七章 高校二年冬

 十一月。寒さが和らいだ日の放課後、普段通り、部活動を終えた七海名は、独り帰宅しようと、人気の無い日女野女子高校の校門を出た。その時、紺色の詰襟を着た、すらっとした長身の男子生徒が、こちらの様子を伺っていることに気がついた。七海名はそのまま、素通りしようとすると、男子生徒が七海名を呼び止めた。

「ちょっと、いいかな」

 目の前に立つ、清潔感のあるその男子生徒の首元を見ると、『Ⅱ』のバッチが銀色に光っており、七海名と同学年であろうことを知った。

「なに?」

 いぶかしげな口調で言うと、男子生徒は通学鞄からなにかを取り出そうとした。それを見た七海名は、周辺の様子を見やり、

「あの。どこか違う場所に行かない?」

「わかった」

 七海名は早歩きで、男子生徒の数歩前を行き、いつか体調不良になった際に立ち寄った公園に入った。そして、以前自分が座ったベンチとは別の位置にある、背中合わせになっているベンチに腰を下ろした。

「同じ方向を向いて座るとまずいから、私の反対側に座って」

「うん」

 男子生徒は、七海名の凄みにやや押されつつ、指示に従った。冬の静かな公園には、初対面の男女の高校生が背中を合わせて黙り、気まずい雰囲気が流れはじめた。楽しい時間ではないにもかかわらず、時刻は早足で過ぎ、周囲が暗くなり始め、七海名が履く紺色のタイツの、僅かな隙間からは、ひんやりとした空気が入り込み、冷たさを感じていると、男子生徒は思い出したように再び通学鞄に手をやった。

「これを」

 七海名の左肩の後ろから、宛名の無い、白い便箋が現れた。

「なに、これ?」

 眉をしかめた。不愉快な思いをした際の、癖だった。

「手紙を書いたんだ。これを、君と一緒にいる子に渡して欲しいんだ」

「誰のこと?」

 おおよそ検討がついたが、あえて質問した。

「君と二人で、花に水をあげてたり、夕方もバス停で、たまに話している、背の高い子だよ。僕は彼女のこと、好きなんだ」

 七海名の視界が、一瞬、揺らいだ。

「付き合いたいってこと?」

「そうだね。本当は、僕が直接、渡そうと思って、何回か、バス停にいたあの子に近づいたんだ。そしたら、目を合わせてもくれないで、逃げられてしまって……」

 再び、ぴくりと眉間が動き、

「そっか。でもこれは、受け取れない。日女野がどういう学校か知ってて、その手紙を渡そうと……付き合おうとしてるの? もし、あなたとあの子が、一瞬でも一緒に並んだところを、学校の先生に見られて、あの子が停学になったらどうするの?」

「日女野の校則は知ってるよ。でも、気持ちをなんとか伝えたいんだよ。お願いします」

「気持ちを伝えてどうするの? 言い方は悪いけど、もし断られたらどうするの」

「その時は、その時だよ」

 七海名は、やや呆れたような顔で空を見て、ふうと息を吐く。

「あのさ。言った方は、すっきりできるのかもしれないけど、あの子だって、断る時は申し訳無い気持ちで断るんだよ。辛い気持ちにさせると思わない?」

 日女野女子の厳しい校則を鑑みて、この男子生徒の希望は叶わない可能性が高いこと、そしてなにより、叶って欲しくないという個人的な願望も込めて言うと、男子生徒は、やや反論するように言い返してきた。

「でも、駄目だとは決まっていないから」

 七海名は生まれて初めて、舌打ちするような口の動きをした。

「じゃあ、はっきり言うけど、私を待ち伏せして、頼みごとするなんて。そんなストーカーみたいな男、あの子が好きになるはずないよ」

 勢いのままベンチから立ち上がろうとしたが、数秒、どうするべきか考えを巡らせる。

「梅島駅の地下街の、大きな噴水の前に、小さいカフェがある。私、今週の土曜日の午後一時、そのお店に行こうかな。もし偶然、誰かが来て、あの子の話題を出されたら、話すかもしれない」

 あえて冷たく言い放ち、立ち上がり、そのまま公園を出た。

自宅。普段は、意識せずに開閉している玄関のドアが、今日は重いものに感じながら帰宅すると、玄関ロビーでは、いつものように母親が出迎え、元気のない七海名の顔を覗いた。

「顔色が悪いけれど。大丈夫? なにかあったの?」

 母親の優しい顔を見て、そこで初めて、自分が暗い顔をしていたことに気がついた。

「ううん。なんでもないよ」

「そう。寒いから、体調に気をつけてね」

 明るさをやや取り戻した七海名の顔を見た母親も一安心し、台所へ戻った。

 暖かい自室の出窓から、つい数分前まで歩いていた、枯れ葉が弱々しく舞う、寒そうな住宅街の道路を見つめていた。あの男子生徒を絶対に織和香に近づけさせたくないと、とっさの思いつきで、話す機会を作った。しかし、一切の男女交際を禁じる日女野女子の校則に縛られた自分自身を危険に晒すことへの、多少の不安感と、話す機会のほとんどない同年代の男子生徒と対面して、冷静に話を進められるかどうかを考えると、頭に重いものを感じ、こめかみの辺りに手を当てた。そして、出窓から離れ、学習机の方に歩くと、これまで織和香と二人で完成させた、数十ページの、二冊の漫画の表紙が視界に入った。

「津戸 七海名 頼野 織和香」

 それぞれ直筆で書かれた、横に並ぶ二人の名前を見ると、頼もしさと繊細さを同時に放つ二人の若い女性が、背中合わせに座っている光景が浮かぶ。その姿は、同じ背中合わせでも、先ほど自分とあの男子生徒とが醸し出す雰囲気とは全く別の雰囲気を放っていた。七海名と織和香でしか為し得ないこの世界観に、第三者が介入してくることを考えると、心の中に、不愉快で、焦げ付いたような嫉妬心が灯った。

 一階へ降りると、食器の音が時折、小さく響いており、母親がキッチンに向かっていた。そのまま、静かに、慣れた動きで夕食の準備を続ける母親の横に立った。

「どうしたの」

 いつもと違う様子に気づいた母親が、話しかける。

「前から聞きたかったことがあるんだけど。お母さんはなんで、何十年もずっと、あの父親に対して、文句も言わずに、黙っていられるの?」

 母親は、僅かに目を見開いたが、すぐに元の穏やかな表情に戻り、七海名の顔を見ずに、そのまま答えた。

「私が、この、津戸家に嫁がせてもらったからね」

「嫁いだからって言っても、お母さんだって、お母さんの考え方があるわけでしょ。それを言わないで、本音を心に仕舞って、何十年も過ごすなんて。結婚なんて、理不尽なことだなって思うよ」

「結婚は、夫と妻が平等な立場になるという意味ではないからね」

「そんな一生を左右することをするかしないのか、若い時に決めるの?」

 声にやや力がこもった。母親は口調を変えず、

「お互いの家族とか親族とか、私以外の色々な人の期待があるからね」

 去年末、祖父母と話していた、あの和室の畳の匂いを思い出した。そして、少し下を向き、真ん中分けの前髪を整えた。

「そっか。ありがとう」

 そして、手を入念に洗い、キッチンに広げられた食器具と調味料、そして曜日から、今日の献立を把握し、冷蔵庫の扉を開け、必要な具材を取り出した。

 次の日の放課後。園芸部の部室で、団らんとした雰囲気のなか、七海名は、以前に織和香から伝えられたキャラクターのイメージを、鉛筆で描き終えたあと、やや落ち着かない様子で、おもむろに立ち上がり、机に置かれていた漫画の表紙を理由もなく見つめ、用意していた話題を口にした。

「織和香は、悩みって、ある?」

 悩みという言葉を聞いた織和香は、いつもの微笑んだような口が、一文字になった。そして、目を閉じ、胸に手を軽く当てたあと、口を開いた。

「男性が、少し苦手ということですね」

 七海名は立ったまま、普段より小さく見える織和香の身体を見た。

「そっか。苦手なんだ」

 ゆっくりと歩き、自席の前に戻ると、普段よりも数センチ、織和香に近い位置に腰を下ろした。

「なんとなく、そんな感じはしたよ」

「なぜ、そのように感じましたか?」

 織和香は目を開け、七海名の方を向いた。

「私の、同人……じゃなくて、あの漫画を読んだ後に倒れちゃったから。織和香が考えてくれたストーリーって、女の子と動物しか出て来ないし」

「やはり、気がついてしまいますよね」

「なにか嫌なことでも、あったんでしょ。苦手になった理由は言わなくていいからね」

「ありがとうございます」

 織和香は、七海名から視線を離し、困ったような表情で、窓の外を見つめた。

「今は、バスや街中で私を見てくる男性の視線が怖いですね」

 七海名の中で、織和香がこれまで見せてきた言動の辻褄が合うと、脳裏に男子生徒の顔が浮かび、昨日にも感じた、落ち着かぬ、怒りと嫉妬のような気持ちが、再び浮かんだ。しかし、僅かに震えたような、弱々しい織和香の姿を見ると、すっとその感情が消えた。

「男は誰でも、ジロジロ見てくるよ。気にしないことだね」

「そうなのですか?」

「こっちが気がついてないと思ってるんだろうけど、やらしい目で見やがってさ」

 なるべく織和香を安心させられるための言葉を探したが、織和香の言葉に秘められた重さを感じると、もっと適切な言葉があったのではないかと、後悔した。

「でも。織和香は「気にしない」のが難しいんだろうね」

 次の言葉に詰まっていると、織和香が口を開いた。

「七海名さんは、悩みがあるのですか?」

 ふいに、自分の悩みを問われた七海名の頭に、とっさに浮かんだ「悩み」は、目の前にいる織和香という女性と、自らの関係だったが、口に出すことはできなかった。

「逆に聞いちゃって悪いけど、織和香は親御さんから、なにか大切なことを教わった?」

「いいえ。直接、教えていただいたことはありませんね」

 直接、という単語がひっかかった。言葉を大切にする織和香が口にしたからには、なにか意味があることを察したが、触れずに相づちを打った。

「そっか」

 机の上で手を組み、それまで溜め込んでいた、別の悩みを、吐露した。

「うちの父親は、私が勝手に成長すると思ってる。それが悩みというか、嫌だね。放置されてるんだもの。小学生までは子供扱いされて育って。高校生の今は、都合良く子供扱いされたり大人扱いされたり。大学に行ったら「大人になったんだから、そろそろ結婚しろ」とか言って、父親にとって都合の良い男を紹介してくると思う。まあ、私は、知らない男と結婚させられるくらいなら家を出るつもりだけど」

 最後の言葉に、できれば織和香もそのような行動に出て欲しいという意図を込めた。そして、知らぬ間に閉じていた目を開けると、織和香が神妙な顔をしていることに気付き、話題を変えた。

「織和香は就きたい仕事はある?」

「具体的には決まっていませんが、直接、人助けが出来る仕事に就きたいと思っております。七海名さんは、お好きな音楽やイラストに関連したお仕事に就くことは考えないのですか?」

「考えないかな。音楽もイラストも趣味だからね。仕事にするには、今の何倍も努力が要ると思うよ。それに、もし好きなことを仕事にしても、それから会社で嫌なことがあったら、好きなこと、絵を描くことを嫌いになっちゃうかもしれないでしょ。それだけは嫌だな。私から趣味が無くなったら、なにも残らないから」

七海名の口から出る言葉は、必ずしも明るいものではなかったが、部室に流れる雰囲気は、いつの間にか、普段通りの明るいものに戻っていた。それは、長く、密度の濃い時間を共にした七海名と織和香によって作られる、友情とはまた別の、繊細であり頼もしくもある、独特のものだった。

 夕方。七海名は、男子生徒の姿がないことを確認してから、校門を出た。昨日とは対照的に、七海名の心の中からは、不安と嫉妬心が消えていた。絵を描く際、線を定め、清書していく段階で、線が研ぎ澄まされていくように、七海名の中の織和香に対する恋心もまた、嫉妬心や苛立ちといった、負の感情を洗うものとなっていった。

「男の人が苦手、か」

 これまで見てきた、織和香の言動の辻褄が合い、つかえていたものが取れたような気持ちになっていたと同時に、今後、自分がどのように振る舞うべきか、考えていた。

「私は、ライバルが……邪魔な存在が出てきたから、遠ざけたいだけなのかな。それか、友達として、織和香が苦手な存在が近づいてきたから、守ろうとしているのかな。でも、私と織和香の関係を「友達」って、自分で言っちゃうの、悲しいな」

 立ち止まり、右頬に冷たい風が当たることを感じると、溜め息をついた。

「漫画とかと違って、現実の恋愛って複雑すぎて、頭が痛くなる」

 立ったまま、自宅へ繋がる、まっすぐの歩道を見つめ、体調不良とはまた別の頭痛を感じながら、考えを巡らせた。そして、先ほどの溜め息を取り消すように、息を吸い込んだ。

「私のために、織和香を守りたいって思うのは、自己満足かな。でも、私自身が満足しないのに、行動することはできないよね」

 歩道に敷き詰められたコンクリートブロックに革靴の底の音を鳴らしながら、再び歩き始めると、

「勝手に守らせてもらうね」

 意識して明るい表情に戻しながら、帰路についた。

 土曜日の午前。七海名は、最寄り駅のホームにいた。知人の目に付かないよう、普段は真ん中分けの前髪を右から流し、伊達眼鏡を掛け、周囲に気を配りながら、落ち着かない様子で電車を待っていた。五分ほど経つと、特徴的なマルーン色の車両が到着し、最後尾の車両に乗り、隅の座席に腰を下ろした。七海名の最寄り駅は、上位の運行形態である特急も停車する駅だったが、乗車している人数の少ない普通車両に、あえて乗車した。電車は、マルーン色で統一された他の車両とすれ違いながら、東に向かった。二十分ほどで終点の梅野駅に到着し、人の流れに沿って降車し、改札を出た先にある、長い、下りエスカレーターに乗った。河内阪府の中心にある梅島駅は、西畿地方のなかで、官公庁、企業、学校、娯楽施設などが最も集まる街であり、その地下街も、溢れ出て来たかのように多くの人が流れていた。河内阪から見て隣県の住民である七海名は、買い物や食事が目的であれば、神ノ辺市の中心街でも、ことは足りるが、気分転換のために、梅島駅周辺に来ることもあった。各府県から人が集まる場所だけに、すれ違う人の会話からは、各地の言葉のイントネーションの微妙な違いが聞こえてくる。西畿地方一の繁華街に来たことを感じながら、目的地のカフェに向かった。店内は相変わらず、落ち着いた雰囲気だったが、今日の七海名は、緊張と焦りが混じった、落ち着かない気持ちでいた。そして、二人掛けの壁際の席を確保した。

 木製の上品なテーブルに所在なさげに置かれたダージリンティーから漂う柔らかな湯気を見ていると、入り口の鐘が鳴り、店内を見渡す青年の姿が目に入った。七海名は、自ら存在を教えることもなく、気づかない振りをしていると、男子生徒の方から近づいてきた。

「どうも」

「はい」

 七海名の口からは、敵意のにじみ出るような、低い声が出た。

「座っても、いい?」

「どうぞ」

 未だに名も知らぬ男子生徒は、一人掛けの椅子に座ると、七海名と目を合わせた。この時、七海名は生まれて初めて、同年代の男性と、二人きりで対面した。自分よりも明らかに大きな体躯と、低い声と、どこから、なんのために放つのか捉え難い、威圧感とはまた別の、男性特有の余裕。七海名にとって、他人と対面することで、多少なりとも緊張感を抱く経験は、多々あっても、女子同士において生まれる慣れた緊張とは別の、決して感じることのない、異質な空気を、初めて感じた。そして、自分が思いを寄せる織和香という女性は、この空気を苦手とし、ひいては恐怖を抱くと考えた時、織和香が今まで経験してきたであろう辛く苦しい思いが七海名の中に入り込んだような、深く、重いものを感じた。そして、少しでも男子生徒との距離を開けるよう、腰の位置を壁際に移動させ、深く座り直した。そして、店員が、ホットコーヒーと、氷の入った水を持ってくると、その間をチャンスと捉えるように、勇気を持って、口を開いた。

「私の考えを結論から言うと、あなたには、あの子に近づかないで欲しい。諦めて欲しい」

「なぜかな」

 男子生徒は、半ば予想していた様子で、驚いた表情は見せなかった。

「日女野の校則のことが一番の理由。他にもあるけど、詳しくは言えない」

「わかった」

「逆に、あなたにとっては、あの子じゃないといけない理由ってあるの? なんで、あの子じゃないといけないの」

 男子生徒は一転して明るく、楽しそうな表情を見せた。

「あんなに純粋そうな人は、いないからだよ、僕にとっては、それだけで特別な存在なんだよ。あんな素敵な人、滅多にいない。というよりも、初めて出会った」

「そうだね。あの子は、私にとって一番の」

 友達、という言葉が出かけた。しかし、先日と同じように、自ら友達と言い切ることは、一体どれほどあるか計りかねる、恋人になるという可能性を自ら否定する気持ちになり、言葉に詰まった。

「だから、まずは知り合いになりたいと思って、君に話しかけたんだよ」

「そっか」

 ぬるくなったダージリンティーを口にした。ダージリンティーは、七海名の好きな物だったが、味を感じること無く、乾いた喉を素通りしていった。

「あの子は、もしかして、男が苦手なのかな」

 表情を変えずに黙っていると、男子生徒が言葉を続けた。

「なにかあったのかな?」

「知らないし、知ってたとしても、言えない」

「そっか。男同士だと、そういうの、あまり気にしないんだけどね」

 中学時代に傍目で見ていた、男子同士の様子を思い返した。

「嫌な過去でも、気にしないで、話すんだ?」

「あまり気にしないよ。あまり、ね」

「そっか。でも、誰にも知られたくない出来事、思い出すと恥ずかしくなることって、男の人同士だったとしても、ひとつくらいあるんじゃない? それを、根掘り葉掘り聞かれたら、嫌じゃないの」

「嫌かな。あまり思わないかな」

 互いが、目の前に座る人間、そして異性そのものに壁を感じ、目を見開いた。

「な、なんで?」

「本音が知りたくて話すから、かな」

 七海名は、伊達眼鏡を外し、テーブルに置いた。

「女同士が全部そうじゃないと思うけど、少なくとも私は、本音を知りたくて、友達と話してきたわけじゃないかな。大事な話は、信頼してる人に、言うべき時に、言う。秘密を言うこと自体も大事だし、言われた方も大事に思う。言わないってことは、言いたくないか、言う必要が無いってこと。初対面の人が相手でも、長い間、仲良くしてる人が相手でも、同じ」

「それはあの子も、同じなのかな」

「そうだと思うよ。そういう、心の奥にある大事なものを共有出来ない人とは、一緒にいられないと思うよ」

 七海名は顎を少し引き、目に力がこもった。

「正直に言うと、あなたがあの子に近づいたとしても。あなたしか、喜ぶ人間はいないと思う。だから私の答えは、変わらない。あの子には近づかないで欲しい。私なりに考えたこと。あなたのためじゃない」

 七海名の方に乗り出していた身体を、背中を、椅子の背もたれにかけ、しばし黙った。

「僕があの子のために出来ることって、なにかないかな」 

「忘れてあげて。どこかで偶然見かけても、話しかけないで」

 考えを巡らせながら言葉を選ぶ男子生徒とは対照的に、七海名は即座に答えを出した。男子生徒はしばらく黙ったあと、

「わかった。そうするよ」

 その言葉を聞いた七海名は、視線を男子生徒の目から、胸元に落とした。少しの間を置いたあと、男子生徒は身なりを整えながら、白い便箋を取り出した。

「今日はありがとう」

「いいえ」

「これは、お礼の気持ちに、君に手紙を書いておいたよ。受け取ってください」

「わかった」

 二度と会うことのないであろう、名前も知らない男子生徒は、立ち上がり、会計を済ませ、背中を見せながら、店を出て、地下街の人混みに混じって行った。七海名は、やっと緊張感がとけ、息をついた。

「私だって、織和香の本音を知りたいよ。私のことをどう思っているのか。好きって言ったらどう思うのか」

 氷が溶け、水滴の付着した、透明のグラスに入った水を一口飲むと、乾いた喉がようやく潤った。そして、先ほど受け取った封筒を丁寧に開けると、中には、小さなメモ用紙と、折り目の無い綺麗な万札が一枚、入っており、

「時間をくれてありがとうございました。これは交通費と、話を聞いてくれたお礼です」 

 冷めた目で、万札に描かれた肖像画の人物を見た。

「現実の男女関係が、ある程度ドロドロしてることは予想してたけど、こんなに面倒なものだとは思わなかったな」

 そして、万札を二つ折りにして、外していた伊達眼鏡を掛け、立ち上がると、レジの横にある、どこの誰のためとも知れぬ募金箱の中に入れ、店を出た。

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