二 夏影亭にて
腕を引かれ、私は閉じていた瞼をゆっくりと開けた。
私は町の中に立っていた。あの宿場町とよく似ているが、どこか異なる街並みの中に。軒先に並ぶ赤い提灯からは橙色の光が溢れている。人で賑わう大通り。頭上には満天の星空が広がっている。ハクロは私の腕を引いた。私はハクロに続いた。人々の姿は、やはり異形の者ばかりだったが怖くはなかった。雑踏の中を抜けて、私たちは一軒の宿に入った。夏影亭。それがこの宿の名らしい。外観も内装も椿屋に似ていたが、あちらは赤を基調とした装飾で、こちらは紺色に近い青の調度品で飾られていた。
「やあ、ハクロの旦那。いらっしゃい。待っていたよ」
番台に座っていた女性が挨拶をした。その女性は、外見は人間に近いが、その背中に大きな黒い翼があった。天狗だ、と私は思った。黒い翼には重厚感があり、けれども繊細な上品さがあった。頭の上でひとつに結ばれた長い髪は翼のように黒く、艶やかに輝いていた。
「君が、ニエだね。話は椿屋から聞いているよ。君は言霊無しなんだってね。わたしはこの夏影亭を取り仕切っているシグレと言う。よろしく頼むよ」
シグレさんは宿帳に私たちの名前を書くと立ち上がった。思っていたよりも背が高く、ハクロと同じくらいの背丈がありそうだ。髪は長く、腰まで届いている。宿と同じ青い袴もよく似合う。シグレさんはとても凛々しい女性だ。シグレさんは私に手を差し出した。私たちは握手を交わした。シグレさんの手は熱いくらいで、どうやら体温は人間の平熱よりも高いようだった。
「ハクロの旦那は、君に何の説明もしていないらしいね。いや、ここは旦那の名誉のために言い換えると、説明出来なかった、と言うべきか。君、旦那の声が届いていないようだから。今はどうか知らないけれどね」
私たちはシグレさんに案内されて夏影亭の奥へと通された。夏影亭は奥に長い造りになっていた。本館と別館が渡り廊下で繋がっていた。渡り廊下の下に、小川が流れていた。川沿いにも宿や店が並び、賑やかな声がこちらまで聞こえていた。
「言霊無しとは、君のように言葉を失った者たちのことだ。はじめから口が利けない者との違いは、文字も書けないということ。椿屋が言っていたよ、君が書こうとした文字はすべて消えて無くなってしまうのだとね。自らの思考を伝えるには身振り手振りで表現するしかない。しかし、それにも限界があるだろう。つまり、他者との意思疎通が非常に困難な者たちなのだよ」
広い歩幅でずんずんと歩いてくシグレさんは私にそう教えてくれた。その間、ハクロはずっと黙っていた。
「生きていく分にはね、それでも何も困らないかもしれない。けれど、君のように、外からやって来たトモビトたちにとっては、足枷になるだろう。なぜなら聞こえない音があるからだ」
トモビトという言葉を椿屋の女将からも聞いた。トモビトとは、何だろう。私のような者のことを表すようだが、それが具体的に何のことなのか分からない。私はシグレさんの袖を引いて、首を傾げた。シグレさんは、おやまぁと少し驚いた顔でハクロと私を交互に見た。
「ハクロの旦那、旅路のことも説明出来ていなかったのかい。そりゃあ、難儀だねぇ」
呆れたようにそう言うと、シグレさんは熱を帯びた両手で私の両頬を挟んだ。
「ニエ、君はきっと苦労するだろう。けれども、わたしがこれから伝える旅路の意味を、決して忘れてはいけないよ」
シグレさんは深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。それから私に、私がこれから辿る旅路について、慈しみと僅かな同情を滲ませながら丁寧に教えてくれた。
ソコに辿り着けば、どんな願いでもひとつだけ本当になる。
嘘のようなその言葉を、シグレさんは真面目な顔をして私に告げた。
「トモビトとは、君のように、こことは別の場所から、願いを叶えるためにやって来た者たちのことだ。反対に、ハクロのような願いを叶える者たちは、トモガミと呼ばれている。旅路はふたりで歩むもので……なんだ、その顔は」
シグレさんの漆黒の瞳に映った私は、ひどく間抜けな顔をしていた。初めて知る事が多すぎて、理解が追い付かない。ここではない場所、叶えたい願い、そんなもの身に覚えがない。私にも願いがあったのだろうか。何も思い出せない。私は途方に暮れていたが、戸惑いを悟られまいと、慌てて首を振った。
道程の果てに、ソコがあるという。ソコとは底のことだと言われているがその由来は定かではない。その旅路は気が遠くなるほど長く、必ずふたりで歩まなければならない。何故、ひとりで旅することが出来ないのか。それは、願う者と叶える者が必要だからだという。願う者と、叶える者。供人と、供神。私と、ハクロ。ハクロは、私の願いを知っているのだろう。そうでなければ、私と旅をしようとは思わないはずだ。知っていたから、竹林に佇む私を拾ったのだ。聞けば答えてくれるだろうか。しかし、どのようにして尋ねれば良いのだろう。
「大層な願いも、些細な願いも、たったひとつだけ叶う。わたしは旅人たちを何人も見送ってきた。彼らの殆どは、ついに帰らなかった」
シグレさんの長い髪が左右に揺れた。
「元いた場所に帰りたい。多くの旅人がそう願うのだそうだよ。そうして、あるべき場所へと帰ってゆく。それがどんな場所なのか、どこにあるのか、わたしには見当も付かない。しかし稀に留まることを願う者もいるよ。君は」
廊下の突き当りでシグレさんは足を止めて振り返った。
「その時、君は何を願うのだろうね。さて、まずは体を清めると良い。男湯はこちらだ。君が長湯をしているあいだに、部屋の準備をしておこう。それから、君のこと、それから君の今後について話をしようか」
そう言ったシグレさんの顔には、やはり、少しばかりの翳りがあった。私にも分かる、漠然とした不安。私の身を案じるがゆえに、シグレさんの表情が曇る。そのことが申し訳なかった。着替えの浴衣と手拭いを私に持たせると、シグレさんは寂しそうに笑った。
「どうか、途中で投げ出すようなことは、やめてくれ」
私は意味も分からずに、けれどもこれ以上シグレさんに悲しい顔をさせまいと頷いた。ああそうだ、とシグレさんは思い出したように言った。
「中にカザハナという男がいるはずだ。君から聞かずとも、奴なら勝手に君が求める答えを教えてくれるだろう。奴は旅路に詳しい。なにせ、ソコに辿り着いたことがあるからな。色々と、まあ、力になってくれるだろう」
カザハナという名前を私はしっかりと覚えた。シグレさんと別れ、私たちは男湯の脱衣所に入った。脱衣所の奥にある引き戸の向こう側に湯があるらしい。脱衣所の片方の壁には籠が並んだ棚があり、反対側の壁には大きな鏡があった。そこで初めて、私は自分の姿を見た。
鏡の中には、泥だらけの青年がいた。歳の頃は十七、八といったところだろう。特別整ってもいない平凡な顔、背格好、黒く短い髪、黒い瞳。これが、私。しばらくの間、鏡に映った自分を見ていた。手で顔についた泥を拭う。自分の姿をこの目で見て、ようやく実感が湧き始めた。私の体、私の顔、これが私なのだ。これは私の身体なのだ。
私が自分自身を認識している間に、ハクロの姿は消えていた。私は服を脱ぎ、籠に入れた。この黒い服も一度洗わなければならない。鏡に映った私の体はあまりにも細く頼りない。なんて貧相なのだろうか。弱々しい左腕の傷跡が目立つ。黒い首輪を外そうとしたが、どうにも外し方が分からなかった。自分の体を見ているうちに、私は右足の足首にも傷跡があることに気が付いた。腱を横切るその傷跡は、まるで歩けないようにと切られたかのようだった。傷痕の正体は分からなかったが、私はうすら寒いものを感じた。私は手拭いを片手に引き戸を開けた。湯煙が私を飲み込んだ。手前に洗い場、湯気の奥に石で造られた露天風呂が見えた。
洗い場に置かれた石鹸で全身を丁寧に洗うと、どこに引っ付いていたのか、木の葉が数枚、泡に紛れて流れていった。汚れが落ちていく。それから私は湯に浸かった。少し熱いくらいの湯が心地良い。湯は天然の温泉なのかそうではないのか分からないが、薄い黄色が混ざった白色の湯だった。浸かってみたは良いものの、ハクロの姿は依然として見当たらず、カザハナさんと思しき人の姿もない。湯煙の向こう側に誰かが居るかもしれないと思っていたが、私は広い風呂を独り占めしていた。周りは竹垣に囲まれている。夜空には少し雲が広がり、生温い風が吹いていた。外から虫の声が聞こえてくる。夏なのだと思った。
「気分はどうだね」
突然の声に、私は思わず息を止めた。いつのまにか、隣に誰かの気配があった。
「いつのまにか? それは違うのだよ。我がお主に波長を合わせただけのこと」
その声に私は隣を見た。そこには枯れ枝が角のように生えた青年がいた。肩まで湯に浸かり、横目で私のことを見ている。その眼は鋭く、鷲や鷹の目を思い出させる。総髪された藤色の髪は、見たことがない。異国の生まれなのだろうか。
「そのような時はまず、トモガミであることを疑うのが良かろう」
枯れ枝の者はそう言うと、尖った白い歯を見せて笑った。この者は私の思考を読んでいるのだろうか。
「思考を読む。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。しかしながら、どちらであってもお主には真似の出来ぬことなのだよ、ニエ」
ニエ、と確かに私の名を呼んだ。もしかして、カザハナさんだろうか。
「そうとも、我こそはカザハナだ。旅路のことは我に聞けとシグレが言ったのであろうが、それよりも先にお主には教えておかねばならないことがあるのだよ」
それそこに、とカザハナさんは私たちの向かい側にある岩を指差した。その指の爪は長く鋭い。
「そこに、ハクロがいるのだよ」
私は指し示された辺りを注視したが、ハクロの姿など見えはしない。私はカザハナさんを見た。
「これが言霊無しの厄介なところなのだよ。お主には、町の外ではハクロの声が聞こえぬ。それにこの宿でも、その声が分からぬ。おまけに、この湯の辺りでは姿さえ見えぬ」
確かに、カザハナさんの言う通りだった。ハクロの声を聞いたのは、椿屋とあの宿場町だけだ。竹林も草原も森の中も、私はハクロの声を聞いていない。脱衣所で姿を見失ったと思っていたが、それは私が見えていなかっただけなのだろうか。
「そう、それなのだよ。言霊無しが旅路に向かないと言われる理由は、そこにあるのだよ。周囲に他のトモガミが居ると、言霊無しのトモビトは自らのトモガミを認識することが難しいのだよ。特に、自らのトモガミよりも強いトモガミが傍にいる場合、その姿も、その感覚も見失ってしまう。椿屋ではハクロの声が聞こえたかい?」
私は首を傾げて思い返してみた。倒れる前にはハクロの声が聞こえなかった。
「ここに来てすぐには、トモガミと波長を合わせるのは難しいのだよ。人それぞれだが慣れるまで一晩は必要なのだよ」
カザハナさんはまた私の思考を透かし読んだ。
「それは椿屋にはトモガミがいなかったからだろうね。椿屋の、あの女将はシビという。シビは旅をする者ではないのだよ。では考えてみよう、ここに、この辺りに他のトモガミがいるのではないか、と」
カザハナさんに言われて、私はカザハナさんを見た。この人は、トモガミ、だろうか。まずはトモガミであることを疑えとカザハナさんは言った。それならば、カザハナさんは。
「我の助言を早速実践してみるとは、なかなか良いのではなかろうかね。そこら辺のトモビトよりも、随分と賢いようだ。いかにも、我はトモガミだ、今は旅をしていないのだが。残念ながらハクロよりも我のほうが強い。我が傍にいる時には、お主にはハクロが分からないだろうね」
湯気が水滴となり、カザハナさんに生える枝から零れ落ちた。濡れた首輪の感触が不快で、私は首のあたりを指先で引っ掻いた。
「何かと不自由だろう。だが、その首に穿たれた楔は、大切にしたほうがお主の身のためなのだよ。それは言霊を持たぬお主に代わって、ハクロがお主の存在を確かにしているのだよ。道を失うことなくハクロに付き従って歩くための命綱だと思えば良い」
カザハナさんは含みのある笑みを浮かべて私の首元を見た。鋭い目が細く笑う。私は居心地が悪く、首をすっかり湯の中に隠した。その様子を見てカザハナさんは、今度は意地悪な笑みを浮かべた。
「まあ仲良くしよう、ニエ。ああ、お主には相も変わらず分からないのだが、ハクロなら既に湯を上ったのだよ」
そう言われて、私はハクロが居たという岩の辺りを見たが、そこには静かな湯が湛えられているだけで、カザハナさんの言う通りハクロの姿は見えなかった。
「ハクロは出たが、お主にはもう少しばかり残ってもらわなければね。伝えておかねばならない忠告があるのだよ」
視線を岩からカザハナさんに戻すと、カザハナさんは神妙な面持ちで真っ直ぐ前を見詰めていた。私はその眼差しに緊張を覚えた。それはまるで、高貴な人の前に立たされた時のように、口を開くことも、目を逸らすことさえもおこがましく感じるほど、言いようのない圧力が私の心に重くのしかかった。
「お主、記憶を失っているだろう? そのことを他の誰かに話すべきではない。お主の、その空白の願いは、皆が欲しがるものなのだよ。それこそ、どんな手段を使ってでも、手に入れようとするだろうね。おや、何のことか分からないという顔をしている」
カザハナさんは横目で私を見ると、困ったようにそう言った。
「ソコに辿り着けば、ハクロがお主の願いを叶えてくれるだろう。けれども今のお主には、長い旅路の果てに叶えたい願いがいったいどんなものだったのか、見当も付いていない。だから、お主の願いはまだ、空っぽなのだよ。つまり、どんなことでも願うことが出来るということ、分かるかね」
私は曖昧に頷いた。カザハナさんは続ける。
「旅の途中で、様々な出会いと別れがあるだろう。お主が出会う者たちのなかには、お主に自分の願いを託す者がいるかもしれない。或は、お主自身が誰かの願いを叶えてやりたいと思うかもしれない。お主の願いは様々に移ろいゆくだろう。だが、忘れてはならないのだよ。トモガミが叶えてやれるのは、たったひとつの願い事だけ。旅の途中で願いを失った者は、その道を失ってしまい、二度とは戻らないのだよ」
夏の夜に響く虫の声が、酷く美しかった。
「我らはどのような願いであっても、ひとつだけ叶える。だが、本当は、はじまりの願いを叶えてやるために、ともに旅を続けるのだよ。見ず知らずの他人の、ちゃちな願いを叶えるためだけに旅をするなど、我らは好まぬ。ハクロも、そうであろう。お主の願いに応えるために、お主を拾い上げたのだよ。他でもないお主のために」
カザハナさんはそう言うと、私に顔を向けた。藤色の髪が煌く。鷹のような瞳の奥に炎が揺れたような気がした。
「我はお主のお願いを知っているが、それを教えてやることは出来ない。ハクロの代わりに叶えてやることも出来ないのだよ。力及ばずということではない。我が叶えても意味がないということなのだ。お主のその願いは、お主が願い、ハクロが叶えるべきものなのだよ」
私が頷くと、カザハナさんの険しい表情が和らぐ。
「少々長話になってしまったか。お主はそろそろ上がったほうが良かろう。あとのことはシグレが教えてくれる。心配せずとも我とはこれが今生の別れというわけでもないのだよ。冬街でまた会おう」
達者で、という言葉が湯気の中に溶けると同時に、カザハナさんの姿も消えた。合わせてくれていた波長を変えたのだろうか。私はしばらくの間、夜空を仰いでいたが、ハクロとシグレさんが待っていることを思い出して湯を後にした。
「ああ、そうだ」
背後からカザハナさんの声が聞こえた。私は振り返ったが、その姿は見えない。
「お主、忘れたことさえも忘れているようだから言っておくが、そろそろ思い出さねばその命に関わるのだよ。何が、とは言えないが、直ぐにでも分かるだろう」
私は続く言葉を待ったが、カザハナさんの声はそれ以上聞こえなかった。
浴衣に着替えて廊下をしばらく歩くと、渡り廊下に立って小川を見下ろしているハクロの姿があった。ハクロは、やはり不自然なほどに白く、夜の闇に浮かんでいた。私は、私自身の願いを思い出せるだろうか。言いようのない不安に駆られる。このまま、何も思い出せないままソコに辿り着いて、私は何を願うだろうか。その願いは、ハクロが叶えようとしてくれているものと同じだろうか。私には、分からなかった。何も思い出せない自分があまりにも情けなく、申し訳なかった。しかし、私には自分の感情を自分の言葉で伝えることなど出来なかった。
歯痒い思いを抱えた私の視線に気が付いたハクロは、ポツリと呟くように言った。
「すまない、カザハナのことは昔から苦手で」
私は首を横に振った。謝らなければならないのは、私のほうだ。ハクロは黙って歩き始めた。私は白い背中に続いた。私に言霊があれば、何かを伝えられただろうか。私には、伝えることが出来ただろうか。
他でもない、と言ったカザハナさんの言葉が頭の中でこだました。私には、この旅路の果てを目指すだけの価値があるのだろうか。弱い気持ちが心に少しずつ積もってゆくのを感じた。
シグレさんは、二階の一室で私たちを待っていた。やはり凛とした佇まいは美しく、私はその姿に少し見惚れた。部屋は二間続きになっており、手前には夕食の御膳がひとつ、奥には布団が二組並べられていた。
「カザハナには会えたようだね」
シグレさんの問いかけに、私は頷いた。
「そうか。それならば、わたしから君に教えるべきことは、さほど多くはない。ほんの少し、君が旅路で注意しなければならないことを伝えておくだけだ。まあ、食べながら話を聞いてくれ」
ハクロは何も食べないらしい。私は手を合わせてから箸を持った。鮎の塩焼き、根菜の煮物、葉物のお浸し、だし巻き卵、麦ごはん、お吸い物。私は簡素だが丁寧に盛り付けられた夕食を見詰めた。
「君がいた場所がどうだったのか分からないけれど、この世には四つの街がある。ここは夏街、その名の通り、夏の街だ。四季を司る四つの街をいくつもの道が繋いでいる。ハクロと歩いて来ただろう、それらが街と街を繋ぐ道だ」
私は竹林のあった道と、深い森の中の道を思い返した。あの森は、道と呼べるのだろうか。
「道は、いくつもの分岐点がある。次に君たちがこの夏街に来るとき、以前とは異なる道を辿ることになるだろう。わたしは春街へと続く、祭囃子の道が好きだな」
そんな道もあるのかと、私は少しだけ楽しみになった。あそこは良い、とハクロもそう言った。
「しかし、そこがどのような道であったとしても、夜には必ず街に戻りなさい。夜道は、とても君のような者が歩く場所ではない。わたしだって遠慮したいよ。あれは修羅の道だ。わたしの翼など、すぐに手折られてしまうだろう。ハクロがトモガミならば、日が沈む頃には街に戻ることくらい造作ないだろう。だが夜道のことを、ゆめゆめ、忘れてくれるなよ」
私は頷いた。シグレさんは続ける。
「それから、人攫いにも気を付けなければならない。あれは、本当に厄介な奴等で、わたしたちも困っている。トモビトを連れ去り、自分たちの願いを叶えさせようとトモガミを脅すのだ。トモガミが人攫いの暴力に屈することはないが、トモビトの身体はあまりにも脆い。命を奪われたトモビトは、数え切れないよ」
シグレさんの言葉に、私は俯いた。私の身に危険が迫った時、私はハクロに助けを求められるだろうか。言霊のない私がどのようにして助けを乞えば良いのだろう。それに、ハクロは私を助けてくれるだろうか。私には自信がなかった。ハクロのことを信用していないわけではない。私が信用できないのは、私自身のほうだ。
「ああ、すまないね。不安な話ばかりをしてしまったか。箸も進まないだろう。そうだ、何か楽しい話をしよう」
私が箸を持ったまま何も食べずにいたので、シグレさんは慌ててそう言った。私は手元の夕食を見た。旬の鮎はふっくらとしている。煮物は柔らかそうだ。私は巻き麩が入った澄まし汁の椀を片手に持った。
その手が、震えた。箸を持つ手も震えている。私は浅い呼吸を繰り返していた。私は箸と椀を置き、両手で口を塞いだ。胸が、胃が、腹が、気持ち悪い。塞いだ口のほんの僅かな隙間から水が滴り落ちた。
二日、この二日。私は一片の食べ物も口にしていないし、一滴の水も飲んではいない。それどころか、空腹を感じた覚えがない。飲まず食わずで道を歩き続けてきた。その間、椿屋で気を失ったほかは、ずっと起きていた。そんなことが、出来る、ものか。空腹、疲労、おおよそ私が、生きているという感覚のすべて。
堪え切れず、私は水を吐き出した。大量の水に夕食は台無しになり、畳に染みが広がってゆく。部屋を汚したことを申し訳なく思うものの、身体のどこからか溢れ出す水を止めることが出来なかった。
忘れたことさえも忘れている。曖昧な思考の奥でカザハナさんが笑った。
「無理に思い出そうとするな」
ハクロの声に、藤色の幻が消えた。私の肩に手を置くハクロと、心配そうに見詰めるシグレさんの姿が見えた。
「時間は、ある」
そう言ったハクロの声は、思い詰めた声をしていた。白い面に隠されて、その表情も真意も分からない。けれども私には、私のすべてがハクロを傷付けているような気がしてならなかった。
「すまない、失礼するよ」
頭上からシグレさんの声が降ってきたかと思うと、首筋に鋭い痛みが走った。目の前がチカチカと弾け、そのまま真っ暗になった。私は床に突っ伏したように思う。
「あまり手荒な真似をしてくれるなよ」
「だから謝っただろう。無理にでも眠らせなければ、朝までこの調子だ」
ハクロとシグレさんの会話が聞こえていたが、やがて声も遠くなり、私は意識を手放した。これで、二度目だ。穏やかな夜を迎えたい。私は濁った意識の中でぼんやりとそう思った。
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