一 竹林にて

 鈴の音がした。

 起き上がることさえ億劫になる程、身体のすべてが重く、感覚は鈍い。鼻をくすぐる草葉の不快さに、私は瞼をこじ開けた。高く、澄んだ青空が広がっている。そうしてようやく私は自分が草の上に寝転がっているのだと理解した。

 私はゆっくりと上半身を起こした。頭が酷く痛む。黒い服のあちこちに細い葉が散らばっている。こんなところで一体、何をしていたのだろうか。私は辺りを見回した。私はどうやら竹林に囲まれた小さな空間にいるらしく、どちらを見ても竹ばかりだった。風は穏やかに竹林を揺らし、私の頬を撫でて通り過ぎた。

 果たして、ここはどこなのか。私には一向に心当たりがなかった。それ以前に、私には自分が何者なのかという自信さえもなかったのだ。私は自分の体に触れてみたが、これが私の身体であるという実感がなく、まるで自分ではない誰かに触れているような気さえした。私は改めて自分の服装を確認することにした。少しでも手掛かりがあると思ったからだ。

 私は黒い服を着ていた。男子の学生服らしい。鈍い銀色のボタンが規則正しく並んでいる。だが、私にはこの服が自分のものであるのかどうか分からない。身体から察する限り私はまだ若い男のようだ。一人称は、僕だったか、あるいは俺だったか。素性を思い出す手掛かりになるようなものは何ひとつとして見つからず、私は途方に暮れた。この場に留まっていてもどうにもならないことは分かっていたが、だからといってこの竹林をどちらに進めば良いのか見当も付かない。竹林はどこまで続いているのだろうか。向こう側まで抜ければ、誰かがいるだろうか。

 ふと、鈴の音が聞こえた。

 私は辺りを見回した。その音は風の中に、微かだが、私の耳に届いた。何かが近付いてくる。その気配を私は確かに感じていたが、どうしても体を動かすことが出来なかった。立ち上がって、何者かを迎える準備をしなくてはならないのに、私の足はまるで地面に根を張っているかのように重く、一寸も動かずにいた。

 その気配は、竹林の奥からゆっくりと姿を現した。

 白い。

 私の頭の中には、恐怖や驚きよりも早く、白という色の情報が印象的に浮かんだ。いや、しかし、その者は本当に白い存在だったのだ。一見すると、死者のようだった。白い着物、白い長髪、そして白い面。面には何の模様もなく、ただ一面に真っ白な面だった。足元の高下駄も白く、着物の帯も、隙間から覗く肌も青白く、私はその者がおおよそ生きている人間だとは思えなかった。死者か、あるいは、天狗か何か。私はその神秘的な白に圧倒されて、ただその白き者を見ていることしか出来ずにいた。

 白き者は私の前に立つと、まるで値踏みをするように私のつま先から頭の先までをゆっくりと見た。面には目や口の穴はないのだが、私は視線を感じていた。値踏みが終わると、白き者は私の両脇の下に手を入れて、私を無理矢理に立たせた。情けないことに、私はいとも簡単に持ち上げられてしまった。立ち上がり方を忘れてしまっていたかのような、妙な浮遊感を私は感じた。白き者は何も言わず、付いて来いと言わんばかりの仕草で私の先を歩き始めた。私は慎重に歩いた。足の感覚が鈍く、なんとか交互に踏み出せども、この覚束ない足取りではいつ転んでも不思議ではなかった。歩くという、ただそれだけのことに慣れる頃、私はようやく竹林の外に出た。鮮やかな緑が広がっていた。


 こうして、私と白き者の旅が始まった。

 そこに向かう、長い旅路が。


 竹林の外には道が続いていた。青空の下に、畦道のような細い道が続いている。遠くには山々が連なり、目前には青々とした草原が広がっている。長閑な景色を眺めていた私は、白き者が少し離れた道の先で私を待っていることに気が付いた。私は急ぎ足で白き者を追いかけた。

 白き者は、その高下駄を含まずとも、私よりも背が高い。無造作な白髪は腰の上ほどまで伸びており、恐らくは男だろうと思ったが、果たしてその性別を断定出来ずにいた。私は頭の後ろで結ばれた面の紐の結び目を眺めながら、白き者の後ろを歩いた。白い紐の先には小さな鈴が付いていたが、それが鳴ることはなかった。聞こえていた鈴は、また別のものだったのだろうか。

 どこまで行くのか、私には先など分からなかった。追いかけずとも良かったのだ。けれども、白き者に従って歩き続けるほかに、どうすれば良いのかも分からなかった。見知らぬ土地で自分が何者かも分からないまま、ひとりで歩けるだろうか。私には踏み外す勇気がなかった。

 白き者が何も話さないので、私も黙っていた。面の向こうに口があるのか、定かではない。気の利いた会話も思い浮かばない。私には、語れるほどの記憶がない。風が私たちを追い越していった。私たちはただ黙々と歩き続けた。

 歩く私たちの左側には草原と遠くの山々が、右側には延々と竹林が続いていた。同じような光景が前にも後ろにも、果てさえ見えないほどに連なっていた。同じ場所をぐるぐると回っているだけではないのか。けれどもよくよく眺めていれば、山々はどれも同じものはなく、一度として同じ景色には出会わなかった。風に揺れる草も、麦畑もあれば、ススキの野原もあった。そのどれもが青々と茂り、まるで芽吹く春のようだった。

 日が傾き始めていることに気が付いたのは、草原を揺する風の中に一筋の冷たさを感じたからだった。太陽は私たちの背中のほうへと沈んでゆくようだ。どうやら向こうが西で、私たちは東へと歩いているらしい。日が落ち切る頃、薄暗闇に包まれた前方に華やかな灯りが見えてきた。宿場町だろうか。私は安堵に頬が緩むのを感じた。

 道中、私たちは誰にも会わなかった。通り過ぎる人も、すれ違う人も、ひとりもいなかった。天の高くを飛ぶ鳥や、草原を駆ける狐くらいで、人の気配を感じたことは一度もなかったのだ。ただこの辺りには人が住んでいないだけなのか、それとも本当に、どこにも人がいないのか。どちらでも同じことだと私は自分に言い聞かせて歩いて来た。いずれにせよ、私は白き者に従うしかないのだ、と。けれども、町の灯りが視界に入った途端、私は確かに安心したのだ。人がいる、と。余程人恋しかったのだろう。

 小さな門を潜り抜けて私たちは町に入った。一瞬、灯りの賑わいに眩暈がした。木造の建物が並ぶ。目抜き通りに面する多くは二階建ての宿らしい。宿の窓からは灯りともに賑やかな笑い声が零れている。客引きを行う姿もある。人で溢れる道を、私は白き者を見失わぬように歩いた。白き者は人々の間を縫うように進んで行くものだから、はぐれないようにと焦る私の足取りは自然と早足になった。それに、私が急ぐ理由は、もうひとつあった。

 道行く人は皆、朗らかだった。旅路の夜を楽しんでいるらしい。だが、彼らの殆どが、どうにも人は異なる者たちであった。鳥の頭を持つ者、立って歩く牛、着物を着た蛇。ここは異形の町だ。私は出来る限り、他の者達と目を合わせないようにして歩いた。一飲みに喰われてしまうかもしれないという恐ろしさよりも、私が他の者達と異なる容姿をしているということのほうが、何故だか酷く恐ろしいことのように感じられた。私には、角などない。目も二つ。その二つの眼で見える限り、この二つの手で触れられる限り、私の肌に鱗はなく緑でもない。あるいは、異形なのは私の方かもしれなかった。鬼と蛙人間の間をすり抜けた白き者は、一際賑わう大きな宿に入って行った。

「あらぁ、ご無沙汰しているじゃないのさ」

 店の暖簾をくぐる前に、女性の甲高い声が聞こえた。私が宿に入ると、そこには狐のような耳の女性がいた。赤い着物が良く似合う。黒い髪は艶やかで、吊り上がった目と赤い紅は大人の女性の色気を感じさせた。この女性は、ここの女将だろうか。

「やだよ、まさかアンタがトモビトを連れてくるなんて。どういう風の吹き回しだい。アンタ、名前は?」

 女将は私に名を聞いた。自分に関する記憶を持っていないことを伝えようと口を開いたとき、私はようやく思い知った。

 声が、出ない。

 私は口を開けたまま、呆然と突っ立っていた。喉が震えない。言葉が声にならない。息だけを吐く私は、酸素を求める魚のように口をパクパクと動かした。口が利けないのは、白き者ではなく私のほうだったのだ。白き者はそんな私を一瞥しただけだった。

「ま、それぞれ人には言えない秘密の幾分か、心の奥底に秘めているものだからね、アタシは詮索しないけどさ。さて、それじゃあ宿帳を書いてもらおうかね」

 女将は分厚い本を開き、筆を白き者に渡した。宿帳は随分と使い古されている。白き者はすらりと伸びた手で筆を受け取ると、さらさらと字を書いた。そして、その筆を私に渡した。私は宿帳に視線を落とした。

 ハクロ。

 細く美しい字。それが、白き者の名のようだ。ハクロ。私は頭の中で呟いた。なぜだかハクロという言葉の響きに少しばかりの懐かしさを感じた。その懐かしさの正体は、分からない。自分の名前は思い出せなかったが、とにかく何かを書かなければならないと思った私は、筆を構えた。ポトリ、と墨が一滴、古びた紙の上に落ちた。

 黒い墨が瞬く間に消えてなくなった。確かに紙の上に歪な円を広げたはずなのに、もはやどこにも見当たらない。私は恐る恐る紙に筆を走らせた。墨が、書いた傍から消えていく。字が書けない。私の口から息だけが零れた。

「まさか」

 女将の声に、私は顔を上げた。女将の顔は蒼白で、厚い唇が震えている。さすがの私も、これが悪い状況だということくらい理解した。瞬間、女将の髪が逆立ち、ハクロに掴みかかった。

「ハクロ。アンタ、何て奴を連れて来たんだい」

 私は女将の勢いに押され、思わず筆を取り落とした。女将は息を荒げてハクロを睨む。狐の尻尾がぶわりと逆立った。

「言霊無しなんて、そんなもの、辿り着けるはずのない者たちだってことくらい、アンタだってよく分かっているはずだろう。それなのに、どうして期待させるような真似をするのさ」

 床に落ちた筆を追いかけた私の上を女将の怒声が飛ぶ。何事かと、道行く人々が宿の入り口から中を覗いている。筆は道まで転がった。親切な二本角の鬼女が筆を拾い上げ、私の手に握らせてくれた。ハクロは何も言わなかった。あるいは、私には彼の声が分からなかった。ハクロ、そう呼ぼうとしたが勿論、声は出なかった。

 喧嘩か、と野次馬たちが騒いでいた。野次馬を背に、私はハクロを見ていた。その光景に、どこか見覚えがあった。いつか、いつだったか、こんな光景を私は。

 突然、鋭い痛みが私の頭を襲った。私は思わず頭を抱えてうずくまった。痛い。あまりの痛みに目を瞑る。頭の中から、痛みが溢れてくる。暗闇が広がる。周囲の声が遠ざかる。

 私の意識は一度、ここで途切れた。


 目を覚ましたのは、朝になってからだった。爽やかな小鳥のさえずりに、目を開けると、柔らかな朝陽が障子を通って差し込んでいた。布団の心地良さに後ろ髪を引かれたが、私は上体を起こした。宿の一室らしい。私は布団の上に寝かされていた。服が黒い制服から薄い緑色の浴衣に変わっている。茶色の帯には椿屋という文字が刺繍されていた。それがこの宿の名前なのだろう。私は布団から這い出して立ち上がった。足は自分が思うように動いた。窓の障子を開けると、昨夜の喧騒はすでになく、穏やかな朝の往来があった。野菜を売る者、大きな荷物を持って歩く者、小鳥を追う子供たち。空は青く、どこまでも青く、朝風が町を吹き抜けていた。

 そういえばハクロはどこへ行ったのだろうか。

 私は部屋の中に目を遣った。和室の部屋は、静まり返っていた。そこにハクロの気配はなく、その名残もなかった。

 どうやら私は愛想を尽かされたらしい。言葉を話すことも出来ず、文字を書くことも出来ない。竹林で所在なさげに佇んでいた私を憐れんでこの町まで連れてきてくれたのだろう。意思の疎通が出来ない者など、旅のお荷物だ。私は自分の力で、これからどうにかしなければならない。記憶のことも、これからのことも。独りになった寂しさを確かに感じていた。そして同時に、このような気持ちになるのは初めてではないとも感じていた。見えない記憶の、奥底の深くに、いつかの別れがあるような予感がしてならなかった。

 私は枕元に畳まれた服を広げた。浴衣よりも私の体に馴染む。この服は、私に合わせて誂えたものだろう。真新しくもなく、かといって着古しているわけでもない。以前にもこれを着て、おそらくこれからも着る。これはそういう服だという気がした。

 浴衣を脱ぐと、左腕に見覚えのない傷跡があった。昨日はなかったはずだ。それは手首から肘の内側にかけて、長く深い傷跡だった。昨日今日に出来たものではない。痛みはなかったが、妙な胸騒ぎがした。 

 私は着替えると布団を畳み、部屋を後にした。廊下を歩き、階下におりる。宿の者達が朝食の膳を持って忙しなく行き交っていた。私は出来る限り端を歩いた。椿屋という宿は思っていたよりも広い。私は女将の元へ向かおうとしたが、道を尋ねることさえ出来ない私は勘だけを頼りに歩いた。時々、鈴の音が聞こえた。猫でも飼っているのだろうか。しかし、姿は見えなかった。

「ニエ」

 誰かの声が後ろから聞こえた。宿の者を呼ぶ声だろう。森に吹く澄んだ風のような声だと思った。

「ニエ」

 右腕を引かれ、私は無理矢理に振り向かされた。何事かと怪訝な顔で振り返れば、そこにはハクロが立っていた。高下駄を履いておらずとも、やはり私より背が高い。

「まだ聞こえないのか」

 私は首を傾げた。この声は、ハクロのものだろうか。それに、ニエとは。

「そろそろ聞こえても良いはずだが……」

 ハクロは思案するように手を口元に当てた。白い面に口はなかったが、恐らくそこに口があるだろうという辺りだ。口が、あるのか。この白き者にも。言葉を発する口が、あったのか。私は不思議な感動を覚えていた。

「何を見ている」

 私はハクロの面に手を伸ばした。しかし、ハクロは私の手をひらりと避けた。あれは触れてはならないものらしい。行き場をなくした私の腕をハクロが掴み、そのままずんずんと歩き始めた。あの鈴の音は、ハクロの面を結ぶ紐の先の鈴の音だったらしい。私はハクロに引き摺られるように歩いた。宿の玄関にハクロと私の靴が置かれていた。結局、女将に会うことは出来なかった。私はハクロに連れられて外に出た。

 ハクロは何も言わずに私の手を引いて歩き続けた。すれ違う人々の視線が痛い。ハクロは大通りから路地に入り、狭い路地裏を進んだ。次第に人の姿もなくなり、暗く怪しい気配で溢れている。ハクロだけは白々しいほどに真っ白で、路地裏の悪意を寄せ付けないような凛々しさがあった。

 一軒の店の前でハクロは立ち止まった。黒い暖簾には何も書かれていないが、あまり良い店のようには見えなかった。私は躊躇したが、ハクロが腕を引っ張るので仕方がなく店に入った。

 狭い店内には壁一面に怪しい品が並べられていた。瓶に入ったトカゲのようなもの、何かの骨、妙な形の植物、真っ赤な目の烏。天井まで届きそうなほど陳列された品々はどれも呪術か何かに使いそうなものばかりで、私は気味が悪かった。狭苦しい店内の奥の番台に、頭から布を被った者がいた。辛うじて覗く片方の瞳は緑の光を放っている。私は後退りした。

「言霊無しの楔はあるか」

 ハクロは店主に問いかけた。店主はせせら笑った。

「こりゃまた、珍しい奴を見つけたな。そんじょそこらでお目に掛かれる奴じゃねぇぜ。どうだ、そいつをオレに売る気はないか、高く買うぜ」

 私はハクロの手を振りほどいて店から逃げ出したかったが、ハクロの手の力は強い。私はせめて店主を視界に入れないようにと、ハクロの陰に隠れて立った。

「生憎、金には困っていない。目当ての品がないのなら帰るだけだ」

「まあ、そう急かしなさんな。楔くらい用意があるさ。奥から取って来る間、ちょっと待っていな」

 そう言うと店主は店の奥に消えた。私は相変わらず言葉を発することが出来なかったし、ハクロは私に何も語り掛けなかった。私たちは沈黙のまま店主を待った。しばらく待っていると、店主が戻って来た。

「ほらよ、ご注文の品だぜ」

 店主はハクロに黒い革で出来た首輪のようなものを渡した。楔と言っていたから、私はそれが杭のようなものかとばかり思っていたが、そうではないらしい。

「代金はまあ、そうだな。珍品にお目に掛かれたってことで、チャラにしておいてやるよ」

 嫌な笑い方をする店主だった。ハクロは何も言わず、礼もせず、私の腕を引いて店を出た。薄暗い路地裏さえも、眩しく感じられた。しばらく歩いてから、ハクロは立ち止まった。数秒の間、何かを考えてから私に向き直ると、私の首にその白い手を掛けた。私は咄嗟に息を止めて目を瞑った。

「ニエ」

 ハクロはまた、そう言った。

「お前には不便をかける」

 ああ、そうか。私は目を閉じたまま思った。ニエとは、私の名だ。本当の名前ではない仮初の名前だろう。だが、何も持たない私にとって名前というものが、これほどまでに安心出来るものであったとは。ハクロの手は冷たく、私の体温を奪っていく。首を絞められるよりは、折られるほうが楽だろう。出来るならば一思いにと、願いたい。

 首に、少しの圧迫感があった。私はゆっくりと目を開けた。ハクロの手は既に離れていた。私は自分の首に手を遣った。そこには首輪があった。先程のあの首輪だろう。

「これで少しは楽になると良いのだが」

 呟くように小さな声でハクロはそう言った。ハクロの言うことは分からなかったが、これが彼なりに思慮した上での優しさなのだということは十分に理解出来た。私はハクロに一礼した。ハクロは何も言わず、再び歩き始めた。私はハクロに続いた。

 町の端には、入った時と同じような門があった。しかし、色合いが異なる。確か、昨夜の門は青み掛かった灰色をしていたように記憶している。こちらは朱色が所々色褪せた門だ。向こう側にはススキの野原が広がっている。ススキの黄金の海の間に細い道が続いている。この道の先に、何があるのだろうか。ハクロと私は門を潜った。

 次の瞬間、僅かに視界が揺らいだあと、私は森の中にいた。思わず足を止める。苔生した木々の根が水の染み出す地面の上を這う。頭上の空は木々の枝に遮られて酷く遠い。振り返ってもそこに門はなかった。ハクロは少し先の木の根の上に立ってこちらを見ていた。私はハクロを追いかけた。

 そこは深い森だった。歩けども、歩けども、一向に先は見えない。苔が覆う地面に道はなく、ハクロの姿を見失えば二度とこの森からは出られないだろう。道を失うその時が、恐ろしくて仕方がない。鬱蒼とした森の中に木漏れ日が光の筋となって差し込んでいる。幻想的な場所だった。木々はどれも立派で、樹齢の程は分からなかったが、百年は経過しているのではないだろうか。

 私は足元に注意しながら歩いたが、苔で覆われた湿った地面も、自由に伸ばされた木々の根も、とても歩きづらい。私は何度も転び、滑り、いつしか手も服も汚れてしまった。泥だらけになる私をよそに、ハクロは背筋をピンと伸ばしたまま歩き続けた。ひとかけらの迷いもない。白が、眩しいほどに輝く。私とはあまりにも対照的だった。

 森は静まり返り、時折、蟲たちが這うほかに動くものはなかった。静寂の中を私たちは歩き続けた。聞こえるのは足音と、鈴の音、微かな息遣い。それだけだった。

 歩きながら、私は思案に耽っていた。他でもない私自身について、私はどれほどのことを知っているのだろうか、と。たとえばあの宿場町のこと。私はあの街並みを見た途端に、和風だと思った。つまりそれは、和風と、そして洋風を知っているということだ。私は自分が着ているこの黒い服が学生服であることを知っているし、字を読むことも出来る。私は、完全なる忘却の中に落ちたわけではないのだ。私は忘却の淵で、けれどもそこに浸るまいとして踏ん張っている。記憶がなくとも、意識の中には微かな思い出が残っている。私はそれらの思い出を掻き集めることは出来なかったが、縋り付くには十分だった。

 果たして、私は一体、何者なのだろうか。

 そしてハクロは何者なのか。私のことを知っているのだろうか。

 私はただひたすらにハクロの真っ白な背中を追い続けた。

 やがて木漏れ日が弱くなり、見上げた空は茜色を帯び始めていた。もう日が暮れるのか。森の中も薄暗闇が広がり、来た道も行く道も闇に紛れつつあった。ハクロは森の中でも一際立派な木の前で立ち止まった。大樹の幹は蔦や細かい苔が覆われ、そのいくつかは淡い光を放っている。気が付けば周囲の木々も青白く光っていた。大樹の根元には大きな空間があった。暗くて奥は見えない。ハクロは私のほうを一瞬だけ振り返ると、その暗闇に入っていた。私は少し躊躇したが、一歩を踏み出した。すべての音が消えた。

 私は暗闇の中を歩いた。ハクロの姿も見えなかった。鈴の音も聞こえない、足音もない。まったくの静寂が広がっている。私はハクロがどこにいるのかも分からずに歩いた。立ち止まることが酷く恐ろしかった。歩みを止めれば二度とここから出られないような気がした。私は瞳を閉じた。暗闇を見詰めているうちに、その闇に囚われてしまいそうだった。不安が徐々に私の精神を蝕んでゆく。

 けれど私は歩いた。光も見えないままに。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る