四章 高校一年春

 五月末。日女野女子高校園芸部の活動は、順調に行われていた。活動内容は、放課後に、正門、駐車場、中庭の花壇等に植えられた花への水やりのみという単純明快なものだったが、校内全てとなると意外と花の量が多く、根気の要る作業だった。七海名は初め、作業量の多さに少々驚いたが、織和香は終始嬉しそうに、水をやっていた。七海名は、織和香の嬉しそうな顔を間近に見ては、癒された気持ちになっていた。また、活動開始の数日後に、顧問が手書きで用意した校内の花の配置図を得てからは、作業の効率性が上がり、作業箇所を上手く分担出来るようにもなり、活動に要する時間は、日に日に短縮されていった。七海名と織和香は、自分達が入部する以前の、園芸部に部員が誰もいなかった数年間は、顧問が一人で校内全ての植物の世話をしていたことを担任教諭から聞かされた。顧問は元々、花を眺めることも、世話をすることも、どちらかと言えば好きな方ではあったが、個人的な研究の時間が割かれることをやや気にしていた様子だった。校内全ての花の世話をするに必要な労力を知っている顧問は、はじめ、部員二人でなく自らも加えた三人で活動することを提案したが、織和香は、ぜひ自分達で世話をさせて欲しいと願い出て、断った。すっかり気をよくした顧問は、週に一度は嬉しそうな顔で部室に入って来て、自販機から購入してきた、ペットボトルの飲み物を差し入れてくる。今日は、いつものように七海名が織和香より先に作業を終え、部室に帰ってくると、小さいペットボトルに入れられたレモンティーが二本、机の上に置かれていた。七海名はそれを見て、くすりと笑い、

「いただきます」

 飲み物にはまだ触れず、いつも座っている席に腰を下ろした。校内の水やりという本来の園芸部の活動を終え、二人が部室に揃えば、雑談の時間となる。今の七海名にとって最も楽しく、充実した時間で、織和香の到着を今か今かと待ち望んでいた。漫画作成は、すぐに描き始めることは不可能であるため、二人で今後を話し合った結果、しばらくの勉強期間を設けることになった。織和香としては、小説や新書を読み返し、物語に触れたいという考えがあり、七海名としても、鉛筆やペンで絵を描くことの要領と感覚を呼び戻しておきたかった。十分ほど経つと、作業を終えた織和香が、多くの花々と対面した時に見せる、満たされた笑顔で部室に入ってきた。

「おつかれさまです」

「おつかれさま。これ、先生から差し入れ」

 席から立ち上がり、飲み物を織和香に手渡した。

「はい。いただきます」

 二人は並んで席に座り、いつものように雑談の時間が始まった。話題には、授業の内容や、お互いの中学時代の出来事が頻繁にあがる。中学時代、話し役と聞き役との間に立つことの多い七海名だったが、思いを寄せる織和香の前では、すっかり口数が多くなっており、時折、照れた笑いを浮かべている。会話の途中、織和香は、未だに慣れぬ手つきでペットボトルのキャップを捻り、飲み口を唇に当てており、七海名は、その口元をまじまじと見ていた。

 部活を終え、帰宅した七海名は、庭先でハーブの世話をする母親に帰りの挨拶をし、軽快な足取りで階段を上がり、自室に着いた。

「今日も、織和香は可愛いかったなあ。綺麗だったなあ!」

 ベッドにうつ伏せになり、足をばたつかせた。そして、自らの匂いが着いた枕を抱き、顔を擦り、口をつける。

「ちゅっ、ちゅっ!」

 夕方。私服に着替え、一階のキッチンで、母親と並んで夕食の準備をしていた。小さく鼻歌を歌う七海名の横顔を見た母親が、冷蔵庫の中から食材を取り出しながら、話しかけた。

「最近、楽しそうね。なにか良いことがあったの?」

「うん」

 にんまりとして、答えると、

「テストの点数が良かったの?」

「それもあるけど、もっと嬉しくて、大切なことがあったよ。恥ずかしいから、内緒だけどね」

 七海名は、あっという間に鶏肉を切り、野菜を散りばめ、香辛料を振りかけ、下ごしらえを終え、オーブンに入れた。

「はい、終わったよ。んじゃ、父親が帰って来る前に、お風呂に入っちゃうね」

 日女野入学以来、家にいても無表情でいることが多くなった七海名に笑顔が戻り、母親も嬉しそうな顔を浮かべた。

 夜。入浴と夕食を済ませ、自室にいた。今までであれば、二十三時を過ぎればベッドに潜っていたが、園芸部に入部してからは、いつか来る、漫画を描き始める日に備え、手書きで漫画を描く方法と手順が書かれた本を熟読し、ペンと鉛筆で絵を描く感覚を掴み直すため、右向き、左向き、手足に動きを加えたものなど、人物の絵を描くことが日課となっており、日付が変わってから就寝することが多くなっていた。この日も一時間ほど、絵の練習をした。そして、様々な髪型や服装を召した織和香の絵が描かれたノートを引き出しに仕舞い、一息ついた。

 就寝の準備を整え、自室の灯りを消し、ベッドに入り、天井を見つめた。そして、今日もまじまじと見た、織和香の潤んだ唇が浮かんだ時、身体の中心が熱くなり、そこまで手が伸びかけたが、

「駄目、それだけは駄目!」

 頭の中に浮かんだ邪念をかき消すように、首を左右に振った。

「そういえば最近、しなくなった。恋をしたら、性欲も消えるのかな。きゃっ!」

 恋心に初めて触れた十代の少女らしく、自分の感情に敏感になっていた。また、織和香の持つ純粋無垢さと可憐さに、保護欲に近いものを刺激されていた。

「織和香って、放っておいたら変な男に捕まっちゃいそうで、不安。もし、付き合った男から異常に束縛されても、『あの人には、私しかいないんです』とか言いそう。そうやって、変な男が寄り付かないように、私が守らないとね。それと、私が織和香を束縛しないようにも、しないと」

 姿勢を横向きに変え、自分の両手を組んだ。

「いつか織和香に、私の思いを伝えないといけないよね。いつ、なんて言えばいいのかな。日女野は男女交際禁止だけど、女同士の交際は禁止されてない。織和香は、私と……女と付き合うことって考えたことあるのかなあ。私が織和香と付き合える可能性が、ゼロなのか、ゼロじゃないのか知りたいな。『織和香は、女の子と付き合える?』なんて、そのうち聞いてみても、いいかな」

 七海名にとって織和香は、比奈子や愛莉と一緒にいることで得られる仲間意識や安心感、安定感を抱く存在とはまた別の、憧れや愛しさが入り混じった、言葉にしたくても出来ない、恋心という特殊な感情を抱かせる、唯一無二の特別な存在だった。その、近いような、遠いような、計りかねる距離感に置かれた七海名の心には、もっと、そして早く織和香に近づきたいという思いが生まれ、恋心を燃えさせていた。七海名は、人間の心理や感情、欲といった、あらゆるものが複雑に交差し、そして誰もが突然そこへ陥る可能性を含む、恋愛という奇妙な世界の住人になっていた。

 六月の休日。紺色の、上品なリボンベロアボウタイが着けられたブラウスを着た七海名は一人、駅前にある喫茶店で、比奈子と愛莉を待っていた。元美術部員である七海名と比奈子と愛莉は、そのうちの二人で会うことはせず、三人全員が揃わない限り、会うことは無い。それぞれ別の高校に通う今、久し振りに三人の都合が合い、誰が言い出した訳でも無く、中学校の卒業式以来に再会する運びとなった。一足先に着いた七海名は、少し落ち着かない様子で、四人掛けの席に座っていた。七海名は、織和香と付き合える可能性を探ろうと思ってはいたものの、当の本人である織和香と踏み込んだ話が出来ない日々を送っており、今後の自分はどうしたらよいか、比奈子と愛莉に相談しようと考えていた。どうしても落ち着けない七海名は、席からつい立ち上がり、セルフサービスの水を三つ用意し終えると、入り口の方でドアベルが軽快に鳴り、銀縁眼鏡からコンタクトに付け替え、少しあか抜けた印象になった比奈子が現れ、七海名に気付き、白い歯を見せた。そのまま、七海名の元まで近づき、声をかけた。

「久し振りだね!」

「お。久し振り」

 織和香に向ける笑顔とはまた違う、懐かしみを帯びた笑顔になった。七海名と比奈子は、四人掛けの背に向かい合って座り、七海名から話題を振った。

「絵は、描いてる?」

「うん、描いてるよ」

「そっか」

 七海名は、なるほどという顔で頷き、それ以上は踏み込まなかった。比奈子は、七海名と愛莉に見せたい絵、または見せられる絵を描いている時は、返事と共にクロッキーブックかノートを開く。今の比奈子は、返事のみだったため、見せたくない、あるいは見せられないものを描いているということを意味していた。七海名の相変わらずの、気遣いを超えた当然の反応に、比奈子は、家庭では決して得られない、自らの心が温かまる感触を得た。間もなく、グレーのタートルニットを履いた愛莉が到着した。

 注文した飲み物がそれぞれ手元に揃ったところで、七海名が口を開けた。

「二人とも共学だけど、好きな人できた?」

 比奈子と愛莉は、同時に首を横に振った。二人の、姉妹のような動きを久し振りに見た七海名が和んだ気持ちになった時、比奈子が七海名の方を見て、答えた。

「私は、相変わらずだよ。家のこともあるし」

 比奈子の両親は厳しく、比奈子が異性と交際することを禁じていた。このように七海名と愛莉とで外出する際も、その都度、何時から何時まで、どの店で会うということを伝え、許可を貰った上で外出している。比奈子には、中学時代、密かに思いを抱いた同級生の男子がおり、どうするべきか、七海名と愛莉に相談したこともあったが、成人するまでに異性と交際することは絶対に許さないと厳しく咎める両親に逆らってまで関係を発展させたくないと考え、思いを敢えて振り払い、一時の感情に済ませた経験がある。また、当時の比奈子は気が付いてはいなかったが、日々、比奈子の心の中に生まれるストレス、弱音も愚痴も、その全てを、必要とあらば七海名と愛莉に話すことが出来るため、わざわざ異性と恋愛してまで満たしたいものは、皆無だったことも大きい。

「私も同じだよ」

 温かい紅茶を口に入れてから、愛莉も静かに答えた。二人は質問に答えたあと、七海名の次の言葉を待った。七海名は、今日、どこかの時点で言おうと用意していた言葉を、早々に口にした。

「二人に聞きたいんだけど。もし、漫画のキャラみたいな魅力的な人が、実際に目の前に現れたらどうする?」

 さすがの比奈子と愛莉も、七海名の言葉の意図をはかりかね、質問の答えを考える以前に、言葉に詰まった。数秒の沈黙が流れたあと、愛莉が口を開いた。

「なにか、大事なことを言いたいの?」

 心を透かしたような愛莉の言葉に、七海名は、自分が遠回しの言い方をしたことを恥ずかしく思った。

「七海名が真剣な話をする日って、会った時にはもう、真剣な顔をしてるから。今日みたいに」

 愛莉は、七海名の目を見て言った。比奈子も、少し俯きがちの七海名の目を、心配そうに覗いた。

「実は私。好きな人ができて」

 七海名は俯いたまま、やや震えた声で言った。

「そうなんだ。どこの学校の人?」

 愛莉が、七海名の気持ちを落ち着けるような優しく、低い声で聞くと、

「同じ学校。女の子」

 比奈子の眉頭がかすかに動き、ティーカップを取ろうとテーブルの上に差し出された愛莉の手が止まった。中学三年間の中で一度も見たことが無いほど真剣な七海名の表情に、二人は、ただならぬものを感じた。そして、愛莉が、頭の中で言葉を整理してから、

「七海名は、その子と、どうなりたいの?」

「私は」

 七海名の声は、まだ微かに震えていた。そして、俯いていた顔を上げ、視界に入った愛莉と比奈子の顔は、先ほどまで見せていた笑顔が消え、神妙な表情を向けていた。それは、お互いのことを家族以上に知り、三年間という長い時間を連れ添った仲間が悩んでいる様子を純粋に気に掛ける、優しい表情でもあった。

「あ。私、暗い顔してたかも。当たり前だけど、誰にも言ってないことだから、ちょっと緊張しちゃった」

「うん」

 比奈子と愛莉は表情を変えなかった。

「私は、出来れば、その子と付き合いたいかな」

「うん」

「私は、具体的に、その子のどこが好きなのか、よくわからないかもしれない。その子は可愛いし綺麗だし、上品で、良い子だと思うんだけど、それ以上の言葉は出て来ないかな。でも、その子とは友達以上の関係、恋人同士になりたいと思うし、その子のすぐ隣にいる人間は、私じゃないと嫌だなって、独占欲みたいな気持ちもある。『好きな理由を挙げろって言われたら、うまく出来ないけど、関わりたくてしょうがない』……なんだか、絵を描いてる時みたいだなって思う」

 絵を描いている時みたい、という言葉を聞いた比奈子と愛莉は、少しほっとした表情を見せ、それぞれ、目の前に置かれた紅茶を飲んだ。

「私は今まで、絵もアニメも漫画も同人も、可愛くて綺麗で格好良くて、素敵だなって思って、関わってた。出てくるキャラも魅力的だったけど、やっぱり現実とは別の世界の話だと思ってたから、キャラみたいな人が現実に現れる可能性とか、現れたら自分はどう思うのかなんて、想像したことも無かった。でも、今まで見てきたどんなキャラよりも素敵な子に出会っちゃった。だからさっき、『漫画のキャラみたいな魅力的な人が、実際に目の前に現れたらどうする?』って聞いたんだよ。遠回しな言い方になっちゃって、ごめんね」

 率直な気持ちを吐露すると、比奈子が微笑み、

「そんなに魅力的な人が現れるなんて。それこそ、素敵なことだと思うよ。好きになっちゃうと思うよ」

 顔を赤くさせ、照れながら、

「でしょ」

 ぼそりと言うと、三人に笑いがこぼれ、和やかな空気が、やっと流れた。

「ただ、実際に好きになったあと……。あの子を好きになった今の私は、どうしたらいいのかなって、悩んでるんだよね。好きな気持ちがあるなら、伝えた方がいいとは思うんだけど、私が気持ちを伝えることで、その子を困らせちゃう気がして。気持ちを少しずつ伝えるなんて器用なこと、私には出来そうにないし。ちょっと、焦りもあるし。葛藤してる。人を好きになったこと、初めてだし。私はどうしたらいいのかな」

 七海名が再び俯きそうになった時、

「中学時代、コンクールとか文化祭のポスターとか、期限に余裕が無い絵を描き始めようとしても、なかなかアイディアが浮かばない時。そういう時って、急ぎたくても急げなくて、今みたいに焦ったと思うんだけど、その時の七海名は、どうしてたっけ」

 愛莉が、七海名に自分自身の過去を思い出させるように聞いた。七海名は、考えを巡らせることも無く、

「私は、待つことが苦手だったけど、アイディアが浮かぶまで、なんとか待ってたかな。寝たり、他の作品に触れたり、外に出掛けたり。描きたいものが浮かんで、描き始めたあとも、それはそれで細かい修正作業がいっぱい出てくるけど、描いてる途中の悩みはそんなに辛くない。描く前、アイディアが浮かぶまでが一番大変なんだよね」

「うん。今の七海名は、絵で例えたら、アイディアが浮かんでない状態なのかも。七海名が今、その子に対してどうしたらいいのかわからないなら、なにか考えが浮かぶまで待つのはどうかな。七海名なりの、絵との接し方、好きなものとの接し方。好きな人に対しても、同じように接してみるの」

 愛莉は淡々と述べた。その言葉を聞いた七海名は、一度、目を白黒させたあと、胸のつかえが取れたような明るい顔になり、

「なるほどね。絵と同じか。私向きだね。なんだか、身近過ぎて、考えなかったかも」

「うん」

 愛莉は、僅かに前のめりになっていた身体を元に戻した。すると、入れ替わるように、比奈子が身体を僅かに前に出し、

「七海名は、絵のことでもその子のことでも、やりたいことが見つかれば、あとは自分でどんどん考えて、努力していくと思うな」

「だと、いいんだけど」

「今は毎日会える訳じゃないけど、私達がいることも同じだよ」

「うん」

 七海名の笑顔を見た愛莉は、テーブルの隅に立てかけられたメニューを取り、三人が見やすい位置に広げた。

「なにか、甘いもの食べようか」

「いいね」

 三人はその後、三種類のケーキが並んだテーブルで、二時間ほど会話を楽しんだ。そこには、平均的な十代の女子に比べると、やや大人びた三人が醸し出す、中学時代の美術室と変わらぬ、和気藹々とした雰囲気が流れていた。

 午後三時過ぎ。喫茶店を出たすぐ先に広がる駅前のロータリーで、三人は解散した。比奈子と愛莉が、それぞれ別方向に向かうバスに乗り、出発していく姿を見送ってから、七海名は帰路についた。駅から七海名の自宅までは、バスに乗って移動することが多かったが、今日は、歩いて自宅に向かった。

「比奈子と愛莉にお礼を言ったの、いつ振りだろ」

 軽い足取りで歩き出し、そのまま遊歩道に入った。帰宅時間を考えると、遠回りにはなるが、桜の木と松の木が多く植えられたその遊歩道は、好きな場所のひとつだった。

「私は、織和香のことで浮かれてた部分もあったね。好きな人の前でこそ、冷静にならなくちゃね」

 静かに佇む木々に影響されるように、七海名の心も、穏やかさに満たされていた。

 六月末。午前中に小雨の降った今日は、土の乾いた部分にのみ、水をやっていた。大きめのジョウロを持った七海名は、土を睨み、その湿り具合を判断し、水の量を加減しながら作業を進めた。作業を一通り終え、中庭に到着すると、同じく作業を終えた様子の織和香と鉢合わせた。

「お疲れさまです」

「ありがと。織和香も、お疲れさんね。園芸部の活動は、楽しい?」

 聞くと、織和香は迷うこと無く、

「楽しいですよ。七海名さんはどうですか?」

「正直、私は今まで、植物に水をやるなんて考えたことも無かったけど、意外と楽しいと思ってるよ。自分で水をあげてみると、校内にある植物の数も多いんだなって感じたし」

 七海名が花壇の方に視線をやると、昇降口の方から、大きな身体をした男性教諭が通りかかり、二人に向かって声を掛けた。

「お疲れさま!」

 七海名は、男性教諭の方に身体を向け、

「ありがとうございます」

 会釈をすると、織和香も続いた。

「ありがとうございます」

 織和香は、男性教諭の方には身体を向けず、視線も、男性教諭の目ではなく、首元あたりを見ていた。それはまるで、七海名が父親に対して向ける態度のようだった。男性教諭は挨拶を終えると、すぐに、体育館の方へ歩いて行った。

「どうしたの。体調悪い?」

「い、いえ。なんでもありません」

「そっか。じゃあ、部室に行こっか」

 七海名はどこか腑に落ちないものを感じながら、部室へ向かった。

 園芸部の部室。今日の七海名は、キャラクターの模写をしようと考えていたため、自宅の部屋から、無作為に数冊の漫画を持参していた。そして、机にその漫画を置き、部室の隅に放置されていた事務用のデスクライトを設置し、硬さの違う、よく削られた鉛筆を並べ、それまで置かれていなかった部室の机は、一気に賑やかなものになった。

「まるで漫画部だね」

「本格的ですね」

 七海名は座り、描きやすいように一枚ずつ切り取られた白い紙を並べ直しており、織和香は、机に並べられた漫画や機材を物珍しそうに眺めていた。

「こちらの漫画、拝見してもよろしいですか?」

 織和香が、七海名の持参した漫画に興味を抱いたようだった。七海名は手元に集中していており、織和香の方は見ずに返答した。

「うん。私にいちいち聞かなくても、勝手に見ていいからね」

「ありがとうございます。お借りしますね」

 割れ物を触るような丁寧さで漫画を持って来ると、七海名の横の席に座った。

「綺麗なお花の表紙なので、つい手に取ってしまいました」

「花?」

 花の描かれた表紙に心当たりの無い七海名は、織和香が持って来た本に視線をやると、そこには確かに、棘が強調された薔薇の花の絵が描かれていた。それは、SFアニメに登場する冷静沈着な男性キャラクターが、持ち前の行動力を理由にミスを犯してしまった部下を縄で縛り、彼なりの愛情表現をもって叱るという内容の、七海名の持つ同人誌の中では、ややハードなもので、当然、年齢制限の掛けられた作品だった。七海名は、自分が持参したものは、全てが全年齢版の商業誌だと思っていたため、同人誌、それも年齢制限の掛けられた作品が混じっていたこと、それを織和香という最愛の女性に見られてしまったことに、この上無く驚き、口を尖らせ、まるで漫画のキャラクターのように吹き出した。

「ぶっ!」

 七海名は、あまりの恥ずかしさに、顔を真っ赤にさせ、

「ま、隠してたわけじゃないし。いいや。私は、そういうのも読むんだよね。正直、好きなんだよ! そういう本を読んでいると、むしろ人間は男同士、女同士で結ばれるべきなんじゃないかと考えてしまう。一般的な価値観を超えて得られた愛情こそ、真の愛情ではないだろうか? 私は、そういう本を読んでいると、とても考えさせられて、夜も眠れなくなる。だけど、最後は必ず納得出来て、私の中が熱くなって、とろけてしまうような安心感を」

 無意識に湧いてくる、同人誌に対する価値観をつらつらと並べたあと、我に返ったように首を振った。

「いや。なにを言っているんだ私は。一応、年齢制限あるし人を選ぶジャンルだから気を付けてね。……じゃなくて。それが先生に見つかったら私達は色んな意味でやばい。隠さないと!」

 言葉が支離滅裂になっていく途中で、織和香の身体が、同人誌の数ページ目をめくったところで固まっていることに気が付いた。

「だ、男性の方同士が裸で」

 七海名も動きを止め、なにやら様子がおかしい織和香の方に身体を近づけた。

「織和香?」

 織和香は、両手で開いていた同人誌をぱさりと手から落とし、ゆっくりと身体を七海名の正面に向けた。その顔は、血の気が引き、目がうつろになっていた。

「な、み、な……さん……」

「どうしたの! 顔色、凄く悪いよ!?」

 織和香はそのまま気を失い、前に倒れ込んだ。七海名はとっさに、織和香の倒れてくる位置に身体を動かし、両腕で抱え込み、織和香を抱きしめる形になった。

「織和香! 起きて。返事して!」

 背中を軽く叩きながら呼びかけるが、反応は無い。

「ど、どうしよう。救急車? い、いや。その前に保健室に連れて行った方がいいよね」

 織和香の身体を左腕のみで抱え直し、右手で、織和香が読んでいた同人誌を、なんとか通学鞄の中に入れたあと、ぎこちない手つきで背中におぶった。

「う、うう……! 織和香、待っててね!」

 そのまま部室を出て、誰もいない昇降口前の廊下を数十メートル、ゆっくりと歩き、引き戸が開けられた保健室に着くと、白髪の混じった、ふくよかな養護教諭が小走りでやってきた。

「先生! 織和香が……頼野よりのさんが、倒れてしまって……どうしたらいいでしょうか。救急車を呼んだ方がいいでしょうか」

「倒れたのね。ちょっと待っててね」

 養護教諭は、落ち着きを促すように、つとめて冷静に言ったあと、七海名の背中で意識を失っている織和香の顔と身体を見た。そして、出入り口から最も近い場所に置かれた細長い椅子に織和香を移動させ、脈と呼吸を確認し、肩を叩いて呼びかけた。すると、織和香の眉が動き、僅かに声の反応があった。養護教諭は、織和香の顔を見たまま、七海名に質問をした。

「倒れた時に比べると、顔色は良くなってる?」

「は、はい。最初は、顔が真っ青でした」

「そう。大事には至らないと思う。横に寝かせてあげましょう。少ししたら、目を覚ますと思うから」

「わかりました」

 養護教諭は、織和香を軽々とおぶり、奥のベッドへ移動させた。七海名は、その様子を立ったまま眺めていた。自分があれほど難しく思えた動作を、慣れた手つきで行う養護教諭を見ながら、自分の無力さを感じ、ため息をついた。そして、奥のベッドから戻ってきた養護教諭に近づき、

「私に、なにか出来ることは無いでしょうか」

「近くにいてあげて。もし、顔色が悪くなるようなことがあれば、教えてね」

「わかりました」

 近くにいるだけで本当によいのだろうかと思いながらも、他に出来ることも思いつかず、呆然としたまま歩き出し、桃色のパーティションで仕切られた部屋の、織和香が寝かされているベッドの前まで向かった。七海名は、養護教諭の手によって丁寧に寝かされた織和香の顔を見て、無表情のまま、立ちつくした。そして、隅に置かれた、背もたれの無い丸椅子に座り、織和香を見て、小さく喋りかけた。

「織和香。体調、悪かったのかな。ごめんね、気が付かなくて。今は顔色もよくなってきたし、先生も大丈夫だって言ってくれたから、少し安心したよ。最初は、顔が真っ青だったから、凄く心配したよ……」

 織和香は、穏やかな表情をしたまま、小さく呼吸をしている。七海名はしばらく黙ったあと、言葉を続けた。

「本当に、心配したよ。私にとって、織和香は、大切な人だから」

 織和香の体調不良に気が付かなかったことは、自分が恋に浮かれ、盲目になっていたことに理由があると感じ、その自分勝手さ、情けなさとふがいなさに、目が潤んだ。

「私は、織和香に謝らなくちゃいけないこと、他にもあるんだよ。入学式の日。失礼なことを言って、ごめんね。私は、馬鹿だね。織和香に、まず謝らなくちゃいけないことがあるのに、勝手に盛り上がって、自分の気持ちをどうしたいかばかり、考えて。自分のことより、織和香のことを考えないといけないのにね」

 織和香は、七海名に強い恋心を抱かせると同時に、独占欲と保護欲も刺激するが、それら欲と呼ばれるものを浄化してしまうような純粋さも持ち合わせていた。今の七海名の心の中には、織和香の純粋さが宿ったように、織和香という一人の女性を一途に思う気持ちに溢れていた。そして、ひとつのことを思いつき、零れ出そうになった涙をハンカチで拭き、立ち上がった。

「頼野さんの顔色は、運んできた時よりも良くなってきたと思います。私は、ちょっと、園芸部の部室まで行って来ます。すぐに戻ります」

 出入り口付近にいた養護教諭に、部室に行く旨を伝え、先ほどと変わらず誰もいない昇降口前の廊下を通り過ぎ、部室に戻った。部室に戻ると、七海名の通学鞄と、織和香の通学鞄が椅子の上に置かれ、西に落ち始めた日の光を浴びていた。その光景を見た七海名は、膝の力が抜け、前に倒れかけ、崩れるように、自分の席にもたれかかった。

「私が、織和香と付き合いたい思う気持ちも、付き合える可能性があるのか知りたい気持ちも、自分勝手で自分本位な考えだね。本当に好きなら、まずは心に仕舞っておくべきだ。私の気持ちを言いたいのは私だけで、織和香は私の気持ちを聞きたい訳じゃないんだから。私は織和香のために、出来ることをしたい。今日みたいに、なにも出来ないのは嫌だ。織和香と私が近くにいられる間、少なくとも、この日女野にいる間は、私が出来る範囲で織和香を守りたい。もう、今日みたいなことにはならないようにしたい」

 真っ白なキャンバスと対峙した時と同じように、真剣な顔になった。そして、席に散らばったままの、なにも書かれていない紙に向かい、鉛筆を持ち、さらさらと、人物の顔を描き始めた。日女野入学以来、教室でも、部室でも、常に隣にいて、七海名が密かに思いを寄せ、自室で何度もその顔を描いていた女性、織和香の似顔絵だった。

 再び保健室に戻り、織和香の前に座っていた。織和香の顔は、ほぼ平常に戻り、先ほど様子を見に来た養護教諭の、間もなく目を覚ますだろうとの言葉を聞き、七海名の心も平静を取り戻していた。しばらくすると、織和香の長い睫毛がぴくりと動き、目を開けた。

「七海名さん」

「よかった」

 織和香は姿勢を動かさず、周囲を見回し、自分が保健室に運ばれたことに気が付いた。

「私は、倒れてしまったのですか?」

「うん。倒れた時は顔が真っ青だったから、さすがに心配したよ」

「そうでしたか……。申し訳ありません」

 織和香は再び、真っ直ぐ天井を見つめ、目を閉じ、言葉通り、七海名に対して申し訳無さそうに言葉を続けた。

「私達が作る漫画の件ですが、お話は考え始めています。ですが、まだしばらく時間をください」

 七海名は、織和香の変わらぬ生真面目さを痛感した。同時に、自分が誘った漫画作成というものが、織和香の体調を崩す原因とならないように、

「そんなに真面目に捉えなくていいからね。学校生活を楽しむためにやることなんだから」

 中学時代に、好きで向かっているはずの絵に対して生まれた強迫観念と義務感にとらわれ、幾度となく体調を崩した経験がある七海名なりの、戒めと、優しさのこめられた言葉だった。そして、七海名は織和香に近づき、手に持っていた織和香の似顔絵を見せた。

「これ、織和香が寝てる間に描いたの。見て」

 織和香は、枕に乗せた頭を七海名の手の方向に向け、

「とても可愛らしい女の子ですね。お上手です」

「ありがと。織和香の似顔絵だよ」

「私は、こんなに可愛らしくありませんよ」

 織和香は、心底恥ずかしそうな顔をした。

「そう?私から見たらこう映ってるけどね」

「そんな。恥ずかしいです」

 顔を赤らめ、口元を掛け布団で隠した。その可愛らしい様子を見た七海名は、織和香以上に顔を赤くし、今にも顔から火が出そうな気持ちになった。織和香は、すぐに元の表情になり、

「七海名さんは私が寝ている間、ずっと隣に居てくれたのですか?」

「そうだね」

「申し訳ありません」

「織和香は謝りすぎ。なにも申し訳無くないよ。謝るのは、むしろ」

 七海名は深呼吸をしてから、真顔になり、頭を下げた。

「入学した時に、失礼なこと言ってごめんね」

 これまでの七海名は、自らに抱いた気持ちを、絵などの形や態度で表現することで他人に伝えてきたが、今の七海名は、織和香に対する申し訳無いと思う気持ちを、率直に言葉で伝えた。織和香は、七海名の突然の謝罪に驚き、

「入学した時に、失礼なこと、ですか。なにか、ありましたでしょうか?」

「織和香が自分で日女野を志望したって言ってるのに、疑ったでしょ」

「なるほど。そのようなこともありましたね。ですが私は、全く失礼には感じませんでしたよ」

 真顔を崩さず、

「でも、私の中では失礼だと思ってたから。ごめんね。あの時は、私の学校生活は始まる前から終わったって不貞腐れてたし、織和香みたいな子がいるなんて、信じられなくて」

 頭を上げると、織和香のやや困惑した表情が目に入った。これ以上謝ると、逆に織和香に気を遣わせてしまうと考え、

「今は、織和香の、お花みたいな優しい雰囲気に癒されてる。私みたいな人間は、浄化されそうだよ。私なんかと仲良くしてくれて、ありがとね」

「とんでもないことですよ。むしろ、私が七海名さんに助けていただいてばかりです。ありがとうございます」

 織和香は、まだ、どこか申し訳無さそうな顔をしていた。

「なに言ってんの。助けようだなんて思ってないよ。友達でしょ」

 七海名の喉元に、友達という言葉が浮かんだ時、一瞬の躊躇いを覚えたが、そのまま口にした。

「まあ『申し訳ありません』って言われるよりは『ありがとう』って言われた方が良いけどね」

 織和香は、なにかを考えている様子で、黙ったまま天井を見ていた。その表情を見た七海名は、織和香が目を覚ましてから、ずっと会話に付き合わせてしまっていることに気が付き、座っている椅子から立ち上がった。

「お水、持って来るね」

 出入り口にいた養護教諭に、織和香が目を覚ました旨を伝え、お礼を言い、保健室を出て、部室に向かった。そして、なるべく長い時間、織和香を一人にさせるため、机に出されたままの鉛筆、紙、漫画を片付け、ロッカーから箒と塵取りを出し、簡単な清掃を済ませてから、通学鞄を二つ持ち、購買部の隣にある自販機に向かった。この時の七海名は、絵に集中した時にのみ見せる、あの凄みのある表情と、全く同じ表情をしていた。

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