影がある犬

空伏空人

影のない犬

「なんだこの犬」

「影がねえぞ」

「影がねえ」

「どこにやったんだこいつ」

 そんな声が聞こえてきたという。

 学校に向かうため、家の近くにある電車の駅へと向かおうとしていた森川は、その声に聞き覚えがあったという。

「同じクラスの同級生だった。話したことはないけど、声と顔は知っている。相手はこっちの名前まで知っていたようだけど」

 森川は人の名前を覚えるのがとことん苦手だ。知り合い、話したことがある程度ならもうすっかり忘れてしまう。

 時間を確認すると、まだ電車が来る時間ではなかった。だから森川は声のする方へと向かってみた。

「そこにいたのは、やっぱり同級生で、動物を囲っているみたいだった」

 中腰になった四人の同級生。その体の間から覗き込むようにして、動物の正体を確かめたらしい。

 動物は犬だった。大型犬。

「ふさふさした毛で覆われてて、まるでモップみたいだった」

 かわいらしいなあ。と森川は思ったらしい。

 しかし、それだけ。

 普通の犬。

 それにこれだけ興奮するなんて、まさかこいつらはそんなにも動物が好きだったのだろうか。

「ちょっとばかし意外でしたね。悪口みたいですけど、そいつらの顔。少なくとも動物を愛でるのが好きそうな顔ではなかったですから」

 そんな風に森川が疑問を覚えていると、同級生の一人が再びこんなことを言った。

「なんで影がないんだ、こいつ」

 影がない? そんなバカな。

 目の前にいるのは普通の犬だ。

 足元にはしっかり影があるし、毛の間にだって影はある。

 太陽の下にいるのだから、そんなの、当たり前だろう。

「だから私は、彼らに言ってしまったんですね」

 影、あるだろう。なに言ってんだお前ら?

 すると同級生は顔だけ動かして森川の方を見ると、怪訝そうな表情を浮かべた。まるで嘘つきか現実をしっかり見れていない人を見るような目だったらしい。

「幽霊なんていないだろう。と言ったら、霊感のある人たちに睨まれてしまった。そんな感じでしたね。私は本当のことを言っているはずなのに、事実を語っているはずなのに、彼らからしてみると適当なことを言っていると思われるみたいな」

 そんな目を向けられるのは、森川からしてみると不服そのものだったらしい。だから彼は頑として、その姿勢を崩したりすることはなかった。

 すると、その態度に辟易したのか、同級生はポケットから携帯を取りだすと、それで犬の写真をパシャリ、と撮った。

「ほら。見てみろよ。と同級生は私に写真を見せてきました」

 そこに写っているのは、やはりというかなんというか、そこに座っている犬だ。

 ただし、その犬の足元には影がなかった。

 慌てて本物の犬を確認する。何度見ても、影があった。

「私にしか見えない、影がありました。もう、どうなってるんだこれ。という気分でしたね」

 森川は慄いて、少しばかり後ずさったらしい。

 すると、足元からぶちん。と音がした。

 うわ。と声をあげて、足元を見る。

「靴紐が千切れてました。こう、両側から力任せにぶちっと千切ったみたいな」

 森川は両手で紐を引っ張って千切るような動作をする。もちろんのことながら、紐というのはそう簡単に千切れない。

「不吉だなあ。と、その時は思いました。靴紐が切れるのは、不吉なことがおきる前触れだと言うじゃあないですか」

 その時だった。と森川は言う。

 バウ。と犬が鳴いたのだという。まるで森川の靴紐が切れるのを待っていたようだった。

 犬はそのまま、どこかに走っていったらしい。

「そういえばあの犬。リードも首輪もつけていませんでしたね」


***


 その日から、森川の生活は散々なものだったらしい。

 靴紐が切れたせいで歩きづらく、うっかり電車を乗り過ごしてしまったり、授業中、回ってきた手紙――これまた古風なやりとりだと思う――が、彼のタイミングで先生にバレてこっぴどく叱られたりした。

「先生に怒られたあと、同級生にも怒られました。お前、どうして見つかるんだよ。と。いや、どちらかというと『おめぇ』だったかもしれないですね」

 なんだか全体的に、皆ギスギスしているというか、森川にだけあたりが強かったらしい。ちょっとしたことですぐ怒ってくる。もはやなにもしないほうがいいのではないだろうか。そう思えるほどだったらしい。

「なにもしないもなにもしないで怒られましたけどね、なんか、ギスギスしているというか。僕に近づいてほしくないようでした」

 なんだ。なんだ?

 まるで厄介モノみたいに。

 はじめのうちは森川も、そういう遊びなのだと、そういう解釈をして我慢をしていたのだけれど、それでも数週間も続くとさすがに不安になってくる。不審感を覚える。嫌な気分だ。

「不安と言えば、もう一つありました」

 例の、森川にだけ影がみえる犬だ。

 あの後も、あの犬を度々見かけたという。

 手紙を発見されて、取り上げられながら先生に怒られていたとき、あの犬は校庭の真ん中にちょこんと座っていたらしい。

「口を開けていましたし、吠えてましたね。あれは。バウ。って」

 同級生たちに怒られているときにも、その犬をみた。

 やはり、バウ。と吠えた。

 それからというもの、犬は度々森川の前に現れたという。

「現れるときは大体、なにか嫌なことが起きたときでした。電車に乗り遅れたり、酔っぱらいにゲロ吐きかけられたり、目の前で急に人が倒れたり、財布を落としたり」

 近くにいるわけではない。けれども、どこにいるのかは分かるらしい。現れると、あ、来たな。という気持ちになって、その方向を見てみると、やはり犬はいる。ちょこんと座って、嫌なことが起きた森川をまるで馬鹿にするかのようにバウ。と吠えるらしかった。

「せめて嫌なことが起きる前なら、役にたっただろうに、起きた後に、しかも馬鹿にでもするかのように吠えるものだから、あまり好きではありませんでした」

 しかし、犬が現れるようになったことと、嫌なことがたびたび起きるようになった程度のことだったから、森川もそこまで気にすることなく生活を続けていた。

 知り合いに話したときには――やはり邪険ながらも――その筋の人に一度見てもらった方がいいんじゃあないか? と言われたらしいが、森川自身、霊を信じていなかったし、霊能関係は胡散臭いものとしか思えなかったから、丁重にお断りしたらしい。

「問題が起きたとすれば、このあとすぐのことでした」

 嫌なことが起きるのにもそろそろ慣れ始めた頃だと森川は言う。

 電車は乗り遅れるから、それを前提として動くようになったし、人身事故に巻き込まれたときは、速やかに学校に電話するようになった。スマホの充電を忘れて、電話が繋がらないなんてことが起きてからは、充電器を用意したりもした。影のある犬の吠える声にも、少しずつ慣れ始めていた。

 だから。

 まあ。

「油断していたのだと思います」

 自転車に乗っていたときだという。

 下り坂。

 ブレーキをかけて速度を落としたりもせずに、風を感じていたらしい。

 気持ちいい。と思ったその時。

 視界の端に、あの犬を見たという。

「いつもなら、なにかが起きたあとに現れるのに、変だなあ。と思ったんですよね」

 理由はすぐに分かった。単純な話だったのだ。もう、なにかが起きていたのだ。

 バウ。と犬は鳴いた。

 森川は嫌な予感がして、ブレーキをかけようとした。

 しかし、ブレーキはかからなかった。

 壊れていたのだ。

 頭の中が真っ白になった。

 そこでさらに不運がおきたとすれば、目の前を猫が横切ったことだろう。

 森川はその猫を避けるために、自転車のハンドルをきった。

 そこまでしか、もう記憶がないらしい。

 真っ暗な視界の中、バウ。と犬が鳴いた。

「次に目が覚めたとき、私は病院にいました」

 どうやら自転車ですごい転げ方をして、数週間ぐらい意識を失っていたらしい。

「起きたとき私は、犬のことを思い出していました」

 あの犬が起こす嫌なことが、きっとグレードがあがったのだと。

 ちょっと嫌なことが、すごく嫌なことに変わったのだと理解した。

 これはまずい、と森川は考えたという。

 なんでもいいから、とにかくこの状況を打破するべきだと考えた森川は、以前友達に一応ということで教えてもらっていた霊能力者の電話番号に連絡すると、すぐに来るように言われた。

 起きてからも一日ぐらい入院するように言われた森川は、もう一日だけ入院してから、霊能関係がいるところへと向かった。

「その一日は、気が気でなかったですね。病院内での、危ない嫌なことなんて、どう考えても死にそうなことしかないじゃあないですか」

 だから日が昇って退院したときにはすごく助かった気持ちになった。まだなにも解決していないのに。だ。

 森川は退院してからすぐに、霊能関係の人のところへと向かうために、電車に乗り込もうと駅に向かったという。

「その時の格好は制服でした。ブレザーの。首元を締めるようにネクタイがあるやつです」

 森川はネクタイを締めるような動作をした。

 エスカレーターに乗って、駅にあがろうとしたときだった。彼自身、慌てていたからだろう。エスカレーターの上でこけてしまった。動く階段に足をとられたのだ。

 段差が体に突き刺さって痛かったことを、森川は覚えている。さらに言えば、息ができず苦しかったことも覚えている。

「こう、エスカレーターって隙間があるじゃあないですか。移動させるための隙間。そこに、ネクタイが挟まって、首が締められたんです」

 額に汗が滲んだ。エスカレーターが上がれば上がるほど、自然と首が閉まっていく。しかもエスカレーターというものは、一番上に到達すれば段差を一旦収納してしまう。そこにたどり着けば自分がどうなるのかは考えるまでもない。

 森川は焦りに焦った。嫌なことがあったから次はこうしよう。と対処してきたから、次がないだろうこの状況をどう対処したらいいのかさっぱり分からなかった。森川は首に巻かれたネクタイをほどこうとしながら、エレベーターのてっぺんを見上げた。

 犬が座っていた。

 今まで離れた場所にしか現れなかった犬が、そこにいる。

 口を動かした。

 あ、吠える。森川は慌てる体と思考の中で、しかしそれだけは妙に冷静に理解できたという。

 だから、彼はとっさに。

「待て!」

 と叫んだらしい。

 エレベーターは動きを止めた。誰かが緊急停止ボタンを押してくれたのだろう。

 エレベーターの上にはなにもいなかった。

「それからですね、犬が出てくるたびに待てというようになったのは」

 待て。と森川が言った。

 私は振り返る。ちょうど、犬が背を向けてどこかに去っていくところだった。

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影がある犬 空伏空人 @karabushi

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