第44話 健吾の金印

 すでに暗くなっていた。月の明かりが冷たくあたりを照らす。歩けないような暗さではなかった。

 大極殿跡の土壇を出て、平城と沙良は健吾の前を歩いている。

 健吾はひとり遅れて、うつむいて歩いていた。

 平城はとうとう、天孫降臨から天武天皇までの期間を、自分の考えを押し通したまま説明し切ってしまった。

 健吾にとって内容はもちろんだが、一本の筋を通して歴史を説明した平城の考え方に衝撃を受けていた。


 ただひとつの筋。弥生文化と縄文文化。

 平城は“黥面文身”という言葉から受けたわずかな違和感だけから、ここまで考えを展開したのだ。

 健吾にとってこれはもう、歴史的に正しいかどうかという問題を越えていた。

 僕は、歴史を知ったつもりになっていただけかもしれない。僕が楽しいと思っていた歴史は、歴史の楽しみ方のほんの一部だけだったのかもしれない。

 史料を読み、どんなことがあったのか場面を想像する。また史料を読んで次の場面を想像する。

 それが楽しくて仕方がなかった。これまでは。

 僕は史料から史料へ渡り歩いていただけで、史料と史料の間を想像することがなかったのではないか。

 史料と史料の間に挟まれた、なにもないところ。

 そこに歴史の本当の楽しさが落ちているのかもしれない。

 僕はそれを見つける楽しさを知らなかったのかもしれない。

 健吾は昼食の焼肉屋で沙良が話していたことを思い出す。

 オリジナル作品を造りたいけど、どうすればいいのかわからない。

 平城が、こうも言っていた。

 二次創作フィギュアばかりを造っている人たちは、もしかしたら創作作業の一番楽しい部分を放棄しているのではないか。

 僕のことだ。それは、僕のことなんだ。

 平城はそうとは知らずに、僕に向けての言葉を発していたんだ。

 造形でも歴史でも、同じなんだ。

 僕は、天浮橋に立って下を見ていただけで、手には何も持っていなかったんだ。


 健吾は顔を上げた。前を歩く平城と沙良とは、少し離れてしまった。

 平城と沙良はちょうど藤原宮跡への出入り口に差しかかり、駐車場のある右手に向かうところだった。

 健吾が追いつこうと歩幅を広げたとき、平城の左隣に並んだまま右に曲がった沙良の横顔が、月明かりの中に見えた。

 平城を見上げ、まるで照れたようにはにかんだ笑顔だった。沙良の右腕が何気なく平城の左腕に巻きつけられた。おそらく沙良は無意識だったのだろう、すぐに沙良の腕は平城から離れる。

 健吾は見てはいけないものを見たかのように、顔を伏せた。広げようとしていた歩幅を元に戻した。うつむいたままゆっくりと、健吾も藤原宮跡を出た。

 出入り口を右に曲がり、駐車場へ向かう。

 健吾の歩調はさらにゆっくりになり、このまま止まってしまいたいような気分が健吾を縛る。いろいろなイメージがバラバラに頭をよぎり、なにも考えられなくなった。

 なぜだか、涙が出そうだった。

「若者くん!」

 駐車場に着いた沙良が、健吾に向かって手を振った。

 健吾はその声で顔を上げるが、歩幅はそのままだ。また健吾はうつむく。

 沙良の軽い足音が聞こえる。

「若者くん、どうしたの」

 沙良が健吾のところまで走ってきていた。

 健吾は立ち止まった。沙良の顔を見ることができず、横を向き目を伏せる。

「ヒサヒデさんが、ごはんなにが食べたいかって」

「僕、どうして来ちゃったんだろう」

 沙良が首を傾げる。

「平城さんはきっと、沙良さんとふたりで来たかったんじゃないかって気がついて」

 沙良は首を傾げたまま健吾を見つめ、そして平城の方向に頭を動かす。

 平城がヴィッツの横でピースに火を点けたところだった。月明かりと街灯に照らされた煙が細長く広がり、白く輝いている。

 沙良がもう一度健吾に向き直った。

「若者くん、どういうこと?」

 健吾は半分だけ顔を沙良に向け、うつむいたままだ。

「……、沙良さんも、平城さんとふたりで来たかったんじゃないんですか」

「どういうことかわかんないけど」

 沙良はそうつぶやいたあとで、眼を大きく開く。

「そっか、さっきのあれ、若者くん見てたんだ」

 そう言い、沙良が細い腕を組んだ。うーん、と眉を寄せて考えている。

「いっか。ヒサヒデさんに止められてたけど、若者くんには教えちゃおう!」

 そう言いながら沙良は平城の方を向き、背伸びしながら手を振った。平城も腕を半分だけ上げて応えた。

 沙良が上半身だけを前屈みにして、うつむいたままの健吾の顔を覗き込んだ。

「あのね若者くん」

 健吾は上半身を逸らして、近づいてきた沙良から顔を遠ざける。

「ヒサヒデさん、あたしの父なの」

 数秒、健吾の動きが止まった。

「え、父ってどういう意味ですか」

「どういう意味もなにも、そのままだよ」

 また健吾が数秒動きを止めた。口を開きかけたが、言葉が出てこない。唇を半開きにしたまま、健吾は沙良を見つめる。

「今日、ヒサヒデさんとふたりっきりになる機会がなかったから、さっき公園を出るときにヒサヒデさんに聞いてたの。

 若者くんって、もしかしてあたし、昔遊んだことなかった? って。あたし、別府っていう若者くんの名前になんとなく憶えがあったの。

 若者くんは覚えてない?」

 健吾の頭に小学生の女の子の映像が浮かんできた。プラモデルを器用に作っていた女の子の友だち。

「じゃあ、平城さんと会ったのがワンフェスだってことは」

 沙良がうなずいた。

「ほんとです。ほんとに二年前にあたし、ヒサヒデさんと偶然イベントで再会したんです。

 あ、でもあたしは父がイベントに出てるってことは知ってました。だって、造形の世界ではヒサヒデさん有名だから。

 たぶん、だからあたしも造形はじめてワンフェスに参加したんだと思う。もしかしたらって」

「そんな。わかってるならイベントじゃなくて、会いに行けばよかったのに」

「わかってもらえるかどうかわからないけど、十五年も会ってなかった父と会うのって、すっごく怖いんだよ。

 勇気が出なかった。

 だから、大学に入って部屋を借りるときに、ヒサヒデさんの近くにしちゃったんです。もしかしたらばったりと会えるかも、と思ったのかどうかは自分でもわからないんだけど」

 健吾は昨日の平城の言葉を思い出す。

「平城さん昨日、お蕎麦屋さんで」と言ったところで健吾は口を濁した。

 沙良には話さない方がいいことかもしれない。

「ヒサヒデさん、あたしのこと苦手だって言ったんでしょう?」

 健吾がうろたえる。

「どうしてそれを」

「さっき若者くんに見られちゃったこと。あたし何気なく腕組んじゃったら、やめたまえ、私は君を苦手だということにしてあるんだからって」

「あの、少しショックが収まってきましたけど、なんでそんな」

「ヒサヒデさん、あたしをどう扱っていいのかよくわかってないみたい。あたしもそうなんだけど。

 母のこともあるし、十五年も会ってなかったわけだし。

 だから、ウソついてるわけじゃなくて、ほんとに苦手なんじゃないかな」

「おい君たち、なにをひそひそ話をしている。デートの相談ならあとにしろ」

 平城がヴィッツの横からふたりに声を投げた。

 沙良が肩をすくめる。

「と、ヒサヒデさんがおっしゃってますけど?」

 健吾はまたうつむいた。

「沙良さん、すみません。僕、なんかヘンなこと言ってしまって」

 沙良が健吾の肩をぽんと叩く。

「若者。気にするな。それよりめしを食いに行こう」

沙良が月明かりの中で、陽光のような笑顔を見せた。

「と、ヒサヒデさんなら言うと思うなあ」

 健吾と沙良はヴィッツに向かって歩き始めた。

「沙良さん、子どものころのことを覚えてるんですか」

 健吾が小さな声で聞いた。

 沙良も歩きながら答える。

「なんとなくだよ。でもいっしょにプラモデル作ってた男の子がいて、その子のことは覚えてる。

 そのあとすぐに両親のことがあって引っ越しちゃったけど、その子のことだけは覚えてるの。プラモデルをすごく褒めてくれたから」

 健吾はまたうつむく。しかしそれは、泣き出しそうな笑みを隠すためだ。

 ふたりがヴィッツに戻ったとき、平城はちょうどピースの吸殻を携帯灰皿に押し込んだところだった。


 大丈夫です! という沙良をなだめて、平城が運転することになった。

 沙良は平城の替わりに後席に移り、健吾はそのまま助手席だ。

 夕食は高速のサービスエリアでとろうということになり、平城が運転を始めた。

 藤原宮跡から国道24号線を北上し、西名阪自動車道郡山インターが見えてくる頃には、沙良は後席で小さな寝息をたてていた。やはり一日中の運転でかなり疲れていたようだ。

 ヴィッツは西名阪に乗り、天理を過ぎて名阪国道へと入っていく。

 平城はそれほど飛ばすことはせず、流れに乗った運転だった。

 オメガカーブを過ぎて運転も落ち着いたころに、健吾は思い切って平城に尋ねた。

 うしろからは相変わらず沙良の小さな寝息が聞こえてくる。

「平城さん、もしかしてですけど今日のこの旅行、父に頼まれたんですか」

 平城が眼だけでちらりと健吾を見る。

「なんの話だ」

「平城さん、父に、僕が大学やめたいっていう話を聞いてたんじゃないかって」

 平城がしばらく黙り込んだ。健吾はやっぱりと思う。

「いいんです。それを責めてるわけじゃないんです。

 僕がこのごろ歴史に飽きていたことは事実なんですから」

「私は聞いていない。友だちを裏切るわけにはいかない」

 平城が前を向いたまま、左の口角だけを上げる。

「じゃあそういうことにしておきましょう。

 でもなんというか」

 健吾が少し大きな声をだした。

「余計なことをしないでください。僕のことは僕が自分で解決します」

 平城は前を向いて、黙ったままだ。

 健吾が声を落とした。

「と言うと思いました?

 すみません。今日は驚かされることばかりだったので、ちょっと仕返しです」

 健吾が座ったまま頭を下げた。

「ありがとうございました。ほんとに」

 平城が健吾に顔を向けて、にやりとした。

「若者。いい仕返しだ」

「僕、わかったんです、平城さんの話を聞いていて。

 僕はまだ材料だけなんだって。手にはなにも持っていないのがわかりました」

 数秒の沈黙。平城の頭が回転する音が聞こえるようだ。

「そのなぞかけは、また仕返しなのか」

「そんなところです。でも平城さんの受け売りですけど」

「なるほど。天浮橋あめのうきはしか」

 健吾はうなずいた。

「だから、もう少しだけやってみてもいいかなって思えてきました。

 少なくとも天沼矛あめのぬぼこを手に入れて、かき回すところまでくらいは」

 平城がにやりとする。

「うらやましい。その若さでそんなことを考えられることが。嫉妬してしまいそうだ」

「嫉妬してください。そのくらいしてもらわなくちゃ、なんか割に合いません。

 でも、ほんとにありがとうございました」

 健吾がもう一度、頭を下げた。

 平城がまたにやりとした。

「若者。気にするな。それよりもそろそろめしにしよう」

 健吾は沙良のものまねを思い出して、吹き出した。

「なんだ、どうした」

「いえ、めしにしましょう」

 針のサービスエリア、針テラスが近いことを示す表示板が見える。

 健吾は窓の外に流れる暗い風景を眺める。

 真下に海はある。天浮橋にも立っている。あとは天沼矛を手に入れて、ゆっくりと海をかきまわせばいい。

 いつかそれは凝り固まり、なにかが産まれてくるはずだ。

 そう、こおろこおろと……。

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