7 終章
第45話 「Created by H.Hiragi」
翌日、健吾と沙良は午後一時から平城の作業部屋に集まっていた。
沙良は健吾といっしょに磨き作業を手伝うと言い張り、平城も健吾に、沙良に手伝ってもらえと言った手前、断ることはできなかった。
沙良は平城の隣の粘土作業用の机に座り、健吾はいつもどおりに補助机だ。
沙良ははじめて入った平城の部屋に興味深々の様子でそこら中を見て回っていたが、やがて平城がスカルピーを手に取ると、隣の椅子に座りその手元をのぞき込んだ。
「君たち、わかっているのか。その出力品、あと三日のうちに磨き倒さなければ間に合わないところまで来てるのだ」
「大丈夫です。こちらはなんとかします。それよりも平城さんはスサノオを造ってください」
「です! スサノオ、造り始めてください! こちらはなんとかします!」
平城は考察したスサノオをグレイスカルピーで造ることを昨日、針のサービスエリアで健吾と沙良に話していたのだ。
「そこまで言うなら信用しよう」
平城は机に向き直った。粘土作業用の机を沙良が占領しているため、スサノオの粘土造形はパソコン用の机で行うことにしたのだ。
平城は机の上に放り出してあった手帳、いつも常に持ち歩いている皮の表紙の手帳を脇にどけると、粘土作業用の机から移動させたスカルピーをひと塊、ちぎった。
スカルピーを左の指に挟んで練り始めると、沙良がそこをのぞき込む。
「沙良君、ずっとそうやって見ているつもりか」
健吾も立ち上がって、平城の背中越しに手元を見つめる。平城が振り向いて健吾を下から見上げる。
「若者、君までそうしているつもりか。あと三日だぞ」
「大丈夫です。続けてください」
ううむと平城はうなりながら机に向かった。
平城の左手の中で、スカルピーが徐々に柔らかくなっていく。
その感触は平城の集中力を呼び覚ます。
スパチュラを右手に持つ。
やがて平城の感覚は視覚と指先だけに集まりはじめる。
数分後、平城は健吾と沙良が自分の手元を見つめていることさえ、忘れていた。
この感触。
指先に感じるこの感覚。あまりに親しみすぎ、まるで空気に触れるかのような自然な感触。
左手の指でつまんだ柔らかく小さな灰色の塊。
軽く押しつぶし、方向を変えてもう一度押しつぶす。
灰色の小さな塊は自在に形を変えて、指先の中で無限の変化を続ける。何度も、変化を確かめるようにつぶしては戻し、またつぶす。
やがて指先は、ある一定の方向性を持つ力をその塊に与えるようになる。
体温を吸収してさらに柔らかく粘り気が増した灰色の塊は、無秩序なとりとめのない形から意志を持つカタチへと変化を始める。
くるりと丸められ、押しつぶされたときにできる皺や溝を平滑な面へと慣らされ、それは緩やかな局面で構成される卵型へと姿を変えていく。
角が擦り減った消しゴムほどの大きさの塊は、表面に凹凸のない滑らかな形となり、やがて指の中で落ち着く。
卵型に落ち着いた灰色のその粘土は、意志とイメージの圧力を受け容れ、制御された凹凸と思考された面を拡げて、ひとつのカタチを目指して変化の道筋を辿っていくことになる。
なにも描かれていない真っ白なキャンバスは、それに向かう画家に希望と同時に、恐怖を与える。
そのとき制作者は、自由と恐怖が同義語であることを知ることになる。
指先で練る粘土もまた、同じだ。
自由に変化する自在な素材。なにを造り出しても良い。思うがままに、イメージをカタチにして良い。
多くの人はこの自由が恐怖と背中合わせであることを、知らない。
素材を手にする前、頭の中で制作物をイメージする段階にそれはない。
ただ自由に、こうすればいい、こうすればいいものができる、という希望と期待だけが次々に浮かび上がる。
しかし素材を手にした瞬間、恐怖が台頭を始める。
白く広大なキャンバスを前にして怯む画家の心境を、粘土による造形物制作者も知ることになる。
最初の線を引くことができない。始めの溝を刻むことが怖い。
粘土を前にしたとたんに、自身の才能への信頼は崩れ始める。
本当に頭に描いたイメージがカタチになるのだろうか? どこから手をつければいいのだろうか? イメージは本当に確かなものだったのだろうか?
信じていたものたちが背を向け始めて、なにが確かなものだったのかがわからなくなる。
恐怖を克服するひとつの手段は、素材である粘土と徹底して親しむことだ。
感触を頭ではなく指先に刻み込む。
その感覚が空気や水よりも自然に感じられるようにする。
粘土を触っていないときにでも、指先に粘土の感触を感じられるようになるとき、再び希望と期待が恐怖を覆い隠し、確かなものが見え始めてくる。
右手に持った細工用のヘラ、スパチュラの先端を、左手の指先で軽く保持した柔らかな塊に押しつける。
冷やしたバターにそっとナイフを入れるように、スパチュラの先端はわずかな力で素直に粘土表面に吸い込まれる。ほとんど弾力はなく、押しつけたスパチュラの形に灰色の粘土は変形していく。
灰色の粘土。スカルピーと呼ばれる粘土だ。
造形作品制作専用のその粘土は、塩化ビニル樹脂が主成分であり熱硬化性を持つ。油粘土や紙粘土とは違い、熱を加えることによって硬化、保存できる。硬化後はプラスチック状となり、切削や研磨が可能だ。
スカルピーを素材として用い、粘土造形を行う。
造形が完成した作品はオーブン等で熱を加えて硬化させる。
硬化後、切削や再造形を行い、最後に表面を研磨する。
それで造形作品が出来上がる。現在、フィギュアと呼ばれる人形などを制作する人のほとんどが、この方法で作品制作を行っている。
スカルピーは、もちろん普通の文具店などで扱われている商品ではない。造形素材の専門店で手に入れるしか方法がない、一般には馴染みのない素材である。
しかし、その手触り、感触、使用方法はまさしく粘土のそれであり特別なものではない。
いくらスカルピーが専門的で特殊な素材であったとしても、基本的には油粘土や紙粘土と大きく変わるところはない。その意味では小学生が使用していたとしても不思議ではないし、実際に使用できるだろう。
作品制作上の便宜や後処理、後工程を考慮すると、そこまで考えられた製品であるスカルピーが他の素材よりも使用しやすいというだけのことだ。
素材はあくまで、素材である。
造形作品を制作するときにもっとも重要になる部分は、素材が油粘土だとしても、紙粘土だとしても、そしてスカルピーだったとしても、すべて同じところにある。
なにを造るのか。
この一点に、すべては収斂する。どう造るのかではなく、なにを造るのか。
この一点を発見することができさえすれば、あとは技術の問題だ。
スカルピーの柔らかな表面に落とし込んだスパチュラの先端を、わずかにひねる。先端の動きに合わせて、スカルピーが微かに盛り上がり同時に溝が刻まれる。
滑らかな粘土の表面に意志を持ったモールドが彫られ、意味を持ったディティールが現れる。
スパチュラの動き、微かな力の入れ具合、それによる粘土表面の変化予測は、技術だ。
しかし、そこにどのようなディティールを入れるのかを決めるのは、技術ではない。
ディティールがあるべき場所、あるべき面。決定するのは技術ではなく、意志である。
意志を持って形作られたイメージが、技術の裏打ちによって粘土表面に表現される。
精緻で複雑なディティールも、そこにディティールがあるべき理由を意志として把握していなければ、作品上では意味を失う。
造るべきディティール、彫るべきモールド。
すべての意味を把握し続け、作品全表面に意志を込めていく。
作品の完成に至る長い道程で、その意志を持ち続けることができるかできないか。
それが作品としての、造形物のすべてを決定する。
本当に必要なものは技術ではない。経験の蓄積と努力で得た技術を道具として使いこなすための意志、スパチュラを持つ指を制御する意志だ。
そして意志は、すべてが始まる前のたったひとつの単純な、しかしなによりも難しい問題から産声をあげる。
なにを造るのか?
左手でつまんだスカルピーの塊を目に近づけて、スパチュラの先端を灰色をした粘土の中心部、緩やかに盛り上がった曲面の頂点部分に当てて軽く削るように押し込み、上から下に向けて抉るように溝を刻む。
数ミリの間隔を開けてもう一度平行に同じような溝を掘る。
塊の中心部に上下に引かれた深い溝ができ、その間の数ミリの盛り上がりがやがて“鼻”となる位置だ。
鼻骨にあたる部分の側面にスパチュラをあて、そこから粘土を押し下げるようにして面を拡げる。その反対側も同じように押し広げると塊の正中線に沿って盛り上がった鼻が現れてくる。
造形中の正面部から離れた塊の裏側、指でつまんだ近くの粘土を少しだけ、スパチュラの先端をスプーン代わりにしてすくう。先端にわずかに乗った粘土のかけらを、鼻骨の少し下側に盛りつけ、接着部の凹凸を慣らしていく。
“顔”を造形する上で基準となる鼻の形が、よりはっきりとしてくる。
わずかに鼻らしくなった盛り上がりの少し横、眼窩にあたる部分にスパチュラを差し込み、ぐっと抉り出す。
その反対側も同じようにして、粘土をすくい出すと、“目”に当たる部分がはっきりとし、その塊が“顔”に向けて造形されていることがわかり始める。
鼻尖と呼ばれる鼻の頂点の位置を決めて、その部分にまた新たな粘土を盛りつける。
顔面のほぼ中心部を始点とする鼻根から鼻の頂点までの長さが決まれば、全体の大きさはほぼ決定する。
おおまかに盛り上げられ造られた鼻を目安にして、顔全体のバランスを造形していく。
頬骨の膨らみの位置に粘土を盛りつけ抉った眼窩とを繋ぎ合わせると、不思議と顔面らしい立体感が出始める。
鼻孔にあたる部分から下、唇から頬、そして顎に至る部分は微妙で複雑な面で構成されている。
鼻の下に当てたスパチュラを思い切って動かし、下顎側面に向かって粘土を削ぎ落とす。削ぎ落とした余分な粘土をそのまま顎となる部分に接着して盛り上げる。
足りない粘土を塊の裏側から削り取り、耳から顎にかけてのラインを造り出すべく、盛りつける。
このラインが朧気に浮かび上がれば、塊はどこから見ても小スケールの“顔”として認識されるようになる。
手に持った粘土の小さな塊だけでは足りなくなり、作業机の上に置かれたゴルフボール大の粘土塊から少しずつちぎっては、補充していく。
鼻と下顎の間、今はまだ曲面でしかない部分にそっとスパチュラを撫でつけて、糸を置いてゆくように線を引く。
表情を決定づける唇の形。
その始点から終点までは一本の直線ではない。微妙にS字を描き、口角でかすかに跳ね上がる。
指の先でつまめるほどの顔面造形では、わずか一ミリのずれが極端に大きな違いとなって現れる。
一ミリの差が、表情を大きく変化させる。
一度引いた線を諦め、線を慣らしたあとでもう一度、曲面上にスパチュラを動かす。
しかし、上手く線が引けたとしても、それがそのままカタチとなるわけではない。
面で構成された凹凸のある立体が、最終的に口裂として見えるようにしなければならない。始めに引く線はあくまで、目安でしかない。
手が震え出す寸前の微妙な力加減で、スパチュラの先端は曲面上を滑っていく。
この瞬間、呼吸は止まっている。
神経は指先からスパチュラにかけて延長し、その先端で緊張する。
ぴりぴりするような剥き出しの神経が通ったスパチュラの先端がほんのわずかに、描いた線の終端に食い込む。
かすかに微笑んでいる唇の端は微妙な深さで頬に押し込まれて、浅い溝を刻む。浅すぎてもいけない。深すぎてもいけない。
スパチュラを粘土に押し込むと同時に少しだけ捻り、引き出すと同時に唇の端の曲線を粘土上に描き出す。
上唇の緩やかなライン。下唇のふわりとした膨らみ。
必要のない部分の粘土を削り、足りない部分の粘土を補い、“口”が立体化していく。
鼻から頬、耳から顎の比較的直線的なラインから、口元の複雑な形状。
ここまで来ると粘土の塊はすでに、塊ではない。
それは造形物として自己の存在を主張し始める。六分の一スケールほどの顔面造形物として、粘土以上のものとなる。
スパチュラを造形物表面から数ミリ浮かして、造形中に無意識に止める呼吸を静かに再開する。
そのわずかの間にスパチュラは空気の膜上を滑るように移動して、眼窩の部分に至る。
“眼”だ。
唇以上に、眼は表情を左右する。
顔面だけの問題ではない。造形物そのものが位置する場所を、“眼”は左右する。
大きいか小さいか。デフォルメされているかいないか。
そのすべてがわずかコンマ数ミリの造形で左右される。
リアルな印象を求めた造形なのか、二次元的表現に振った造形なのか。その造形的位置が“眼”に集約されてくる。
再び呼吸が止まる。
スパチュラの先端がスカルピー表面に触れる。
その切っ先が内眼角と呼ばれる目の内側始点に点を刻み、スカルピーがわずかに盛り上がる。
外眼角に向けて緩やかな放物線を描きながら、スパチュラの先端が移動する。
その距離はわずかに六ミリほどだ。その距離の中に、思い描くすべての作品イメージを表現しなければならない。
笑う眼なのか。悲しむ眼なのか。力のある眼なのか。
六ミリの距離の中に詰め込むことができる造形的表現は、無限だ。
しかし、無限の中からたったひとつだけ、その作品のためだけに見つけた“眼”を、刻み込まなければならないのだ。
平城の持つスパチュラがスカルピー表面を細かく動き続けている。
健吾と沙良はしばらく、平城の手元を眺め続けていた。
三十分ほどして、ふと健吾と沙良の目が合った。沙良がゆっくりと右の人差し指を立てて唇に当てる。健吾も静かにうなずく。
健吾は平城のうしろから離れ、自分の席に音を立てないように戻った。
沙良も静かに椅子を回し、机に向かう。
どちらからともなく、もう一度健吾と沙良は目を合わせた。
沙良が微笑みながら健吾に向かってうなずく。健吾もうなずいた。
それから三時間、平城久秀はほとんど身動きすることなく机に向かい続けた。
オリジナル造形作品『スサノオ』の制作が、始まった。
了
造形屋ヒラギヒサヒデの創作手帳 ―スサノオと邪馬台国の謎― 辺堂路コオル @katsuya2001
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