三 夜長楼にて

 僕は走っていた。

 野を抜けて、山を駆けて。

 誰かを追いかけていたのかもしれない。あるいは、迫り来る何かから逃げていたのかもしれない。

 ただ、僕は走っていた。


 目覚めると酷い耳鳴りがした。鼻に違和感があった。触れた手に赤い血が付いた。鼻血が出ている。何か拭うものはないか、僕は起き上がって辺りを見回した。

 知らない部屋にいた。夏影亭ではない。調度品が紫だ。椿屋でもない。ここはどこだろうか。ハクロの姿もなかった。

 僕は結局、ひとりになったのか。

 寂しい気持ちはあったけれど、仕方がないという思いもあった。浴衣の袖で鼻を押さえながら、空いた片手で布団を畳んだ。カザハナさんに会いに行こう。カザハナさんならば、どうすれば良いのか教えてくれるだろう。

 布団を部屋の隅に寄せて、僕は自分の服を探した。浴衣の胸元に血が付いていた。替えの服がないと困る。襖を開けても見つからず、僕は俯いて座った。鼻血が止まってから落ち着いて探そう。

 明らかに傷が増えていた。腕に、腰に、ふくらはぎに、指に。そのどれもが真新しい怪我ではなく、身に覚えのない古傷ばかりだった。膝に、踵に、胸に。昨日までなかったはずの古傷がまるで全身に蔓延していく病のように思えた。痛みはなかったが、心地よいものではなかった。

 僕は部屋を見渡して状況を整理した。ここは椿屋や夏影亭と同じような宿だろう。部屋の広さは六畳間と八畳間の二間続き。隅の雪洞が、淡い橙色に部屋を照らしている。調度品は紫、襖には月が昇っている。欄間の彫刻は、川を流れる紅葉だろうか。

 秋。

 春の椿屋、夏の夏影亭。カザハナさんは別れ際に、冬街で会おうと言った。それならばここは秋街と呼ばれる場所だろう。

 それにしてもこの部屋には窓がない。襖はあるものの、開けるとただの押入れだった。この部屋には出入り口がない。どうすれば出られるのだろうか。試しに助けを呼ぼうと口を開いたけれど、出てきたのは息を吐く音だけだった。僕はまだ声を失ったままだ。耳を澄ましてみても、外の音は何も聞こえない。人の気配がない。誰にも知られずに、この部屋で朽ち果てるのだろうか。

 朽ち果てることが出来るのだろうか、僕は、名前もないのに、こんなにも不確かな存在なのに、それでもなお何を失うというのだろうか。

 忘れたことさえも忘れている、カザハナさんはそう言った。僕は疲労や空腹を感じていないことを思い出した。そうだ、ああ、そうだ。

 僕は、生きているのだ。

 自分の命を自覚した途端、目の前が弾けた。聞こえなかったはずの音が聴こえはじめる。雪洞は明るさを増し、紫は深みを増した。僕の体に確かな感覚が戻って来る。命を感じている。

 僕は。

 ああ僕は、僕だった。私という一人称に戸惑ったのは、馴染みのない言葉だったからだ。やはり名前のことは何も思い出せなかったが、それでも僕は自分自身に一歩近づくことが出来た。

 生きていることを忘れていたということは、僕は自分が死んでいるのだと思い込んでいたということだろうか。生きている実感が湧いていなかったわけではない。ただ、生きるために最低限必要なことが欠けているにもかかわらず平気な顔をしていることに、何の疑問も持たずにいた。食事を摂ることも、休息を取ることも、当然のことだったはずなのに。僕の体は命を維持することが困難になり、悲鳴を上げた。

 カザハナさんの言葉は正しかった。生きていること、そして生きることを思い出さなければ、僕は今頃、本当に死んでいただろう。

 それにしても僕はどうして、そんなことさえも忘れていたのだろうか。

 僅かに前進したようで、その実、真相からは遠ざかっているような気がした。僕は何も分かっていない。名前も分からず、願いも思い出せないまま。こんな僕のままで、ソコに辿り着くことなど出来るのだろうか。

 今ならきっと、すべてを思い出したいと願うだろう。だが、それは僕の本当の願いではないように思う。確証はないけれど、願いならば記憶を失う前に祈ったはずだ。ハクロが応える程の強い願いが僕の心の内にあったはずなのだ。何も思い出せない自分が、腹立たしい。情けないし、申し訳ない。無力な自分が嫌になる。

 ハクロ。

 声に出せないまま、その名を呼ぶ。

 ハクロ。あなたが旅をするほどの価値なんて、僕にはあるのだろうか。

 出口のない部屋でひとり、僕はただあなたを待っていた。


 言い争っている声に、僕は顔を上げた。いつのまにか鼻血は止まっている。目覚めてからどれほどの時が過ぎたのか分からない。言い争う声が徐々に近づいてくる。何を言っているのか、はっきりとは聞こえないが声の主はふたり、ハクロと、少女の声だ。ハクロの声が聞こえるということは、ハクロよりも強い他のトモガミは近くにいないということだ。ハクロたちの声は、なぜか下の方から聞こえた。

 また僕のことで叱られているのだろう。僕は膝を抱えた。思い出そうとすればするほど、記憶は深い霧の奥に見えなくなる。なぜ忘れたんだ、僕は自分を責めた。

「あれが干渉したものをここに寄越さないでください。知っていたら手助けしませんでした。これだからトモガミは嫌なのです」

「だから何度もすまないと」

「怪我人を連れて現れたら、手を差し伸べないわけにはいかないでしょう。ヒバナの優しさにつけ込むとは卑怯です」

「卑怯とは酷い」

「酷くなんてありません。ヒバナの心は悲しみに打ちひしがれています。ハクロのことはトモガミとはいえども、信用していたのですよ」

 どうやら言い争っているわけではないらしい。声を荒げているのは少女だけで、ハクロは静かに返している。その少女のほうも言葉遣いは丁寧だ。近付いて来た声は、やはり床下から聞こえる。どういうことなのか、僕は部屋の隅に寄せた布団にもたれかかった。

「ニエ、起きなさい」

 少女の声が僕を呼ぶ。起きています、返事をしようにも、僕は声を出せない。

「出てこないのならば、こちらから出向くまでのこと」

 僕は少女の声が聞こえる床をぼんやりと眺めていた。出てこいと言われたところで、どのようにして出られるのだろうか。それが分かっていたら僕だってこの部屋からとっくに這い出しているはずだ。ガコン。出向いてもらったほうが助かる。僕はここから逃げ出したりなどしない。

 ガコンという音は何の音だったのだろう。何かが外れる音のように聞こえた。一枚の床板が軋みながら動いた。僕はただ床に出来た穴を見ているだけだった。

「ニエ、いるのでしょう」

 穴から少女がひょっこりと顔を出したが、僕からは後姿しか見えない。いませんね、と少女は呟いて頭を引っ込めた。そんなことはないだろう、と言いながら今度はハクロが顔を出した。ハクロは僕を振り返った。変わることのない白い面が僕を捉えた。

「おはよう、ニエ。調子はどうだ」

 穏やかな口調でハクロはそう言ったけれど、僕には返す言葉が見当たらなかった。大丈夫だ、駄目だ、もう平気だ。僕は迷っていた。つらい、その胸の内を告げてしまいたかった。

「ハクロ、ハクロ、そこを退きなさい。ヒバナにも見せなさい。ヒバナもニエを見たいのです、そこにいるのは分かっています」

 ハクロを押しのけるようにして先程の少女が無理矢理に顔を出した。あどけない表情の少女は人形のように整った顔を綻ばせた。自分をヒバナと呼ぶその少女は、長く清らかな黒髪が床に着くことも厭わずに穴から這い出した。

「ニエ、これがニエ!」

 少女は僕の名を呼びながら床を這うように近寄って来る。橙色の灯りに照らされた着物は赤みを帯びた紫に染まる。僕は少女の勢いに押されていた。少女は僕の両頬を小さな両手で包んで言った。

「なるほど、なるほど。あれが干渉したことを除けば、良いトモビトではないですか。四肢無事であるのに噛まず吼えず。これならばヒバナにも扱えるでしょう」

 一体、何の話をしているのか。

「良いですか、ニエ。これからヒバナのことはヒバナ先生と呼びなさい。ええ、ええ。ヒバナ先生と呼ぶことをヒバナは受け入れてさしあげましょう。ハクロからは三日ほど滞在すると聞いています。そのあいだ、ヒバナを師と仰いで励むのです」

 僕は首を傾げたかったが、少女の手が僕の両頬を挟んでいるので動くことが出来ない。ヒバナ先生。僕は頭の中で繰り返した。何を教わると言うのだろうか。

「ヒバナ、ニエが困っている」

 ハクロの声に、ヒバナ先生はようやく僕を解放した。と思ったが、すかさず僕の腕を掴んで立ち上がらせた。その細い腕にどれほどの力があるのか。握られた腕が痛い。

「このヒバナが夜長楼を案内してさしあげましょう。自慢の街ですからね、盛大に驚きなさい」

 ヒバナ先生にグイグイと引っ張られながら、僕はハクロとヒバナ先生が入ってきた床の穴から外に出た。穴からは梯子が続いていた。眼下には水面に浮かんだ小舟が見える。僕はゆっくりと梯子を下りた。小舟に乗り移るとグラグラと揺れた。

 僕は空を仰いだ。そうか、この建物は水の上に建てられているのか。水の中から伸びた柱の上に家がある。周りを見渡してみても、同じ造りの建物ばかりだ。雪洞の灯りに照らされて、幻想的な風景が広がっている。波は静かで、月が映っていた。

「秋街は湖上にある常夜の街だ。夜長楼は秋街を取り仕切る宿で、ヒバナはそこを任されている」

 ハクロの声に、僕はヒバナ先生を見た。幼い少女は誇らしげに小舟の船尾に立っている。

「ヒバナは偉いのです」

 ふふん、と鼻を鳴らすとヒバナ先生は櫂を握った。

 スーッと小舟が滑らかに動き出す。あちらこちらに雪洞が灯っている。夜空には星がなく、とても大きな満月が湖面を照らしている。

「ヒバナはトモビトだった。願いを叶えて、ここにいる」

「ええ、ええ。ですからヒバナはニエの先輩なのですよ。旅のことなら、何でも教えてさしあげましょう、勿論、ヒバナが知っている限りのことです。ヒバナの知らないことは聞かないでくださいまし。そういう意地悪は嫌いなのです。それから」

 ヒバナ先生は櫂を水に突き立てた。跳ねた飛沫が僕の頬に飛んできた。

「カザハナのことも嫌いです。ヒバナの前であれの話をすることを禁じます」

 憎らしそうにそう言い切るとヒバナ先生は再び小舟を進めた。

「ヒバナはかつてカザハナと旅をした。ヒバナがトモビト、カザハナがそのトモガミだ。今でこそ少しは丸くなっているが、昔を知る者は皆、カザハナを恐れている」

「ハクロ、あれの話はやめてください」

「だが、ニエに伝えておかなければならないだろう。そうでなければヒバナはただかつてのトモガミを恐れている臆病者だと思われてしまうかもしれないな」

「ヒバナは弱虫ではありません、どうぞ続けてください」

 ハクロはヒバナ先生の扱いを心得ているらしい。

「カザハナは強いトモガミだ。トモガミ喰いと呼ばれていたこともある」

 トモガミ喰い。僕はその言葉を頭の中で繰り返した。どういったものかは分からないが、ひどく恐ろしいということは分かる。

「トモガミの中にはトモビトのことをただの暇つぶし程度にしか思っていない者もいる」

「ええ、ええ。それはもう酷い有様なのですよ。四肢を切り落とされた者、眼を焼かれた者、醜い怪物の姿に変えられてしまった者。ニエのように、この世界へ来たそのままの姿を保っていられるトモビトはとても珍しいのです。希少価値ですよ」

 僕はハクロに感謝した。それと同時に、疑問を抱く。ヒバナ先生はどうなのだろう。この姿は本来の姿なのだろうか。僕はハクロを見ながらヒバナ先生を指差し、首を傾げた。これで伝わるだろうか。

「ヒバナか? ああ、この姿はどちらとも言い難い」

 言っていいものだろうかとハクロがヒバナ先生をちらりと見た。

「隠し立てする必要などありません。ヒバナは人形でした。あれのおかげでこうして自由に動けるようになったのです。それなりに感謝はしていますが、それでもヒバナはあれが嫌いです。心の底から憎いのです」

 ヒバナ先生は静かに櫂を水の中から引くと、それをそのまま月へと向けた。あまりにも丸く、あまりにも大きい月。けれども、それを美しいとは思えない。こちらをじっと監視しているような、ひどく冷たい月だ。ヒバナ先生が人形だったと聞いても、別段驚くことはなかった。そう言われて納得した。ヒバナ先生は人形のように可憐な少女だった。それがかつての姿を模したものであっても、そうでなくとも、ヒバナ先生は僕の眼にはひとりの少女に見えた。

「あれはヒバナの主を喰らい尽しました。ヒバナはいつの日にか主の仇を討つのです。ええ、ええ。あれを赦してはなりません」

 その声は水面に吸い込まれていった。


 水上の建物でも一際目を引く絢爛なものが、夜長楼の本館だった。何隻もの舟が繋がれ、湖面から大階段が続いている。頭上から聞こえてくる賑わいは、椿屋や夏影亭のものよりも盛大に感じる。

「秋街の夜は長いのです。夜が明けなければ、宴も明けないのです」

 ヒバナ先生に誰もが道を譲った。確かにヒバナ先生は只者ではないらしい。この街を預かるだけあって、一目置かれているのだろう。宿の中にも大きな階段があり、上へ上へと複雑に連なっている。

 外から見るよりもずっと建物の中は広い。目の錯覚ではなさそうだ。外と内が一致していない。

 僕たちはヒバナ先生に付いて階段を上った。

「あら、あの白いお方は」

「なんと珍しい」

 通りすがりのご婦人たちがハクロのことを噂していた。その声には敵意はなく、むしろ神々しいものとして有難がっているように聞こええた。

「クチバの間にトモガミたちが集っていますから、ハクロはそこに顔を出しなさい」

 ヒバナ先生は右側の階段を指差した。僕とハクロはそちらを見た。上の階から何の声ともたとえようのない声が聞こえてくる。

「仕方がない」

 ハクロはやれやれと首を振った。他のトモガミが近くにいてもハクロの声も姿もはっきりしている。この辺りではハクロは強いトモガミなのだ。

「この秋街で過ごす間、ニエはヒバナに任せなさい。それが師というものですからね」

 僕とハクロはそこで別れた。

 ヒバナ先生に連れられて、僕はひたすらに階段を進んだ。上がっているかと思えば下っている時もあった。夜長楼の構造は滅茶苦茶だった。まるで迷路だ。

「さあ、着きました。ここがヒバナの部屋です」

 カガリビの間と書かれた部屋の前でヒバナ先生は立ち止まった。襖には川面を流れる紅葉が描かれている。

「時間は限られていますからね。ヒバナも厳しく指導します」

 ヒバナ先生は襖を開けた。

 闇の中に色とりどりの灯りが浮いていた。赤や橙、紫、緑。カガリビの間は、黒い部屋の中に灯りが浮かぶ幻想的な空間だった。

「美しいでしょう、そうでしょう」

 ヒバナ先生は灯りの間を縫うようにして進む。黒い床が滑らかで、淡く光を反射していた。灯りは本当に浮いていた。吊り下げられているわけではない。土台があるわけでもない。ふわりふわりと漂いながら、カガリビの間を彩っていた。

「椅子を用意しましょう。あとはお茶を」

 そう言うとヒバナ先生は淡い黄色の光をひとつ手に取った。ふっと息を吹きかければ、その灯りが椅子に変わる。一体、何が起こったのか。驚く僕を気にも留めず、ヒバナ先生は僕を椅子に座らせて講義を始めた。

「まずはこの世界の構造についてお話しします。ニエの世界がどのような場所なのかヒバナは知りませんが、こことは異なっていることでしょう。この世界は四つの街と数多の道、そしてソコから成り立っています」

 ヒバナ先生は近くに浮いていた橙色の灯りを吹き消した。代わりに空中には春街の景色が浮かび上がった。

「四季街と総称されるように、四つの街のそれぞれが異なる性質を持っています。春街は旅人たちが最初に辿り着く街です。つまり、旅の準備を整える街でもあります。ハクロが泊まるのは椿屋でしたか。シビさんとは殆ど顔を合わせたことがないのですが、良い方だと聞いています」

 次に、とヒバナ先生が指をくるくると回せば、宙に映っていた春街の景色は夏街の情景に変わった。

「夏街は最も定住者の多い街です。活気に溢れた豊かな街です。けれども気を付けなさい。翳りを落としているのはいつだって夏街。あの街は夢抱き、夢破れる場所なのです。けれども、シグレさんのことは信用しても良いでしょう」

 再びヒバナ先生は指を回した。景色は夏街から秋街へと移る。

「この秋街は常夜の街です。ヒバナの自慢の街ですが、長居してはいけません。隠したところでいつかは分かることでしょうから言ってしまいますけれど、この街は忘却の街と呼ばれています。醒めぬ夢ほど悪い夢はありません。夢があまりに心地良いと、現実を忘れてしまうのですよ」

 溜息混じりにそう言ってヒバナ先生は指を回した。まだ見ぬ冬街の情景が宙に映る。白い街だった。

「冬街は深い雪に閉ざされた街ですが、住民たちは閉鎖的ではありませんので安心なさい。けれども冬街は停滞の街です。進むのか、終えるのか、次の一歩を決める街でもあります。行けば分かるでしょう、とても寒いところです。外套くらいなら貸し出しましょう」

 ヒバナ先生がもう一度クルリと指を回せば、空中に映っていた情景は消えた。

「ここまでで分からないところはありませんでしたか」

 僕は首を振った。

「これから先、分からないことがあれば首を傾げなさい。ヒバナが一生懸命に教えてさしあげます。では、続けましょう。四季街の間には道があります。何百とも数千とも言われているほど様々な道が四つの街を繋いでいるのです」

 どの道を辿るのか、今のところ規則性は見つかっていないらしい。街を一歩出た先にどんな道が待ち受けているのか、誰にも予想出来ないのだ。何度も同じ道を進むこともあれば、二度と同じ道を踏むことはない旅人もいるという。

「ヒバナのオススメは祭囃子です」

 その言葉に僕は聞き覚えがあった。シグレさんやハクロも好きだと言っていた道だ。僕の表情から何かが伝わったらしい。ヒバナ先生は少し嬉しそうな顔をした。

「ハクロか誰かから聞いたのですね。ニエはまだ冬街と春街の間の道は歩いていませんからね。祭囃子は良いところです。幸運にも通る機会があれば楽しむことです。ああ、そうでした」

 ヒバナ先生は何かを思い出したらしい。指をくるくると回し、あれでもない、これでもないと灯りを掻き回す。しばらくして紫色の灯りがヒバナ先生の指先に止まった。

「まだあの道に留まっているのかヒバナには分かりませんが」

 ふぅ、と溜息のようにヒバナ先生は息を吐いて灯りを消した。紫色の灯りはヒバナ先生の拳くらいの大きさの灰色が混ざった紫色の鈴に変わった。ゴロンゴロンと鳴る音は、社に掛けられた鈴に似ていた。

「見る者が見れば、これがヒバナのものだと分かるでしょう。ええ、ええ、あの子もきっと。祭囃子にはお人好しが居るはずです。ニエが困っていれば助けてくれるでしょう」

 ヒバナ先生は僕の首輪に鈴を付けた。ヒバナ先生の指は陶器のように白く滑らかで、ああやはり人形だったのだなぁとぼんやり感じた。

「よく似合っています。ヒバナが見込んだだけのことはあります」

 ふふんと満足そうにヒバナ先生は笑うと講義を続けた。

「道の長さはそれぞれ異なっています。長い道ともなれば、途中に集落があって休息を取れるところもあります。けれども、そこは街ではありませんから、安全とは言えません。四季街ならば絶対に安全とも言い切ることが出来ませんが、道よりはずっと危険は少ないのです」

 僕は首を傾げた。危険とは、どのようなものなのだろう。シグレさんは人攫いに気を付けなければならないと言っていた。

「ええ、ええ、質問ですね、歓迎しましょう。道にある危険について知りたいのですね」

 僕は頷いた。

「まずは強盗でしょう。相手が自分よりも弱いと思えば見境なく襲ってくる野蛮な者たちです。ハクロと一緒ならば心配は無用ですけれど、ひとりで行動することは避けなければなりません。ニエなどひとたまりもありませんよ」

 ヒバナ先生は首や腕に手を当てた。ここで切られるということだろう。

「人攫いも危険です。トモガミから離れたトモビトが生きられるわけもありません。トモビトにとってトモガミは唯一の存在ですが、トモガミにとってトモビトはいくらでも代わりが用意出来るのですから。トモビトは使い捨てなのです。ハクロが他のトモガミのように薄情だとは思いたくありませんが、トモビトというのはそれほど脆い存在なのです」

 トモビトは使い捨て。その言葉が僕の心に大きくのしかかってきた。そうだ、自分だけが特別だなんて、そんなはずもない。ハクロのことは信じている。けれど、どうしようもなく不安になる。僕である必要がどこにあったのだろうか。

「夜になると危険が増します。ハザマオチと呼ばれる者たちが出てくるのです。ハザマオチの多くはトモビトの成れの果てです。願いを誤ったトモビト、道半ばで捨てられたトモビト、不幸にもトモガミとはぐれてしまったトモビト。そういった願いを叶えることが出来なかったトモビトたちが、かつての姿を失って、空っぽの願いだけを引き摺って、夜を漂うのです」

 ヒバナ先生は神妙な面持ちでそう言った。

「秋街は常夜の街ですから、時折、ハザマオチが迷い込んできます。それらは防人たちが追い返していますが、あまりにも悲しいのです。僅かに残された本来の姿に、あああれはあの時の客人ではないのかと、ええ、けれどもハザマオチになってしまった者たちを元に戻す術はないのです。ハザマオチになるくらいなら死んだほうがマシだとトモビトたちは口にします」

 ヒバナもそう思います。苦しそうにヒバナ先生はそう呟いた。

 それからヒバナ先生は道に生息する生き物の話をした。大半は無害だが、中には襲い掛かってくる生き物もいるらしい。トモガミならば造作もないことでも、僕では太刀打ち出来ないだろう。

 どこかで戦う方法を教えてもらわなければ。僕は思った。

 ただ守られてばかりなのはもう嫌だ、と。


 帰りはハクロが小舟を漕いだ。重箱に詰められた弁当を持って帰る。これは昼食だろうか、夕食だろうか。それとも朝食なのだろうか。変わらず月は浮かんだままで、時間の感覚がなくなってしまう。

 僕の首輪の鈴を見たハクロは笑っていたような気がする。動くたびにゴロンゴロンと音が鳴る。ハクロの鈴の音色は涼しげに澄んだ音なので、まるで正反対だと思った。

「ヒバナの話は役に立ちそうか」

 ハクロの問いに僕は頷いた。ヒバナ先生の話は僕がこれからハクロと共に道を旅するために必要な知識だ。少しずつ感覚が戻ってきたことで、道を歩く際に感じることも変化してくるだろう。見えなかったものが見えるようになり、聞こえなかったものが聞こえるようになる。

「カザハナとヒバナの関係は皆が知っていることだ。次にカザハナと会った時、ふたりに気を回す必要はない」

 秋の水面を切るように舟が進む。どこからか流れてきた紅葉が近付いては離れてゆく。僕は何気なく水を覗き込んだ。次の瞬間、僕は動けなくなった。

 月に照らされた水底に、人が沈んでいた。ひとりやふたりではない。何十人もの人たちが沈んでいる。兎頭も、鬼も、蛇も蛙も。様々な人たちが暗い水の底で動くことなく横たわっている。月明かりが差し込んでもその瞳は暗い。曖昧な笑顔を浮かべたまま、どこか遠くを見ている。

 僕は息を呑んで、ハクロを振り返った。ハクロの白面が僕を見ている。

「この街の夜は明けることがない。落ちた夢から抜け出せなければ、いつまでも悪夢に浸ることになる。本来の目的を忘れて享楽に耽れば、やがてこの街に囚われる」

 僕は水の中に視線を戻した。沈んでいる三つ目の男が手を伸ばしていた。僕は心臓が掴まれているような息苦しさを感じた。

「溺れた者は月に手を伸ばす。それがこの街に囚われた合図だ。見えぬ幻想に笑い、酒を浴びて、水の上を走ろうとする。こうなればもう助ける方法がない。街の外へ出したところで生き抜けるわけもない。ハザマオチに成れ果てることを避けるためにも、湖の中に放り込むしかない」

 ハクロは櫂で男の手を押し返した。それでもどこか満足そうに男は笑っている。僕は寒気を覚えた。

「忘却は死よりも恐ろしい」

 その言葉に、秋街は忘却の街だと言ったヒバナ先生を僕は思い出していた。どこか悲しそうに言うヒバナ先生は、こうして何度も夢から醒めなかった人たちを見てきたのだ。ハザマオチも、水底の住人も、幻想的な秋街に淋しさが漂う。空に輝く月を不気味に感じたのは、正しい感覚だったのだ。

 それからヒバナ先生の講義を二度受けて、僕とハクロは秋街を旅立った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ニヘノ旅 七町藍路 @nanamachi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ