結
「はい、これでどう?」
柊所長は飛車を二つ前進させると、悩ましげに顎に手を当て唸り声をあげた。それをやるなら打たれたこちらのほうだろう、と思いはしたが、私は却って即断で、角を動かして飛車をいただく。
「え、あ、待って待って」
「待ったはなしですよ。もう三回も有効にしてあげたんですから。いい加減諦めたらどうですか?」
「そんなあ」
あれからすでに一週間が経っていた。
鴻巣を見逃したことに関して、私は扉の前で怖気づいてしまったと嘘をついていた。柊所長は深く言及することはなく、そうかそうか、と頷いたきりその話題を口にしなかったが、当然、嘘であることは承知しているのであろう。警察から打診があって赴いたような場所で、そんな言い訳は通用しないし、もし本当に怖気づいたのであればすぐに代わりを寄越させるのが通常の手順だからだ。
一方で、掛布凛子との連絡は通じなくなっていた。行方をくらませたのか、くらまされたのか、それは私の与り知らぬところだが、忽然と、跡形もなく私たちの前から消え去った。幸いと言うべきか、良くないニュースが耳に飛び込んでくることもなく、今まで通りの日常を送れている。
そう考えてのち、そういえば守屋という男からもなんのお咎めもなかったのだろうか、と気にかかり、それを口にしてみると、
「ああ、あれは僕の偽名のひとつで、そんな人物は存在しないよ」
盤上の駒を悔しそうに眺めながらこともなげに言うものだから、素直に驚いた。
「じゃあ今回の件は、どういうことになるんですか?」
「最初に言ったろう。事実はいくらでも積み上げることができると。鴻巣が殺人犯人であったかどうかはともかくとして、恋人にそんなことを疑われてしまうような事実はあった。それならば、結果如何に問わず、二人は別れたほうが幸せだと考えたのさ」
「ではあれほどまで確信的に、私を鴻巣のところへ向かわせた理由はなんですか。柊所長は本心から鴻巣が犯人であると考えていたんですよね?」
「そんなものは嘘で、方便さ。君が緊迫感を持てば持つほど、鴻巣はその依頼人である掛布凛子に疑心を抱く。他に依頼人たりうる人物もいないしね。すぐに感づくだろう。失礼に違いはないが、僕たちは掛布凛子の代弁者と相成ったわけさ。怒る?」
「いや、怒るというか」
そんな馬鹿な、というのが正直な感想である。
つまり今回私はあくまでも道化であった。道化であったが、その矛先は紛うことなき真実であったと、そういうことらしい。だから鴻巣に会わなかったと伝えたことを怒りもしなかった。
こんなことがあるのだろうか、と思う気持ちはやまなかったが、彼に説明を乞うても無駄なのだろう。それを知るのは私と鴻巣本人だけだからだ。
果たして私は骨抜きにされたように、脱力感に苛まれた。一人緊張し、一人様々な不安にあてられていたのだとすれば、これほどの独り相撲もあるまい。
なんだかやるせない気持ちに駆られながら、私は次の一手を待っていたが、それは思わぬ方向から齎される。
扉を開けた吉原美津子は、第一声に、
「鴻巣医院の息子さん、亡くなったらしいですよお」
と、例の気だるい声音をあげるのだ。
「え」
漏れる言葉を止めることもできず、そちらを向くと、彼女はヴィトンのバッグを放り投げ、
「あれえ、朝霧さんニュース見てないんですか?」
そんな気などないのだろうが、馬鹿にしたように続ける。
慌ててテレビをつけると、確かにワイドショーの中で鴻巣良助の殺害が報じられていた。しかしそれは独立した事件としてであり、手切り殺人の手の字も表示されていない。胸をナイフで一突き、顔をぐしゃぐしゃに潰され、即死であろうということだった。
警察は行方をくらませている恋人を探し始めているらしい。
「これ、掛布凛子のことですよね」
私が想定の逆を行く事態に半ばパニックに陥りながら柊所長に問うてみると、彼は盤面から視線をあげないまま、
「それ以外に誰かいるの?」
憮然として答えた。
「いや、それはそうなんですけど」
「まさか掛布凛子のほうが殺人犯人になっちゃうとはねえ。世の中なにがあるものか本当にわからんものだね」
などと見当違いなことを言い始める。
私はあの日あの事務所には行かなかったわけだから、当然、鴻巣の罪も知らない体である。彼がもし仮に返り討ちにあったとしたら、これはあり得る事態なのだろうか。などと考えてはいたが、柊所長のそれに対して、返答することはできなかった。それでも数多の言いたいことが喉のあたりでぐるぐると駆け回っている。偶然なのか、と疑問に思うことさえ憚られる事態だった。
「ま、僕らには関係のない話だね。それ、これでどうだ」
疑問は色を変え矛先を変え、まったくの悪手を打ち放つ眼前の男について行っていて本当にいいのかどうか、巡り始めたが、こればかりは解答もなく、私は慈悲を持たずして王手を決めるのであった。
数日してのち知らない番号からの電話を受けてしまったのは、まったくの不覚であった。普段なら取ることはないはずなのに、操作の途中であったために偶然通話ボタンを押してしまい、向こうから聞こえてくる声に、身体が緊張するのがわかる。
名乗る声に対し、
「死んだ、と聞きましたが」
返答を寄越すと、微かに笑い声が響いてくる。それは耳には馴染まなかったが、確実に彼のものである。
「お久しぶりです、立花さん」
「いったい何の用ですか。私たちはあれきり無関係の人間になったはずです、そういう取引だったじゃないですか」
まさか盗聴器もなかろうに、自室で声を潜めて通話を行うのは不思議な心地だった。
「いえいえ、そうなんですがね。どうもあれからというもの、立花さんの顔が、声が、頭から離れなくてならんのですよ。持ち帰ったシリコンをあなたと思い日々、愛でていますよ。ははは、これはひとえに、恋かもしれない」
「何を言っているんですか?」
「さあ、なんでしょうね」
「それに私の電話番号をどうやって。だいたい出てきた遺体は誰のものなんですか。掛布凛子は誰を殺したんですか」
「これでも元探偵なんでね、やりようはいくらでも。これも後学のため、お教えしましょうか?」
次いでくすくすと立つ笑い声が一層不快感を膨らませる。
「何の用ですか」
再度尋ねると、彼はしばしの間黙り込んだ。息遣いだけが微かに届いてくるが、ほとんどノイズと言って相違ない。
「やはり立花さんの一番の疑問は、なぜ、なのですね」いいでしょう、と言葉をつなぐ。「殺人を行う人間には二種類います。目的のために殺人を行うもの。そして、殺人自体が目的であるもの。今回私は前者のはずでした。凛子を呪うために罪を重ねてきたと。そう思っていましたが、二件三件とそれを続けていくうちに、果たしてそうではなくなった。堪らないのです。人々の死にゆく様が。可笑しくて仕方ない。げこうげこうと蛙のように鳴き血を吐く様は、通常では見られぬ景色で、なんとも、可笑しいのです。立花さん、あなたは美しい人だ。そのあなたが、そうして汚い様を見せてくれることを、私は対面してのち、願ってしまった。だから苦心して連絡先を手にし、一度死んでしまうことにした」
「やはり」
「狂っていると思われますか。しかしそれを逃がしたのはあなた。むしろ、自分に回帰することを喜んだほうがいいかもしれませんよ。あなたに会ってからと言うもの、私は現状、誰も手に掛けていないのですから。さぞかし探偵冥利に尽きるのでは?」
「そんなもの」
「不必要でしょうね。しかし私も嘘はついていない。あなたは鴻巣良助という男とは手を切ったが、彼はもう死んだ。これから相対するは、名を変え顔を変えた誰かなのです。きっと、あなたの燻っている自尊心を満足させうる登場をすることでしょう。どうですか、日々、誰とも知らぬ人間に怯え、常に私という個人を意識するこれからの毎日は。美しいと思いませんか。私はずっとあなたを見ていますよ。あなたを殺すためだけに、ずっとね」
私は狂人の弁に蓋をするように、返事を与えないまま通話を終わらせた。これは私の日常ではない。相応しくなかった。
いつか柊所長の言った「嫌なものほど信じるべき」という理念を思い出しながら、しかし私はこの男の存在を認めることは永劫ないのだろうと考えていた。私の不手際により増幅した悪意は、確かに彼の言うように私自身に回帰したが、そんなのは、あくまでも向こうの都合でしかない。こればかりは理解も容認もしてやる必要が無い。
散見される悪意は、いずれにせよ排除するのみである。
とはいえ膨らむ不安感、不快感は拭えず、私はふっとため息を漏らすのだ。いっそ呪ってやろうかと思いつつ。
結局、秘密というのは生み出してしまうと抱えているのが難しい。まして今回は、私自身がした約束であり、また、比較的優位にあったためにリスクも特にない。将棋の熟考の折り、さらに悩ませてやるつもりもなかったが、このようなことがあったと語ったのは、対峙からすでにひと月も経った頃だった。
「ほらまた、君は無駄に命を投げようとする。もう少し落ち着いたほうがいいよ。本当に、命がいくつあっても足りないよ?」
まず出されたのが、真っ向からの批難の言葉ではないあたりが、いかにも彼らしい。
「すみません。謝るしか出来ないです」
「朝霧くんに探偵は不向きなんじゃないかな」ピースの吸い口を叩きながら、しかし視線は上げないままだ。「こりゃ、君の身の安全が保障されるまで、僕の隠居は遠のいていくばかりだな」
「返す言葉もないです」
「まあある意味では、君も探偵らしくなったということだね。不名誉に違いはないけど」
「あ、それ悪手ですよ」
「おっと今のなし」ようやっと進めたコマを簡単に戻してしまう。「なんて、やり直しが効けばいいけどね」
「面目ないです」
「ううんしまった、でもこれで、打つ手なしって感じだな」
それがどちらをさしての言葉なのか、私はあえて深く考えようとしなかった。
この人の、見えているようでそうでもない先見の明を、今は盲目的に信じるしかないのである。
完全に、悪から手が切れるまで。
了
指きり村 枕木きのこ @orange344
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