって……今の私と境遇は、同じですよね?」

 具手堅は、目を白黒させた。

「ええ」

「い、いえ、それ以上に過酷なんじゃないですか? 番組進行中にも、殺し合いを挑んでくる人だっているんですよね?」

「最近では、大前の二人前のゲストは加害者を殺せず、しかし美は欲しいので、千葉に殺し合いを申し込みましたよ。結果は、千葉が勝ちましたけれども」

「あ、あの千葉さんが……」

 とても上品で、気高い雰囲気をまとい、蟻一匹殺せそうにないあの人が。

 温かい命を引き剥がし、肉体を冷たくした。

 具手堅は瞑目し、頭を振った。想像できない。

「ともかく私達のそのエネルギーを原動力として、MTMは機能しているのです。もっとも、それだけのために殺し合いという制度を採用しているわけではないのですが」

「スポンサーを楽しませるため、ですよね?」

「ご名答。いくら技術者とエネルギーがあっても、資金がなければ動きませんからね。だからこのMTMにある制度は血みどろで忌まわしいのですが、憎らしいほどに合理的で実用的なのですよ?」

 具手堅は、額に冷たいものを感じた。冷や汗だ。それが粒となって、額から流れているのである。

「ちなみに、神崎は今までにその座を防衛したことがあるんですか?」

「あります。確か四回ですね」

「そ、それって、多い方ですよね?」

「そうですね。今までの支配人も何度か防衛に成功しているにはしているのですが、良くても二回で、だから神崎様は記録更新中なのです」

「そ、そんなに強いなんて……」

 具手堅の顔から、血の気が失せ、やや青ざめる。

 勝機はあるはずだった。

 正気を保てるに違いなかった。

 具手堅が築いていたそれらは、音を立ててあっけなく崩落する。だが、やるしかない。MTM支配人に殺し合いを申し込んだ以上、もう後戻りはできない。

「相手の命の灯火を消すんですよ、あなたの命が果てるまで」

 司会者が、具手堅を元気づけようとして微笑む。

「私は、あなたを応援していますよ?」

「どうしてですか?」

 小野と神崎はMTMという共同体に属する身、最高の美を手に入れるためにその座にいる者同士。同族意識があるはずで、少なくとも具手堅の方が部外者である。

 純粋な疑問が、湧いてくる。

「実を言うと、神崎様は特別なのですよ。彼女の舌は、毒だらけです」

 神崎は特別。

 そして毒舌。

「悪い奴ほどよく寝る」

 小野は、感慨深げに言う。

「一代前の支配人は防衛に破れたのではなく、自殺したのです」

「自殺? なぜ、自殺なんかを……美を手に入れたんじゃないんですか?」

「レギュラー陣、司会者と違って、支配人は好きなだけ好きな容姿を得ることができます。当然、彼女も得ることはできましたがしかし、彼女が思い描いていた未来は到来しなかったのです」

 先が全く理解できず、具手堅は首を傾げる。

「凄惨な人生を歩んでいるのは容姿が原因だ、と前支配人は思っていました。しかし、違ったのです。美貌を手にしても、彼女の人生はあまり好転しなかったようです」

 何か言おうとして、具手堅は押し黙った。言葉を吐き出そうにも、口が重い。言葉を遠いどこかに落としてきてしまったかのようで、まるで見当たらないのである。

「ともかく、そいうことがあり、急遽、支配人が必要となりました。しかしながら、MTM支配人の適任者がなかなか現れなかったのです。実際、支配人には常人を圧倒的に凌駕する美への執着心がないと務まらない役ですからね」

 具手堅は、「そうですね」と言ったが、それはひどく枯れた声となってしまった。

「しかし、いたのです。たまたま。MTMに転がり込んできた被害者を返り討ちにした加害者である神崎が。彼女は人を外見で小馬鹿にするくせに、その実、自身の容姿に関してはひどいコンプレックスを持っておりまして、どうにかこうにかして最高の美を手に入れたい、と常々思っていたのです。それは、我が技術者の内面分析によって明らかとなりました」

「ふざけていますね。人を馬鹿にしておいて、自分は外見にコンプレックスを持っているだなんて」

「人間は、そんなものではないでしょうか。技術者の内面分析によれば、神崎様は罵詈雑言を吐くたびに、自分の容姿に対する自信がどんどんと薄れていったようですから」

 何はともあれ、と小野が言葉を続けた。

「そういう経緯がありまして、私の立場と似ているのは、具手堅さん、あなたの方なのですよ。だから、私は被害者のあなたを応援します」

 小野が、具手堅の肩に手をかける。彼女の手から伝わってくる微かだが明確な圧力が、具手堅の心を奮い立たせる。

「ただ、支配人になることが幸せに直結しないように感じられるのは、少し気にかかりますけれども」

「それはそうでしょう。美しさだけでは、幸せにはなれません。それは、先刻承知です。手に入れた美をどう活かしていくのかが、肝要だと思います」

「いえいえ」

 小野は手を大仰に振って、それを否定する。

「私が言いたいのは、そういうことではありません。一代前の支配人は、確かにそういう節がありましたけれど、そんな部分を持たない二代、三代前の支配人も、支配人になった途端にまるで人が変わったのです」

「絶対的な美を手にして、慢心してしまったんじゃないんですか?」

「かもしれません。しかしそうでないかもしれないからこそ、私は少し心配しているのですよ?」

 小野が、具手堅の瞳を凝視する。

 心を見透かそうというより、そこに何があるのかを理解しようとしている、そんな視線であった。

「大丈夫です。私に限ってそんなことはありませんから」

 具手堅は微笑んだものの、それは小野のような作り物臭い笑顔になっていた。

「無理して笑っていますね」

 遠慮なく、司会者は言う。

「別に無理に笑わなくていいのです」

 常からそれをしている司会者が、真顔でそう言う。

「でも、笑顔を作りたいもんですよ」

 具手堅は反論した。

「笑っている時が女性として一番綺麗になれるという認識があり、それが無意識の内に働いている。だから、私は笑うんです。苦しくても、辛くても、笑うんです。そうすれば、苦しそうには見えないから」

「結構、無理をして笑う人なのですね」

 果たして、それはどうだろうか。具手堅は、過去に思考を戻してみた。今まで様々な中傷を忍耐の精神をもってして受けとめてきたけれども、さすがにその時は笑っていないし、よもやそんな時にまで頑張って笑う、と捉えられてはいるまい。それでは、『苦しくても、辛くても、笑うんです』をあまりに額面通りに受け取りすぎている。

「そんなことを言うなら、小野さんだって、いつも無理に笑っていませんか?」

「無理ではありません。笑わないと、苦しくなるからです。笑うことは、私にとっての呼吸なのです。それをしないと、人の視線にたえられなくなるのです」

 彼女は、ぽつりぽつりと本音を話し始めた。



 小野は、話し上手ではない。かといって、容姿だけでその存在が成立するほどの美人でもない。それゆえに小学生の頃は、友人がいなかった。ただ、ぽつんと教室に存在しているだけの塊であった。そしてそのまま時が流れ、中学生となる。

 小野は、しかしそのまま地元の中学校に上がれば、きっと同じような目に遭うと確信していた。なんといっても、大半の人間が小学校からの仲間なのだから。

 ゆえに、彼女は少し離れたところにある中学校に通うことに決めた。無論、そこは電車通学と私立ゆえに高額な授業料を要される学校である。

 これで、始まりは確かに皆平等で、友達も作りやすいに違いない。事実、そうだった、いや、そうであったはずであるが、結局、最初はなかなか友人ができなかった。

 しかし、事態はいきなり好転する。

 誰かが話をし、それに対して微笑みを浮かべながら、相槌を打ってみると、友人ができたのである。

 笑顔が鍵なのか。小野は、そう認識した。

 笑顔が、あまり容姿に優れぬ自分の魅力を底上げしたに違いない。

 それからというもの、小野は笑みを絶やさぬように努めた。それは、正解であり、不正解であり、時として真実であり、嘘偽りであった。もっとも小野にとっては、常に正解であり、真実であったのだが。

 笑顔を振りまくだけで意思疎通が円滑になり、それゆえに友人ができる。意外にも簡単な作業なのに、どうして自分はそのこと気づかなかったのだろうか。小野は過去の自分を嘲笑し、責めて、今の幸せをひたすらに噛み締めていた。

 だがしかし、小野は笑いを絶やさぬことが難しいとすぐに知る。人によるのかもしれないが、彼女にとって笑顔とは、気持ちを必要以上に高揚させ、自身の人格を上書きし、自分が自分であることを認識できない状態にしないと、作れないものなのだった。本当に笑顔になるような出来事か何かがないと、彼女が笑顔を生成する要件は満たされず、不発に終わるのだ。

 やがて笑えない日が到来する。不可能が殺到する。限界が、カビの浸食のごとくゆっくりとだが着実に忍び寄ってくる。

 笑うことは簡単だが、笑い続けることは苦痛である。つまらないのに微笑むことはできるが、次第に心が焼けてくる。焼け火箸を当てられたような、激痛で包み込まれる。

 それでも小野は、笑わなくてはいけない。しかし人工的な笑顔の仮面をつけていると、真に受け入れられている、心からの愛情を渡されている、という感覚が薄れてゆく。

 何も感じられなくなる。気持ちが、涙でにじむ。

 やがて小野は、こう思う。

 今こうして受け入れられているのは、私の笑顔があるからで、ならば笑いを取り去れば、彼らも去っていくのではないだろうか、と。

 さらに、小野はこう思う。

 皆は私を友人として認めているのではなく、笑顔の仮面をつけている私を、もっと言えば私がつけている笑顔の仮面を友として認識しているのだ、と。

 小野は、悪循環に突入する。どんな笑顔を浮かべようと、それはもはや好かれるための道具ではなく、拒絶や嫌悪からの回避手段であり、一時的な安息しか確約されないのだ。

 そう思うと、より一層彼女は心苦しくなってきた。全身の血液が、石油か、あるいは不摂生な人の血にすり替わってしまったと錯覚してしまうくらいに。動きすら緩慢となってしまう。思考さえ鈍くなる。

 だがしかし、彼女は笑う。やがて、歪みが産まれる。それは、高校生の時だった。その発端は、イジメめられているのに笑っている時である。

「あんたは、いつもへらへらしていて気持ちが悪いのよ」

 ある女が、そう言った。彼女は、せせら笑う。同調者を増やし、彼らをけしかけ、小野の苦しみを増長させる。

 ゲロ袋、と小野はいつしか言われるようになった。顔が、ゲロ袋のようだ、とそれが言い始め、周囲も頷いたからである。

 わけがわらかない。

 理解不能。

 不条理すぎて、彼女達の心理の端から端まで判読不能である。

 憎きその女の名前は、何か。小野は、それの名前を言いたくない。それほどまでに、恨み辛みを積み重ねてきているのだ。

 だのに、それだけ怒りを胸の内に秘めていながらにして、笑っていれば、きっと悪さをやめてくれる。彼女は、経験則上、それを信じていた。けれどもそれは誤りであり、偽りであった。

 ある日、小野が笑おうとすると、全く微笑むことができなかった。頬が引きつるだけである。あまりに無様で、本当に情けなくて、しかしそれ以上に小野の内面に産まれたのは羞恥心であった。

 誰にもこの顔を、この表情を、見られたくない。

 彼女は、とっさに腕で顔を覆ったのであるが、加害者、イジメを行う者は、目敏くも小野の引きつりを認めた。

 そして、腕を引き剥がす。

 現れたのは、哀れな表情であった。

 震えに震えた表情。まるで精神病の末期症状。惨めな少女。

 本当に受け入れられているという感覚を知らないで生きてきた末路が、そこにはあった。

「何それえ。何、その痙攣? 何かのギャグ? 笑えるんだけど? もう、ゲロ袋通り越して、残飯か何かだよ」

 彼女達が、小野の笑顔を嘲笑する。いや、もはや小野のそれは笑顔として成立してはおらず、ただの痙攣であった。けれども、小野にとっては精一杯の笑顔だったのだ。それを笑われて、彼女は己の人格が、全人生が否定された、と感じた。そして、次にこう思った。自分の笑顔は完璧ではない。だから、ここまでも虐げられるのだ、と。



「だから、私は笑うんです。笑わなくては、皆に受け入れられませんから」

「そんなことないですよ。人は無理に笑わなくても、受け入れられます。それに、たまたまじゃないんですか? 笑っていた時にたまたま最初友達ができて、あなたは笑わなくては友人ができない、と思い込んでしまった。けど真実は笑顔ではなく、単に別のところにあった……」

「あなたは、私の話が大袈裟だと思ったでしょう?」

 小野が、溜息混じりに言う。しかし、顔だけはどことなく笑っている。

「でも、そんなことはありません。置き換えてみてくれませんか。金持ちが好かれているのは、金があるから。美人が好かれているのは、その容姿があるから。芸術家が好かれているのは、その才能があるから。どうです? そう考えると、私の話も真実味があるでしょう?」

 部分的に崩落し、何かしらずれている理論である。

 具手堅は反論したかったし、すべきである、と感じていた。だが、どうやって論破すればいいのだろう。言葉が思いつかない。

「ところで、あなたをイジメていた人は……差し支えなければ、名前を教えてもらえませんか?」

「名前を言うだけでも吐き気を感じて、とてもではないが言えません」

「では、渾名くらいでも……」

 具手堅が食い下がると、

「枯れ葉、と言っていました。いえ、もう本名を言いましょう。そう、あいつです……神崎、紅、葉です」

 具手堅は、穴が開くほど司会者を見つめた。

「なんですか?」

「い、いえ、なんでもないです」

「ところで、私の話には納得できましたか?」

「そうですね。笑わないと、友達はできませんね」

 不本意ながらも、彼女は相槌を打っておいた。

 小野は具手堅の内面を露も知らずに、笑顔を作った。

「戦いについて、何か有益な情報を持っていますか?」

「言えません」

 小野は笑顔を保ったまま、そう言った。

「そこまでは言えません。守秘義務を負っていますから」

 そしてその言葉を最後に、車内は静寂で満たされた。退屈なので、窓から外の風景を見ようとしても、特殊な加工がしてあって見ることができない。運転席の窓はというと、後部座席と運転席との間には壁が立ちはだかっているため、同様である。

 沈黙のまま時を過ごす。



 十分ほど走っていただろうか、車が止まる。

 重たい音を立てて、扉が独りでに開かれる。

 降りると目の前には古めかしいホテルがあるだけで、辺りには何もなく、ただただ芝生が伸びているだけだった。

「特別に買いつけたホテルです。随分前に経営難となり、売却に出されたのを、MTMが買い取ったのです。その後、周囲の家を立ち退かせて、悲鳴その他諸々の不都合な真実が民間人に聞こえないようにしました。また、我々の事情を知らぬ者がうっかりここに足を踏み入れぬように壁で囲いました」

 見ただけでわかるくらいに、ホテルは朽ち果てていた。壁は所々、剥落しており、元の色はおそらく白なのであろうが、やや墨色がかっており、加えてツタがびっしりと群棲している。窓はそのほとんどが割れ、風が内部を自由に行き来しており、この分では多分にホテルの床も腐っていて、運が悪ければ底が抜けて、階下に転落する危険性さえ漂わせている。

「へえ、ここが今回の闘技場なの」

 いつからそこにいるのか、神崎が具手堅の隣で、うっとりとホテルを眺めている。恍惚としたその眼差しは、これから始まる決闘には相応しくなく、そら寒いものを感じる。

「武器は、バタフライナイフを使用してもらいます」

 司会者が手を叩くと、運転手が車のトランクから何かを取り出す。

 取り出したものはキャスター付きの机で、彼はそれを押してやってきた。机には絹の布が、かぶせられている。男はそれを取り払い、机にある二本のバタフライナイフを出現させた。鋭利な光をまとう凶器。これから始まる殺し合いのことを考えると、病的な狂気をまとっているように感じられる。

「いずれかが死ぬまで、戦ってください。もしホテルから出て地に足をつければ、その時点で、その人の敗北が決まります」

「その場合、負けた人はどうなるんです?」

 具手堅が聞くと、「射殺します」と小野は懐を叩いて、金属音を鳴らした。

「決して、地に足をつけないように」

 具手堅は、神妙な面持ちで頷いた。

 神崎は、髪を手でいじっている。一切の危機感や恐怖感が、欠落しているようである。

「また、五分ごとに一階から封鎖していきます」

「ふ、封鎖?」

 具手堅は、次々と追加されるルールにやや狼狽していた。

「そのままの意味です。五分経過で、一階と二階を繋ぐ階段などが、鉄の壁で閉じられます。十分で二階、十五分で三階が封鎖されます。そしてその階にいる者は――」

「銃殺」

 神崎が、なんでもないことのように言う。

「その通り。鉄の壁が閉まるまでに、上の階に行ってください」

「ど、どうして、そこまでのことを……」

「番組として面白いから」

 神崎と小野の言葉が重なる。

 具手堅は、下唇を噛み締めた。唇にはほどよい弾力性があったけれども、それとは対照的に彼女の心は、押せば簡単に凹んでしまって、元に戻らない状態に陥ってしまっている。

「ちなみに鉄の壁はかなり速い速度で落ちますから、気をつけてください。人の身体なんて真っ二つにできるくらいの威力があるはずですから」

 そこで小野が笑顔を見せるものだから、具手堅は総毛立った。

「では神崎様には、先に入ってもらいます。スタッフが、最上階――十階ですね――まで連れていきますから、そこで待機してください。

 神崎様が到着しましたら、具手堅さん、あなたはホテルの入り口に入ってください。入った瞬間、その時から殺し合いを開始します。開始の合図は、私がいたします」

「はいはい、わかったから、さっさと始めようよ」

 神崎は、手を突き出す。

 自分で取ればいいのに、バタフライナイフを取ってこちらによこせ、ということなのだろう。

 運転手が、うやうやしくその凶器を神崎に両手で渡す。

 まるで冷たいものに触るかのように、そうっと神崎はそれに指を近づける。しかし指先が少し触れたら、後は一思いにバタフライナイフを握り締め、その光に見入っている。

 バタフライナイフに宿る狂気の光。神崎の瞳に映る色もそれと同系統であり、異常性を覚えずにはいられない。

「汚らしいものは、全て排除すべき。この世に醜いものは不要。お前を斬り捨てる。消し去ってやる。覚えておけ」

 神崎はころころと笑いながら、去ってゆく。

 彼女の顔は美しい。しかし、内面は汚染しつくされている。

 何もかもが揺るぎなき不釣り合いで占領されている。

 容姿端麗でも、神崎の笑顔には残忍さが込められていた。意図的ではないだろう。自然と内面を反映したものが、外面に出てきているだけだ。笑顔に見られる色は、内面の代弁者なのである。

 司会者が携帯電話を取り、何か受け答えしている。

「わかりました。では、こちらもすぐに向かわせます」

 小野は携帯電話を切り、具手堅に目を向ける。

 具手堅はその視線を受けとめて、ついにこの時がきたことを改めて認識する。

 無言で、具手堅はバタフライナイフを手に取った。確かな質量が手に収まる。その重さ以上の何かが、そこに巣食っているように感じられた。

 生殺する未来が近づくにつれ、あるいは生殺される将来が接近するにつれ、具手堅の畏怖は広まる。

 だが、ここで恐れていてどうするというのか。

 相手は殺人を楽しんでいる感すらあるのだ。その相手に立ち向かうのに、これでは勝機も何もあったものではない。

 具手堅は歩き始めた。

「行きます」

と振り返らずに言いながら。

 後ろを見たが最後、逃げるという三文字の誘惑に捕まり、引き返してしまいそうで怖かったのだ。

 ホテルの前に立つ。もう一歩だけ歩を進めれば、殺し合いが始まる。

 深呼吸してから、具手堅はホテルに足をつけた。

 ホテル内部の空気は外と違って、ややひんやりとしていた。埃と黴の臭いが少しきつい。

 しばし放心していたけれども、このままここに立っているのがいかに危険なのかを悟り、慌てて歩き始めた。

 出発地点にい続けるのは、明らかに得策ではない。なんといっても、敵である神崎も具手堅の居所を知っているのだ。

 具手堅は、歩く。

 足音をひそめて、歩を進める。

 ホテル内部は想像していた通り、いや、それ以上に朽ちていた。窓が割れているものだから、床に敷かれているカーペットの色は削げ落ちており、あまつさえ白色になっているところさえある。幸い床が抜け落ちることはない、ように思える。床が大理石でできているのである。

 なるべく足音を殺そうとするのだが、今夜、大前を言葉巧みに騙してMTMに連れてきた時は、それなりに雨が降っていたので、カーペットは水分を十分に吸っており、踏むとガムを景気よく食べている時のような汚らしい音がする。これでは神崎に勘づかれて、息の根を止められるのがオチである。

 相手は、相当手強い。熟達の戦士だ。それは確実である。

 だが、ゲームはまだ始まったばかりだ。神崎が全速力で駆け下りてきているとしても、まだここに来ることは不可能なはずだ。

 ロビーが見えてきた。くたびれた革張りのソファ、苔生した木製の机、その先にエレベーターがある。稼働しているのかどうかは定かではない。

 具手堅は、この空間で何かが動いているような気がした。人ではない。

 今、目の端の方で何かが動いた気がする。

 彼女の内部が、いらつく。

 畏怖が、ちらつく。

 具手堅は、その原因が何かわかった。

 エレベーターの階数表示が点灯しており、それがどんどんと降りてきているのである。誰かが乗っているのだ。

 誰が。

 考えるまでもなく、それは神崎しかありえない。

 まさか、この一階に。罠も仕掛けも小細工も、その他一切合切を唾棄して、真っ向勝負してくるのだろうか。

 あの神崎が?

 ありとあらゆる悪意を詰め込まれたあれが、正々堂々と戦いを挑んでくるというのか。

 そんなはずがあるまい。

 具手堅はそう決め込んで、階数表示が途中で止まることを期待していたが――

 四階、力同士をぶつけるのが彼女の本懐。

 来る。間違いなく、彼女は来る。

 三階、あんなに。

 二階、芝居を打ってでも何かをやって来そうな彼女が、いきなりこんなことを。

 具手堅は、全速力で走り出した。

 床に落ちている額入りの絵画を踏み、湿った音を産み、ロビーを過ぎると左手に階段が見えた。

 具手堅は、駆け上がる。

 二階まで行くと、少し落ち着く。

 大した運動量ではないはずなのに、いまだに心臓が酸素を求めて激しい自己主張を繰り返す。

 具手堅は、壁にもたれかかった。

 あそこで、相手の挑戦状を受け取っても良かったのではないだろうか。

 しかし相手は歴戦をくぐり抜けてきた猛者であり、その点を考慮すると正面からぶつかりあうのはいささか不利といえる。

 策士になって、相手の裏をかくべきだ。

 そう思っていた。ちょうどその時のことである。

 唐突に視界が隔絶。

 意識の中の空白が増える。

 鈍い音が聞こえた気がする。

 具手堅は、階段から転げ落ちていた。

 全身に痛みを注入される。それ以上に、割れでもしているかのような激痛が、頭にのしかかっている。

「私の勝ちね」

 憎々しい声が、具手堅の耳朶を突く。

 神崎だ。

 次第に視界が回復し、昇天していた焦点が定まってくる。

 敵は降りてこないで、そこでにやにやしている。

 具手堅は、どういうことか微かにもわからなかった。神崎は、確かエレベーターで一階にまで降りてきていたはずである。

「エレベーターに乗って、スイッチを押しただけよ?」

「なる、ほ、ど」

 頭を押さえながら、具手堅は立ち上がった。

 神崎は、余裕の笑みを浮かべている。

「五階まで自力で降りて、エレベーターのスイッチを押した。後は、無人のエレベーターが一階に降りてゆくだけ。あんたが真っ向勝負を拒むなら、階段を使って二階に来るとはわかっていたから、ここで待ち伏せ。そして、あんたに花瓶を投げつけただけよ」

 神崎は、バタフライナイフを舐めた。その様は、大変なまめかしい。

「ここで、殺すのね?」

「殺す? 私は、もっともっといたぶって、あんたが醜い死を遂げるのをみたいの。そんなやすやすと死んでもらっては、私の理想とする死をあなたに与えることはできない」

 神崎の呼吸は荒かった。それも致し方のないことであろう。五階からエレベーターに負けないくらいの速さで駆け下りて、なおかつ具手堅に投げつける物体を探さなくてはならなかったのだから。もし時間に余裕があるのであれば、具手堅に投擲する凶器を大量に用意して、なんの気兼ねもなく怒濤の攻撃を開始していたはずだ。

「馬鹿な真似を、とあなたは思っているでしょう? どうして今殺さないのか、と。違うのよ。私はあなたほど強くないの。相手を見下して、卑下して、絶望の淵に落とさないと、気が気ではないのよ。でも、あなたはそれをしなくても生きていける。ずいぶんとたくましい精神力の持ち主だこと」

 彼女はうっとりとした眼差しを具手堅に向けた後、踵を返し、駆け足で去っていった。

 具手堅の背筋に、そら寒いものが駆け抜ける。

 あんな狂人を相手にしていたとは。

 どんな強靱な精神力の持ち主でも、少しは怖じ気づくのではなかろうか。

 具手堅は、階段をゆっくりと登る。

 頭に鈍痛が残っており、歩くたびにその痛みが増す。少しの振動でも、頭に直接響いて痛みを増幅されるのが辛い。

 二階に到着して、素早く周囲の安全を確認する。神崎の気配は感じられない。

 安堵の吐息を漏らしたが、油断は禁物である、とすぐさま自分を戒める。

 ひとまず、三階に彼女は行くことにした。行ってすぐに廊下を渡り、319号室に駆け込んだ。幸い、鍵は開いていた。おそらく、MTMが全部を開放してくれているのだろう。その意図はわからない。いや、もしかしたら隠れる場所を増やしておけば、見せ物としては面白くなるからなのかもしれない。

 部屋に入って鍵を閉めようとしたが、残念ながら鍵は破壊されていた。もしここに神崎が入ってきたら、今度こそ本当に真っ向勝負しなくてはならない、ということになる。

 だが、それは具手堅が望んだことだ。

 MTM支配人の座を奪うには、神崎の命を奪わなくてはならないのだから。

 彼女は鏡を見て、頭の負傷具合を確認した。

 手で触ると、ぬるりとした感触があるものの、出血はそれほどひどくないようである。それよりも、頭の芯に残る痛みが伸長し、眼球の裏側にも鈍痛が忍び寄ってきていることの方が、彼女にとってはよほど深刻であった。

 花瓶をまともに頭に投げつけられたことを考えると、これくらいで済んだのはまだ運に見放されていない、というべきだろう。

 具手堅は部屋にこもって、作戦を考えた。万一のことを考慮して、ベランダに待機する。こうしておけば、もし神崎がここに入ってきても隣室に飛び移れる。

 腕時計を見ると、十二分が経過していた。

 一、二階は閉鎖されただろう。

 もうじき三階も閉まる。

 階段でのやり取りの後、神崎が二階にいたのだとしたら、三階に退避しているはずだ。

 そろそろこちらも動くべきか。

 具手堅は扉を開けて、左右を確認する。誰もいない。しかし、何か違和感を覚える。何か、非日常的な臭いを感じる。

 この臭いを喩えるとするならば、プールの臭い。

 具手堅の頭に、その単語がすうっと入ってくる。

 その正体がなんであるのかは気になるところであるが、ひとまず階段を目指すことにした。彼女は歩いた。

 が、次第にその臭いが強まってくるので、具手堅の喉がひりひりとした痛みを伴い始める。

 目からも涙がこぼれてくる。

 階段脇のトイレから、その臭いは漂ってきた。

 嫌な予感がする。

 彼女はバタフライナイフを握り締め、トイレに入っていき、そしてあるものを見つけた。

 バケツがある。そして、その傍らには漂白剤とトイレ用洗剤が転がっていた。

 あの臭いの正体は、塩素ガスだったのである。

 この時には、もう彼女の目は涙で溢れていた。

 一刻も早く、三階に行かなくては。

 涙で濡れる視界から入ってくる情報を頼りに、具手堅は駆け出した。もはや、音をなるべく立てずに走る、という心の余裕はなかった。

 あの角を曲がれば、階段がある。しかしあれ以外にも、階段はないのだろうか。もし一つしかないのであれば、また待ち伏せされている可能性があって、とてもではないが登る気にはなれない。

 その時、床に何かの紙が落ちているのが目に入った。

 具手堅は涙で視界がにじんでいたものの、何かが落ちているのかくらいは認識できた。もっとも、何かまではわからない。

 彼女はかがんで、その紙を拾おうとして――

 殺気を感じた。

 とっさに、横っ飛びする。

 先程まで具手堅のいたところに、円柱状の何かが振り下ろされた。

 硬質でいて透き通った音が、生じる。

 涙を拭ってみると、具手堅を狙っていた凶器は消火器であり、それを手にする人物は神崎であることが視認できた。

 階段のある曲がり角で待ち伏せしていたのだろう。彼女は塩素ガスを作り出し、具手堅が慌てて逃げてきたところを消火器で殴打、というシナリオを描いていたようである。

 しかしながら神崎自身も、塩素ガスをいくらか吸っているようであった。

「うう……あんたは、もっと部屋から早く出てくるべきだったのよ……」

 彼女は目に涙を溜め、激しく咳き込んでいる。

「あんたが苦しむ姿は面白いけど、私じゃつまらないのよおおおおおおおおおおお」

 凄まじく理不尽な理論を振りかざし、消火器を持つ手に力をかける。

 あれによる殴打をバタフライナイフで受けきれぬのは明白であり、回避するしか手段がない。

 だが横っ飛びした後で、万全の姿勢を取れていない。

 神崎は、頭を狙ってくる。

 身を捩って頭部を守るが、肩に鋭い一撃が加えられる。

 熱湯をかけられたような、肩が燃え盛っているような、熱い感覚が急速に拡大する。

 たまらず転げ回って肩にある痛みの炎を消したかったが、殺意に燃える人間の前でそれをする勇気、無謀さはない。

 消火器を振り下ろした直後で、神崎の体勢は整っていない。その隙にバタフライナイフで攻撃しようとすると、神崎は消火器からすでに手を離しており、右手にしっかりと支給された凶器を持っていた。

 神崎と具手堅の視線が衝突する。

 身体の芯が麻痺してくる。

 思わず具手堅は階段を駆け上ろうとして、しかし捕まってしまった。

 神崎の攻撃には一切の無駄と躊躇が排除されており、殺意のこもった凶器は正確に具手堅の右腕を捉えていた。

 突然の、しかも予期せぬ痛みに怯んでいると、神崎が具手堅の右腕を引っ張り、足をかけ、押し倒す。

 馬乗りになって、

「まずは右腕!」

と言って、右腕を激しく抉る。

 具手堅は抵抗していた。痛みが走ったからではない。痛みを伴うからと恐れて、そうしたのだ。そう、最初の一秒か二秒くらいは抉られても痛みなかった。

 しかし時間差で悶絶する激痛が、右腕に殺到してくる。

 力を込めても、馬乗りになっている神崎の拘束から逃れることはできない。バタフライナイフで応戦しようとしたら、足で踏みつけられて、どうにもならない。

「このまま、右腕を切り落としてあげる」

 神崎は涙を流しながら、笑う。

 今から肉汁滴るステーキをナイフで綺麗に切るかのように、舌なめずりする。

 神崎は勢いをつけて、右腕に何度もバタフライナイフを振り下ろすのかと具手堅は思ったのだが、そうはしないらしい。右腕にバタフライナイフを密着させて、前後に引く。

 具手堅の腕から、血飛沫が――と思ったが、そんなものは意外にあまり出なかった。

 ゆるりゆるりと血液が垂れてゆくだけで、激しい流血は起こらない。

 気づけば、具手堅の喉の底から粉砕された声が押し出されていた。

 いきなり。

 死にたくなる。世界がどうでもよくなって、いや、世界と自分が隔絶されたのだ。

 具手堅は、踏みつけられている左手に力を込めた。

 神崎の足が僅かに浮いたので、素早く左手を引き抜き、自由を得る。

 バタフライナイフで、神崎の腹部を刺した。

「がふっ……」

 神崎が、思わず下腹部に手をやる。

 その隙を突いて、彼女の身体を押し退けて、具手堅は階段を昇り始めた。

 右腕は、今にも千切れそうだ。今になって、そこから流血する量が増加していた。

 階段を登り終えてから時計を見ると、十三分が経過している。もうじき、三階も封鎖されるはずである。もし神崎があのまま三階にいてくれればそれで決着はつくが、そうもいかないだろう。

 具手堅は、三階の手前でそのまま倒れ込んだ。

 目と喉、そして肺も塩素ガスでやられ、思考が鈍化している。何かを考えるのが、とても億劫になってしまっている。加えて右腕は、今にも取れてしまいそうときている。

 後一分もすれば鉄の壁が動いて、三階と四階の行き来を阻むようになるだろう。

 神崎は、まだ四階に上がってきていない。このままいけば、具手堅の勝利である。だが具手堅自身も、安全圏にまで上がりきれていなかった。



 神崎は四階に上がり始めたが、具手堅の腕はまだ三階と四階の境界線上にあった。床に手をついたままだ。

 それを認めて、神崎は安堵の吐息を漏らす。腹部の負傷がよほど効いているらしく、彼女の足取りは遅い。できるものなら、今は少しでも休息したい。

 しかしながら、不思議な話である。残り一分もすれば、鉄の壁が三階を閉鎖するはずだ。

 神崎は時計を見た。残り一分で、十五分が経とうとしているはずだ。なのに、なぜ具手堅はあの位置に腕を放り投げているのか。動く気配すらまるでない。もしかしたら、自分の時計が壊れているのかもしれない。あるいは鉄の壁が動きだしたら、さっと腕を引っ込める算段か。


――鉄の壁はかなり速い速度で落ちます――人の身体なんて真っ二つにできるくらいの威力があります――


 よもや、具手堅が小野の言葉を忘れているわけではあるまい。鉄の壁がいかほどの速さで落ちてくるのかを確認し、鉄の壁が落ちてくる範囲に腕を出していても、引っ込めるほどの余裕があるというのを具手堅が知っていたのなら、神崎は全力で駆け上がるべきである。しかし神崎が二階から具手堅に花瓶を投げつけた後、彼女は確かに脇目もふらずに三階に駆け上がったはずで、ならば鉄の壁が落ちてくる様を見ていない。鉄の壁が落ちてくる速度はかなりのものという知識は有しているが、実際にどれだけの速さなのかを知らないはずだ。なのに腕を放り出して、悠長にあそこに座っていられるはずがない。

 そう考えると、神崎は少し気が楽になった。ゆっくりでいいから、登り続けよう。

 おそらく自分の時計は少し速くなってしまったか、自分の勘違いであるのだ、神崎は自分にそう言い聞かせた。

 まだ大丈夫、大丈夫。

 相手にとっては、勝ち目のない勝負。

 自分にはある。ありあまるほどの勝利が、こちらに転がり込んでくる。

 そのはずだった。

 後、十四段くらい、というところで、神崎は異変に気づいた。

 腕が。

 右腕が。

 具手堅の右腕が、倒れた。そう、本当に倒れたのだ。

 腕の先には、何もない。



 最後の最後で、右腕が倒れてしまった。しっかりと固定すべきだったのであろうが、そんな時間の余裕はなかったのだから、仕方あるまい。

 残り八秒足らずで、神崎の命は消え入る。

 具手堅が勝利するだろうと口の端に笑みを漏らした時、絶叫が階段から駆け上がってきた。

 そして神崎自身も、駆け上が――這い登ってきた。なりふり構わぬその様には、美など欠片もない。

 口から涎と血を垂らし、目からは涙を流し、整形で得た顔を階段でぶつけながら登ってくる。

 あるのは、ただひたすらな醜悪。

 死ぬかもしれないという恐怖からくる重圧。

 人生を現世から切り落とすことで訪れる終末。

 神崎が上がってきたところをバタフライナイフで殺そうとしたけれども、右腕の痛みで具手堅の意識が一瞬だけ遠のく。

 流血が酷い。早く決着をつけなくては、殺される前に死んでしまう。それだけはごめんこうむる。

 具手堅は歯を食いしばることで思考の片隅に激痛を追いやり、神崎に飛びかかった。

しかし現実には、飛びかかろうとして神崎にもたれかかるような形となってしまった。身体が全体として力が入らない。

 具手堅はバタフライナイフを握り締め、一撃を叩き込んだ。神崎の顔が、苦痛にたえているゆえ歪んだ表情から、鬼のような形相に切り替わる。

 神崎は、具手堅の一撃をバタフライナイフで受けとめた。そして、左足で具手堅の右手があった部分に蹴りを放ってくる。

 痛みで、具手堅の視界と意識が弾け飛んだ。

 だがここでこらえなくて、何をこらえるというのか。彼女は集中力を総動員し、意識を繋ぎ止める。

「この命が果てるまで、その命を削るだけ」

 具手堅は叫ぼうとして、しかしその声は囁くような弱いものとなった。

 具手堅は空いている手を振り上げ、それを見た神崎が腹部を守る。

 神崎は、具手堅の傷口をえぐりにでた。ならば、具手堅も同様のことをするだろう。そう思うのが普通である。

 だが具手堅の狙いは、そこではない。左太股。そこだった。

 そんな部分にはなんの怪我も負っていないので、意味がないではないか、と思われる。

 だが、神崎は小さな呻きを発する。意識が濁ってしまったようで、目が虚ろである。

 具手堅が、その隙を逃すはずがあろうか。

 神崎の胸に突き立てた。

 神崎は、かさついていて小さな呻きを発する。身体から、すうっと力が抜けてゆく。

「ど、う、して、ど、うし、……」

 神崎の命が途絶える。

 死に神が、彼女の命を捕らえる。

 終わった。全てが終わった。生死を賭した戦い、緊迫感、凍てつく畏怖、それら全てが終焉を迎える。

 何もかもが終わったかと思うと、具手堅の全感覚が舞い戻ってきた。

 喉にある刺すような痛み。

 目の鈍痛。

 肺の焼けつく感触。

 右腕にある激痛。

 そして、それ以上にも増して重々しくて巨大な心の疼き。

 神崎は極悪人であるのに、殺してみると、心に罪悪感が殺到してくる。

 それでよいのか。これでよいのか。

 しばらく自問自答。

 答えは見つからない。

「おめでとうございます」

 司会者の声だ。

 階段から、草敏、伊藤、千葉が現れる。

 司会者が手を叩くと、彼らも追随して具手堅に拍手を送る。

 皆の顔には、喜びがはっきりと浮き上がっていた。

 顔の端から端まで幸せが敷き詰められており、まるで隙間がない。具手堅の勝利ゆえか。いや、それではない――あるいは、それだけではないのだろう。

 彼らもまた忌々しい呪縛から解き放たれ、ようやく各々が思う真の美を手にすることができるのだ。それゆえに喜んでいる部分が、大半ではなかろうか。具手堅の勝利を心から賞賛したゆえに顔が綻んでいる割合なんて、たかだか知れているのではないだろうか。

「おめでとうございます」

 レギュラー陣の声が重なる。

「それにしても、どうして神崎様、いえ、神崎はあれほどまでに怯んだのでしょうか。左太股に古傷でも……」

「カメラは、今も回っているんですか?」

 具手堅がおそるおそる聞いてみると、「いいえ」と司会者は満面の笑みで返す。

「もし――」

 具手堅の意識が、遠のいてゆく。

「ひとまず、治療してもらえないでしょうか?」

 そう言った途端、具手堅の視覚、聴覚、触覚、嗅覚は、気絶によって収奪された。



 目を開いた。

 そのはずである。具手堅は確かに目を開けたのに、視界が全て白で染まっていたものだから、まだ思考が潰れたままなのか、あるいはここが夢の世界なのだな、と冷静に考えていた。

 しかしそれは事実ではなく、具手堅が完全に雪で覆われた世界にいるだけだったのだ。身体を起こすと、自分がこれまた白一色のベッドに横たわっているのがわかった。全てが終わり、平和の世界に生きていることを思い出した。安堵してもよかったのだが、それは全くといっていいほどなく、逆にとても冷めきった自分がいるのを認識した。

 まるで自分を空から冷静に俯瞰しているような、そんな冷たさで心が一杯である。

 空気が素早く抜けるような音がして、扉が開かれた。

「支配人であるあなたには、あらゆる美が約束されています」

 内面整形外科医が、入ってくる。

「だから私は、あなたをひとまず元通りにしておきました」

「元通り?」

「あの戦いで、あなたは瀕死状態に陥っていました。特に、右腕は早急に接合しなくてはなりませんでした」

「あ」

 具手堅が肩の方に目をやると、確かにそこに右腕が再生していた。あるべきところにあるべきものがある。力を入れてみると、しっかりと指の先まで動く。

「もう、動かしていいんですか? というか、もう動かしてしまったんですけど」

「もちろん。我々の技術は世界一ですから」

 彼は胸を叩いた。

「もっとも、MTMにある設備を使わなければ、私にはなんの力もありませんが」

 何か含蓄のある言葉である。

「先生は、前からここで働いていたんですか? やはり、切っ掛け、というか、美が欲しかったから働いていたんですか?」

「美、ですか。私ではなく、娘の方なんですがね……神経線維腫症なんですよ……」

「神経、なんですか?」

「神経線維腫症です。身体の各部位に腫瘍を作り、骨を肥大させるのです。我が娘の顔、特に鼻は象のようになっていて……」

「手術で治らないんですか?」

「一人の医師が引き受けると言ってくれたのですが、娘は人に見られたくないと言って……今でも、人目を避けています。もう外出しなくなって、かれこれ十五年経っています。

 だから、私しかいないんですよ。手術できるのは! このMTMなら設備は完璧です。引き受けてくれると言っている医師だって、正直なところ成功させる可能性は薄いでしょうし……」

「だから、ここで働き始めたんですね?」

「ええ……でも、それも今日で終わりです。あなたで、九人目ですから……ようやく、私は娘に美を授けることができるんですよ」

 彼が微笑んだ時、司会者とレギュラー陣がどたどたと入ってきた。

 美をもらいにきたのだろう。

「私は常に自然に笑顔になれるように、手術してもらうのです」

「ところで――」

 草敏が、話題を転換する。

「神崎は、確かに左太股に古傷を持っていた。しかし、どうして君がそれを知っているんだい?」

「カメラは、回っていますか?」

「いいえ」

 千葉が、優雅な手つきでセンスを取り出す。

「それにもう美は確約されたんですから、今さらあなたに不都合なことを聞いても、MTMに言いつけるなんて野暮な真似はしませんこと?」

「そうですよね」

 具手堅の心の中を満たしていた冷たいものが、さあっと押し流されてゆき、抜けてゆき、零に変じる。

「実は、全てが嘘なんです」

「す、べ、て……全て、ですか?」

 司会者が、声を落とす。

「全て、です」

 何もかもが。

 無駄なく。

 一切合切。

 何から何まで。

 端から端まで。

 ありとあらゆるものが。

 どこをどう切り取っても。

 一片たりとも真実はない、と言って差し支えない。

 真実があるとすれば、池田真衣、大前莉奈、毛利真弓、具手堅清佳、この四人の悩んでいること、そして実際に被害者の側面を持っている、ということだろう。

「私達の目的はただ一つ、あいつ――」

 具手堅は、自分の胸元の服をきつく握り締めた。

「神崎、神崎紅葉を殺す、それだったんです。あの葉っぱ女を殺すためだったんです」

「い、一体、彼女に何をされたんですかあ?」

「されたのかしら?」

「されたんだい?」

 レギュラー陣が、しどろもどろになる。

 池田に、目つきが悪いという確信を抱かせた犯人。それは神崎。

 大前の赤痣を天罰の結果によるもの、と言って憚らなかった。それは神崎。

 毛利の脳性麻痺を『電気女』『触れるな危険』『ゼンマイ』、と言って、彼女の心を病みと闇で埋め尽くした者。それは神崎。

「『ゼンマイ』と揶揄していたのは、大前、だったのではないのですか? 大前が毛利さんをイジメていた、と言っていたのは他ならぬあなたですよ?」

 その言葉に、具手堅は静かに頷いた。

「それは、嘘です。とにもかくにも私達は神崎紅葉に復讐するために、計画を立てたのです。最初は復讐心だけでしたが、それ以上に正義心も増幅しました」

 事の発端は、池田真衣がつかんできた情報だった。彼女は世界的に見ても大成功を収めている音楽家であり、巨万の富を築き上げている者達だけのパーティーなどに呼ばれることも多々あり、当然ながら社会の裏側の事情も少なからず耳に入ってきた。そういうこともあって、池田はMTMの存在を元々知っていた。

 池田は、興味が湧いた。復讐できる上、自分の望む美貌が手に入るのだ。池田が恨んでいる人物は枚挙に暇がないとはいえ、その中で群を抜いて許せない人物が一人いる。神崎紅葉である。

 しかしながらMTMに被害者として参加できたとしても、神崎を殺せないことを知る。そう、神崎紅葉はMTM支配人の座に就いていたのである。被害者のための番組の頂点に、どうして悪人の彼女がいるのか。

 復讐心、正義心、その二つが湧出してくる。

 そこで、池田はMTMの仕組みを利用しての神崎殺人計画を思いつく。

「どうして、池田さんはMTMの制度を知っていたんですかあ?」

 草敏が、不可解そうに眉間に少しだけ皴を寄せる。

「池田真衣は、この番組の出資者になろうとしました。それが内部情報をつかむ一番手っ取り早い方法ですから。けどそれではあからさますぎて、すぐに神崎に感づかれる恐れがあったので、別の人間にお金を渡して出資者――スポンサーになるように依頼しました」

「では、その人を通じて内部の情報を得ていた、と?」

 具手堅は、首肯した。

「しかし、いずれにせよ神崎にバレるはずです……いえ、実際はあなた達を見ても、神崎はあなた達が昔の被害者だと気づいてはいなかったのですが……」

「私達皆は結婚しているので、姓は変わっています。整形なりなんなりをしてきたから、顔も幾分かは――当然、面影はあるはずですけど――変わっているんです。

 池田真衣はもちろんのこと、大前莉奈は化粧で単純性血管腫を隠していましたし、私だってカラーコンタクトで虹彩異色症を隠していましたから。毛利真弓はこれといって容姿に大きな違いはないけれども、MTMに訪れたことはないので、葉っぱの奴が気づくなんてことはありえないですし」

 具手堅は、一気に真実をまくし立てた。言うにつれて、凝り固まっていたもやもやとしたものが、心に巣食う濃霧が、ゆるりゆるりと抜けてゆく。

「後、気になったんだが、君達四人はどこでどう知り合ったんだい?」

「私達は、『奇妙な人』という団体に所属していたんです。普段、私達のような変わった容姿の人間は、他に同じような目に遭っている人と会う機会はありません。ですからこの団体を通じてそういう仲間達と出会い、互いに励まし合い、情報を共有するのが『奇妙な人』の目的です。そこで、たまたま、私達四人は出会ったんです」

 具手堅に向けられた目は、どれもが信じられない、というように大きく見開かれていて、しかし誰も、「ありえない」といった類の言葉は吐かず、一心に彼女の言葉に耳を傾けていた。

「四人が揃ったとはいえ、百点を集めるのにどうすればよいのか、皆、頭を捻りました」

「そして考え出されたのは、あなた達がやってきたことなのですね?」

 小野が、感心したように言う。

「はい。MTMとは自然な流れで接触したかったので、あえて大前に池田のあることないことを書き立ててもらったんです。

 今考えると、少しできすぎたところもありますね。例えば毛利を殺したのは大前だ、と私がわかったのはMTMの広告が殺人現場にあったからって話しましたけど、実は拾ってなんかいないんです。だってMTMが証拠隠滅を図っているんだから、広告なんて消されてしまいかねませんし……だから、真実は私が大前から広告を直接受け取った、なんですけど……でも、やはり不自然で――」

 支配人が手を挙げて、彼女の言葉を止める。

「しかしその計画だと、死んでしまう者が絶対に出ますよね? 実際に出ています。MTM支配人になれば、死者を蘇らせる権限がある、ということもあなた達は知っていたんですか?」

「はい」

 具手堅は、力強く肯定した。

「しかし、万一、蘇りに失敗したとしても、葉っぱとなら刺し違えても構わない、と私達四人は思っていました」

 具手堅の目頭が熱くなり、たまらず大粒の涙をこぼし始めた。彼女は、それを拭きもしない。

「神崎があなた達を『あのあなた達』であると気づいたら、その時はどうするつもりだったのですか?」

「もし神崎が私達の話を聞いて、あるいは私達を見て、自分がしてきたことを思い出してくれたのなら、もうそれはそれで良かったんです」

「あら、聞き間違いかしら? 良かった、と仰いませんでした?」

 千葉が、目を瞬かせる。

「普通、加害者は被害者のことをすっかり忘れるものですが、やられた方は無駄に暗い恨み辛みをうざいぐらいに脳に一生涯刻みつけているものです。ちょっとやそっとじゃ、風化しないくらいに」

 この言葉に、その場にいる皆が真顔で静かに頷いた。

「そもそもイジメを悪だと認識しているのに、それをする人間なんているはずがなく、だからこそ私達のことなんてけろっと忘れているのが当然なんです。でも、もし葉っぱが過去の行いを悔いているのなら、私達のことを覚えているはず。だから万一あいつが私達のことを覚えてくれていたのなら、その時は潔くこの計画の崩壊を受けとめていたことになったと思います」

 全てを言い尽くした。

 胸に残っているものは、何もない。

 ただの空洞が広がる。がらんどう。空虚。内部で増幅する虚無。空白が拡大し、具手堅は少しの冷たさを覚えたが、それは痛みというより、何もかもをやり尽くしたことで生じてくる一種の虚脱感だということを知っていた。

「これで、全てを話しました」

 司会者が、拍手した。

 小さくて、渇いていて、心許ない拍手。

 やがてレギュラー陣が、彼女に追随し始める。

 どうして、彼らは拍手しているのだろうか。壮大な物語を聞いたからだろうか。それとも、よくもまあこんなことやってのけたな、という感心のようなものから盛大な拍手を具手堅に送っているのだろうか。

 そんなことを思案している内に、内面整形外科医もその拍手に加わって、音がより一層膨らむ。

 ひとしきり拍手の雨が降った後、しだいにそれは静まり、ややあってから完全に停止した。

「ありがとうございます」

 静まってから、司会者が心からの感謝を送ってきた。具手堅にはそうわかった。小野の言葉は相手の顔色を窺っているものでも、お世辞でもなんでもなく、真に彼女の内部から湧出してきているものだ、と。

「どうして、礼を言うんですか?」

「私達は、皆、被害者なのですよ? あなたが加害者の神崎を殺したのは、それはもう偉業なのです。私達は常に被害者で、しかもいざ加害者を殺そうとしても殺せなかった、ただの臆病者なのです。あなたがしたことは、尊敬に値します」

 周囲も同調する。

「それで……あなたは、ここの支配人になるのですね?」

 司会者が不安げに言った。彼女の顔には、曇った表情が浮かび上がっている。

 どうしてそんな表情を作るのか、具手堅は知っていた。

 具手堅が絶対的な美を手にしてしまって慢心し、二代前の支配人が自殺したように、同じ道をたどるのではなかろうか、と小野は危惧しているのである。

「人は驕り高ぶってしまうもの。どれだけ注意していようが、謙虚に振る舞おうと努めようが、そうなってしまいがちです」

 司会者は、具手堅の瞳を覗き込んだ。

「あなたは、そうなりませんか? 傲慢に絡め取られませんか?」

 具手堅は大きく息を吸って、

「なりません」

と断言した。

「わかりました。それでは、これを授けます」

 彼女はポケットから、腕輪を取り出した。それは、薄暗い紫と黒のマーブル色で、パテント加工が施されたゆえに妙なぎらぎら感を身に纏っている。神崎が手首に巻きつけていて、趣味が悪いな、と具手堅が思ったものである。

「これを身につけなくてはいけないんですか?」

「そうです。そしてあなたは晴れて支配人となり、MTMに関係して死んだ者の命を再生する権原を得られます」

 こんなものを手首に巻きつけるのは気が進まないけれども、これをつければ友人が現世に舞い戻ってくるというのなら、お安いご用である。

 具手堅は二つ返事で承諾し、小野の手から腕輪を受け取った。

「では……池田真衣、大前莉奈、毛利真弓の命を蘇生させてください」

 彼女は、内面整形外科医に言った。

「わかりました」

 彼は、にっこり笑った。

「ありがとうございます」

 皆が見守る中、具手堅は腕輪を腕に巻きつけた。

 その途端、彼女は意識が遠のいて、倒れ込んでしまった。


――二代、三代前の支配人も

――支配人になった途端に

――まるで人が変わったのです


 消えゆく思考の片隅に、小野の言葉がひょいと顔を覗かせていた。


〈毛利真弓〉


――り、駄目でしたか。

 誰かの声が聞こえる。

 起きてみると、全く知らない空間に彼女は横たえていた。

 天井は白で塗り尽くされている。

 毛利真弓の頭に次々と記憶の細切れが浮かんでは消え、消えては浮かんでくる。何度も光景が差し替えられ、幾度も抜き替えられる。

 そして、毛利は真実を知るに至った。自分が本当は死んでいる、ということを。

「お目覚めになりましたか?」

 男の声がする。

 この部屋には誰もいない、と勝手に判断していた毛利の心臓は大きく拍動した。

「驚かせて、申し訳ありません。私は、MTMで内面整形外科医を務めている者です。もっとも、それも今日までの話ですが……」

 彼は毛利を安心させるためか、微笑んだ。

「話は、具手堅様から聞きました」

「話、ですって?」

 毛利は警戒した。

 彼は警戒心を解いて欲しそうに、少し悲しげな表情を浮かべた後、「あなたは死んでいました」と言った。

「しかし具手堅様が、見事、MTMの支配人になられたので、あなたを蘇生させたのです」

 どこまで話すべきか、毛利は考えた。この男が鎌をかけている可能性もある。ここで真実を吐露すれば、計画の全てが水泡に帰してしまうかもしれない。

「レギュラー陣、司会者、そして私も、今や自由の身です。皆、自分の願いを達成したのです。ただ問題が一つだけあります……」

「問題? 皆の願いが叶ったのに、何か問題でもあるんですか?」

 内面整形外科医は、大きく溜息を吐いた。

「残念ながら具手堅様からは、清き心が完璧に失われました。私も驚きです。内面を確認してみますと、確かに前とは大きく違って、暗黒色で埋め尽くされていました。原因はなんなのか。究極の美を得て慢心しても、あそこまで人が様変わりすることは考え難いです。しかしながらよくよく考えてみれば、歴代の支配人もその座に就いた瞬間に人が変わってきたそうです」

「なら、納得がいくんじゃないんですか?」

 そう言いながら、毛利はあの具手堅に限っては心が黒に染められることはありえないし、何かのカラクリがあるのではなかろうか、と思考を巡らしていた。

「いいえ。おそらく、何かの仕掛けがあるんです」

「仕掛け、ですか?」

 自分と同じように考えているこの男に、毛利は少しなら信用してもいいかもしれない、と考え始めていた。

「内面の波形を見ていると、ある時を境に心がどす黒くなっているのです」

「あの時とは?」

 彼は、興奮気味に話し始めた。

「腕輪を手首に巻いた時です。きっと、あの腕輪に何かカラクリがあるのですよ」

「腕輪? どういうことですか? 支配人は、皆、腕輪をつけるものなんですか?」

「そうなのです。MTM支配人は、代々、腕輪を手首に装着してきています。リーダー的存在だから、その目印、あるいは勲章程度のものか、と思っていましたが、それは違うようですね。

 MTMは、美への執着心をエネルギーとして稼働しているのです。あなたが生き返るのにも、そのエネルギーを消費しているのですよ?」

 言われて、毛利はまじまじと自分の指先、掌、腕を見た。これら全てが今当然のようにこうしてここに存しているのは、具手堅からくる邪悪なエネルギーを消費したゆえなのだ。

「彼女は、もはや神崎紅葉と同じ人間に成り下がっています。確かに、世間的に見て被害者が新たなる加害者に転じるというのはよくあることですから、腕輪がなくてもいずれ彼女は加害者に――」

「そんなことは、ありません!」

 毛利は、語気を荒げた。

「彼女は、そんな人ではありません。それは、あなたも知っているんじゃないんですか?」

「私は、表面的な彼女しか知りません。もしかしたら、彼女は心が汚れてゆく性質を持っていたのかもしれません」

 反論したい。実際に反論しようとして、彼女はある事実に気づいた。

「他の人は、誰も生き返っていないんですか?」

「もちろん。今の具手堅様が、それをお許しになるはずがありません。彼女の心にある邪悪さも無限ではありませんからね。彼女にとって取るに足らぬ部分に、貴重なエネルギーを分けてくれるはずがありません」

「そんな……」

 毛利の身体から、力が抜けてゆく。生き返った喜びは、瞬時に砕け散った。

「じゃ、じゃあ、どうして、私は生き返ったんですか?」

「具手堅様は、腕輪を手に巻いた時、失神したんですよ。一日くらい寝込んでいました。けれども具手堅様から蘇生の命令を気絶前にもらっていましたので、毛利さんは生き返ったのです。

 しかし具手堅様がずっと気絶しているわけはなく、目が覚めてから前言を撤回なさいました。もうこれ以上、生き返らせなくともよい、と彼女は……」

「で、でも、ど、どうして、私を最初に蘇生させたの?」

「池田さんの死体は池田財団が関与してきて回収に手間取っていて、大前さんは選択肢IIによって美を奪われているのでその復旧に時間がかかりますし、内蔵などの購入者からすぐに買い戻せた毛利さんからまず初めに蘇生しよう、ということになったのです」

 なぜ、具手堅は卒倒したのだろう。次から次へと疑問が湧いてくる。

「もし私の推測が正しければ、腕輪が彼女の心を闇で染めようと機能したのに、具手堅様はそれに必死に抗ったのでしょう。だから、意識を失ってしまった。とはいえその結果、彼女は敗北を喫してしまい、闇に心を委ねているのですが」

 彼は、「やれやれ」と言い加えた。

「とりあえず、私の役目は終わりました。それでは」

 彼が片手を上げて立ち去ろうとしたので、毛利は「ちょっと待ってください」とベッドの上で叫んだ。

 が、それでも進み続けるので、彼女はベッドから降り、裸足で彼に駆け寄った。

 冷たい感触が、直接、足の裏にまとわりつく。

「待ってください」

 彼女は、彼の手を取った。

「なんですか?」

 振り返らずに、彼はそう言った。

「彼女を、具手堅清佳を助けてあげてください」

「勘弁してください。私は、もうMTMとは関わりたくないのです。もし私が手助けして、神崎様に恨まれたり、あるいはスポンサーに恨まれたりしたら、何をされるかわかったものではありません」

「そんな冷たいことを言わないで、どうか――」

「あなたは、選択肢を知っていますか?」

 彼は、彼女の質問を無視して問うてきた。

「選択肢?」

「あなたは、MTMの内部情報を知っていると思いますが?」



I→相手の心を整形する

II→相手を捕らえて、MTM本部に運び込み、相手の美をもらい受ける

III→相手を殺害し、内蔵を売り払い、それを整形手術代に当てる



 毛利は、思い出した。

 非常に重要な選択肢。

 計画を進める、円滑に。

「で、でも、それがどうしたんです?」

「さあ……私は、それしかもう言いません。しかしそれにしても世の中は、本当に不条理で乱れて、不合理で濡れそぼっていますよね。誰かが外見を改善しなくてはならない。誰かが内面を改良しなくてはならない。よくよく考えてみれば実に馬鹿らしくて、泣けてきますよ。皆は、あるがままの自分を、あるがままの相手を、そのまま受けとめて、生きていけばいいのに……理想論なのかもしれませんがね」

 彼は一息吐いてから、

「それでも、あなたが『改善』をしたいというのなら、どうぞご勝手に。私の代わりは、もう入っているみたいですしね」

 そう言って、今度こそ内面整形外科医はその場を去ってしまった。

 後には、毛利ただ一人がぽつりと残されていた。

 彼は何を言いたかったのだろう。

 いや、何かを言いたかったのだ。けれども自分の身に何かがあることを恐れて――いや、自分の身に何かが起きて、娘を孤立無援にさせないために何も言わなかったのだろう。

 いや、彼は言っていた。確かに、手がかりをくれた。

 今、MTMにはレギュラー陣も、司会者もいない。今までは彼らが賛成票を投じて、選択肢の権利を付与するか否かの審議がなされてきた。だが、その票を投じる者は不在である。もしも、そこに被害者が名乗りを上げて参戦の意思表示をしたら、どうなるのだろう。

 どうかなるのだろう。

 試してみる価値はある。

 部屋を出る。

 廊下が続いていた。床と壁は一点の曇りもない乳白色で染められており、冷たさを感じてしまう。右手を見ると、大きな黒い扉があった。重厚感と威圧感を搭載するそれは、周囲の色合いや雰囲気とは明らかに異質で、その先に日常生活とは隔絶された世界が広がっているのだろう、ということは容易く推測できる。

 彼女は、その扉をくぐった。

 スモークと光が、彼女に吹きかけられる。

 眩しい。彼女は目を閉じる。それらが消えてゆくのを待った。

 十秒くらいそうしていただろうか、彼女は目を開けて様子を見た。

 誰もいない空間だが、話に聞いていた内装と一致しているので、おそらくここがMTMのスタジオなのだろう。

「誰かいませんか?」

 言っても、無言の返答がなされるだけである。

「私は被害者です。認めてくれますね?」

 やはり無音のままだったが、彼女はそれを勝手に承諾と受け取った。そもそも被害者か否かを認定するのはレギュラー陣と司会者なのだが、今、彼らは不在なのだからどうしようもない。

「実は、私は脳性麻痺で、色々と酷い仕打ちを受けてきました。特に、葉っぱからのイジメは陰湿でいて陰惨でした。その時は、たえられないと感じていました。これ以上の苦痛や苦悩、苦労、不幸は断じてないと確信していました」

 彼女の内面は荒れ狂い、言葉は静かな怒りを羽織っていた。

「でも、違うんですね。まだ、これ以上の苦悩があるとは思ってもみませんでした。私は数々のイジメを受けてきましたが、最大のイジメを最近受けたんです。そいつは、恨んでも恨みきれません。墓場までその恨み辛みを持っていこうと考えていますが、おそらくそこにも入りきらないことでしょう」

 毛利は、そこで言葉を句切った。

「私にとっての最大の加害者、それは二人の友を殺した具手堅清佳、です。どうです? レギュラー陣の皆さん、私は選択肢を授かる権利を持つ被害者でしょうか?」

 彼女はいもしない存在に語りかけて、三脚の机に向かった。

 各々の机には、スイッチが配されている。彼女はそれら一つ一つを丁寧に押してゆき、スクリーンに、『賛成』を表示させてゆく。

 全てを押し終えてから、

「全員賛成ですか。ありがとうございます」

 彼女が手を叩いてみると、前方にあるスクリーンに文字の軍団が並べられる。一体このスクリーンは、何度その文字列を表示したことだろう。

 毛利にとっては新鮮味のある選択肢も、スクリーンにとっては飽き飽きしているものに違いない。

「私は を選びます。これで、いいです」

 彼女が中央の椅子に座ると、すうっと移動し始めた。それにつれて横の壁が滝を割るように開かれてゆき、とうとう完全に開かれた。そこに入ると、技術者達が気難しそうな顔をして座っていた。

「私達は、もう何も言うことはありません。本当に、いい時に来ましたね。もうじき、新たなレギュラー陣、司会者が来るのですけれども、それまでに被害者の方が来るとは、ね」

「え? じゃあ、本当に、本当に私の願いを叶えてくれるのですね?」

「仕方ないでしょう」

 その時、激しい音を立てて、扉が開かれた。

「貴様あああああああああああああああああああああ!」

 殺意の衝動が、辺りを駆け抜ける。

 急に、空気に禍々しいもの、毒々しいものが混入されて、息苦しくなる。

 振り向くと、入り口に具手堅がいた。いや、具手堅であって具手堅ではない存在がいた。彼女の目は、『葉っぱ』のそれと同等で同質で同量であった。

 具手堅は、すっかり加害者になってしまったのである。

「許さない。私のエネルギーは私のものだ。誰にも明け渡さない。このエネルギーは、これからの私の美のため、今後の優秀なレギュラー陣になりうる被害者のために存在しているもの。お前のような脆弱な者のためにあるものではない!」

「かわいそう……早く、元に戻してあげてください。彼女の内面を整形してあげてください」

 毛利が、技術者達に頭を下げた。

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ビューティー殺し合う 異次元 @izigen

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