人を喰う鬼の事

矢口 水晶

人を喰う鬼の事

 皓皓こうこうと月が輝いている。

 白銀を押し固めた様な満月の光が、奥深い山の中に注ぎ込まれる。その光は、山中の小さな荒れ屋の中にまで入り込んでいた。

 荒れ屋は壁が崩れ、所所床板が抜けている。庭は枯れ草に覆われ、荒れ果てていた。秋の冷たい風が吹き込み、虫の声が闇の中に澄み渡る。

 荒れ屋の最も奥の間――縁側から注ぎ込む白い月光の中で、女が床の上に伏していた。

 女は這い蹲るような格好で、顔を着物の袂で覆っている。髪は丸まった女の背中から床板まで小川の様に流れて広がり、月光を浴びて艶艶と輝いていた。

「う、うう……。うぐ、ひっく――」

 袂の下から啜り泣く声が聞こえる。女の両肩は、小刻みに震えていた。

「――ふう」

 啜り泣く女を見下ろし、修験者は深く息を吐いた。片手に提げた錫丈の輪が、しゃらりと冷たい音を奏でる。

 その足元――刃渡りの大きな包丁が、床板に突き立っている。包丁は月光を受けて白く輝き、長い影を落としていた。

『――山の奥には、鬼女が住んでいる』

 この山には、昔からその様な言い伝えがあった。山の奥深い所に鬼女の住む小屋があり、其処へ夜中に迷い込んだ者は捕って喰われるのだ。実際旅人や近隣の村の者が、年に数度喰い殺されていた。

『どうか、鬼女を退治してはもらえないか』

 先日、山の麓を訪れた修験者は、村に住むきこりに懇願された。今まで何人もの仲間が襲われ、鬼女が恐ろしくて山で仕事が出来ないのだと樵は嘆いた。

 修験者は長年の修行で退魔の法を身に付け、これまで何度も人畜を害する妖を退治してきた。今度もその頼みを引き受け、夜を待って鬼女の住処に乗り込んだ。

 荒れ屋の中に入ると、闇に潜んでいたこの女が包丁を振り上げ、襲い掛かってきた。それを修験者はかわして錫丈で打ち据え、女は足元に伏している。

 ――これが、山中の鬼女か。

 女の周囲には、白い塊が幾つも散らばっている。これ等は全て人の骨だった。そのおびただしい数に、修験者は思わず顔をしかめた。

 修験者は錫丈でぐいと女の肩を突くと、「顔を上げよ」と言った。女は、恐恐と顔を上げた。

 月光の下で露わになった女の顔――それは、息を飲むほど美しいものだった。

 白い肌はきめが細かく、微かな皺も染みもない。大きな黒い瞳を涙で濡らし、唇が緋牡丹の花弁の様に赤かった。その端に、薄らと血が滲んでいる。修験者に打たれた時に切れてしまったのだろう。

 ――これは……。

 修験者は、驚いて錫丈の先を引っ込めた。鬼女と聞いて見るも恐ろしい鬼婆の姿を想像していたのだが、その正体は野菊の様にか弱い女だった。

 これが、本当に恐ろしい鬼なのか――

「そなたが、此処で人を食い殺しておるのか?」

 修験者が尋ねると、女はこくりと頷いた。長い髪に隠れた双眸を怯えた様に伏せている。

「……その通りで御座います。わたくしは、人を捕って喰うております」

「しかし、何故そなたの様な者が人を――」

「そうしなければ……私は、生きてゆくことが出来ぬのです」

 女はそう言って深く項垂れた。長い髪の筋が、さらさらと肩から零れ落ちた。

「私は……人を食わねば生きてゆけませぬ。人の肉を食わねば腹が満たされず、人の血を吸わねば喉の渇きが癒えませぬ。せめて月に一度は人を捕らねば、私は飢えて死んでしまいます」

「それは――そなたが鬼だからか?」

 いいえ――と女は首を振った。伏せられた長い睫毛は、まだ露を含んでじっとりと濡れていた。

「私は、その昔この辺りを治める受領の娘でした。かつては、行者殿と同じただの人だったのです。しかし、私は生まれ付き身体が弱くて度度寝付き……それを父母は大層気に病んでおりました」

 女は滔滔とうとうと己の身の上を語り始めた。

 女の両親は国中から病に効く薬を集め、身体に良い物は何でも女に食べさせた。それでも女の身体は一向に丈夫にならず、何度も命に関わる様な大病を患った。

「そんなある日――旅の方士だと名乗る者が屋敷を訪れたので御座います」

 方士は、食べれば立ち所に身体が良くなるという薬を持っていた。それを食べれば長寿を授かり、病に罹らなくなるのだと言った。両親は喜んで薬を買い取った。

 方士の薬は一切れの干し肉だった。肉はどす黒く、酷い獣の臭いがした。それでも女は両親の勧めるままにそれを口にした。

「それ以来私の身体は驚くほど良くなり、風邪をひくことさえなくなりました。私は父母と共にとても喜びました。しかし――」

 黒い肉を口にして以降、女は普通の食べ物を受け付けなくなった。どれほど飯を喰っても空腹は満たされず、激しい喉の渇きが常に付き纏う。まるで餓鬼道に堕ちたかの様な苦しみに女は苛まれた。

「その代わり――私は何故か、人の肉に激しく惹かれたので御座います」

 ただの飯は味のない砂の様にしか見えなかった。しかし、周囲にいる女房の肌の艶やその下の肉が、何とも瑞瑞しく熟れている様に見えて堪らない。口や耳の穴から甘い血の匂いがして、それに激しく心を掻き立てられた。その衝動は自分の父や母にさえも感じられた。

 あの肉が、血が、欲しくて堪らない――

「私は、とうとう我慢出来なくなり、ある時乳母の首を絞めて殺し、……その肉を、喰うてしまったのです」

 嗚呼、と女は一際大きな声を上げ、両手で顔を覆った。修験者は、ごくりと唾を飲み下した。

 乳母を殺してその肉を食べ、漸く飢餓は癒された。しかし直ぐに乳母を殺してしまったことを後悔し、こんな恐ろしいことをした己を呪った。そして、己が人を喰わなければ生きてゆけない浅ましい生き物になったのだと知り、身を引き裂くような悲しみに襲われた。

 両親はそのことを知って女を恐れおののき、深く嘆いたが、女を殺したり屋敷から追い出したりすることはしなかった。それどころか、女を屋敷の奥深くに隠して守ったのだ。

 二人は時々家臣に近隣の貧しい家から子供を買わせ、時には攫わせた。そして子供を殺させて死体から肉を削ぎ落し、血と脂を絞って女に与えたのだ。

「父母は、鬼になっても私をお見捨てにならなかったのです。それほどまでに、私を深く愛して下さいました。しかし、やがて二人とも病でお亡くなりになり、私は屋敷を出てこの山で暮らしているので御座います……」

 人の肉を喰い続ける限り、女は老いることも病で死ぬこともなかった。山に住み始めて数え切れないほどの歳月が過ぎたが、若い娘の姿を保っている。

 女はさめざめと泣いた。袂は涙を吸ってすっかり重くなっている。

 修験者は女の震える肩を見下ろし、目を閉じた。

「……しかし、人が人を喰うなど許されぬ。それは畜生にも劣る非道な行いだ。そなたは――悪しき鬼だ」

「わかっております。しかし――私は、死ぬのが恐ろしいのです」

 女は首を激しく振って自身の両肩を抱き締めた。

「私は今に至るまで、数え切れないほどの人を殺めてきました。とても、罪深いことです。鬼と化した私は、きっと地獄に堕ち、この身を業火で焼かれることでしょう。私は――それが、とても恐ろしい……」

 だから、私は人を喰うことを止められませぬ――女は床に突っ伏し、身悶えて床板に爪を突き立てる。絹を裂く様な声が、夜気に響き渡った。

 ――哀れな……。

 修験者は、すでにこの女を責める気にはなれなかった。確かに人を喰うなど浅ましいことだが、女はそれを望んでしている訳ではない。その身を呪われた女に、同情さえもしていた。

 しかし――

「人を喰わねば生きてゆけぬそなたを、このまま見逃す訳にはゆかぬ。此処で儂が殺さねば、そなたはまた人を喰い殺すであろう?」

 女が生きている限り、死人の数は増え続ける。それでは山の麓に住む村人達の安寧は、永遠に訪れることはないだろう。

「…………」

 やがて、女はゆっくりと面を上げた。目許が赤く染まり、涙で黒々と濡れた瞳で修験者を見上げる。

「……やはり、行者殿は私に死ねと仰るのですね?」

「うむ」

「私は、生きることが許されぬのですね?」

「うむ……」

「それでは――」

 女は、赤く濡れた唇で言った。


「どうか、私を――喰うて下さいませ」


「なに……」

 女の言葉に、修験者はよろめく様に退いた。

「私は老いることも病を患うこともありませんが、怪我はいたします。不老ではありますが、不死ではないのです。その包丁で首を落とせば、私は死ぬでしょう。そしたら、私の肉を喰うて下さいませ」

「な、何故その様なことを……」

「この身体が滅びても、魂がこの世に留まれば地獄に堕ちることは御座いませんでしょう? 行者様に肉を喰うていただければ、その身の中に私の魂が留まり続けるかもしれません……」

 女は、泣き笑いの様な顔をした。

「私は生きることが許されませぬ。しかし地獄に堕ちるのは恐ろしゅうて敵いません。ですから、私を喰うて、魂だけでも行者殿の中で生き延びさせて下さいませ」

「そ」

 その様なことは出来ぬ――と修験者は言った。しかし、女は涙を流して懇願する。

「お願いします。どうか私を喰うて下さいませ。どうか私を救うて下さいませ……」

 女は深く項垂れて頭を差し出し、そして祈る様に両手を合わせた。菫の茎の様に細い首が、月光を浴びて露わになる。

 修験者の瞳は、その首の白さに吸い付けられた。そして月光を受ける包丁が、まるで修験者を呼ぶ様に蠱惑的に輝いていた。







 老人は其処まで語ると、がっくりと俯いた。

 山中の荒れ寺、その堂の中に白い月の光が差し込んでいる。堂の中は激しく痛み、床板が所所腐って抜けている。そして白い人骨が幾つも転がっていた。

 老人は白髪白髭を長く伸ばし、ぼろぼろの着物を身に纏っている。腐った床板の上に座り込み、血に塗れた左腕の切り口を片手で押えていた。

 俺の足元に転がっているのは、切り落としたばかりの枯れ枝の様な腕だ。それは、錆が浮いて黒ずんだ包丁を握り締めている。

 俺はある事情から国許を追われ、浪人となった。夜を明かそうとして荒れ寺に踏み込んだ所、暗闇に潜んでいたこの老人が襲い掛ってきたのだ。俺は老人の振り下ろす包丁を避け、刀で腕を切り落とした。

 この山には人を喰う鬼が住んでいると聞いたが、まさかこの老人がそうだったとは――

 老人は皺に覆われた頬に脂汗を滲ませ、険しい表情で言った。

「……儂は、あの女の首を刎ねてその肉を喰うてしまった。その血を啜ってしまった。……それ以来、人の肉を喰わねば腹が満ちず、人の血を吸わねば喉の渇きが癒えぬ。その代わり歳をとることも病で死ぬこともなくなった――あの女と、同じ鬼になってしもうたのだ」

 嗚呼、と老人は溜息を吐く様な声を上げた。

「今なら、あの女の気持ちがよく分かる。人を喰うことは罪深い行いだ。しかし、死んで地獄に堕ちるのは、恐ろしい――」

 老人は切られた腕を抱え込む様に頭を深く下げ、頼むと言った。

「どうか、儂を殺してくれ。そして――儂の肉を喰うてくれ」

「な……」

 俺は血刀を提げたまま退いた。老人の乾いた目は血走り、澱んだ黒眼が小刻みに震えている。

「儂は、死にとうない。地獄に落ちとうない。せめて魂だけでも、お主の中で生き延びたい……」

「何を馬鹿なことを……」

「頼む。どうか儂を喰うてくれ。儂を救うてくれ――」

 必死に懇願する老人が恐ろしくなり、俺は逃げようとした。すると、老人は血に濡れた右手で、俺の足首を掴んだ。

「ひっ――」

 俺は、刀を振るった。



 床の上に、老人の首が転がっている。

 首の切り口からとめどなく血が流れ、見る見る床の上に広がっていった。

 老人の首を刎ねた際に俺は尻餅をつき、呆然として老人の首を見ていた。老人はかっと両目を見開き、歯を食い縛っている。まるで、本物の鬼の様な形相だ。

 俺は立ち上がり、刀を鞘に収めようとした。切っ先が震えて上手く収められなかった。

 永劫に人を喰らい続ける鬼――

 何て浅ましい。

 何ておぞましい。

 他者に喰われてまで生き延びたいと言うのか。まさに悪しき鬼の所業としか思えなかった。

 この荒れ寺を、一刻も早く出なければならないと思った。此処は鬼の住処だ。穢れている。

 寺の外へ出ようとした、その時――


 儂を喰うてくれ。

 儂を救うてくれ。


 あの老人の声が、背後から聞こえた様な気がした。

 俺は振り返り、足許に広がる血だまりを見た。闇よりもなお黒い、地獄の底の様な血の海が其処にあった。

 老人の、そして老人に喰われた女の苦痛と懊悩が、凝り固まった様な黒い海――それを覗き込んでいると、言い様のない感情が身体の底から湧き上がってきた。

 浅ましくおぞましい二匹の鬼達。しかし、何と哀れで悲しいことだろうか――

 俺は苦悩の淵に膝をついた。

 そして、黒い血を両手で掬った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

人を喰う鬼の事 矢口 水晶 @suisyo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ