六章 高校二年春
年度が変わり、二学年になった七海名と織和香は、新しい気持ちで生活を迎えていた。入学式の日には、二人が育てた花が校内に並び、春の暖かい空気に華やかな色を添え、新入生の視界を彩った。
四月半ば、放課後。七海名は、昼休みの時間帯に現れ、今でも波打つ頭痛を気にしながら、水やりを終えた。常備薬を呑み、一旦痛みが和らいだ後に再び重くのしかかるように現れるこの頭痛は、不調期が現れたことを意味していた。絵を描き続けることで現れる突然の不調という独特の問題を共有出来る、比奈子と愛莉のいた美術部時代とは、環境が事情が違う今、なにも知らないであろう織和香に、要らぬ心配を掛けぬよう、どのように振る舞うべきか考えていた。七海名は、年始に神ノ辺大学を志望先に据えてから今日までの数ヶ月間、大学受験に向けての勉強と、漫画作成を含む部活動との両立を続けており、心身の疲労が知らぬ間に溜まっていた。二年後に迎える国立大学の入学試験は、この日女野女子高校を受験した際とは違い、複数回の受験は不可能で、受験科目が少ない専願入試制度も無く、ひたすらに多数の科目を同時進行で勉強する必要がある。中学受験の経験も無く、高校受験も国語と英語の二教科で合格した七海名にとって、受験勉強は未知のもので、慣れぬ作業だった。このことも、無意識のうちに少なからず不安感を抱かせていた。漫画作成については、本格的な作業こそ初めてだが、中学時代から興味を持ち、コマ割りの描き方などを学び、練習もしており、また、期限が明確に定められたものではなく、七海名としては、それほど負担にはなっていないと考えたが、受験勉強の開始と共に本格的な作業が始まり、先へ先へと急ぐ気持ちと、筆の進み具合の遅さがストレスを生んでいた。七海名は、園芸部室に行く前に、もう一度頭痛薬を呑んだ。そして、鏡に映った、痛みによって瞼が重くなり、やや眠そうにも見える自分の顔を見ると、よしと気合いを入れ、明るい表情を作ってから、部室に向かった。
部室に入ると、織和香の背中が見えた。織和香は一年前と全く変わらず、背筋を伸ばし、上品で落ち着いた雰囲気で椅子に座り、自作のストーリーが書かれたノートを読み返していた。ただ、部活動中、七海名以上に丁寧に花に水をやる織和香が、今日のように先に部室にいることは、珍しかった。
「お疲れ」
「お疲れさまです」
声を発した際、頭の中心に、ぴしりと割れ目が走るような痛みを感じたが、可能な限り平静を装い、椅子に座った。
「二年生になって、授業の内容も少し変わったね。もし、わからないことがあったら言ってね。教えられるほどじゃないけど、一緒に勉強しよう。私は、英語だけは得意だから、英語なら教えられるかもしれない」
「ありがとうございます。今のところ、大丈夫です」
「よかった」
口ではよかったと言いながらも、少し残念そうに言った。
「ところで、七海名さんと漫画を作るようになってから、現代文の点数が上がっているのです。文章を書くようになったお陰です。ありがとうございます」
「そうなんだ。でも、お礼を言われることじゃないよ」
織和香の笑みを見た七海名は嬉しく感じつつも、照れた表情になった。
「また、社会科の授業を受けていて思いついたのですが、共同主権国家という国があって、二人の女王さまがいて……。あらすじをこのページにまとめましたので、お読みください」
嬉しそうに、起承転結が書かれたページを開き、右隣に座る七海名の目の前に差し出した。
「ふむふむ。なるほどね」
箇条書きで並べられた、ストーリーの概要を読み進めると、頭痛が走り、一瞬、視界が歪んだが、可能な限り集中して読んだ。文字が視界に入ってはくるが、その内容は、痛みと熱を帯びた頭頂部から抜けていった。内容を理解することは出来ても、記憶することは出来なかったが、なんとか、頭の中にぼんやりと、絵を浮かばせた。
「面白くなかったですか?」
七海名のしかめた顔を覗き、心配そうに聞いた。七海名ははっとして、
「いいや。面白いよ。どうやって絵にしようかなと考えてた。つまらなさそうな顔してた?」
「いいえ。そんなことはありませんよ」
「それなら、いいんだけど」
練習用のノートを開き、昨日まで描いていた人物と背景の練習画を見つめた。そして、背景描写の練習のために描かれたビルと空の境界線に、数ミリの空白があることに気が付いた。その点を数秒、見つめたあと、鉛筆まで手が伸びたが、その際にも頭に痛みが走り、鉛筆を握ることなく、手を机に置いた。描くという行為は、筆を走らせる際の、力の加減、強弱をつけることで行われるが、頭痛を感じる今は、集中しなければならないという強迫観念に近い意識に気持ちが集中し、線を描く手が震えるためだった。最悪の場合、鉛筆の芯の先を砕くこともある。作業を進める織和香を横目に、言葉を詰まらせた。
「やっぱり私は、人物以外を描くのは苦手だなあ」
「そうですか?とても上手に見えますよ」
七海名らしく明確な線で描かれた、ビル群の絵を見つめた。
「いいや。私が納得出来ない。頭の中には浮かぶんだけど、それを手先で表現出来ないのが、もどかしい」
表現出来ないという言葉に、自身の技術力と、体調不良による面、両方の意味を込めた。
「今後は、人物以外の動物などは、登場する回数を減らしてみましょうか?」
「いいや。気遣い無用だよ。克服しないと、苦手なままだから。悪戦苦闘するだろうけど、好きなことだからね。いくら時間をかけても惜しくないよ」
自分の限界を思い出させるように現れた、憎い不調期を乗り越えるよう、自らに言い聞かせた。そして、隣を見やると、織和香が黙り、なにかを考えていることに気が付いた。苦手なことを避けることなく、むしろ、苦手だからこそ向き合うという考えは、絵を描くという行為を愛する七海名にとって、克服や挑戦という意識は無く、当然の考えだったが、織和香の心の中に、なにか新しい感覚を与えたようだった。
その日の夜。自室の部屋に入った七海名は、出入り口のドアを閉めると、床に座り込んだ。
「私の限界なんて、結局はこうやって、すぐに来る。でも絶対に逃げたくない。絵から逃げたら、私じゃなくなる。作業が進まないなら、寝てた方がマシだと思うけど、寝たくない。でも、寝ないとな。私は中学生の時、比奈子と愛莉の前で倒れちゃってる。一度経験したんだから、もう繰り返さないようにしないと。織和香の前で倒れたくない」
体調が万全だと思われた昨夜、今日も作業に取り掛かりやすいように、引き出しの手前に置かれた本に触れた。日々、表現法や手順など、漫画作成に関する基本的な事項について困った際に開く本だった。
「ごめん。今日は寝かせて」
時刻は、まだ二十時台だったが、遅い足取りでベッドに入った。これから数日の間、強制的に向き合わされる不調期のことを考えると、頭に更なる重さを感じながらも、薬による眠気に誘われ、そのまま眠りについた。
日曜日。七海名は、比奈子と愛莉と共に、駅前の喫茶店で談笑していた。駅前の、静かな喫茶店に集まり、近況報告をすることは、三人にとってすっかり恒例の行事となり、また、それぞれの高校生活や家庭で抱えるストレスを発散させるためにも、楽しい時間となっていた。七海名は幸いにも、体調不良の最悪期を金曜日の夕方と土曜日に経て、日曜日の今日は、多少の頭痛が残っているのみで、病み上がりの表情で二人と対面し、ゆっくりと紅茶を飲んでいた。比奈子と愛莉は、七海名の身に、ここ数日なにがあったのか即座に気付き、七海名も二人に気付かれていることを感じたが、誰もなにも触れないまま、会話は進んだ。そして、大学受験の話題になり、七海名が志望先を伝えると、眼鏡からコンタクトレンズに変え、より明るい印象を与える外見になっていた比奈子が、大きな黒目を輝かせた。
「七海名も神ノ辺大、受けるんだ! 嬉しいな」
県立進学校の中で、中の上の成績にいる比奈子だったが、今でも本格的に絵に取り組んでいる七海名と愛莉に比べ、描く機会と動機に恵まれない環境にいる自分を後ろめたく感じていた。かつて好きだったものから離れていく、喪失感にも似た、漠然とした不安を発散するため、そして、両親の学歴に辿り着くためにも、自らの感情と集中力を受験勉強に向けていたところ、旧友の七海名と志望先が一緒であることを知り、再び居場所を得たような喜びを感じた。七海名は、そんな比奈子の心中も察した上で、
「嬉しいね。過去問を見てると、評判通り、国語が難しいね。私は、国語が苦手だから、あの長い文章問題を読むたびに、気が重くなるよ」
「確かに、神ノ辺大の国語は難しいよね。合格点ぎりぎりでも、通過出来たらいいなって、思ってるよ。頑張ろうね」
七海名が笑顔で答えると、比奈子もうんと頷き、左隣に座る愛莉の方を向いた。
「愛莉はどこを受けるの?」
「私は、工芸大学だよ。神ノ辺市立工芸大学」
予想通りの答えに、七海名と比奈子の感嘆の声が重なった。愛莉は、中学卒業時点から変わらず、絵を描くことを仕事に据えるため、今も努力していた。今年の年頭には、初めて依頼を受け、依頼内容のもとに絵を描き、納品を済ませた。
「絵を描くことを仕事にするのって、どんな感じなの?」
比奈子がやや慎重に聞くと、愛莉は、まだ誰にも伝えていない考えを吐露した。
「今までも、コンクールとか課題とか、テーマを他人から与えられて描くことは当たり前のことだったけど、仕事となると、醸し出す雰囲気が全然違う。仕事をすること自体が初めてだからかもしれないけど、打ち合わせの時も緊張感があるし、失敗出来ないプレッシャーも、義務感も強い。それが嫌とは思わないけど、少し戸惑ってるかな」
経験者独特の重みと説得力のある言葉を耳にした七海名と比奈子は、愛莉という元美術部員の仲間が、自分とは別の方向の、何歩も先を歩んでいることを感じた。七海名は僅かに身を乗り出し、愛莉の目を見て質問した。
「お金が貰えるくらい、他人に納得してもらえるような絵を描けるかどうかって、なにで、どこで決まると思う?」
「描く人間が、絵にどれだけ感情移入が出来るかどうかだと思う。描き手の気持ちがこもっていない絵からは、気持ちを感じることは出来ないから。今回の依頼内容は、小説の表紙だったんだけど、最初はなにを描いていいのか全然わからなくて、悩んだよ。でも、小説の内容を十回以上読んだら、作者さんの気持ちが少しだけわかった気がして、そこでやっと絵のイメージも浮かんだよ」
「その、愛莉の頭の中に浮かんだイメージを描いた時の、お客さんの反応はどんな感じだったの?」
「ラフの提出の時も、線画提出の時も『確認しました。ありがとうございます。特に修正点などはありません』って言ってくれた。納品の時も同じ」
「え? それって相当、凄いことなんじゃないかな……」
「そうかな。描いて欲しい人、需要に比べて、描きたい人、供給が多すぎる世界で、私の絵を選んでくれた訳だからね、義務感もあるけど、嬉しさもあって、本気になれたよ」
愛莉は一瞬の間を置いて、言葉を続けた。
「七海名と比奈子は、大学受験と部活、漫画を作ることを頑張ってるって言ってたよね。どれも単純なことじゃないし、悩むことだと思う。それでも本気になれる理由、続けられる理由を教えて欲しい」
愛莉から質問を投げかけられることは珍しかったため、比奈子は頭の中で言葉を整理し、やや神妙に答えた。
「私の学校は、みんな放課後は塾に行っちゃうし、受験勉強ばかりしてて、趣味の話をする人って周りに誰もいないから、高校生活が面白くなくて。家でも絵を描かなくなっちゃったし、漫画も同人誌も、あまり読まなくなっちゃった。昔から好きな作品は読むんだけどね、新しい作品を探さなくなっちゃったんだ。こうやって、たまに三人で集まって話すことだけが楽しみだったんだけど、家でも出来ることを見つけたいなって思って。志望先のハードルを上げて、国立大学に行こうと思ったんだよ」
「なるほど、わかった。ありがとう。七海名は?」
「私は、絵も好きだし、好きな人と一緒に出来ることだから、かな。一枚絵と違って漫画の描き方は慣れなくて、探り探りで難しいけど、好きな人と出来ることだから、単純に楽しいね。幼稚園の時、絵を描き始めた時の私の気持ちも、こんな感じだったと思う。楽しいから、必要だから努力する。でも、努力している実感が無い。だから『凄い』とか言われても、別に嬉しくないんだよね」
七海名と比奈子が口にした行為は、自らの頭と心の中に抱いた独自の世界観を自らの手によって表現するという、芸術分野において、最も基本的かつ、最も難しい行為だった。
「そっか。わかった。ありがとう」
愛莉は、向かいに座っている七海名の後方にある出窓から、レースカーテン越しに覗く、外の景色を見た。そして、再び七海名と比奈子を見やると、柔和な表情になった。
「比奈子。夜は寒いから、体調気を付けてね。工芸大学の入試、小論文があるから、書き方とか聞くと思う。その時は、よろしくね」
「うん、ありがとう。教えられるほどじゃないけど、私でよかったら聞いてね」
「ありがと。七海名にも聞くと思うけど、よろしくね」
「私は国語苦手だから。比奈子だけに聞いた方がいいよ」
七海名が自虐的に笑ったが、比奈子と愛莉は苦笑いを浮かべた。
「あと、ちゃんと寝た方が良いよ」
「え? ちゃんと睡眠はとってるよ」
事実、睡眠時間は確保しているため、七海名は、やや虚を突かれたような顔をした。
「七海名は多分、今でも、調子悪い時以外は、起きてる時間はずっと作業してるでしょう」
「まあ、そうだけど」
「どこかの土日で、なにもしない日、本当の意味で休む日を作った方がいいよ。七海名の知らない間に限界が来て、身体を壊して、描けなくなることが一番怖いよ。好きな子も、心配しちゃうよ」
愛莉は、自身が最近になって経験したことを元に、中学時代のように体調不良になりながらも絵に注力している七海名を気遣った。愛莉の言葉を聞いた七海名は、今週の金曜日と土曜日に、いつも筆を握る左手の一部が、石になったかのように動かなくなり、その時に感じた強い違和感と不安感を思い出し、その際に考えたことを述べた。
「そういえば、最近、考えたことがあるんだけど」
比奈子と愛莉は頷いた。七海名は、二人の顔を確認するように見てから、話を続けた。
「今まで私は、自分がなんで絵を描いてるかを考えたことは、ほとんど無いんだ。でも、最近になって気が付いたんだよね。中学時代、なんであんなに、倒れるくらい必死になってまで、絵を描いてたのか。人からの目を気にしてたからだと思う。『上手いね』って、言われたいと思ったことは一度も無い。ただ自分が納得出来るものを描けるかどうか、描くためにはどうしたらいいかを考えてた。今は、好きな子が考えてくれた話を形にしたいから描いてる。私がこれだけ集中出来ることは、昔から、絵しかない。今は、私と好きな子、隣同士で一緒に描いてる。私が十年以上も、考えることもしなかった、絵を描く理由。今、好きな子のお陰で気が付けた。それだけじゃなくて、その子と近づくきっかけも絵だったし、今も絵で繋がってる。やっぱり私から絵をとったら、何も残らないなあと思う」
自然と込み上げてくる思いを口にした七海名は、自分だけが長々と話していたことに気が付き、照れたような笑いを浮かべた。
「まあ。だからどうって訳じゃないんだけど、私が絵を描く理由にやっと気が付いたから、恥ずかしいけど、二人には言っておきたいなと思って」
七海名の顔を見続けていた愛莉は、自分が息を止めていたことに気が付き、短く深呼吸をした。
「何も残らないなんてことは無いと思うけど。私達みたいに絵を描く人間は、最初は誰もが、描きたいものがあって、絵が楽しくて、描き始めたはず。だけど段々と、描きたいものを描くんじゃなくて、他人からの評価、他人からの目を気にするようになって、褒められる絵、馬鹿にされない絵を描くようになっていっちゃう。描きたいものが描けなくなる。ひたすら自分と好きな子のために描けるってことは、素敵なことだと思う」
比奈子も愛莉に続いて、
「七海名の言ったことも、愛莉が言ったことも、その通りだと思う。私が高校生になってから、絵を描かなくなったのは、『私の絵』が描けなくなってきたからだよ。でも絵は好きだから、いつか描きたい気持ちが復活したら、その時にはまた描きたいな。けど、多分、受験が終わるまでは無いと思う。だから、二人が今でも絵を描ける、描く気持ちになれることは、幸せなことだと思うよ」
元美術部員の三人から出された言葉には、長い時間を共有してきた仲間に対する思いやりが込められていた。そして、経験に裏付けされた説得力と、各個人が抱える意思の強さを感じさせるものでもあった。同時に、今は三人が別々の環境に置かれている寂しさも、ほんの少し漂っていた。
その日の夜。頭痛はすっかり引き、顔色の良くなった七海名は、軽めの夕食を済ませ、自室にいた。学習机に座ると、携帯電話を手に取り、愛莉の個人ホームページを開いた。画面にはまず、愛莉のハンドルネーム、「くえぽん」の文字が目に入り、七海名の顔がにやけた。愛莉は、イラストを描く際の名前として、くえぽんと名乗っているが、お世辞にも、実際の愛莉の雰囲気に合致するとは言えない。元美術部の三人の会話の中で、お互いの決めたことに根拠や理由を問うことは珍しいが、七海名と比奈子はどうしても気になったため、なぜ、くえぽんという名前にしたのか、聞いたことがあった。すると、愛莉はキャンバスに目を向けたまま、
「可愛いから」
と、理論的な愛莉らしからぬ答えが返って来た。それを聞いた七海名と比奈子は嬉しそうに顔を合わせ、表現者らしく、言葉や理由に頼らず、理屈抜きで決めたことを感じ、野暮な質問をしたと思うと同時に、妙に納得した気持ちにもなった。愛莉のホームページ内は、その、くえぽんの名で描かれた水彩画風のイラストが坦々と散りばめられており、大手出版社から出された小説の装画を提供した実績が記載されていた。一年振りに目にした愛莉の絵は、七海名の知る、中学時代の愛莉らしさの上に、落ち着きと重厚感が増し、洗練されていた。
「凄い」
凄いという言葉は決して口にしなかった七海名から、七海名が中学時代に観ていた知るそれとは高等なものであり、歩き出している感触を持った。
次の週の休日。津戸家に、ひとつの宅配便が届けられた。十日間無料お試しと書かれたチラシが同封されていた宅配便の中身は、先日、喫茶店で会った際に愛莉が言っていた、デジタル式のイラストに必要な器材だった。七海名は、デジタル式のイラストを知識としては知っていたが、実際に手に取ることは初めてで、この機会に試そうと考えていた。早速、荷物が届き、クローゼットの奥に仕舞っていたノートパソコンを取り出し、描画ソフトを起動させると、見慣れぬ灰色の画面が映し出された。
「なにから始めればいいんだろう」
ペンタブレットを左手で握り、パッドの上でくるくると試し書きをすると、想定していた以上に太い線が画面に描写され、もどかしい気持ちになった。
「止めとハネはどうやったらいいんだろう?」
七海名の心に新鮮味はあったが、どうにかして使いこなしたいという興味が湧くことは無かった。興味が抱けないということは、今後、この器材に頼るべきか否かを考える際、非常に明確な判断材料だった。七海名は、ペンタブレットを置き、机の上で両手を組み、
「私には向いてないね。慣れたやり方でやろう」
届いたばかりの器材を段ボールに戻し、丁寧に梱包した。そして、これまで幾度となく、そうしてきたように、鉛筆を握り、左手で器用にくるりと回転させると、ノートを開き、紙の上に直接、体温の移った温かい鉛筆を走らせ、かりかりという聞き慣れた音を立てながら、線を描き、完成間近の、一作目の仕上げに入った。
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