王Gとわたし
ふたぎ おっと
除光液とスプレーで頭がやられました。
そのとき私はスプレー片手にトイレの入り口で待ち伏せしていた。
何故って?
数十分前に部屋を闊歩する小さな空き巣……いや、空き巣なんて上品すぎる。二本の触覚の生えた黒光りする生きた化石だとか言われる見るからに気持ち悪いアイツが、突如として目の前に現れ、仕留めようとする私の手を逃れ、トイレに逃げ込んだのだ。
くそう。よりにも寄ってトイレ……! 視界にも入れたくないのに、逃げた先がトイレだなんて、しばらくトイレに行けないじゃないか!
しかし下手にトイレの扉を開けるのは得策ではない。何故なら入り口が開く方向は部屋側。上手くしないとまた部屋の中へと逃げられかねないのだ。
となるとトイレの中で勝負に出るしかない。
まず私はヤツがトイレから出て来られないよう、入り口の隙間から除光液を垂らし、シンナーの壁を作った。
……う。これは私もやばい。シンナーで頭がやられそうだ。
これだけ私がヤバさを感じてるんだ。私よりも遥かに小さいヤツがこのシンナー地獄に耐えられるわけがない。ネットにも除光液は効果あると書いてあったしね! ……あくまで直接垂らした場合だけど。
そうしてしばらくトイレの入り口を観察すること数十分。どこの隙間からも異変はない。もしやこれは中で弱ってる可能性があるかもしれない。
そう思った私は、隣の部屋から奴ジェットスプレーを拝借し、更なる勝負を決意した。
逃げ回る奴を見るのはひどく不快で恐ろしいけれども、私がやらなくては一体誰がやるの!? いつやるの、今でしょう!
とにかく勇気を振り、まず奴が部屋の中へと行けないよう、トイレからの通り道に奴ジェットを散布し、シンナーの壁の上に更にジェットの壁を作った。
これはシンナーよりもきつい……。しかし私がやられるわけにはいくまい。
私は遂にトイレの入り口のドアノブへと手を伸ばし、薄く開けて中へと奴ジェット噴射した。数秒間、奴の姿は見ていないが、満遍なく上から下まで奴ジェットスプレーを噴きまくった!
そしてすぐに入り口を閉め、奴を再び閉じ込める。これで生き延びられても、もう速くは動けまい。
私はジェットの壁の内側からトイレの入り口を見守った。
するとどういうことでしょう。
トイレの隙間から、もくもく。もくもく。
まるでドライアイスのような白いものが……いや、これは、このにおいはジェットスプレーか? とにかく白い煙がこぼれ出してくる。
何これ、何これ! ヤバイじゃん!
なんか引火しちゃった?
次第ににおいも煙も部屋の中へと侵食し、私は咳き込み始める。
換気を、換気をしなくては!
というかトイレの中の様子を確認しなくては!
未だ奴がいることの恐怖を抑えて、私はトイレの中を確認した。
すると——。
「ひっく……ひっく……ひどいよぅ、ひっく……」
私は耳を疑った。
え、何今の。
男の子の泣き声?
よくよく目を凝らして見ると、なんと一人の男の子が便座に座って泣いている!
それはそれはとても小さく無垢で、背中から天使の羽が生えていてもおかしくないほどの美少年だ。
え、え、ええええ!?
何これ、何この状況!?
何で一人暮らしの部屋のトイレにいきなり美少年が現れるの!?
私は夢を見ているのか? 何なんだ、何なんだこの状況は!?
あまりのことに困惑していると、少年は恨めしそうに私を見上げた。
「ひどい、ひどいよお姉ちゃん。いきなり僕にスプレー噴きかけるなんて。僕死んじゃうところだったじゃん。うえぇぇぇん!」
少年は大声を出して泣き出した。
ええええ。
何が何だか分からないけど、何これ、私が悪いの?
いや、私が悪くないにしても、こんないたいけな少年を泣かすなんて、それだけで心が痛くなる。
「ご……ごめんね? 意地悪してごめんね?」
とりあえず私は少年に謝った。
少年は目をこすりながら頭を縦に振る。
良かった、とりあえずは許してくれたらしい。
必死に泣き止もうとしている少年を、私は優しく撫でてやる。
うわ、すごいサラッサラ! 肌もすべすべで、まさに天使のよう!
少年が泣き止んできたところで、私は少年に尋ねた。
「それにしても僕、どこから現れたの? お母さんは? おうちはどこ?」
「えっとね、どこか忘れたけどどこかの隙間くぐって来たんだよ。お母さんは分からない。うちも分からないや」
なんてことでしょう。
この子は家なき子で孤児だったのだ。親に捨てられ行き場を無くして、知らず知らずうちにたどり着いちゃったんだな。
こんな天使の少年を捨てるなんて、親はなんて酷いんだろう。
少年は説明を続けた。
「それでね、部屋に迷い込んでなんか食べ物ないかなぁって探してたら、お姉ちゃんがいきなり僕を叩き潰そうとして……」
……ん?
私が叩き潰そうとした?
「それでここに逃げ込んだら、変なにおい撒いてくるし、スプレー噴いてくるし……僕本当に死ぬかと……ひっくひっく……」
オイマテ。
この話はたった数十分前の話だ。
まさかこの美少年……まさか、まさか!
「僕はお姉ちゃんと仲良く——」
「わあああ! 寄るな! 来るな! 来ないでえええっ!!」
「ひえぇぇぇぇぇん!」
私に飛びつこうとした少年に向かって、私は手に握ったままの奴ジェットスプレーを噴射した。
少年の悲鳴が聞こえてきたけど私は何も知らない! 知らない!
私は急いでトイレを出て扉を固く閉めた。
「お姉ちゃん……ひどい……おねえ……お……ねえ……」
中から扉を叩く音が聞こえたけど、知らない!
私は知らない!
ていうか危うく騙されるところだった!
あんな純粋で無垢で思わず甘やかしたくなる天使の美少年だとしても、その正体は奴だったのだ。
恐ろしい、恐ろしい……。
伊達に生きた化石と言われているわけではない。
奴らは人間の女子が子供に弱いことを知っていてあんな変身をし、懐柔しようと目論んでいたのだ。絶対そうに違いない。
こんな手で人間を攻めに来るとは、とにかく奴を野放しするわけにはいかない。
少年の声がようやく聞こえなくなったのを見計らって、私は再び奴ジェットスプレーを噴き掛けようと、薄く扉を開けた。
「よう、何してくれてんだ、ボケナス」
私は再び目を疑った。
未だもくもくと漂う白い煙の中で、ツンツンヘアーのコワモテ高校生が私を睨みつけていた。
はあぁぁああ? 何コレ!?
誰だよこいつ!
あまりの状況に絶句していると、コワモテ高校生は私の足を思いっきり蹴ってきた。
「そんなもんいきなり掛けてきたら死ぬだろーが! ふざけてんのか、ああん!?」
「は? え?」
「は? じゃねーよ! 殺すぞ!」
相当お怒りのご様子のコワモテ高校生は、私の胸ぐらを掴んで怒声を浴びせてきた。
ドスの効いたそれに、思わず震え上がりそうだ。
いや、しかし待て。
オイマテコラ。
この流れ、さっきの状況を振り返るとまさかこいつももしかしてアイツなんじゃないか?
しかもアイツなんかに、胸ぐら掴まれて足を蹴られるだと?
無性に腹が立ってきた私は、無言でコワモテ高校生の顔面に持っていた奴ジェットスプレーを直射してやった。
「おいっ言ったそばから! おいっおいっ! おいっ殴るんじゃねえっ」
相当こいつにはムカついてきたので、もう片方の手に握ったままの丸めた新聞紙で、コワモテ高校生の頭を叩きまくってやった。
そしてもう一度スプレーを噴いてやった。
「おい……やめ……くそ……覚え、とけ……」
スプレーの煙の中で、コワモテ高校生が弱っていくのが見えたけど、何も心が痛まなかった。
てか覚えとけって何だ。
もうお前に何が出来る? この野郎め。
奴のくせして人間様に威張ろうとか、5億年早いわ!
せいぜい人間が絶滅してから踏ん反り返ることだな!
しかし、それにしても今のコワモテ高校生はさっきの天使美少年の成れの果てなのだろうか?
さっきの美少年には騙されるところだったけど、こんなクソ生意気なコワモテ高校生に懐柔されるわけがない。
ツッパリ系もカッコイイ☆なんて人間の全女子が思っているとでも思ったのだろうか? それとも奴のような人間に忌み嫌われる人生ならぬ虫生が、天使美少年をああいう捻くれたツッパリ系へと変えてしまったのだろうか?
いずれにしても私には関係のないことだ。
とにかく弱って死んだであろう奴を、捕まえて潰して外に出さなくちゃ。
私は念のため更にもう一度奴ジェットスプレーを噴いた。
するとその瞬間——。
煙は再び大きく膨れ上がり、一瞬にしてトイレを埋め尽くした。
え? 何、何!?
このパターンにまさかと思うけれど、それよりも自分の身の方が相当ヤバイ!
いや、これマジで死んじゃう!
早く、トイレから早く脱出しないと!
私は急いで後ろ手でドアノブを掴み、それを押し開こうとした。
しかし——。
「待って、行かないで」
別の手が私の手を掴み、押し開けようとした扉を引き戻した。
ハッとして顔を上げると、恐ろしいほど美貌の男性が、甘い微笑みで私を見下ろしていた。
顔のすぐそばにもう片方の手が置かれ、いつの間にか壁ドンならぬドアドンな体勢になっている。
「ねぇ、もう乱暴はやめにしよう?」
美貌の男性は耳元で囁いた。
それがとんでもなく私好みのイケメンボイスで、何か言い返さなくちゃならないのに、私の口からは何も言葉が出てこない。
「どうかお願い、君の優しさを、少しでも僕に分けて欲しい」
美貌の男性は尚も私に囁きかける。
ひえぇぇ!
やめてやめて!
そんな美しい顔と声で言われたら、私ヤバイから!
しかし騙されるな。騙されるな私!
こいつはこんなイケメンしてても、こんなイケボしてても、中身はアイツ! アイツなんだぞ!!
私は頬に集まる熱を振り切って、手に持ったままの奴ジェットスプレーを顔の前に掲げた。
「問答……無用! 覚——」
「がはっ! カッハッけほっけほっ」
「……は?」
私がスプレーのノブに力を入れると、美貌の男性は突然胸元を押さえ、咳き込み始めた。
彼は咳したまま、便器に顔を埋めた。
「え……ちょ、え? な、なに?」
美貌の男性の後ろから便器を覗き込むと、便器の中には赤い液体が散布していた。
え、これもしかして、血?
「僕は……長くない。心臓が悪くて、気管も——あ、違った。肺も悪くて、最近はこのように喀血が止まらないんだ……」
美貌の男性は胸を撫でながら弱々しく言った。
いやでも待て。今こいつ、気管って言ったよね?
「あぁ、まだまだやりたいことが沢山あるのに、僕の命はここで潰えてしまうのだろうか……」
儚く呟く美貌の男性。
まるでそれは悲劇の貴公子を見ているようで、私の心をぐらつかせる。
「……やりたいことって何?」
「まず僕は運命の人に溢れ出る熱い気持ちを伝えたかった……」
「うん……それで?」
「そして彼女と添い遂げ、幸せにしてやりたい。沢山愛し合い、二人の結晶を作り、子供や孫に見守られながら死んでいく、そんな当たり前の人生を歩みたかった……」
頭の中に、この美貌の男性が築くであろう家庭が浮かび上がる。
奥さんはきっと素敵な女性なんだろうなぁ。
そして純粋無垢で可愛い子供たち。きっとさっきの天使美少年のような子供たちばかりに……んん?
「ねえ、お願いだ。残りの少ない人生を、僕から奪わないで」
「そうは言われても……」
美貌の男性は切実な様子で私の足に縋ってきた。
うう、その顔と声やめれ。私の良心が痛むじゃないか。
しかしその良心も、彼の次の言葉で吹き飛んだ。
「そして君には迷惑をかけないから、僕をここに住まわせて欲しい」
「は?」
「この居心地のいい空間の片隅を僕に分けてくれると嬉しい」
ちょっと待て。
それってつまり、自分はまだ死にたくないから殺すなと言うばかりか、ヨメと子供が欲しいからうちの片隅を巣に使わせて欲しいということかい?
「ね? お願い」
美貌の男性はにっこり笑顔で言った。
瞬間、口の中でペロッと舌を出したのが見えた。
私は無言で奴ジェットスプレーを構え、スプレーノブに力を入れた。
「え? ちょっと君、今の話聞いてた? お願いだ、君の優しさを——アァァァァァァァ……」
顔面に勢いよく奴ジェットスプレーを噴きかけられた美貌の男性は、さっきまでのイケボはどうしたのかと言いたくなるようなみっともない声をあげて小さくしぼんでいった。
一瞬にして元の見るのも耐え難い気持ち悪い茶光りの身体へと戻る。
「呪ってやる……呪ってやる……アギャッ」
何か最後に言っていたようだけれども、問答無用で奴を新聞紙で叩き潰し、近くの公園のゴミ箱に捨ててやった。
かくして奴との長い戦いは幕を閉じた。
これでようやく一息ついたわけだけども、部屋に撒きまくったスプレーのせいで、その後しばらく部屋でゆっくり出来なかったのは、言うまでもない。
王Gとわたし ふたぎ おっと @otto_futagi
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