終章 卒業

 夏。最終学年となった七海名たちは、研修旅行を控えていた。「研修」の文字がつくだけあり、史跡見学、現地の高校生との交流が主な目的におかれた学校行事で、自由行動が許された日は一日のみ、その行く先は事前に担任まで提出する必要があった。そのため、日女野の生徒のうち、研修旅行を心待ちにしている生徒は多くなく、他の学校行事と特に変わらず、話題にあがることも少なかった。ただ、七海名にとっては、同じ班の織和香と、二人で一週間の時間を共にする、二度と無い機会であり、喜びを隠せない様子で、日々を過ごしていた。昼休み、七海名は、自由行動日の予定表を、園芸部の顧問であり、今年から担任も務めている教諭に渡した。

「先生。ひとつ、お願いがあります。この日にお世話になるタクシーの運転手さんについて、女性の方にしていただけませんでしょうか。私も、頼野よりのさんも、その……」

 一呼吸置いたところで、続く言葉を察した教諭が口を開いた。

「なるほど、わかりました」

「ありがとうございます」

「いいえ。たまにある話なので、気にしないでくださいね。そもそも、うちの校則からして、同じ車に男性の方と乗ること自体が、どうかという意見もあるくらいですから」

 教諭は、手帳にメモを残した後、軽い足取りで職員室の方に向かって行った。七海名は、その頼もしい背中を見て、安心した表情を見せた。

「この高校って。入学する時は、気が重くて仕方が無かったけど、そんなに悪い学校じゃないのかもしれないね……」

 数ヶ月前、他校の男子生徒が現れて以降、織和香の周囲を意識するようになっていた。幸い、よからぬ気配が現れることは無く、園芸部の活動も、六月をもって無事に終了した。今の七海名は、織和香と共に作成した数冊の漫画が立てかけられた机に向かい、受験勉強に追われる日々が続いていた。学校内では、時折、怯えた目になる織和香を見て、心配することも多かったが、その気持ちを織和香が感じ取ることで、余計な気遣いをされないよう、つとめて、明るく振る舞った。二人で班を組んだ研修旅行についても、見知らぬ土地で、怖い思いをさせないよう、考えを凝らしていた。

 研修旅行初日、日女野女子高校の約百六十名の研修旅行生と引率の教諭陣は、河内阪かわちざか空港で搭乗手続きを済ませ、大型旅客機内にいた。搭乗手続きの際、初めての経験に手間取る織和香を、七海名が助ける場面もあった。機内では、エコノミークラスに座らせられたことに対して、不満そうな表情を浮かべる生徒が目立っていたが、七海名と織和香は、二人掛けの席の窓際に座り、揃って、雲の海を眺めながら、非日常的な場での会話を楽しみ、北の大地へ向かった。

 夕方、道庁所在地にある大型ホテルに到着し、大ホールでの夕食を済ませた七海名と織和香は、スイートツインルームに入った。夕食では、洋食のフルコース料理が振る舞われ、テーブルマナーが試される場であったが、生徒の誰もが慣れた手つきで食事を済ませた。コース料理は好まない七海名であったが、織和香と初めて夕食を共にしたことで、いよいよ研修旅行が始まったことを実感した。部屋に入ると、織和香が困った表情で、

「明かりが点かないのですが、壊れてしまっているのでしょうか?」

「これを、ここに入れるんだよ」

 二枚用意されたカードキーのうち、一枚を、ドア付近の壁に取り付けられた制御盤に指し、暖色の蛍光灯を点灯させた。

「なるほど」

 初めて見る仕組みに感心した様子の織和香を横目に、今日から二人で一週間を過ごすことを考えると、胸が躍った。そして、バスルーム横にある洗面所の、蛇口から出される水を一口飲み、臭いと味を確認してから、小型の電気ケトルに水を入れ、湯を沸かし、ティーカップに注ぐと、椅子に座りながら部屋の中を物珍しそうに見渡し、大きな黒目を動かしている織和香の前に差し出した。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

 業務用ティーパックの紅茶だったが、湿度の低い部屋によって乾燥した二人の喉を十分に潤わせた。七海名は、織和香の喉と唇を見ながら、静かな部屋で二人きりになった事実をあらためて感じると、忘れていた緊張が再び現れた。

「あの。織和香、おふっ」

 急に口をとがらせた七海名に、織和香は、澄んだ瞳を真っ直ぐに向けた。

「どうしたのですか?」

「お風呂、入る?」

「はい。そうですね。よろしかったら、七海名さんの方から、先に入りませんか?」

「私が先に?」

「はい。準備してきますね」

「わ、わかった。ありがと」

 織和香は、椅子から立ち上がり、バスルームへ向かっていった。あわよくば一緒に入浴が出来ないものかと考えていたが、そのようなことをまるで想定していない織和香の顔を見て、心の中に罪悪感がじわりと滲んだ。

「ああもう! 私ってば!」

 浴室の方向に傾けかけた視線を振り払うように、ベッドにうつぶせで倒れ、足をばたつかせた。

 自由行動の日。七海名と織和香は、学校から用意されたタクシーの車内にいた。タクシーは、年季の入った車体であるものの、清潔さが保たれており、やや大きなエンジン音を鳴らしながら、目的地に向かっている。二人は、慣れないタクシーの車内で、どのように振る舞ったらよいのかわからず、表情を少し強ばらせていた。見本のような安全運転を続けている女性運転手が、バックミラー越しに二人の様子を見やり、

「二人は、どこから来たの?」

 明るい笑顔で話しかけた。

西室にしのむろ市です。神ノ辺かみのべ市の隣、と言った方が、わかりやすいでしょうか」

 七海名が丁寧な口調で答えると、

「西室も神ノ辺も、知ってるよ! 色んなところから、お客さんが来るからね。どっちも、良いところだよね。お客さんがどこから来たとしても、良いところって言うけど、どこも本当に良いところだと思ってるよ」

 運転手がそう言うと、先ほどまで静かだった車内に笑いが起きた。出発から十分ほどで市街地を出ると、西室市でも、神ノ辺市でも見ることができない景色が、窓の外に広がった。祖父母の住んでいる神ノ辺市北区も、自然豊かな土地だと思っていたが、それとは比べものにならない、まさに広大と呼べる景色だった。しばらく運転すると、小高い丘に差し掛かり、

「ここはね、私のおすすめの場所だよ。パンフレットとかには載ってないから、誰もいないんだよ」

 運転手が駐車スペースにタクシーを停め、ドアを開け、車の外に出てみるよう促すと、数十メートル離れた先にある場所を指さした。

「階段を上がると、すぐ見晴らし台になってるから。景色、見てきてみ。私は、ここで待ってるから」

 外に出た七海名は、階段が緩やかであることを確認してから、織和香を自分の半歩先に歩かせた。二人が段を上っていくと、周囲を見晴らせる場所に辿り着き、そこから広がる広大な景色を見た。視界には、人の姿はおろか気配も無く、空は、濃い青色が広がり、その青さは、力強い白さと迫力のある雲とのコントラストが映え、大地には、優しくも凄みのある自然芝の緑色が広がっている。七海名は、色鉛筆をどれだけ用意しても、目の前に広がるこの景色は、自らの手で表現できないことを感じ、ふと、この広い大地に、自分独りが、ぽつりと佇んでいる気持ちになった。何秒か景色を見つめた後、すぐ左を見ると、そこには、これまで高校生活を共にしてきた織和香が、いつか中庭で見たあの日と同じように立っており、景色を見つめていた。

「綺麗だね」

「そうですね」

「私は、元々、考えを口に出すことって苦手だけど、本当に凄いものを見た時って、もっと言葉に困る。なにも言えなくなることもある」

 七海名が言うと、織和香の方を向いた。

「この景色、織和香と見られてよかった」

「はい。私も七海名さんと見ることができて、嬉しいです」

 まるで恋人同士の会話だと、恥ずかしさで顔を赤くした七海名は、視線を落とすと、織和香の白く細い手に、強い日差しが当たっていた。

「いつまでも見ていたいけど、運転手さんを待たせたら悪いし、そろそろ、戻ろうか」

「はい」

 今度は、上がって来た際とは逆に、七海名が半歩先を歩きながら、タクシーの元に戻ると、二人に気づいた運転手が運転席から出てきた。

「どうだった?」

「とても綺麗でした」

 心からそう思っていることが伝わる、七海名の率直な言葉に続いて、

「素敵な場所を教えていただき、ありがとうございます」

 織和香も同様に答えた。

「楽しめたなら、よかった。次は、美味しいアイスクリームが売ってるお店あるから、そこに寄ってから、目的地に行かない? 同級生夫婦がやってるお店なんだけど、本当に美味しいからね。ご馳走してあげる!」

 七海名と織和香は、顔を向き合わせて笑った後、運転手の手で丁寧に開けられたドアから、涼しい車内に戻った。

 午後九時過ぎのホテルの部屋。七海名は独り、窓の外を見つめていた。窓からは、北幌きたほろ市の夜景が見える。海と山に挟まれた神ノ辺市の夜景とはまた違い、広大な土地に、建物の光が広がっている。また、空気が澄んでいるせいか、北幌市の夜景の光は、色の違いに敏感な七海名の目には、神ノ辺市の夜景に比べて、より鮮やかに見えた。七海名は、研修旅行という特別な期間だからといって、織和香への思いを伝えることは考えていなかったが、旅行の日程が着実に進んでいくにつれ、残り半年ほどの高校生活が、着実に終わりに近づいていることを感じていた。

「相変わらず、私はすぐ焦る」

 左手の中指が、冷たいガラスに触れた。

「もし、私が、自分の考えを言葉にすること、喋ることが得意な人間だったら、織和香に色んな感情をぶつけて、困らせたと思う。喋ることが苦手で、よかったかもしれない」

 絵画を見つめる時のように、真剣な眼差しで夜景を眺めていると、バスルームから聴こえていた、歯を磨く音が止まり、織和香がゆっくりと部屋まで戻ってきた。

「そろそろ寝る?」

 窓のカーテンを締め、身体を部屋の方に向け、織和香に聞いた。

「お待たせしました。そうですね。寝ましょうか」

 二人は、それぞれベッドに移動する。その際、風呂上がりの少し赤らんだ織和香の顔と、乾いたばかりの髪の毛を横目に見た七海名の唇が、微かに動いた。ベッドに入った七海名は、慣れた手つきで、枕元にあるスイッチを押し、ダウンライトを消すと、部屋の明かりは、弱いフットライトと、カーテンの僅かな隙間から入る、夜景の光だけになり、しばしの沈黙が流れた。

「……そっちに行ってもいい?」

 織和香は、七海名の突然の言葉に、その意図をはかりかね、えっ、という口の動きをした。

「一緒に、横になりたくて」

「……は、はい。いいですよ」

「ありがと」

 七海名は、ベッドからゆっくりと立ち上がり、隣のベッドで仰向けになっている織和香の顔を見下ろすと、織和香はゆっくりと、ベッドの左側に身体を移動させた。それを確認すると、

「入るね」

 神妙な顔のまま、七海名もベッドに入った。先ほどまで織和香が触れていた掛け布団は、ほのかに温かく、二人の肩が触れ合った。互いに天井を見つめていると、織和香が、

「突然、どうしたのですか?」

 七海名の目を見ながら、聞いた。七海名も織和香の目を見て、

「織和香と、こういうことしてみたかったんだよ」

 言うと、

「そうでしたか」

 安心したように微笑んだ。

「嫌じゃなかったら……手を繋いでも、いい?」

「は、はい。いいですよ」

 布団の中にある織和香の手を探り、温かい手を右手を握った。これまで幾多の絵を描いてきた七海名の左手が、初めて、織和香の肌に触れた。

「私、兄弟いないし、年の近い親戚もいないから、こうやって同じ布団で寝て手を繋ぐの、一度やってみたかったんだよね。……その相手が、織和香なら良いなって、ずっと思ってたんだよ」

 建前でも本音でもあることを言葉にした。

「そうでしたか」

 織和香は目を僅かに細めると、右手に力が込もった。

「昔からね。家で、寝る前にこうやって天井を眺めてるとね。ただの暗い天井なんだけど、まだなにも描いてない画用紙に見える時があるんだよね」

 真顔のまま、天井を見つめ、今まで経験してきたことを思い出しながら、独り言のように呟いた。

「例えば、父親のことで腹を立てた時なんか、嫌な気持ちを上書きするみたいに、天井を見ながら、頭の中で絵を描いたり、友達のことを考えたりしてた。織和香と出会ってからは、織和香のことも、よく考えたよ」

 これまで、体調不良になりながらも勉強し、絵を描き、漫画を作成し、そして織和香への想いを募らせてきた日々のことを思い返した。

「まあ……。だからどうって訳じゃないんだけど。こういう話って、普段は出来ないから、今日言おうかなって思った」

「卒業しても、私、津戸 七海名っていう人間がいたこと。私と、一緒に部活をして過ごしたこと。漫画を作ったこと。できれば、ずっと覚えていて欲しいな」

「七海名さん。そんな……忘れるはずがありませんよ」

 織和香の手に、再び、力が込められた。七海名は、その、花のように優しくも、しっかりとした力を確かに感じ、

「ありがとう」

 軽く唇を噛みしめながら、目を閉じた。うんと頷いた後に目を開けると、すぐ隣に、織和香の顔があった。長い睫毛と、大きな瞳。潤いのある唇。誰よりも、なによりも綺麗だと思える女性の顔が、真っ直ぐに七海名を見つめている。今ならば、唇をつけることくらいは叶うかもしれない、と考えた。しかし、先ほど、ベッドに入ってもよいかと聞いた際には無かった、欲という感情が芽生えたことに気がつくと、その考えはすぐに消えた。織和香の顔を見ると、自分にとって尊いと思う絵を、遠くで眺めているような感覚を得る。単なる好意を超え、尊さを感じるものには、勝手に触れてはいけない。

「このまま寝てもいいかな」

「はい」

 手を繋いだまま、眠りについた。

 卒業を控えた三月。七海名は静かな自室で、携帯電話の画面を見つめていた。去年の六月に園芸部を引退してからは、絵を描くためにペンを持つ機会は無くなった。その代わり、織和香と作った漫画に見守られるように、受験勉強に励んだが、自己採点による予想の通り、神ノ辺大学の入学試験の結果は、不合格だった。七海名は、同じ大学を受験した比奈子に対して、電話を掛けた。

「七海名」

 普段よりもトーンの低い、比奈子の声が聞こえた。

「お疲れさま。私は、駄目だった。春からは、甲東こうとう学院に行くよ」

「七海名こそ、お疲れさま。私は……合格したよ」

「やっぱり、比奈子は凄いね。あんな多くの科目の勉強をこなすの、私には無理だったよ」

 国立大学の入学試験という、多数科目の受験を実際に経験し、比奈子を見る目が多少、変わっていた。

「そんなことないよ。運が良かったと思う。落ちる訳にはいかないから、必死だったけどね」

「私さ。落ちたのに『悔しい』って思えないのが悔しい。三年になってから、ずっと、絵も描いてないし、勉強も頑張れなかった。どれも中途半端だ」

「神ノ辺大学は落ちちゃっても、甲東学院は受かったし、頑張ったと思うけどな。それに、会った時はいつも好きな子のこと、話してくれてたでしょ。好きな子のことは、頑張れてたんじゃないの」

「三年間もずっと、告白もなにもしないで、片想いしてただけだよ」

「それが凄いよ。……好きなのに気持ちを伝えられないのって、辛いと思うもん」

 中学時代、比奈子は家庭の事情から、密かに好意を寄せていた男子生徒のことを諦めた過去を、思い出した。

「そっか。ありがとうね」

「うん」

 五分ほど通話をした後に、既に神ノ辺市立工芸大学への進学が決まっている愛莉にも電話を掛け、同様に結果を報告すると、電話口からは、変わらぬ口調で、お疲れさまの一言を聞いた。中学卒業の日から丸三年経っても、相変わらずの比奈子と愛莉の様子を電話越しながら確認し、ようやく七海名の口元が少し緩んだ。

「好きな子のことは、どうするの?」

 比奈子と同じように、愛莉も気に掛けていた。

「変わらないよ。告白みたいなことはしないつもり。ただ、大切に思っていることだけ、伝えようかなと思ってるよ」

「わかった。頑張って。……『頑張ってね』っていう言葉。学校の子たちには言いにくいけど、七海名には言える。頑張って」

「ありがとう。私たち、進学先もばらばらだし、三人とも、今より忙しくなると思うけど、また会おうね」

「もちろん」

 電話を切り、携帯電話を置くと、ふうと息を吐いた。

「比奈子は、本気で国立大に行きたいと思って、行動したから、合格した。愛莉は、本気で芸大に行きたいと思って、行動したから合格した。偶然で得られる結果じゃないよね。私は、芸大を受ける気にはならなかった。国立大は受けたけど、不合格だった」

 視線を上げると、机に立てかけられた、漫画が目に入る。手に取ると、「頼野 織和香 津戸 七海名」と、二人の名前が手書きで添えられていた。

「私が本気になれることって、なんだろう。高校三年間で、漫画以外の絵はほとんど描いてない。織和香がいてくれたから、私は絵を、漫画を描けた。織和香がいなかったら、私の高校の三年間で、どれだけ絵を描いていたのかな」

 しばらく漫画を見つめた後、元の位置に戻す。自室を出て、階段を下り、リビングへ向かう。母親は買い物に出掛け、父親は仕事に行っている。リビングには誰もおらず、外から聞こえてくる音も無い。

「私が、織和香を大切に思っていること。恋愛感情でもなくて。友達として、だけでもなくて。織和香のことが好きなこと。特別に思っていること。それを伝えるには……」

 静かな街の、静かな自宅で、伝える言葉を考える。頭に熱を感じる。

「決めた。……今は、織和香と一緒にいられるからこう思えるだけで、きっと、本当に離れ離れになったら、すごく寂しいんだろうな。後で、もっといい言葉があったって思うかもしれないけど、今出した答えはこれだ」

 卒業式を終えた、正午前の、園芸部の部室。七海名は、式の最中のことは、ほとんど頭に残っていなかった。二人は、同級生、教諭への挨拶を終え、静かな部室で、二年間、座っていた椅子に、いまも腰を下ろしている。

「織和香は携帯電話を持ってないから、住所教えて欲しいな」

「はい。わかりました」

 青色のメモ用紙に、互いの住所を書き、交換した。

「ありがと。なにかあったら、手紙書くよ」

「お願いします」

 七海名は、織和香が乗る予定の、バスの時刻を気にしていた。学校で会える日は、今日のみ。次はいつ会えるのか、わからない。この日、自分なりに、織和香を大切に思っていることを伝えようと決めていた。しかし、なにも知らない織和香は、変わらない笑顔を向けている。

「私が合格出来たのは、七海名さんと一緒に、お話を考えていたお陰です。ありがとうございます」

「そんなことないよ。実力だよ。私は、大学に行ったら、卒業に必要な単位は、早く揃えて、海外旅行に行きたい。女が一人で行ける場所は、限られているけどね。七つは海を見たい」

 続いている日常的な会話の流れをどこで変えるべきか、少し焦りを感じていた。

「私の行く甲東学院大と、織和香の行く影坂女子大は正反対の方向。遠くなっちゃうんだよね。もう、会う機会は無いのかな……まあ、会わないからって、友達じゃなくなる訳でもないか」

 比奈子と愛莉の顔を思い出しながら、確認するように言った。

「はい、私も同じように思いますよ」

「織和香と漫画を描いたり花を育てたり、掃除もしたり。三年間、楽しかったよ。ありがとう」

「こちらこそ、楽しかったです。ありがとうございました。研修旅行では、わざわざ私と周っていただいたり、部活だけでなく、あらゆる面で助けていただきました」

「私は、織和香と過ごす時間が一番楽しいから、そうしたんだよ。同級生は百六十人いるけど、一緒に居て楽しいと思える子は、織和香だけだよ。高校生活が楽しかったから、きっと大学生活は退屈に感じるだろうな」

「七海名さんのように、いつも明るく笑顔で、魅力的な方なら大学生活もきっと素敵なものになりますよ」

「そうかな。まあ、織和香がそう言うなら、納得しちゃう」

 息を軽く吸い、顔を上げ、織和香の方を向いた。

「でも、織和香にも織和香の魅力があるよ」

 七海名の目は、一瞬、熱く、真剣なものとなったが、織和香と目が合った瞬間、部活をしていた頃と同じ、優しく、明るく、楽しげな目に戻った。

「天真爛漫で、裏表が無くて、純粋で、優しくて、ひたむきで、綺麗で。私はね、織和香のそういうところが、好きだよ。私にとって織和香は、どんな芸術作品よりも魅力的だし、芸術的だね」

 表情は笑顔に近かったが、自分の両目に、熱い涙が浮かんでくることがわかり、右に目をそらした。

「ありがとうございます」

 七海名の左耳に、織和香の、透明感のある声が入って来る。日女野女子で過ごした三年間、何度も向けられた、感謝の言葉。顔を見ずとも、織和香がどんな表情をしているのか、すぐにわかった。そして、時間を確認し、両目を拭い、声には出さないよう、深呼吸をした。

「そろそろ行かないとだね」

「はい」

「んじゃ、また……」

 立ち上がりかけた織和香が、姿勢を変えない七海名に声をかける。

「七海名さん? 正門の方へは、行かないのですか?」

 七海名は、表情を整えてから振り返り、

「ちょっと、用があるから、ここでお別れかな」

 立ち上がると、織和香と向き合った。

「わかりました。七海名さん。お元気で」

「うん。織和香もね」

「はい!」

 二人は見つめ合い、握手を交わした。そして、織和香は微笑んだ表情のまま、部室の引き戸を閉め、昇降口の方へ歩いて行った。その姿は、三年間見続けてきた姿と一切変わらず、明日もまたここで会えると、錯覚した。しかし、静かになった部室を見ると、部活動の際に使っていた荷物は全て片付けられ、再びこの場所に来ても、織和香には会えない事実を痛感した。七海名は、先ほどまで織和香が座っていた席に座る。残された体温を、椅子越しに感じながら、机に触れた。

「織和香。大学に行ったら、私なんかより、ずっと素敵なお友達を作って欲しい。これから、織和香の隣にいる人間が、私じゃないことは、ちょっと嫉妬しちゃうけど、嫉妬することすら恥ずかしくなるような、素敵なお友達と出会って欲しい。その子もきっと、織和香のことを守りたいって、思うはず。大学で織和香と出会う子。誰かはわかりませんが。お願いします。織和香を守ってください」

 織和香が座り続けていた机に、七海名の大粒の涙が、ぽとぽとと落ちた。

 三年後の夏。比較的涼しい日。七海名は、西畿にしき国際空港にて出国審査を終え、独り、ラウンジにいた。甲東学院大学経済学部での学生生活は順調で、卒業に必要な単位を早々に揃え、祖父が紹介してくれた企業への挨拶を済ませ、就職に備え、一般事務や建設に関する基礎知識を学び始めていた。そしていま、半年以上の期間をかけて、世界各国を周遊する予定となっている。まずは、十時間弱のフライトを経て、世界で最も大きな海を渡る。細かな旅程は決めていない、七海名らしい、自由な旅行。静かなラウンジのソファに座り、ホットコーヒーを上品に口にする七海名は、髪の毛を伸ばし、真ん中分けだった前髪を、高校時代の織和香と同じように右分けにし、大人びた印象となっている。服装は、織和香の実家であるカミナダブランドの、上品な青が印象的な洋服を着ていた。青は、織和香から「似合う」と言ってもらった色でもあり、海の色でもあり、日女野女子の制服の色でもあった。時計を見た七海名は、立ち上がり、壁に描かれた、世界地図を見つめ、上品に微笑む。

「織和香。こっちに帰ってきたら、写真と絵を送るからね。待っててね。行ってきます」

 目の前に描かれた、七つの海。自らの名前に込められた七つの海と出会うために旅立つ七海名の心は、高校時代に織和香と育てた花のように揺れていた。

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花のように揺れて いちや(りいちゃん) @ichiyav

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