ヴァンパイア・ロードの発狂
今となって思うと……。
その男の狂気は、いかにもヴァンパイアじみていた。
私がその精神病院に赴任して、最初に担当した患者であった。
その壮年の男は、自身が吸血鬼だという極めて強固な妄想に囚われていた。
「吾輩はヴァンパイアだ」
「確かにヴァンパイアなのだ」
その青白い顔をした痩せ男は、いつも薄暗い病室の隅で膝を抱えていた。彼のカルテには『浦土(うらど)』というなぜか苗字だけが記載されていたが、彼自身がその名を名乗ることは無かった。
彼はいつだってヴァンパイアであった。
「お前も……吾輩をただの人間だと思っているな……うらぶれた男が、幼稚な誇大妄想に取り憑かれたと思っているのだろう」
「……いえ、そんな」
男にそう問われて、いつも私は言葉を濁した。
しかし痩せ細って土気色の顔をしたその姿は、確かに妄想に囚われた病人にしか見えないのが事実であった。
「ふん、もう良い。どうせ貴様如きには理解は出来ん……なんせ吾輩にも、まだ十分に理解出来ていないのだからな」
「理解? どういうことですか?」
「……もう良いと言っているだろう」
男は時折、そんな言葉を漏らすこともあった。
それともう一つ。
男はヴァンパイアの他に、もう一つだけ小さな妄想に取り憑かれていた。
「部屋の外に、白い女はいないか?」
私が病室を出ようとすると、男はたまにそんな事を訊くのであった。
「白い女? 看護師さんのことですか?」
「違う。吾輩だって、あの看護師という女のことぐらい知っている。それではなく……銀色の髪をした、白い顔の女……いや、あれは少女なのか……」
「……? いえ、ともかくそういう女性は部屋の外に見当たりませんが……」
「そうか……」
「それが何かしましたか?」
私がそう訊ねると、男は少し迷った後で言った。
「たまにな……白い女が……夜になると部屋の中を覗いてくるのだ」
男はそんなことを、自分でも半信半疑のように言った。
しかし私に言わせれば、こちらは良くある強迫観念の一つであった。『見られている』という妄想は、精神病患者で最も多い症状の一つである。私としてはヴァンパイア妄想などよりもよっぽど理解しやすかった。
そしてだからこそ担当してしばらくの間、その『白い女』の重要性を私は見逃していたのだった。しかし後に彼自身の口から語られた話の中で、私は『ヴァンパイア』と『白い女』が根を一つとした強固な妄想であることを知った。
それが男の口から語られた夜、彼はひどい高熱を出していた。
年単位にわたり決して日光を浴びようとしなかった男は、栄養失調と相まって酷い免疫不全を起こしていたのであった。
「あれは……関わってはいけなかったのだ……」
強い発熱にうなされながら、男は病床にて私に語った。
「今なら分かる……あれからは……ただ逃げるべきなのだ」
「あれ、ですか?」
「白い女……銀髪の、少女だ」
彼が『白い女』について詳しく語るのは、その晩が初めてであった。
「東京の闇は良い……」
「深淵よりもなお暗い中で、人はまるで亡者のように彷徨っている……ゆえに吾輩はこの数十年、故郷よりもロンドンやこの都での狩りを愛してきた」
「しかし……」
「しかし、あの夜に吾輩が出会った白い女は……」
「我らが住まう闇よりも、なお昏くおぞましかった」
「まさか東京の闇が、あんなものを育んでいるとは……」
そして、彼は尋ねた。
「なあ吾輩が……この病院に囚われて何年が経つ……?」
「カルテを見ると、三年ですね」
「三年前か……たったそれだけしか経っていないのか……」
男は病の臭いがする細い息を吐きながら、嘆息して言った。
「不思議だ……長い時間の中で、この三年が最も長く感じる……」
そうして彼は、その妄想の過去を蕩々と告白し始めたのだった。
死の淵にあって、それを誰かに言い遺したいという気持ちが芽生えたのかもしれなかった。
「あの夜も私は、芳醇な血を求めてビルの狭間を闊歩していた」
「そして……喧騒の中で、一人の女に目をつけたのであった」
「わが故郷の女を思い出させる、銀髪の乙女であった」
「そう……アレは白い服を着て、美しい乙女の形をしていたのだ」
男はその乙女の前に姿を現すと、彼女の瞳を覗き込んだのだという。
「我が瞳に宿せし魅了の
視線を合わせただけで、異性を意のままに操る力。
しかしその夜、乙女の瞳からはあるべき手答えを感じなかったのだという。
「違和感を覚えた……しかしその白い女は吾輩を見て、騒ぎ立てもしなかった。我が命に応じて、人気のない路地裏まで素直に付き従いもしたのだ」
だからその違和感を、彼は気にも留めなかったのだという。
「そして人の灯りも届かぬビルの狭間で、吾輩はその白い美女の首筋に牙を突き立てた。白磁のような、染みひとつない美しい肌であった」
しかしその時であった。
白い乙女は、首を噛まれながら笑い声を漏らしたのだという。
『くすすすすす……』
『そんな風に首を噛んでも、血は出ませんよ』
ひどく可笑しそうに、白い乙女は言ったのだという。
「何を笑っているのか分からなかった。それに吸血鬼の王たるこの吾輩に血の吸い方を説くなど、この女は何を言うかと考えた……けれど……」
しかし実際にその女の首からは、血が出なかったのだという。
「そのようなこと、この五百年で初めてのことであった。吾輩はなにが起きたか分からず、驚いてその女の首から口を離した……」
「だがその時にはもう遅かったのだ……」
「女から離れた吾輩は、口内に小石のような異物があるのに気づいた」
慌ててそれを吐き捨てた男は、地面を転がる白いそれを見たのだという。
「……吾輩の牙であった」
「吾輩の牙が、いつの間にか抜け落ちていたのだった」
それを聞いて私は、思わず彼の口元を見た。
しかしそれを語る彼の口には、ごく普通の犬歯が生え揃っていた。
「何が起きたか分からなかった……しかし、尋常ならぬモノに関わってしまったことに、ようやく吾輩は気づいたのだ……あれは……あれは、白い女の形をした……もっと救い難い……おぞましく冒瀆的な何かだった……」
その女を思い出したのか、男が身を震わせたのが分かった。
「しかし無謀にも吾輩は、あれに挑んでしまった。あの白い女が、我ら闇の眷属に害をなすモノだと悟ったからだ……あの白い女は……ああ……あの時、逃げていれば……」
男はそう苦々しく呟く。
「しかし吾輩は、女を叩き伏せようとした」
「それは一見して簡単に思えたのだ。その女はまさに人間並みの形をしており、その体躯に超常の力が宿っているようには見えなかった。岩をも砕く我が豪腕をもってすれば、いとも簡単にその首をちぎり飛ばすことが出来るはずだったのだ」
しかし現実は違っていたのだという。
その女は、男の拳をいとも容易に受け止めたのだった。
「……女が並ならぬ力をしていたわけではない。やはりその白い女には、ごく人並みの力しかなかった……けれど……それで十分だったのだ……」
なぜならば。
「我が腕から、あるべき力が失われていたのだ」
「恐ろしい感覚だった……女の細腕で手首を掴まれたまま……しかしそのささやかな女の握力すら満足にふり解けぬ、我が腕の弱々しさ……何が起きたかまるで理解できなかった……あれこそは真の恐怖であった」
そして困惑する男に、乙女は言ったのだという。
『首はね』
『こうやって噛むのが、正しいのよ』
そう言った次の瞬間、女は恐ろしい勢いで男の首に噛み付いたのだという。
「我々が血が吸う時とはまるで違う……あれはまるで……獣が獲物を仕留める時のようであった……」
乙女が喉元を噛みちぎると、激痛が走った。
そして生暖かいものが、男の胸元へ流れ落ちてきた。
「吾輩は無様にも尻餅をついていた……本当に……本当に無様な……醜態であった……」
そして男は、赤い血が流れ出る首元を必死で押さえ、しかし……
「血が止まらなかった……不死身のはずの我が肉体が……しかしその女の噛んだ小さな咬み傷だけは、まるで治る気配がなかった……」
やがて出血が続くにつれ、目眩で立っていることも出来なくなった。
男は野地裏を這いながら、必死で白い女から逃げようとしたのだという。
「最初は、我が身を蝙蝠に変じて逃れようとした」
しかしなぜか彼の姿は変わらなかった。
その代わりに、彼のマントの下から何匹かの蝙蝠が飛び出したのだという。
「何が起きたかわけが分からず……しかしせめて足止めをしようと、吾輩は蝙蝠に語りかけ、あの女に襲いかかるように命じた……」
しかしヴァンパイアの眷属であるはずの吸血蝙蝠は、彼の命に従うことなく夜の空に消えたのだという。
「それ以来……獣は我が命に従わなくなった……蝙蝠も、野ネズミも、犬狼も……やがて吾輩もまた、彼らの言の葉を解することができなくなった」
這いずる男は、次に黒霧を呼び寄せて隠れようとしたという。
「それも叶わなかった……乾いた咳とともに、黒い煙が我が唇からわずかに漏れたのみであった」
首からの出血も止まらず、もはや逃れる術もなく、男は死を覚悟したという。
もはや事態は明らかであった。おそらくヴァンパイアの存在を知るこの国の何者かが、男を退治すべくその白い女を差し向けたのだった。
「しかし今になって思うに、それも違っていたのだ」
「あれは……あの女は……弱った吾輩を、ついに滅ぼそうとはしなかった……吾輩が地を這うあいだ……あの女が何をしていたと思う……?」
そう問われても、私に答えられるはずもなかった。
私が黙っているのを見て、病に犯された男は答えを告げた。
「眺めていたのだよ……今思い出しても、気味が悪い……」
「血塗れで這いずり回るヴァンパイアロードを、まるで、虫でも観察するかのように……」
「あの白い女は、ただジッと眺めていたのだ」
男は小刻みに身を震わせていた。
さらに熱が上がっているのかもしれない。
それともこれは、恐怖の感情の発露なのか。
ヴァンパイアを名乗る狂人が、震えているのだった。
「あれは……あの女は何だったのだ……今も分からない……この国のエクソシストのやり方は何度も見たことがある……拝み屋の術を、この身に受けたこともある……だがあれは……まるで違う……あの……あの女は……ただ本当に、眺めていただけなのだ……あれは……あれは我々とはもっと別の……恐ろしい深淵から来た何かであった……」
けれど失血のためもはや動けなくなった男は、その女に向けて思わず命乞いをしてしまったのだという。
『た……助けてくれ……頼む……』
彼の死を見つめる白い女に向け、彼は矜持を捨てて助けを求めていた。
「今にして思えば……」
「あそこで死んでいた方が救いであった……この恐怖を味わうぐらいなら……」
しかし男の言葉を聞いて、白い女はうっすら微笑んだのだった。
『ええ、良いですよ』
『喜んで』
『「人助け」をしましょう』
彼女はそう告げると、ポケットから白いレースのハンカチーフを取り出した。そして血で汚れることも気に留めず、男の首筋にそれを押し当てたのだという。
『こう押さえると、血が止まりやすいですよ』
彼女が男の首筋を押さえると、実際に流れ出る血はすぐに止まった。
そして彼女は落ち着き払った様子で、こう告げたのだという。
『それでは、救急車を呼びましょう』
その言葉を聞いて、彼は呆気にとられたという。
『な、何を言っているっ。救急車だとっ、そんなもの呼んでどうするっ、それより直せっ、吾輩の肉体をっ。なぜこれしきの傷が癒えぬ!? 貴様が何かをやったのだろうっ 何をやった? 早く元に直してくれっ』
首元を押さえる少女を見上げて、男はそう必死に叫んだ。
だがその言葉を聞いて、白い女は可笑しそうに吹き出したのだという。
『くすすす。私に「治してくれ」なんて頼んでどうするんですか。それともこの私が傷を治してくれる「医学部卒のお医者さん」見えるんですか?』
よく見れば幼さすら残る銀髪の少女は、男にどこかズレた返事をした。
『い、医者だとっ!? 人間の医者なんかに、吾輩の傷が治せるわけないだろっ』
『大丈夫ですよ。出血は派手ですけど、何針か縫えばすぐ治りますよ』
そう平然と言って彼女は、取り出したスマホで電話をかけ始めたのだという。
『ば、馬鹿な。本当に救急車を呼ぶだと、な、何を考えて……うっ……」
叫んで体力を使ったためか、男の意識はそこで薄れ始めていた。
銀髪の少女を制止することもかなわず、やがて視界がぼやけてくる。
『やめ……ろ……』
男が気を失う前に、最後に聞いた音。
それは近づいてくる救急車のサイレンの音と、それを聞いて立ち去ろうとする白い女の足音。そして彼女が最後に残したこんな言葉であった。
『ダメですよ、おじ様』
『ハロウィンじゃないんですから』
『吸血鬼の格好をして、女の子にイタズラなんかしたら』
違う。
吾輩は、ヴァンパイアだ。
ヴァンパイアなのだ。
『くすすす』
『嘘ばっかり』
「それが気を失う前、最後に聞いた言葉であった」
「次に目を覚ました時、吾輩は病院のベッドに横たわっていた」
「吾輩の首元には……白い女が言った通り、医者に治療された跡が残っていた」
男はそう言って、大きなため息をついた。
どうやらヴァンパイアに憑かれた男は、回想を語り終えた様子であった。
しかしにわかには理解し難い話であった。
男が結局のところなにを伝えたいのか、それが全くよく分からない。私は仕方なく、男に調子を合わせるようにして尋ねた。
「結局のところその白い女……銀髪の少女ですか……彼女はいったい何だったのですか?」
彼の話を常識的に判断すると、変態を返り討ちにしただけの痴漢被害者にしか聞こえなかったが……。
しかしその病んだ男は、まるで違う解釈をしているようだった。
「まるで分からぬ……だが……あの白い女は、今でも時折、姿を現すのだ」
「……この、病院にですか?」
「そうだ。月のない夜になると、ドアの隙間からジッと吾輩を覗き込むのだ……あの夜、死にかけの虫を眺めるように吾輩を見ていた……あの昏い瞳で……」
そこまで聞くと、やはり男が正気を失っているのは明らかだった。
そんな銀髪の少女が出入りしているのは、一度も見たことがない。
しかし男は決してそれを認めなかった。
「いいや、白い女はそこに来ている」
「夜になると、吾輩を覗き込むのだ」
「そして……そして……」
男はぶるりと全身を震わせて、言った。
「女が来るたびに少しずつ、吾輩は醜くなる」
「女が来た翌日に鏡を見ると、必ず我が眉目は衰え、醜くなっている」
「肌の色はまだらに濁り……目元には深い皺が増えていく……」
「白い女が……吾輩から何かを奪っているのだ……何かを……」
違う。
それはただの老いと病だ。
私は思わず、そう口にしそうになっていた。
決して陽に当たろうとしない男は、日毎に弱り続けているだけであった。
老いと病に犯される、不老不死のはずのヴァンパイア。おそらく男はその矛盾を説明するために、『白い女』という架空の存在を作り出したのだった。
ヴァンパイアと白い女は表裏一体の妄想なのであった。
そこまで考えたところで、私はある不自然に気付いた。
それはヴァンパイアならば、決して言わないはずの言葉であった。
「鏡を見ると……?」
痩せ衰えた彼は、確かにそう言ったのだった。
そして私は慎重に言葉を選びながら、男に告げた。それは病みきった男を妄想から救う手がかりに思えたからだ。
「貴方が本当にヴァンパイアならば……鏡で自分の姿は見えないはずでは?」
吸血鬼は鏡に映らない。
数多あるヴァンパイアの物語では、そう語られているはずであった。
「しかし貴方は今、鏡で自分の顔を見たと言った。白い女が来るたびに醜く衰えるのを見たと。確かにそう言った」
それはヴァンパイアにあるまじき失言のはずであった。
しかし私の指摘に、男はまるで動じなかった。
ただボソリと、こう呟くのみであった。
「そうだ、映るのだ」
「それが問題なのだ……」
彼はそう言ったきり、そっと目を伏せた。
言うべきことを語り終えて、眠りに落ちたようだった。
もうその夜、彼の口から何かが語られることはなかった。
「栄養失調とビタミン不足……それに日光不足によるくひどいクル病と免疫不全だ。ビタミン不足は点滴でも誤魔化せるが、日光の方は薬じゃどうにもならんぞ」
同僚の内科医は、男の採血結果を見て呆れたように言った。
「なんだ、コイツは。原子力潜水艦の船員だって、これよりもう少しマシだぞ。なんなんだ、その患者は。モグラか何かか?」
「いや、ヴァンパイアだ」
私の答えを聞いて、同僚は吹き出していた。
「がはははは、なるほどなぁ。じゃあ、陽に当たるわけにもういかねーな」
「いや、そうもいかなくなってきた」
同僚が大笑いする一方で、私はひどく悩んでいた。ヴァンパイアを名乗る男の病状は、すでに命を脅かすところまで来ていたのだった。
一日たったの10分の日光浴で良い。ただそれだけであなたの病気は治る。
そうどんなに説明しても、決してその男は陽に当たろうとはしなかった。力づくで外に出そうとしても、その時ばかりは死に物狂いでベッドに柵にしがみつき出口にに近づかせることすら出来なかった。
「もう限界だ……このままでは、あと数日で彼の命は尽きる」
そう判断した私は、緊急手段に訴えることにした。
私は彼の点滴にわずかな睡眠剤を混入した。そして朝が来ても熟睡を続ける彼を車椅子に乗せ、病室の外へと連れ出したのだった。
7月のとてもよく晴れた日のことであった。
カルテの記録によれば、彼がこの病院に来てもう四年が経とうとしていた。彼を連れて出た屋上には、四年ぶりに眺めるのにふさわしい見事な夏空が広がっていた。
彼の乗る車椅子を屋上へと押し進めた時は、さすがに少し緊張した。まさかとは思うが、彼がこの夏空の下で白い灰になるのではないかと、そんな予感がふとよぎったのだった。
この一年近く、私はずっと彼のヴァンパイア妄想に付き合ってきた。そして彼の太陽に対する恐怖だけは、それだけは掛け値なしの本物だと思い知っていたのだ。
しかしそのバカバカしい予感も、もちろん杞憂に終わった。
青々とした空の下に出ても、彼の体には何一つ変化は見られなかった。灰になることもなければ、溶けて消えることもなかった。他の人々へするのと同じように、夏の日差しは彼を祝福していたのだった。
「ははははっ」
緊張が解けた私は、思わず笑い声を漏らしていた。
彼の病は終わったのだった。
血を吸わず、鏡に映り、長い牙もなく、空を飛ばず、蝙蝠にも化けず、そして何よりも太陽に当たっても平然としている。もう彼をヴァンパイアたらしめるものは、何一つも残っていない。ついに彼が、ヴァンパイアの妄想から自由になる日が来たのだった。
「ねえ、起きてくださいっ。素晴らしい青空ですよっ」
私は彼の肩を揺らしながら言った。彼に投与した睡眠剤は、声をかけ続ければ目を覚ます程度の少量にしておいたのだった。
「さあ、起きてくださいっ」
そう声をかけると、彼はゆっくりと目を開いた。
そして青空を見上げ、大きく目を開く。
「……これは……これはっ……!?」
「もちろん太陽ですよ。ほら、全然大丈夫でしょう?」
そう言われて、彼は慌てて自身の手足を見下ろす。しかしもちろん彼の痩せた四肢が、陽に当たって火傷を始めるようなことはなかった。
それを呆然と見た男は、やがて嗚咽を漏らし始めた。
「あ……あ、あ、あ……」
彼の目尻から、一筋の涙が溢れる。そして四年ぶりにヴァンパイアの妄執から解き放たれた男は、泣きながら笑い声を上げ始めた。
「あ、あぁ……あはは、あははははっ」
涙まみれの笑顔であった。彼はもうこの空の下どこまでも自由なのであった。
彼の笑い声に釣られ、私も思わず笑みが溢れてしまう。
「わははははっ、わはっ、あははははっ!」
「あはははっ、よかったですねぇ。浦土さん」
「わはははっ、がはっ、あっははははっ!!」
「これでもう病気も大丈夫ですよ。こうして毎日、日光に当たれば」
「あははははっ、あははははっ、あははははあははははっ」
「……浦土さん……?」
肩の荷が降りた油断から、私は不覚にも気付くのが遅れてしまった。
彼の笑い声は、どこか不吉な響きを帯びていることに。
「浦土さんっ!? 浦土さんっ!?」
「あひっ、あひっ、あははははは、あひあひがひひひっ、あははははあひひひひっ」
私がどう話しかけても、彼はゲラゲラと笑い続けていた。
そして滂沱の涙を流しながら、彼は甲高い笑い声で叫んだ。
「あははははひっ、やっぱりだっ! やっぱりだっ! やっぱりだっ!! あひひひひっ、わ、わがわがわが、吾輩は、もうっ、もうっ、あひひひひっ! わわわ吾輩もうっ! あははははっ! あの女がっ! あの白い女はっ、あははははひひひひっ」
太陽を見上げながら、男は手足をバタつかせ延々と泣き笑いを続ける。
明らかに異常であった。これまでどんな妄想を語る男の姿よりも、今の彼は明らかに異常に見えた。いや、認めたくはないが……今のこの姿に比べると、これまではむしろ『マトモ』にすら思えてくる程であった。
「お、落ち着いてっ、落ち着いてください。戻りましょう。病室へっ」
暴れる彼を押さえつけると、車椅子を室内に戻そうとする。
しかしもう手遅れであった。
「あひひひひっ! あはっ! ぎゃははははっ、わ、わが、わが、わがががががあがはははがっががががっ」
そして彼は太陽に向けて、最後にはっきりと叫んだ。
「吾輩はっ、もう人間なのだっ!!!」
それが彼の最後の言葉になった。
それを叫んだ直後、彼の全身からがくりと力が抜けていた。
「浦土さん……?」
バタバタ振り回していた両手が、両脇にダラリと垂れさがっていた。
口元からは一条の唾液が垂れ落ち、そしてその虚ろな瞳には何の感情も無く、ただ眼球には鏡のように夏の青空が映し出されていた。
「浦土さん……浦土さん……返事してくださいっ!」
「…………………………」
だがどんなに呼んでも、彼はもう反応を返さなかった。
ただ反射的に口をパクつかせ、喘ぐような呼吸を続けるのみであった。
もはや明らかであった。
彼は明らかに正気を失っていた。
彼の心は、すでに粉々に砕け散った後であった。
「そんな……どういうことだ……」
私は呆然として呟く。
彼は……ヴァンパイア名乗り続けた男は……。
最後の最後で本当に発狂することで、それまでの正気を証明したのであった。
「まさか……じゃあ、本物のヴァンパイアを……いや、しかし……」
私は混乱し、狼狽する。
そんなまさか……だがもしも……万が一、これまで彼が完全に正気だったとするならば……私は、とんでもないことを……。
「でも……いや……」
それでもおかしい。
目の前の彼は、太陽の下で平然と座り続けている。
ただの正気を失っているだけで。
「では……何が……いったい何が……?」
まるで理解出来ない。
だがフツフツと嫌な予感だけは湧き上がってくる。
私が彼に、トドメを刺してしまったのではないか。
吸血鬼としての最後の矜恃を踏みにじることで、彼を狂わせてしまったのではないかと、そんな予感が時を経るにつれますます強くなっていく。
「もし……そうだとすれば……」
彼がもし、万が一にも正気のヴァンパイアだったとしたら……。
ならば白い女は、何者なのか。
彼がその夜に出会ったという、銀髪の乙女は。
夜中に彼の病室を覗き込むという、その不気味な白い女は……。
いったい、何者なのか。
ほたるさんのホラー短編集、兼、アーカイブ保管庫 白木レン @blackmokuren
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