第3話

 「そうか……」

 そのままガロンは少し俯きがちに顔をふせ、眉間を指で抑えた。長い年季が入り、節くれだった細い指は多くの苦労が皺となって深く刻まれている。

 八歳の時に両親を亡くして以来十年間、ガロンは男手一つでハイネを育ててきた。時に厳しく、時に優しく。よく怒られ拳骨をくらったものだったが、その根底にはいつもハイネに対する慈愛で満ちていた。ハイネもそれを十分理解していたし、そんな祖父が大好きだった。

 そもそもハイネがここまで感受性豊かになったのも、勿論元来の性質が大半を占めるのだが、この厳格で正義感に溢れる祖父を見て育ってきたというのも一因にある。その人柄故地域の人々からの人望厚いガロンは“困っている人がいたら手を差し出せ”“己の私利私欲だけで物事を捉えるな”と常日頃からハイネに教え込んできたものだった。

 だからハイネは今回も、事情を話せばインナを匿ってくれると思っていたのだ。彼女はどっから見ても危機的状況にあるし、このままサーカス団に見つかれば酷い目に遭うのだから見捨てるわけにはいかない、と。

 だから、真剣な表情で顔をあげた祖父の言い放った言葉が、ハイネにはにわかに信じ難かったのだ。思わず、聞き返す程には。

 「……じーちゃん、いま、なんて、」

 「だから、今すぐ出て行って欲しいと言ったんじゃ。お嬢さんをここに置いておくわけにはいかない、とな」

 カッと頭に一気に血が登っていく感覚がした。まさか、いつでも堂々とした背中を見せて、かっこよかったあの祖父が。

 「お主には足があろうに、儂らが匿わんでも走って逃げられよう」

 トドメと言わんばかりに語気を強めてガロンが言ったことで、火がついた。ただでさえ人目が多いこの街で、こんなに目を引く格好をしたインナが誰の目にも留まらず逃げ切るなんて、不可能に近い。

 しかもその羽は、トロスの伝承に基づけば、ただの目立つ飾りにしか過ぎない。先程畑で屋根から落下してきたことや、今すぐにでも羽ばたいて逃げないことを考えれば、その内容が本当であることなど容易に想像がつく。

 ―――インナは、翔べないのだ。

 どうして、と詰め寄るために席を立ち上がろうとした時、隣で静かに座っていたインナがそれを羽で制した。ふわふわな綿毛のようにみえた羽が実際に触れると結構しっかりとしていて、翔ぶためにあるものだという事を実感する。なのに翔べず、弄ばれ異質の対象としてしか見られないこの“飾り”を、彼女達は今までどれほど引きちぎりたいと思ってきたのだろう。

 「勿論です、サーカスはもうすぐ始まります。いつまでも私に構っているわけにはいかないでしょう。ですから、むしろこの時まで置いてくださったことに感謝します」

 ありがとうございました、と頭を下げるインナは当然とでもいう口ぶりだった。その姿が逆に痛々しく、心が軋んだ音をたてる。

 「なら、せめて夜まで待って、人目が無い時がいいよ。今すぐなんて……」

 「いや、今、すぐじゃ」

 有無を言わさない口調だった。ガロンの見たこともない程鋭い眼光に、思わず言葉が詰まる。

 インナがもう一礼して正面ドアから飛び出していくのを視界の端で捉えながら、最後にハイネの方を一瞬振り返って微笑んだのをハイネは見逃さなかった。ありがとう、という感謝の気持ちが視線を通じて伝わってくる。そこに最初出会った時の恐怖や不安な影は見られなかった。一本筋の通ったはっきりとした性格なんだろうなと思う。

 「……じーちゃん、俺、じーちゃんのこと見損なったよ」

 やはり、サーカス団の団員達が大勢インナを探してうろうろしているこの時間帯に、外へ放り出すわけにはいかない。滅多にしない反抗的眼差しで祖父を一瞥して、インナを引き留めようと立ち上がる。が、それは驚くべき速さで目の前に立ちはだかったガロンによって叶うことは無かった。

 「追わせんぞ、ハイネ。絶対にな」

 低い声で唸るようにガロンが言う。老いぼれて一回り小さくなったはずのガロンだが、今や普段の二、三倍大きな存在としてハイネの目に映った。「お願いだよ、どいて」と何度頼んでも、何があったって通さないとでもいうような覚悟の固さが痛いほどに伝わってきて、ハイネは困惑した。

 もし自分が全力でぶつかれば、この体格差だ。或いは突破できるかもしれない。がしかし、そんなことを今この目の前にいる祖父にやれと言われても、無意識下の自制心が勝って上手いこと体が言うことを聞こうとしない。ただ「どいて」と抗議する傍らで、早くしないとインナが行ってしまうという焦りばかりが募っていく。

 

 その途端、ハイネは朝御飯を作る時の火をかけっぱにして、安全装置が作動したのかと思った。キィィィンという水晶特有の不協和音が鳴り響く。

 「街の異常事態下警報だ」

 街全体に響くよう設定されたあまりの音量に、思わずハイネは耳を塞いだ。空気が音に合わせて振動する。避難訓練の時以外でこの音を聞いたのは初めてである。

 大丈夫?とガロンの方に目をやると、同じように耳を塞ぎ、なんとか事態を飲み込もうとしているところだった。

 水晶音に被さるように、さらにカンカンという鉄器を打ち鳴らす音が重なった。“今すぐ逃げろ”という緊急警告だ。

 「一体なにが起きておるんじゃ!?」

 「じーちゃん、とにかく荷物持って行こう」

 外は既に逃げ惑う人々で大騒ぎになっている。先程のサーカス団が駆け回っているときの比ではない。ハイネはこの平和な港町で使うことなどないだろうと思っていた避難用荷物を急いで二つ棚から下ろしひっつかむと、片方をガロンに渡した。

 地面が揺れる。それが地鳴りだと気づく前に、街の方から盛大な崩壊音が響いた。どこかの家が崩れたのだろうか、悲鳴が聞こえる。

 ドアを開けると、一気に砂埃が巻き上がりハイネはむせた。器官に砂が入り込んだのか、喉がちりちりとして痛い。むわりと熱気が顔を覆って爆風が体を打ち付ける。なんとか後ろにいるガロンを庇うようにドアに両手をかけて耐えきり、視線をずらせば斜め前の家が火を放ってごうごうと燃え上がっていた。

 もうなにがなんだかわからなかった。数分前までの穏やかな朝は跡形もなく消え失せ、阿鼻叫喚の嵐となっている。人々は皆パニック状態だった。

 カラスが首を絞められたような、喉の奥から絞り出された呻きとも絶叫とも言えない謎の鳴き声が頭上から聞こえてきて、ハイネは反射的に頭上を見上げ、後悔した。ぞっと背筋が冷たくなり、冷や汗が吹き出す。

 視線の先にあったのは、秋晴れの快晴ではなく、それを覆い尽くす真っ黒なカラスの群れと、その合間を高スピードで滑走するこれまた真っ黒な“なにか”だった。空をカラスと共に羽ばたき異様な鳴き声をたてているそれが人型を模しているということにすぐには気づかなかった。

 「ハイネえ!!“テンシ”と目を合わせるな!!!逃げろ!!!」

 後ろから肩を掴んできたガロンの叫び声で、はっと我にかえる。しかし時は既に遅く、上空の“なにか”がぐるりとその首を回転させた。ぴたりと周囲の時が止まったように感じる。

 

 瞬間、“なにか”と目が合った。ただしくは、

 

 一般的に「目」と呼ばれるもの、が“なにか”には存在していなかったのである。本来目があるべき場所にはおよそ目と言えない真っ黒な空洞が空いているだけだった。気を抜けばなにもかも飲み込んでいってしまいそうな、どこまでも空虚でどこまでもおぞましい、空っぽな「穴」。

 それが、こちらを向いている。自分の存在まるごと飲み込もうとしている。ハイネにはそう感じられた。

 “なにか”が翼を広げる。大きく真っ黒な、羽。それはどこかデジャヴを起こすものであり、すぐについさっき家を飛び出して行ってしまったあの真っ白な、激昴しかけた自分を制した、柔らかな羽であると気づいた。同時に、昔どこかで読んだ東方の絵本の挿絵にでてきたものに似ていると思った。それは“ホトケ”とよばれ、神聖なものだそうだ。大きく全てを包み込まんとする黒い羽は、そのホトケの放つ後光のように見えた。

 冒してはならない、聖なる領域。

 そしてすぐに、ガロンの言葉に納得する。“テンシ”―――天の使いである、聖なる存在、“天使”、とは上手いこと考えたなぁ、そういえば、インナは無事だろうか、なんて、場違いな思考を繰り返す自分に苦笑する。

 様々な考えが頭の中を逡巡したように思えたが、その時間は実際僅か数秒だったようだった。もう一度ガロンに名前を叫ばれ、ようやく現実味が戻ってきた。全身が逃げろと警報を鳴らし、恐怖から情けなく震えて竦む足に鞭をうつ。

 「―――っ!いこう、じーちゃん!!」

 とにかく、カラスたちが街を襲っている以上、海辺と反対側にある森の方へ逃げなければならない。街の住人の多くも、森を目指して走っているようだった。

 「ガロンさんっ、ハイネ坊、無事だったのかい?!」

 「イル!!燃えとるあの家、お前の家じゃろうに!!妻子は無事か」

 「心配ない、もう森の方へ逃げた。それより気づいてるかもしれないが、カラスの中に火を吹く《地下の使徒》が交ざってる」

 走りながらそう告げるイルの顔は恐れのあまり歪みきっていた。信じられないだろうが本当なんだ、と付け加える。

 火を吹いたり、超常現象を起こす生物の存在は珍しくない。今から逃げ込む森にも、不思議な力を発する生物はいる。しかし、それらはあくまで小型であったり無害なものが多く、このように街を襲ったりはしない。

だからといって人々に害をなす生物がいないわけではなく、《地下の使徒》と呼ばれる獰猛な性質を持つ生き物たちは各地で生息しており、しばしば被害報告があがっている。が、それもここら辺では遠くからやってくる噂でしか馴染みはなく、今までも《地下の使徒》を見たものはいなかった。

 「ちがう。《地下の使徒》など可愛いものではない。あの中央にいる黒いもの……奴は《天使》だ」

 重苦しく、ガロンが否定する。ばくばくとあがる心拍音に、ふとハイネはさっきの《天使》とよばれる生き物が今どこへいるのか確認したくなり上空へ視線をやろうとすると、ガロンに思い切り横腹をど突かれた。予期していなかった鈍い痛みに顔を顰める。

 「ばかもん!!見るなと言ったろうに!!!」

 怒るガロンにごめんよ、と言おうとした瞬間、はっとした。

 「―――あぶないっっ!!!」

 ハイネは思いっきりイルごとガロンに体当たりして、そのまま通りの側に倒れ込んだ。爆風が瓦礫を吹き飛ばして頭上を掠める。ばらばらと砂利が頭上から振り落ちてきた。クチの中を切ったようで、鉄特有の味が口の中に広がった。

 「いてて……、っくそ、《天使》のヤツ、もうハイネを見つけたか」

 ハイネの腕の下で倒れて呻きをあげるガロンが悔しそうに言ったのが聞こえた。

 見つけるって、なにを?俺を?

 いまいち転んだ衝撃で頭がはっきりとしない中、イルが、がたがたと震えて這いつくばりながら逃げようとしているのが視界に移る。そのままハイネの方を振り返り、ひぃ、と言葉に出来ない悲鳴をあげた。そこで初めて自分に影が落ちていることに気づき、後ろを振り返った。

 「う、わ」

 立ち上がりかけてたところにバランスを崩し、その場で尻餅をついてしまう。

 先刻の感覚が、ありありと蘇ってくる。

 日本の足でしっかりと地面に降り立ち、空っぽな「穴」を向けてこちらを見下ろしていたのは、さっきまで頭上にいたはずの《天使》だった。

 ぶつぶつと、なにかを言っているのが聞こえた。《天使》が、口と思われる部分から、なんらかの音を発している。発しながら、ハイネに向かって手を伸ばしてくる。早くイルとガロンを連れて逃げなくてはと思うのに、体が硬直してしまったように動かない。真っ黒な手は、細かな羽毛らしきものでびっしりと埋め尽くされているように見えた。

 

 「ハイネ!!!そこから動くではないぞ!!!!」

 

 いつの間にハイネの下から這い出たのか、ガロンが何事か呪文のようにもごもごと言葉を発し、それから一度短く声を張り上げた。その瞬間、目の前まで差し出されていたはずの《天使》の手が白い光と炸裂音と共に見えなくなる。

 キィィィという謎の音の余韻だけを残し、硝煙の匂いが鼻をついた。視界は一面煙に覆われ、何も見えない。

 後ろを振り返れば、ぜぇぜぇと息を荒らげたガロンが仁王立ちになって両手を前にかざしていた。ガロンの手には水晶のネックレスのようなものが下げられ、かざした場所には不思議な印が白く淡い光を放ちながら浮かんでいる。

 じーちゃん、と呼びかけようとして、それからは、なにがなんだかもう訳がわからなかった。

 背後で風を切る音がして、一瞬遅く凄まじい風が全身を襲った。その風が、なにかが横を通り過ぎたものからであると気づく前に、風が吹いてきた方とはまた別の方向に激しく強い力を受けて体が吹っ飛んだ。同時に二方向から力をかけられて、体が捻り切れそうになり、皮膚が、筋肉が、骨が、悲鳴をあげる。直後圧力から解放され、ふわりと浮かんだように思われたとき、何故か視界に地面が映った。端っこが赤レンガで舗装された、いつもの大通り。近所の友達と、ここで鬼ごっこをしたのはいつが最後だったっけ。

 視界の端で、ガロンとはっきり目が合った。


 

 

 

 

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