五章 高校一年冬
十月末。七海名と織和香は、駐車場前のプランターに植えられた花に、慣れた手つきで水をやっていた。校内の花の数は、春や夏に比べるとやや減っているが、可愛らしく花をつけたキンモクセイの生垣は、秋から冬への移り変わりを感じさせる、柔らかな匂いを放っている。二人は向かい合い、互いに作業を終えたことを確認すると、昇降口から一人の上級生が歩いてきた。
「いつも、ありがとう」
「とんでもございません。こちらこそ、お気遣いいただき、ありがとうございます」
「夕方は寒くなるから、身体を冷やさないようにね」
上級生からの労いの言葉に対して礼を言うと、上級生は品のある微笑みを見せ、通り過ぎて行った。そして、来客者用の駐車スペースに待機していた運転手に迎えられ、黒いボディーが光る国産高級車の後部座席に乗り、正門を出て行った。織和香と七海名は、まるで見送るかのように、その光景を追っていた。
「なんだか、オーラというのかな。目に見えない力を感じる人だね。思わず、息を止めちゃったよ」
「とても、お優しそうな方でしたね」
七海名は頷いたあと、再び織和香の方を向き、
「ジョウロ、片付けてくるよ。ちょうだい。織和香は先に部室に行って、準備してて」
「かしこまりました。では、お願いいたします」
先ほどの上級生が言っていた通り、夕方の時間帯は寒さを感じる時期になっており、七海名としては、織和香には少しでも早く、暖かい部室に向かって欲しいと考えていた。しかし、片付けを代わるから先に部室に行って欲しいと単純に願い出ても、織和香は断るため、代わりに筆記用具やノートを準備して欲しいと、上手に話を進めた。そして、ジョウロを受け取ると、今まで織和香の手で握られていたジョウロの持ち手をしっかりと握り、校庭に置かれた物置に向かった。
「さっきの先輩。綺麗な人だったな。……あ、浮気は駄目! 私は織和香一筋なんだから」
ジョウロに付いた水滴を備え付けの雑巾で拭き、物置の中に並べ、早足で部室に向かった。
七海名が部室に入ると、数種類の鉛筆とペンが、織和香の手によって綺麗に用意されていた。お互いの手際のよい片付けと準備に礼を言い合うと、七海名は席に座り、ペンと鉛筆の感触を順番に確かめた。絵を描く際に使う用具、画材は、ケースに入れて持ち運ぶだけでも僅かに感触が変わってしまうことがあるため、その日の感触を確認する必要があった。七海名が確認を終えると、織和香がノートを取り出した。
「先週、直したい部分を見つけましたので、修正いたしました。あらためて、確認をお願いします」
「はいよ」
ノートを受け取り、丁寧な字で書かれたストーリーを眺めた。織和香が現代文の教科書と資料集を読み込み、起承転結を強く意識して作られたそのストーリーは、違う学校に通う、縁もゆかりも無い、同じ悩みを抱える二人の少女が、ふとしたきっかけで出会い、共に悩みを解決に向けるという内容だった。七海名は、すらすらとストーリーを読み進め、文章からどの瞬間を抜き取り、いかに絵にするかを、頭の中に思い描いた。
「どうですか?」
「いいね。お互いに相手の悩みを聞いて、その悩みを、自分が前に悩んで解決したことと当てはめて、話し合って、段々と解決していく、っていうのが良いね」
「ありがとうございます」
漫画作成において、七海名と織和香が担う作業は、明確に分担されているが、相手が今どのような段階にいて、どのような作業をしているのか、進捗状況等を聞くことはしなかった。これは、ルールを決めた訳ではなく、また気遣い合う訳でもなく、二人の中に自然と根付いた習慣で、比奈子と愛莉とで過ごした美術部時代も同様に成立していた。互いを尊重し、理解し合う者同士に成立する、見事な人間関係だった。
夜。家族三人が揃ったリビングで食事を終え、食器を片付け始めるために母親が席から立ち、七海名も続いて席を立とうとした時、父親の低い声が聞こえた。
「七海名。ちょっと」
父親からあらためて名前を呼ばれる時は、七海名にとっては都合の悪い話をされることが多いため、突拍子も無い話題が出されることをあらかじめ覚悟した。
「お母さんから聞いたけど、今年の成績、かなり良いようだね。このまま、ぜひ良い大学に行ってくれると嬉しいよ」
成績という単語が出た時点で、具体的な進学先を指定されると予想したが、そこまで踏み込んだ話は出されなかった。これは、自らの学歴に多少の劣等感を持つ父親なりの、遠慮と後ろめたさが理由にあった。
「わかった。私も、大学には行きたいから、なるべく良い大学に行けるよう、頑張るよ」
「なにか必要なものか、欲しいものがあれば、言ってくれよ」
「無いから、大丈夫だよ」
父親との話を早々に終え、リビングを出ると、いつの間にかキッチンから移動していた母親が、洗面所から姿を現した。すると、それまで無表情だった七海名の顔がややほころび、
「進路の話だよ。大学に行けって言われた。私は、最初からそのつもりだから、わかったって言ったよ。日女野に行く話をされた時みたいにね」
やや心配そうな顔を向ける母親を安心させるように、珍しく冗談めいたことを言った。
「そう。身体に気を付けてね。晩ご飯のお手伝いは、無理にしなくてもいいからね」
「ありがと」
階段を上がって自室に戻り、学習机の前にある座椅子に座り、頬杖をついた。
「父親は相変わらず、態度が大きいし、変な臭いするなあ。日女野に入ってからの私は、花の匂いばかり嗅ぐようになったから尚更だね。それにあの遠回しな言い方。腹立つ。でも、今日は私なりに、無愛想にならないように努力してみた。偶然だとしても、日女野に入るきっかけ、織和香と出会うきっかけを作ってくれた人だからね。ただし、無愛想にならないよう努力するのは今回だけ。次からはこれまで通りの私になる」
気持ちを切り替えるように両手で頬を軽く叩き、ノートを取り出し、鉛筆を握ると、織和香がまとめ上げたストーリーに登場するキャラクターのイメージを描き始めた。最も得意な箇所である、髪の毛の型をまず初めにさらさらと描き、やや苦手とする眼、顎をゆっくりと描き上げた時、キャラクターの目と七海名の目が合った。たった今、自分が描き終えたキャラクターの笑顔に、描き手である自分の苛立ちが宿っているように思えた。七海名はしばらく、そのまま目を合わせた。
「ううむ。父親と話したからかな。描いてる時の気分って、やっぱり絵にはっきり出ちゃうな」
七海名なりに納得して完成させた絵が、しばらく時間を経過してから気になる点が生まれることは多々あることだったが、描き終えた時点で納得した絵は、自分の作品として胸を張ることが出来る。しかし、今のように、描き終えた時点で違和感を覚えることは、七海名にとって論外の出来だった。数カ月振りに父親と会話を交わしたことで、どうやら神経過敏になっている今日は、鉛筆を握っても集中出来ないことを感じると、七海名は早々に作業を切り上げた。時計を見ると、二十一時を回ったばかりだった。
「まだ時間があるから、描く以外の作業をするべきなのだろうけど。特にこれといってしたいことは無いな。漫画の描き方も基本的なことは覚えたつもりだし。あとは、実際に描き始めてみないとわからない。急ぎたいけど、急げない」
ひとつの作品を作るという長い作業を進める途中で、悩み、葛藤することは今までと変わらないが、美術部時代には得られなかった、どこか心に躍るものを感じながら、七海名と織和香の漫画作成という作業が始まっていた。
年末。七海名は両親と共に、神ノ辺市北区にある祖父母の家にいた。広岡山の自宅を出発し、西室市内で父親の行きつけの和食料理店で昼食を済ませた後、午後に祖父母の家に到着した。北区は広岡山に比べると気温が二度ほど低く、七海名は車から降り、冷たくも澄んだ空気を吸うと、祖父母の家に来たことを実感した。そして、数年前にリフォームされた綺麗な和風の引き戸から、祖父母が待ちわびていた様子で姿を現した。七海名は、一年前と全く変わらぬ祖父母の優しい姿を見て、ほっとした気持ちになった。宿泊用の荷物を車のトランクから下ろし終え、七海名と両親と祖父母の五人は、居間の掘りごたつに座り、祖母が煎れた温かい緑茶を飲みながら、今年の出来事など、積もる話をした。七海名は、広岡山ではあまり飲む機会の無い緑茶を味わいながら、未だに見慣れぬ、掘りごたつ、畳、障子や
夜。温泉街で夕食を済ませたあと、再び祖父母の家に戻っていた。七海名は、この年末年始の間、寝泊まりするために借りた二階の和室で荷物を整理していると、物静かな祖母が、手すりをしっかりと握りながら、ゆっくりと階段を登って来て、時間が空いたら客間へ来て欲しい旨を七海名に伝えた。七海名は、すぐにでも降りて行きたい気持ちだったが、あまり早く行くことによって、祖父母にいらぬ気を遣わせないように、荷物をまとめ、少し時間を置いた後、一階の客間に向かった。
客間である六畳の和室は、壁に縁起物が描かれた掛け軸が掛けられ、そのすぐ下には、正月を迎えるにあたって祖母が生けた、凛々しい花が置かれていた。七海名にとって、六畳の空間で男性と向き合うことは慣れないことで、本来であれば落ち着かない状況だが、祖父が相手であれば話は別だった。座卓の前に座っている祖父に向かい合い、正座をすると、祖父は湯呑みを手に取り、緑茶をすすった。祖父の雄々しくも品のある動作を見て、自らの父との違いを感じていると、祖父が七海名に話かけた。
「日女野での学校生活は、やりにくくないかね? あそこは、規則が厳しいだろう」
「最初は驚いたけど、いつの間にか慣れちゃったよ。中学の時と違って、生徒と先生達から監視されている気持ちにはなるけど、別にやましいことしてる訳じゃないし」
日女野の実情を多少なりとも知っている祖父は、自由闊達な性格の七海名が居心地の悪い思いをしていないか、気がかりだった。七海名は、ここでも祖父と父との違いを感じながら、思っていることを素直に答えた。
「それに、お昼も言ったけど、絵も描いてるよ」
元気であるなによりの証拠も付け加えると、祖父は柔和な微笑みを見せた。
「それはよかった、安心したよ。それでは、本題に入るがね。あらためて話しておきたいことがあって、ここに来てもらったわけだ」
祖父は、可愛い孫の顔に見せる柔和な微笑みを残しながら、目元と口元からは微かに真剣味を醸し出した。
「七海名は、将来、就いてみたい仕事はあるのか?」
「ううん。特に無いよ」
「絵を仕事にしようとは思わないのか?」
「友達には、そういう子もいるけど、私は思わないかな」
祖父は頷くと、床に置いていた、ある企業の採用案内をテーブルの上に置いた。
「この会社は、知ってるかな?」
そこは、
「電車の中の広告で見たことあるよ。知ってるよ」
「そこの社長が、私と、ちょっとした仲なんだが」
祖父は大学卒業後、友人と共に資材関係の会社を立ち上げ、知識の多さと、角の無い性格から、常に人から好かれ、人脈も多かった。社長の職務は、周囲が反対する中、六十歳を待たずに後継に譲った。その後、ある酒の席で出会った神ノ辺市長から、「今度、北区選出の市議の席が一つ空くから、是非」と頼み込まれ、祖父は冗談かと捉えていたところ、実際にその運びとなり、そのまま神ノ辺市議会議員を二期、務めたこともあった。七海名は、そんな祖父が今、なにを言おうとしているのか、ある程度察知した。
「少し、早い話だが。もし、七海名にその気があれば、将来はそこで働いてみないかね?」
ある程度察知していたとは言え、突然降ってきた就職の話題に、七海名は言葉に詰まり、それまで祖父の目を見ていた視線を下に向けた。
「仕事の内容は、事務と聞いて一般的に想像するような仕事、そのままだね。基本的には定時で上がれるし、転勤も無いし、多忙な仕事では無い。悪い話では無いと思ってね」
「うん」
「ただ、現実的な話をすると、ある程度の大学を卒業してもらわないといけないね。一次試験の書類審査を通す時に、ある程度の学歴が必要なんだよ。面接になれば、私の知り合いと、その部下の方が面接をするから、問題は無いのだけれどね」
数分、頭の中で様々な思いを巡らせた。
「私が大学を卒業するまで、あと六年以上あるけど、今こんな約束しちゃって平気なの?」
「社長はその頃は会長になっているだろうから、問題は無いよ。それに、同族企業だからね」
冗談のような真面目な話に、七海名は少し、笑いそうになり、
「いや。そういう意味じゃないんだけどね、会ったことも無い私を、六年も待ってくれるなんて、申し訳無いと思って」
「関係者の知り合いを採用するということは、昨日今日履歴書を送ってきた学生を採用するより、安心が出来るものなのだよ」
祖父の口から出された理屈を聞いた七海名は、社会という大きな渦の片鱗を垣間見た気持ちになった。そして、祖父が言うような好条件で働けるのであれば、多忙な職に就くことで絵を描くことから疎遠になるという、七海名にとってなんとしても回避したい将来を避けられると考えた。
「わかったよ。私は、この話は、ありがたく受け取りたいかな。お知り合いの方にも、よろしくお願いしますって、伝えておいて。私からも手紙を書いておくね。ありがとう」
「そうか。よかった」
「会社に入る前に、その、建設と建築について勉強しておいた方がいいかな」
「いや。その辺の知識は仕事を始めてから自然についてくるから、今から気を張って勉強する必要は無いよ。業界の常識を俯瞰的に知り得ておくだけで十分だと思うね。大学生になって、一次試験の時期が近付いて来たら、会長と社員と七海名とで、一席もうけてもらうよ。それまでは、まあ、好きなことをして過ごすことが、一番の勉強だろうね」
「わかった。ありがとう。なるべく良い大学に行けるように、頑張るよ」
祖父の人脈と気遣いに感服し、この恩は仕事で必ず報いたいと強く思ったところで、顔色が変わった。
「念のため、言っておきたいんだけど」
「どうした?」
七海名の深刻な表情を見て、祖父は表情を少し驚いた顔をした。
「お祖父ちゃんは、こういうことをする人じゃないってことは、わかってるけど。私が、ここでお祖父ちゃんが勧めてくれた会社に就職する代わりに、私がなにかをするっていうことは、出来ないよ」
七海名の真剣な表情を見たまま、祖父は拍子抜けしたように笑い、
「はは。なんだ、そんなことか。単純に、いい話があったから、聞いてみただけだよ」
「うん。そうだよね。失礼なこと言って、ごめんね」
「いやいや。なにか交換条件でも、出されると思ったのかね?」
祖父は、考えを見透かすように言った。七海名はしばし黙り、
「結婚のことかな。この前、父親……じゃなくてお父さんから、進路の話をされたから、次は結婚の話をされるんだろうなって。都合よく大人扱いされるのかなって、疑心暗鬼になってた。ごめんね」
祖父は、その率直な言葉を聞いて、七海名が抱える不安の気持ちをくみ取った。
「結婚か。まあ確かに、いずれ考えなければならん話だね。誰か、好きな男がいるのか?」
「いや。そうじゃないよ。ただ……」
なにかを決意したかのような、意思の強さを感じさせる真剣な目になり、
「結婚相手だけは、自分で決めたい。最高に好きって思える人と、結婚したい。結婚してから後悔しそうになっても、『私がこの人を選んだんだから』って納得出来るような人。立場とか見栄とか寂しさとか、結婚する時にみんなが考えそうなことを、私は考えないで、ただ『好き』って思える人と一緒になりたい。結婚って本来、そういうものだと思う」
祖父は、ここまで具体的な考えを述べる七海名に、思いを寄せている人間がいることを察知した。
「わかった。今、七海名が言ったことは、お父さんにも言っておくよ」
「ああ、いや。そういうつもりで言った訳じゃないんだけど」
「仕事も結婚も、一生に関わることだからな。言っておくよ」
「ありがとう」
七海名は祖父の顔を見ると、そこには、あとは任せろと言わんばかりの、強い力のこもった、それでいて優しい祖父の目があった。七海名は、長い間大切にしてきた絵という存在、そして織和香という人間を一途に思い続けられるという気持ちの両方を、今後も守っていけること、そのために祖父という頼もしい存在の力が借りられることを感じた。そして、もう一度、祖父に向かって頭を下げた。
冬休み明けの前日。七海名は自室にて、国立神ノ辺大学の資料を読み、倍率や入学に要する偏差値を調べていた。地元の国立大学である神ノ辺大学のことは既に見聞きしており、大体の数字は知り得ていたが、祖父から受験について話されたこの機会に再び確認していた。七海名の現在の偏差値は、神ノ辺大学の合格圏内に、僅かに届かない位置にいた。
「国立の神ノ辺大学。受験科目はかなり多いけど、ここを志望校に据えて、目指してみようかな。私は、絵以外にはどれだけ頑張れるのか、知りたい」
大学受験という言葉を聞いて多くの大人が想像するような、机に向かってひたすらに多数の教科と科目を学ぶ大学受験の形は、現在は失われつつあった。私立大学の入学試験は、国公立大学よりも受験科目が少なく、また、そもそも一般受験を経ず、推薦入試や附属校からの内部進学によって入学した者の比率が高まっていた。そのような中で、今も昔も変わらず多数科目の受験が課される国立大学の存在感は増しており、七海名としては、祖父からの期待と恩に応えるためには、私立大学ではなく、国立大学を受験したいと考えた。七海名が受験を決めた神ノ辺大学は、医者、経営者、大学教授を多く輩出しており、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます